Episode Of Weiss ~若き軍師と剏竜の誓い~

 針はとっくに頂上を越えた、深い夜。
 リーリエの鐘の残響が、まだ耳の中で鳴っている。
 だが、鐘はとっくに眠りにつき、警備兵すらも夜の色に隠れて佇むそんな時間。

 崩れた岩山の残骸を視界の端に、レオンは星を見つめていた。
 もう眠ってしまったリーリエの鐘のすぐ側で、読む気の無い本を幾つも散らかしている。
 地平線か、水平線か。天地を分かつ色は碧と黒。吸い込まれそうな闇の中に、幾つもの宝石が煌めいている。
 決して手の届かないその輝きを見ていると、自分の想いは篝火程度もないような気がした。
 風に、僅かに潮騒が混じっている。風呂上がりの濡れた髪をそのままに、レオンは冷たい石の床に寝転んだ。
 すると、視界は全て星の海に包まれた。追いかけても、追いかけても数が増えていくような、光の洪水。
 どれだけ見ても飽きの来ない壮大な景色に、レオンは胸の奥を熱くした。

 「こんな時間に星の観察ですか? レオン軍師」

 星にまぎれ、聞き慣れた声がした。星の中から降ってきたかと思うほどに耳に甘く響いた声に、レオンは驚いて起き上がった。

 「……ミリアさん」

 「きっと此処だろうと思いました」

 「どうしてですか?」

 「さあ」

 無造作に下ろされた栗色の髪が、夜風に揺れる。肩の出た薄い色のドレスの裾を上手に巻き込み、ミリアはレオンの側に腰を下ろした。
 今度ははっきりと、その色が分かる。彼女の栗色の髪によく似合う、水色のドレスだ。
 背中に、編み込んだリボンとレースの装飾が施された、上品なドレス。そうしていると、軍服を着ている彼女とはまるで違う。
 レオンは、わざとらしくミリアとの間に本を置き、少しの距離を取った。
 妙に、こそばがゆいのだ。
 そう感じるこの心を、悟られないように。

 「――今日はお疲れさまでした」

 本を置いた瞬間、ミリアが明るい声で言った。
 レオンはびくりと肩を跳ねさせたが、ミリアは構わなかった。
 立てた膝の上に頬を乗せ、嬉しそうに微笑んでいる。

 「軍師もご存じでしたでしょうが、あの異形は、以前から姿を見せていてもこちらに向かってくることは無かったのです。それが今日になって不穏な動きを見せ始めたので」

 「じゃあ、俺たちが来る時間と襲撃が重なったのは偶然?」

 「ええ。ですから丁度良かったのです。とても格好良かったですよ、軍師」

 ミリアに、明け透けもなく誉められたレオンは、悪い気はしなかった。
 むしろ高揚し、このまま作戦の詳しい内容を自慢気に語りたい気分にすらなった。
 だが、ふとあることに気付くと、彼の浮かれた心はに沈静化した。
 あの異形が、以前からこの地に近づいていたことを何故ミリアが知っているのだろうかと。
 彼女は、王妃殿下付きの護衛官。郡部の詳細な報告は、王妃殿下に直接の関わりが無ければ逐一上げられはしない。
 そっと、ミリアを盗み見る。星の僅かな光に照らされた横顔は、どこか切なげに沈んでいた。

 どうして、この城にそんなドレス姿で?

 聞くのは簡単だったが、レオンの中にある下卑た想いがそうさせなかった。
 それさえなければ、ただ何てことの無い、友としての自然な問いかけになるのに。
 けど、先程見てしまった。ヴォルフラントと彼女の、親密な距離を。
 ミリアと呼び捨て、追いかけるように飛び出してきたその男の顔が、彼女を案じて心配に歪んでいたことも。
 そして、それに驚いたのは、その場で自分だけであったことも……。

 聞こうか、聞かまいか。

 先程の、総毛立つような戦いが嘘のように静かなこの世界で。
 法務官長さえ駒とし、あれほど勇猛に指揮を取った軍師は、たった一人の女性に問いかけることすら出来なかった。
 そんなレオンの気を知ってか知らいでか、ミリアが口を開いた。

 「ヴォルフラント様が、軍師を誉めていました」

 「え?」

 「あの少年は見込みがある。そう言って嬉しそうに」

 嘘だ。レオンは口許をひきつらせた。
 あの後、ねぎらいの言葉もなくさっさと城に消えたではないか。

 「嫌われてるの分かってますから、取り繕わなくてもいいですよ」

 「またそんなことを」

 「だってそうでしょ。俺を見る目がそう言ってましたもん」

 「軍師は目を見れば、人の考えが分かるんですか?」

 「大体分かるでしょ」

 「じゃあ……私が今何を思っているかも、分かりますか?」

 「……え」

 そこには、銀灰の大きな瞳。優しい目尻に、睫毛が揺れていた。
 重ねられた二つの本が、ミリアとの間に敷かれた境界線。自分が置いた、小さな防御壁。
 瞬きが聞こえるほどに煌めく星の海の下で、静かな時だけが流れて消えていく。
 レオンは何も言えず、本を境に伸ばされた互いの小指のもどかしさに、一喜一憂していた。

