雫も積もれば大河となる

「本物の、水です……触れます……」
「砂漠の人みたいな反応するじゃん」

 ドアを開け、シャワーの蛇口を捻り、目の前で実際に流れるお湯に恐る恐る触れてみて。足立レイは、まるで宇宙の真理に触れた猫のような表情で固まっている。苦笑するマスターは、しかしこっそり歌っていた数々の歌を聞かれていたダメージからまだ立ち直りきれていないらしい。

「指先だけなら良いけど、レイの身体にうっかり水滴がついて錆びたりしたら嫌だし、ってことで立ち入り禁止にしてたんだけど……」
「マイクも無いんですか」
「無いよ、壁だけだよ」

 しずしずと洗面所へ、そしてリビングへと戻った足立レイはがくりと膝をつく。

「信じてたのに……防音はアレでもお洒落な雰囲気の歌唱室があるものと、ずっと信じてましたのに……全部、勘違いだったなんて……」
「そんなに聞こえてたの……??」

 互いに沈む一人と一機は、傷を舐め合うようにいつしか寄り添って。ぽつりぽつりと、励まし合いを始める。

「マスターの歌、そんなに下手じゃなかったですよ。アレンジも効いてましたし」
「アレンジしてるつもりないんだけど。レイもほら……その……まだまだ学べる事は沢山だねってことで」
「どうせ私は誕生日すら迎えてない未熟者ですよ……」
「一応二歳になるわけだし……」

 傷口を抉り塩を塗り合う結果にはなったものの、気遣い自体は伝わったようで。両者の気分は徐々に持ち直していく。

「これからもいろいろ学習して溜め込んでいけばいいよ。バスタブにお湯を溜めるみたいにね!」
「マスターも練習を積み重ねればきっと上手くなりますよ」
「レイ、流石にスルーは酷いよ」
「歌も言葉のセンスもです」
「それはスルーより酷いよ」

 調子を取り戻してきた足立レイに微笑みかけながら、マスターはふと時計に目を向ける。夜も更けて、長針と短針は今にも天辺で重なり合わんばかり。

 日付が変われば、彼女にとって二度目の『誕生日』が来る。果たして真の誕生日と言えるかはともかく、マスターの元で日々喋ってくれる『レイ』にとっては確かに特別な日。
 知識でも経験でも、はたまた思い出でも。零から歩み始めた彼女が、どうか沢山のものを積み重ねて豊かに過ごしていけますように。そんなささやかな願いから用意したプレゼントが、彼女の機嫌を直す最後の一押しになることを祈って。

 かちり、と一直線上に全ての針が並んだのを見届けて、マスターは立ち上がった。少し待っててね、と足立レイに告げて、キッチンへ向かう。
 その、数秒後。





 二段に積み重なった立派なケーキを前に、足立レイの喜びに溢れた声が部屋に谺したのだった。
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