深夜、音は。

 終電間際の電車には、乗客もほぼ見当たらない。隅の座席にはフードを深く被った人物が一人、下を向いて揺れに身を任せている。それだけ。
 広々としたシートに腰掛けて、窓の外を流れる闇をぼんやりと眺めていた。線路沿いの電柱に備え付けられた光は目まぐるしく飛んでいく。遠くの家々の灯りはのんびりと。時折響くアナウンス、電車の揺れる音に混じって微かに聞こえる自らの呼吸音が、却って静けさを際立たせていた。
 家の最寄駅に着くまで、まだ数十分は掛かるだろう。音楽でも聴いて気を紛らわせようと、ポケットのワイヤレスイヤホンを取り出した。両耳に嵌めて、スマートフォンを起動しようとしたところで、接続完了の音が鳴る。少しの沈黙の後に流れ出したのは、やや機械的でありながらも澄んだ美しい歌声だった。

 自分の携帯を確認するも、やはり接続されていない。慌てて端末名を確認する。「VOCALOID 01 083139」VOCALOID。一体何処に。
 そうだ、あの人は。顔を上げて、フードの人物を探す。やはり隅に座っていた。俯き、電車の揺れに合わせて身体を揺らしている。いや、音楽に合わせて?
 BGMはない。違う。走行音、ドアの開閉音、アナウンスまで全てが彼女の歌声と調和している。完璧に合っている。己の呼吸するタイミングすら操られているような感覚に心臓の鼓動が速くなる、それさえ彼女は分かっているように一段テンポが上がる。いまやこの空間の全ては、彼女のための舞台だ。何もかもが音楽となった此処では、時間も音符の一つでしかなくなっていく。一瞬も永遠も、違いなんてなかった。

 それでも、始まったものはいつか必ず終わるもので。一際大きく揺れた電車が扉を開けば、彼女は静かに立ち上がる。もう歌は聞こえない。足音は足音でしかない。目の前を横切った彼女のフードの奥に、青緑色の煌めきがあった。刹那。扉が閉まる。
 動き出した電車の窓の向こう。彼女がこちらを向いている。顔を上げた瞳には、やはり同じ輝き。口の動きが、はっきりと見えた。

『ありがとう。またね』

 イヤホンから、接続切れの音声が鳴り響いた。
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