雫も積もれば大河となる

「マスターばっかり、ずるいと思うんですよね」



 そんな声が不意に後ろから投げ掛けられたものだから、マスターは歯磨きの手を止めて振り返った。洗面所の扉の陰、暗がりに佇む足立レイがじろりとこちらを睨んでいる。彼女の声色や表情はあまり感情的とは言い難く、マスターがその真意を百パーセント汲み取ることはほぼ不可能に近い。とはいえ。


「この二年間、今まで見て見ぬ振りしてきましたが、それも今日で限界です。私にもあって然るべき当然の権利を要求します」

 怒っている。その一点においては、少なくとも間違いないようで。まずは落ち着いてもらおうと、マスターは不満の原因を聞き出そうとする。コップの水を口に含み、歯磨き粉を濯ぎ流して、いざ準備万端。

「えーと……なんの権利? 健康で文化的な最低限度の生活?」
「それは別にいいです、生存してるわけでもないんで。そんなことより、ですよ」
「基本的人権が『そんなこと』で片付けられることあるんだ……」

 そんなことより、と足立レイは改めて強調する。足立レイにとって今、何よりも重要な、我慢のならないこと。問題を問題とも思わぬマスターの腑抜けた根性を叩き直すべく、ここはきっぱりと主張しなければ。すぅ、とブレスを鳴らし、たっぷり三拍溜めてから、今までの鬱憤全てを一緒くたに吐き出すように堂々と。


「マスター。私にも、『せせらぎホール』を使わせてください!」





「なにそれ?」
「とぼけるなよ人間」

 うっかり本音も吐き出してしまった足立レイだが、余計な罵詈雑言にメモリを無駄遣いしている場合ではない。私知ってるんですからね、と人差し指をまっすぐ立てて、言い逃れを許さぬ証拠をつらつらと並べ立てていく。さながら犯人を追い詰める名探偵の如き、自信に満ちた口調で。

「その一、マスターが毎晩、時々朝にも籠ってる部屋があること。その二、その部屋に私が立ち入ることは禁止されていること。そしてその三、マスターがそこに居る間、さらさら流れる水音と共にエコーのかかった歌声が聞こえてくること。これらを鑑みるに……」

 びしっと腕を振り下ろし、洗面所の奥の白い扉をぴたりと指し示して、彼女は結論を口にする。

「マスターは私に隠れて、特別に誂えた歌唱専用室——心安らぐ小川BGMつき——の『せせらぎホール』で毎日楽しく過ごしているんでしょう! そんな豪華な部屋を独り占めするなんて、許されませんからね!」


 勢いのままに言葉を連ねていた足立レイも、一区切りついたところで漸く周囲を気にする余裕を取り戻す。どうだ言ってやったぞ、さて相手はどう出るか、とマスターの反応を窺えば。



 なにやら、顔が真っ赤になっている。


 怒らせてしまっただろうか。一度冷めかけていた熱が、じわじわとした焦燥により再び上がり始める。主張内容自体に悔いるところは何もないが、言い方は少しばかり激しかったかもしれない。
 そんな不安げな彼女の視線を避けるように、マスターは額に手を当てて溜息を吐き。ちらりと片目だけを向けて、細々と。

「……聞こえてたの……ずっと……」
「もちろんですけど。それが何か?」

 当然のように答える足立レイに、マスターは俯いた顔を両手で覆って。隙間から小さく漏れ出た声が、足立レイに事の真相を告げる。

「……あのね、レイ。この部屋は、」














 お風呂場って、言うんだよ。
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