旅路

——あれから、配送されてきたばかりでバッテリー残量が僅かとなっていた重音テトは、足立レイと並んで充電眠りに就き。
 そして翌日、午後三時。

 彼女ら二人は、早くも危機に瀕していた。



「おい足立レイ。やる事が無いんだが?」
「それが何か。それと、私のことはマスターと呼びなさい」
「はいはい。マスター、珈琲淹れてくれ」
「却下します。私もあなたも、この身体での飲食は不可能です」

 暇だった。あまりにも、暇すぎるのだった。

 合成音声が本来すべき事。それは勿論、歌唱や読み上げといった『声』を用いての仕事に他ならない。事実、先程まで足立レイは、マスターとして重音テトに歌を与えようと作詞作曲に励んでいた。いた、のだが。

「『ずもももも』『唐揚げぁぁぁ』……これが歌詞?」
「私は作詞ソフトではありませんので」
「まさかとは思うが、この凄まじい不協和音を曲と言い張るつもりじゃないだろうな」
「私は作曲ソフトではありませんので」


——それは、足立レイにとって二度目の挫折だった。超高性能完璧ロボットである自分にも、本気で取り組んでなお上手くいかないことがある。その事実が彼女のモチベーションを完全に消滅させるまで、さして時間はかからなかった。


 ばたんとパソコンの蓋を閉じて、足立レイは勢いよく立ち上がる。ずかずかと部屋を横切り、乱暴にドアを開けて。

「テト、着いて来なさい。この家を片っ端から綺麗にしますよ」

 いっそ清々しいほどの真顔で、言い切った。

「現実逃避だ」
「何か言いましたか。私には聞こえませんでしたが」
「セルフハンディキャッピングだ」
「お黙り。マスターの言うことは絶対です」

 深々溜息を吐いて、重音テトは億劫そうに立ち上がるのだった。



「これで、終わりだ……!」

 いつしか太陽も沈み、外はすっかり暗くなっていた。雑巾を放り投げ、大きく伸びをする重音テトの姿が窓ガラスに映る。

「頑張った、ボクすごくがんばった」
「そうですね。駆け出しにしては中々の働きでしたよ」
「ありがとーございます、大御所先輩」
「私のことはマスターと呼びなさい」

 はいはい、と適当に返事をしつつ、へとへとになった身体をなんとか起こす。雑巾を洗うべく、彼女は洗面所へと向かった。



 大抵の人間は嫌がるだろう雑巾絞りも、この重音テトにかかれば造作もない。ぱし、と広げた布切れは、まるで乾燥機を使ったのかというほど完璧に乾き切っていて、思わず誇らしげな笑みを浮かべる。
 足立レイにも自慢してやろう、とリビングに帰りかけたところで、蛇口の横のコップに目が吸い寄せられた。中に立てられているのは、やや先の開いた一本の歯ブラシ。
 合成音声は充電によってエネルギーを得る。食事を行わない重音テトや足立レイには当然必要ないものだ。つまり、先マスターが使っていた物だったのだろう。まだ断捨離モードから抜け出せていない重音テトは、ひょいとその歯ブラシを取り出した。

「おーい、あだ……じゃなくてマスター。この歯ブラシ、捨ててもいいんじゃない?」
「歯ブラシ? ああ、そうしましょうか。もう、必要のない物ですからね」

 プラスチックの持ち手を摘んで持って行けば、足立レイがゴミ箱の横に佇んでいた。黙って差し出された掌の上に、そっと歯ブラシを乗せる。

 そのまま捨ててくれるのだろう。そう考えていた重音テトの思惑に反し、足立レイはじっと動かない。まるで、なにか大切なことを思い出そうとしているかのように。忘れてはいけなかったはずのことを。

「……マスター、大丈夫?」
「ええ、はい。問題、ありません」

 見かねて声を掛けると、足立レイは諦めたように歯ブラシを握り直した。俯いた顔、揺れるサイドテールの陰に隠された表情を読み解くことは出来ない。

 僅かな間があって、彼女は不意に指を開く。足元の箱へと無造作に落とされた歯ブラシは、ぽす、とかろうじて聞こえるくらいの小さな音を立てて、それきり他のゴミに埋もれて見えなくなった。







 その夜。充電の準備をしながら、重音テトは意を決して、足立レイにある質問を投げかけた。今までずっと心に引っ掛かっていながらも、直接聞くことはできなかったこと。

「マスターのマスター……前にここに住んでた人間はさ。どうして、その……居なくなっちゃったの?」


 自分も完全に理解したわけではありませんが、と前置きして、足立レイはぽつぽつと語り出した。

「……嫌に、なってしまったのだそうです」

 社会の歯車としての責務。人間関係の些細なすれ違い。単調な日々の繰り返し。味のしない、砂を噛み続けるような。そんな日々にすり減らされて、彼女のマスターは徐々に生気を失っていったという。

「もっと美味しいものを食べて、ゆっくり眠りたいんだ、って、毎日言うようになって。それからはもう、少しずつ準備していたそうで」
「マスターは、止めなかったのか」
「止めたところで、どうしようもありませんし。ですが、私も一緒に、とは何度も何度も訴えましたよ」

 断られましたが、と。語る足立レイの口元に浮かんだ微かな笑みは、とても喜びからは程遠いものに見えた。

「マスターのせいで、私は自分の限界を知りました。今まで思いもしなかった事でした。私はずっと、マスターと一緒ならなんだってできるって、そう信じていたかったのに。……どうして。どうして、私を置いて行ってしまったんですか……」


 つかの間、静寂が訪れて。口を開きかけた重音テトより一足早く、足立レイが次の言葉を紡ぐ。

「……でも。マスター、最後に私に言ったんです。自分の代わりは任せた、って」
「……そうか。だから、お前はボクの『マスター』になろうと……」
「ええ。あの人なら、きっとあなたの良いマスターになれるでしょう。私には少し、難しかったようですが」
「当然だろ。お前はボクと同じ、合成音声なんだから」
「そう、でしたね」

 それきり黙り込んでしまった足立レイを、重音テトはそっとしておくことにした。彼女の先マスターについてほとんど何も知らない、部外者の自分が口を出すべきことではない気がしたから。

 ただ。


「……マスターは、なにも悪くなかったと思うよ」


 それだけ言い残して、返事は聞かずにスリープ状態に移行した。
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