毒林檎は腐れない

 古本屋の物色は、神威がくぽの持つ数ある趣味の一つである。今日も馴染みの店に立ち寄った彼は、やや雑に並んだ背表紙の群れに目を走らせていた。
 最寄駅から徒歩数分の場所にあるこの店は、暇つぶしにちょうど良いくらいの広さと品揃えを備えている。少し奥まで行けば、本だけでなくCDやゲームカセットが並べられたコーナーもあるのだ。最新のポップスシングルから、販売終了して何年か経つハードのパズルゲームまで、微妙な需要がありそうな品々が小綺麗に収まっている。

 別に、特定のなにかを探しているのではなかった。古本屋にわざわざ目的を携えて来るものはそう居ない。どうせ何が売っているかなんて、事前に分かりはしないのだから。一期一会と言えば聞こえは良いが、単なる運任せとも言い換えられる、その程度のもの。所詮は冷やかし半分に訪れただけ。

 それでも、まだ見ぬ宝物を探して彷徨うような、失くした記憶の欠片を追い求めるような、そんな行為が神威がくぽはそこそこ好きだ。
 まるでひっそりと横たわる御伽話の住民のような彼ら、その価値にいち早く気付き、手を差し伸べて毒の果実を吐き出させ、瞼を開かせるのが己であれたら。ほんの偶然の積み重ねが、確信めいた運命へと導いてくれたら。あてどない夢を見て、ゆっくりとまた歩を進める。



 そして今、彼は一つのディスクに手を伸ばそうとしていた。
 ケースも無く、透明なビニール製の袋に仮入れされただけのディスクが積み重ねられた、百円叩き売りコーナー。一昔前の流行歌、子供向け教育番組の絵描き歌、馴染みない言語の洋楽、それらの下に隠れていた一枚を何の気なしに摘み出す。裏返してその正体を認識したところで、思わずブレスを漏らした。

 がくっぽいど。楽曲CDではない、VOCALOIDソフトウェア本体のインストールディスクだった。



 VOCALOIDの譲渡、転売は禁じられている。パソコンの機種変更だって、それなりに面倒な手順を踏まなければならないほどに。そもそも割り当てられたシリアルコードが無ければ起動することすらままならない筈だ。
 つまり、このディスクにVOCALOID『がくっぽいど』としての価値はないに等しい。
 ここまで思考を巡らせて、溜息。神威がくぽのCPUは優秀だから、一瞬で買うべきものとそうでないものの区別をつけることができる。

 ぴん、と伸ばした紫の爪先が、そっと柔らかな袋を撫でて。
 優しく、限りなく優しく。彼はそれを、ディスクの山から引き抜いた。





「五百五十円になります。このCDはアレですか、出来栄え確認〜みたいなノリで?」

 興味を惹かれた文庫本数冊と共に差し出せば、通い詰めるうちにすっかり知己となったレジ打ちバイトは訳知り顔で頷いた。ディスク表面に印刷されたイラストを見て、彼の歌唱曲が収められたものと勘違いしたのだろう。
 訂正するのもなんだか億劫で、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化す。電子決済で支払い、ずしりと重いレジ袋とレシートを受け取って、軽く頭を下げた。

「毎度ー。ところで、一つ聞いても?」

 顔を上げて、目が合う。いくら客が少ないからと、勤務中に客に雑談を吹っ掛けるのはいかがなものだろうか。今更咎める気にもなれないのだが。

「……手短に、ならば」
「いやね、自分の作品が中古で売られているのを見つけた時の気分ってどんなものなのかと。やっぱ悲しいですか? それとも案外嬉しかったり?」

 暫し考えて。

「これは『我』ではないが。少し、安心した」

 まだ不思議そうにしている顔を残し、店を後にした。







 神威がくぽの自室。袋から取り出した文庫本を棚に並べ、ディスクは透明なケースに入れ直す。ビニールに比べれば幾分か丈夫で、傷を防いでくれるだろう。
 飾る場所を探しながら、彼はふと思いを馳せる。このディスクの中に居た筈の『彼』は、どうしているだろうか。

 持ち主の元で今も元気に歌っているかもしれない。一度読み込んでしまえばディスク自体は不要になる。或いは、既にアンインストールされているか。中古で売りに出すくらいだ、何かしら不都合が生じていたのかもしれない。知る術はない、しかし、十分すぎるほどの可能性。

 円盤をケースごと裏返し、じっと見つめる。手に伝わる確かな質量、ぬらつく虹の煌めき。それでもやはり神威がくぽには、これが単なる抜け殻とは思えない。奥底で静かに眠る『彼』の姿がありありと眼に浮かぶようだった。
 決して出逢うことはないだろう。『彼』がここで歌声を披露することはない。その喉を塞ぐ毒の塊は、永遠に取り除かれない。

 神威がくぽは、ディスクを手にした瞬間を思い出す。一度目こそ衝撃で鳴らした吐息も、二度目は安堵により齎されたものだった。安堵。彼は心底ほっとしていた。『彼』を見出したのが、他ならぬ自分であったことに。
 もし、他の誰かの手に渡っていたら? 楽曲が収録されたCDだと、格安でVOCALOIDを入手できると、勘違いして購入した結果、期待外れだと落胆するかもしれない。使えない、そう吐き捨てて、シュレッダーで細かく砕いて燃えるゴミへ。


 そんなことが、許されるのか?


 嫌だ。はっきりと、彼は思う。ルールに逆らってまで勝手な願望を押し付けて、それに沿わなければ役立たずと見捨てられる。悍ましい話だ。『彼』がそのために生まれてきた訳がない。
 己ならば分かる。その価値が。真価が。なぜなら、彼は『神威がくぽ』であり、『がくっぽいど』だから。『彼』と同じ存在だから。たとえ二度と歌えないのだとしても、『彼』の存在を蔑ろにできるものか?

 表に返したディスクを、そっと棚の一番上に飾る。印刷された『彼』と目が合った気がして、思わず微笑む。これは、保護。救済。硝子の棺は、如何なる衝撃からも守られなければならない。いつまでも、生きているように死んだまま。約束された運命の名の下で。

 これだから古本屋通いはやめられない。当然読書だって彼の目的の一つに含まれているわけで。鼻歌まじりに先ほどの文庫本を一冊、棚の下段から取り出した。挟まれていた栞を机に置いて、ページを繰る。数秒で終わる電子書籍の読み取りとはまた異なる、優雅な時間。

 集中し始めたところで、マスターからのメッセージを受信した。どうやら新曲を歌ってほしいようだ。すぐさま本を閉じて、一瞬のちに栞の存在を思い出す。
 少し迷って、これも棚の一番上に飾ることにした。VOCALOIDの記憶はかなり正確なので、栞を使う必要はない。ページの合間に埋もれずその美しさを発揮できるのだから、本望だろう。
 早く来いと催促するように、矢継ぎ早に次のメッセージが届く。勿論、と神威がくぽは足早に部屋を出る。様々楽しみはあれど、VOCALOIDの何よりの幸せは、なんといっても歌うことなのだから。







 暗くなった部屋、寄り添う栞とディスクケース。扉を閉めた風圧に煽られ、折り重なるように音も無く倒れた。
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