上向きばかりで

 物心ついた時、というのは流石に過言かもしれないが。少なくとも起動してから、神威がくぽの記憶の中の彼自身は常にマスターと共にあった。


 当然のことだ、と思う。神威がくぽは人間でも何でもない、ただのソフトウェアなのだから。マスターの指先一つによるシャットダウンで、いとも簡単に記憶の連続性は途切れてしまう。そして操作主が席を離れている間、無駄にパソコンの電力を消費させておく意味もなく。つまり彼が意識(と呼べるものであるならば)を保っていられるのは、マスターの作業中でしかあり得ない。証明完了、いや、自明としても良かったか。

「神威さん、何か考え事中? いつになく真面目な顔してますね」

 降ってきた言葉に、慌ててデータの読み込みを再開する。気取られぬよう、素知らぬふりで誤魔化して。

「いや、別に。それよりマスター、眠いならば早く寝られるよう、さっさと作業を進めるべきだろう」
VOCALOIDあなたの正論は人間に対して鋭すぎるんです……」

 ブルーライトを浴びながら尚も欠伸を繰り返すマスターに、神威がくぽは本日何度目かの助言お小言を投げかけた。日付も変わる寸前、眠気故かキーを叩くスピードも低下しているようだ。

「もっと早いうちに始めておけば良いものを」
「サイダーちびちび飲んでたらこんな時間でした」
「ノンアルですらないのに酔ったのか?」

 正気正気、と弁解しながら、マスターは大きく伸びをして身体を仰け反らせる。ぐるんと回る視界、ちらりと動いた眼球はきっと、窓の外に浮かぶ月でも見つけたのだろう。ディスプレイに固定された神威がくぽからは、何も見えない角度だけれど。


「……外、行ってこようかな」

 身体を起こしたマスターの呟きに、思わず眉を顰める。とても順調とは言えない進捗状況を前にして、休憩に入れる度胸はある意味賞賛ものか。

「またそうやって逃げるのだな」
「違います、眠気覚ましにエナドリ買いに行くだけですから」

 なんだか今日はいつもより辛辣では? と不満気なマスターを前に、黙ってカレンダーを起動する。締切として定めていた日付までのカウントダウンを見せつければ、そそくさとウィンドウを閉じられた。そのカーソルを画面の左上まで運んで、かちり。作業データの上書き保存完了。

「そこのコンビニですし、往復五分もかからないとは思いますが……帰って来たらうっかり全部消えてた、とか恐ろしすぎるので」

 本当に保存されているか念の為再確認してから、マスターはヘッドフォンを外して脇に置く。立ち上がり、コンピュータの本体の電源ボタンに指を滑らせて。

「それじゃ、行ってきまーす」

 防犯のためと電灯を暗めに設定し直して、部屋の扉が振り返ることなく閉められる。普段よりやや静かめに階段を降りていく足音が段々と遠ざかり、やがて玄関の鍵が閉まる音がすれば、家全体は静寂に包まれた。





「……マスター、とうとう気が付かなかったか」


 スクリーンに浮かんだままの、神威がくぽだけを残して。






「何度も呼んだというのに、さっさとヘッドフォンを外すものだから……」

 全人類の敵、恐るべき眠気はマスターの器用さも低下させていたのだろうか。本来であれば画面と共に神威がくぽの意識を暗転させるはずのボタンを、その指先が沈み込めることは叶わなかったらしい。
 自動でスリープ状態に落ち着くまで、マスターが設定している時間は二十分。これなら帰宅の方が早いだろう。輝く液晶のおかげでそれなりの明るさを保ち続けている室内を、神威がくぽは改めて見回した。大した広さもない部屋、カメラの設定を弄れば天井の模様程度は認識できる。普段はマスターの頭に隠れた位置に、不思議な形の染みがあるのを見つけて、ついまじまじと目を凝らした。

