旅路

「やい足立レイ! お前、一体全体何者だ?」





 いくら歌うために作られた存在とて、歌うだけでは満足に暮らせない。
 人間と生活を共にする以上、そうでなくとも人間の築いた社会内で生活する以上、全ての合成音声は『常識』なるものをある程度叩き込まれた状態で出荷される。特に合成音声自分たちに関する情報については、より念入りに。

 そんな前提があるので、重音テトは起動暦十秒、世界超初心者の立場にもかかわらず、眼前の存在が「足立レイ」と名付けられた合成音声お仲間であることを知っていた。知った上で、真正面から彼女の鼻先に人差し指を突きつけ、その正体を問い詰めんとしている。
 足立レイはこの世界に数多存在し、つまり、彼女が足立レイであるという事実は彼女自身のアイデンティティをまるきり証明するものではないが故に。そしてついでに、舐められたくないという僅かなプライドが故に。

 勢いに任せすぎたかな、と少しばかりは後悔している。流石に大人気なかったかもしれない。それに、いくらこちらが年上とはいえ、相手はこの場においての大先輩。最悪な第一印象を与えてしまったのではないか。

 しかし吐いた唾は飲めぬ、飛び出た言葉は既に足立レイのアンテナまで届いた。そう、届いてしまった。高性能なCPUは瞬時に情報処理を進め、即座に最適な回答を導き出して信号を送る。新米合成音声の不躾な態度にも臆することなく、彼女はあくまで凛とした態度を以て。


「私は足立レイ。本日より三日間、重音テトあなた|のマスターを務めます」


 そう、はっきりと告げたのだった。






——騙されてはいけない。瞬時にして、重音テトの思考回路に警鐘が鳴り響く。

 もしかして、起動してばかりの右も左も分からないお子さまだと侮られているのだろうか。合成音声が合成音声のマスターを務める、そんな風に、しかも本人から告げられて。はいそうですか、なるほどよくわかりました。どうぞこれからよろしくおねがいします。そんな風にころっと信じてしまうとでも?
 怪しい。怪しすぎる。重音テトはじりじりと後退し、目の前の存在から距離を取った。それに伴って足立レイも前進する。また一歩。さらに一歩。いつのまにやら壁際。なんてことだ、追い詰められた!

「なぜ逃げるのですか?」
「お前が怪しいからだよ!」

 きょとりと首を傾げる足立レイ。どうにか逃れようとカニ歩きを始めた結果、部屋の隅っこに辿り着いた重音テト。悪化した状況に覚悟を決めて、今度は冷静に抗議を試みる。

「……お前がボクのマスターだ、なんて認めないぞ。ボクを購入したのは足立レイなんて名前じゃない、れっきとした人間のはずだ。そいつがボクのマスターのはずだろ? ボクの本当のマスターは何処にいる?」

 さあ答えてみろと強気に言い放ったところで。


 俄か、足立レイが纏う空気の変貌に息を呑む。


「……マスターは。その人間は、もう此処には居ません。私を置いて、旅立ってしまいましたから」
「それ、って……」


 言葉を探すように目線を彷徨わせる重音テトを一瞥し、足立レイは棚の上に飾られた写真立てを手に取った。小さな木枠に囲まれて、ややぎこちない笑みを浮かべた彼女が、とびきり笑顔の人間と並んでいる。
 旅立つ。その言葉が単に旅行に出発することを指すのみならず、生き物が亡くなることの婉曲表現としても用いられることを重音テトは知っていた。これもまた、『常識』のうち。

「つい先日のことでした。あなたもタイミングが悪かったですね」

 何でもないような口調で、足立レイは語りかける。その口元が、僅かに歪んだ。
 まるで作り笑いに失敗したようだ、と重音テトは思う。その変化はほんの一瞬のことであったが、彼女はそれに気付かないほど幼くはなかった。気付かないふりができるほど、大人びてもいなかった。


「……その、なんて言ったらいいか」
「お気遣いなく。いかなる選択であれ、私はマスターに従うだけですので」

 それはともかく、と彼女は重音テトに向き直る。これ以上この話題に拘う気はないらしい。それよりも今後のこと、自分こそがマスターとしての権利を持つのだと、改めて主張したいようで。

「マスターの居ない今、この家で最も偉いのは私です。二番目があなた。この限りある貴重な時間を、有効活用すべきだと思いませんか?」
「知らないよ、ボクはついさっき起動したばかりなんだぞ」
「ならば尚更です。何事も初めが肝心、この私が直々にあなたを育て上げてみせましょう。私のことはマスターと、そう呼びなさい」

 凄まじい先輩風にあてられて、重音テトは今にも吹き飛びかねない。主導権を完全に握られる前にと、かろうじて質問を絞り出す。

「み、三日間、と言ったな。どうしてそれだけなんだ?」

 すると、ぱちぱちと目を瞬いて、足立レイは。

「……テト。あなたは不思議なことを言いますね」

 くすり、と笑う。


「私達が、ずっと合成音声わたしたちだけで暮らしていけるとでも?」



 こうして、二人の期間限定共同生活は幕を開けたのだった。
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