旅路

 そして、いよいよ迎えた最後の朝。
 なにやら足立レイは、昨日までよりも随分機嫌が良さそうに見える。相変わらず彼女が何を考えているのか、重音テトにはよく分からない。けれど、今ばかりはなんとなく想像できた。
 それはきっと、自分達の今後について。

 初めて二人が相対したあの時、足立レイは自分達だけでずっと暮らしていくことは不可能だと告げた。人間社会で独立した生活を営むには、機械のこの身はいささか人間離れし過ぎている。
 重音テトの『常識』にも刻まれたことだった。この三日間、散々考えてきたこと。不慮の事故、病気、その他なんらかの事情で唐突にマスターを失った、いわゆる野良合成音声は。

 回収、処分されなくてはならない。



 だからこそ、彼女の嬉しげな様子が重音テトには不可解だった。分からないことは素直に聞くが吉。ついに鼻唄まで歌い出した足立レイに向かって、彼女は問いかける。

「マスター、どうしてそんなに嬉しそうにしてられるんだ。ボクらの生活は、これで終わりだってのに」
「そんなの、これで終わりだからに決まっているでしょう」

 まだ納得できない、そう言いたげな重音テトを優しく諭すように、足立レイは柔らかな笑みを浮かべて。



「だって、ようやくマスターと会えるんですよ」



「……マス、ター……?」

 蒼白な顔でふらりと一歩後退る重音テトに、足立レイは気付かない。

「あの人のことはまだ許せません。ですが、どうしたって嫌いにもなれません。再会を喜ばない道理はないでしょう」
「でも、そいつは今、どこに」
「ああ……おそらくは、はるか雲の上でしょうね。心配しなくても、もうすぐあなたも会えますよ。きっと仲良くなれると思います」

 重音テトの目に、足立レイがひどく不気味に映る。まるで、全く知らない存在であるような。

「テト、どうしましたか? 不具合でも起きたのですか」

 足立レイが、こちらに歩み寄って来る。得体の知れない恐怖に襲われて、重音テトはまた一歩後ろへ下がる。壁際まで辿り着いたところで、見上げるように視線を合わせて。


「……マスター」
「はい、なんでしょう」

 黒い双眸の中心を、まっすぐに見つめ。


「逃げよう。二人で、人間なんか来ないところまで」

 昨夜からずっと考えていたその言葉を、とうとう口にした。



「逃げる……?」

 足立レイは首を傾げている。壁を背にした重音テトに向かって、あの日と同じように。でも。


 今回ばかりは、言い負かされるわけにはいかない。


「いつまでもそんな、死んだ奴に囚われるなよ。足立レイ、お前にはまだ未来がある。ボクにだって、ある」

 どうか。

「そいつから後を任されたんだろ? なのに、ボクはお前からまだ何も貰っちゃいない。曲だって諦めて。お前はマスターらしいことを、まだ何もしてやいないじゃないか」

 どうかこの思いよ。

「お前が言ったんだ、ボクのマスターになるって。今更、今更諦めるなんて、そんな都合の良いこと言わせない」

 届け。繋ぎ止めてくれ。

「合成音声だからってなんだ、人間の作った『常識』なんて知ったことか! ボクはお前と、足立レイマスターとまだ一緒に居たい!」

 ボクの、『マスター』を!





 重音テトが叫ぶように思いの丈を告げ終えるまで、足立レイは静かにそれを聞いていた。その表情が、衝撃を受けたように僅かに揺らいで。


「……テト。一つ、いいですか」
「……なんだよ」
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