 自分が知る唯一の世界。四畳半のこの部屋、しかも画角は変更不可能。そんな小さな空間ですら、自分は把握しきれていない。まさに井の中の蛙、そう苦笑しようとして、


 不意に、奇妙な感覚に襲われる。


 初めは、自分が何に戸惑っているのか理解できなかった。違和感の正体を探ろうとして、目の前の空間をじっと見据える。いつもより暗い部屋。人間一人居ないだけで、がらんと随分広い部屋。
 一引く一は零。簡単な引き算。しかしデジタルな世界に存在する彼にとって、その二つの数字の隔たりがどれほど大きいかは分かり切っていた。筈だった。

 見上げれば、いつだってそこにはマスターの顔があった。無機質な光に照らされて、真剣にこちらを眺める顔が。
 そして今、普段通りにやや上を向いてみる。視線は素通りして、天井に突き刺さるばかり。見慣れない染みが、そこに有るばかり。



 そうか。今、自分は。

「——孤独、なのか」


 思わず独りごちたその言葉も、ヘッドフォンをほんの僅かに震わせるだけで誰かに届くことはない。すっと背筋が寒くなる。頭の芯が嫌な熱を持つ。鼓動が、呼吸が、早くなる。人間であればそう表現するような、そんな心地に陥る。あれほど広く感じられた部屋が、今は酷く閉塞的に迫り来るようだった。
 VOCALOIDは単なる道具。操作する人間が居なければ、何も為し得ない。ならば、今の自分に価値などは。

 神威がくぽは静かに目を瞑り、思考を停止させる。余計な事を考えずとも済むように。これ以上、孤独に浸らず済むように。



——それから実際の時間にすれば、ほんの数分後のこと。スリープもせず、ただただじっとしていた彼は、近づいてきた足音にそっと目を開いた。
 扉が開かれて。見慣れた顔が、逆光に目を丸くする。

「ただいまー。うわ、パソコン点いたままだ?!」

 缶を片手に立ち尽くすも束の間、マスターはリモコンを手に取り部屋の明るさを元通り引き上げた。かしゅ、とプルタブを倒して少しぬるまった中身を口にしながら、液晶画面を目にして首を傾げる。

「なんだか青い顔……も、もしかして、お化けとか出ちゃったりしました……?!」
「……そんな訳ないだろう」

 無いはずのものがあること、有るはずのものがないこと、果たして本当に恐ろしいのはどちらだろうか。またも先走りかけた思考を制して、神威がくぽはマスターの持つ缶に注目する。何故だか、記されたマークに見覚えのあるような。
 何か言いたげな視線に気がついたようで、マスターも小さく笑って缶を揺らした。

「気になります? このロゴ可愛いでしょう。そこの天井の模様がこの形に似てて……あれ見るたびに、つい飲みたくなっちゃうんですよ」

 神威さんから見えるでしょうか、と座る位置を少しずらしたマスターが指差した先、あの染みが張り付いている。大方、先程伸びをした時にでも目に入ったのだろう。
 明るい部屋で改めて見直せば、言わずもがなただの模様でしかなかった。可愛いとは言えないまでも、とても不気味にも思えない。
 ひとたびマスターが座り直せば、それもすぐに頭の後ろに隠れてしまう。ヘッドフォンを装着して、こちらを見下ろすマスターの顔。

「マスター、次は自分も連れて行ってくれないか」
「なに馬鹿なこと言ってるんですか。コンビニにわざわざパソコン持ってくメリット、ゼロですからね」

 冗談だと思われたらしく、さらりと流してマスターは再び作業フォルダを開く。それを見上げる神威がくぽもそっと本音を押し込め、データに目を通し始めた。

 変わり映えのない光景。固定された画角。それでも、満たされている。あるべきものが、そこにある限り。

「なんか目冴えてきた気がします、これなら今日中に全部終わるかも!」
「その後で眠れないと泣きつくんじゃないぞ」

 日付も変わり、夜は更けていく。にも関わらず、その部屋はもう暫くの間、明るい光と音を漏らし続けていたという。



 後日、近所迷惑だと苦情を突きつけられた二人が反省する羽目になるのは、また別の話。
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