 「あ、の……」

 「ほら、分からないじゃないですか」

 「い、いや、そういうことじゃなくてですねミリアさん」

 「なんでも分かったような気になっては駄目ですよ」

 「……はい」

 どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。
 その銀の瞳の奥に、どんな気持ちがあったというのだろう。
 それを読み取る術なんて、どの兵法書にも書いてはいない。

 けど、読み取る必要はない。

 腹立たしいヴォルフラントの顔が、さっきから視界をちらついている。
 レオンは重ねていた本を膝に乗せると、すっくと立ち上がった。
 土埃のついた手を、軽快にはたきながら。

 「中へ入りましょうミリアさん。みんな心配するでしょ」

 レオンが、いつもの笑顔で手を差し出す。

 「そうですね。もう寝ないと」

 ミリアもまた嬉しそうにそれに手を伸ばした。
 だが、レオンの中にある下卑たそれが、余計な一言を発してしまった。

 「……こんなところに二人で居て、ヴォルフラント様に誤解されても困りますしね」

 レオンがそう言った瞬間、ミリアはこの少年に全てを悟られたのだと気付いた。
 重ねた手は、心置きなく触れることの出来た筈の友人の手。
 なのに、今は違う。

 これは。……これは、男性の手だったのだ。

 「軍師……」

 宵闇の星が、空で泣く。
 気付いた時には、遅すぎた。

 細い二つの影は、重なることなく城へと消えていった。

   *   *   *

 なるほど。心に穴が空いたような感覚、とはこういうことか。

 小さく傷のついた胸に手をやりながら、レオンは窓の外に目をやった。
 朝日が眩しいリーリエの景色には、昨夜殲滅した異形の屍と、岩の残骸が転がっている。
 あの激動と興奮の時間を、全て無かったかのように消してしまった星月夜。彼女の、惑うような瞳が焼き付いて離れない。

 気付いた時には、人の物だっただなんて。
 ああ、勿体ないことをした。
 あんなに粛々として女性らしい人は他にいないだろうに!

 わざと、利己的な理屈を心に並べる。
 そんなことをしても、心の空白が埋まる筈もないのに。

 岩屑の辺りで、兵士たちが熱心に後始末を行っている。あれだけ巨大な異形を片付けるのはきっと骨が折れるだろう。
 冷めた目でそれを見つめていたレオンは、緩い動作で胸元のボタンを閉めていく。与えられた白い文官服に袖を通した彼は、窓の外に向かって重い息を吐き捨てた。

 「準備は出来たのかいレオン。ヴォルフが呼んでるよ」

 部屋の扉の向こうから、ノルテの声がする。
 レオンは適当に髪を整え、返事をしないまま扉へと向かった。

 「……帰りたい」

 領主、ヴォルフラントの鎮座する執務室には、既にリーリエの高官、ラオフェン、そしてノルテの姿があった。勿論、ヴォルフラントを中心に。
 歩兵大隊長らしく骨張った手を膝の上で組み、がっしりとした足を組み合わせて座っている。
 肩から腰にかけては銀のチェーンが三重に垂れており、終わりの部分ではヴァイスの紋章たる八重の花の細工が煌めいている。座る時に邪魔な剣は椅子の横で小姓らしき少年が持っていた。
 ヴァイスの旗を背にし、偉そうに上座に座っているヴォルフラントは、嫌みなほどに高潔な男性であった。
 レオンは気づかれないように、鼻を鳴らした。

 ミリアはというと、一番嫌な位置に見える。ヴォルフラントの左隅に、美しい装いでちょこんと座っているのだ。
 視線をこちらに示してきているのが分かるが、レオンは決してそれに応じようとはしなかった。
 レヒトはどうしたのかとノルテが問うと、何やら息子たちを案じて蜻蛉返りしたのだという。
 まこと行動的な女性だと、屈託の無い笑みを浮かべるのはゴルモア卿だった。つられて、ラオフェンも笑っている。
 あの岩のように固そうな顔でも笑えるんだな、などと失礼なことを思いながら、レオンは小さく欠伸をした。

 「眠れなかったか」

 欠伸に気付いたヴォルフラントが、レオンに言う。
 瞬時にレオンを睨んだノルテだったが、彼の顔は見られる前にきりりと引き締められていた。

 「ハイ。書棚にあった本を読んでしまいマシて」

 しれっと答えると、ヴォルフラントは顎に手をやり、一考した。

 「文官の集まる部屋のすぐ隣に書斎がある。気になるのであれば好きに見るが良い」

 ――こっちの気も知らないで、好意的な言葉なんて口にするなよ。
 レオンの気持ちはささくれだったが、彼はそれを上手く隠してみせた。

 「ハイ、ありがとうございマス。いずれ、拝見させていただきマス」

 敬語であるのに、片言混じりのような喋り方に、ノルテが目を見開く。

 「……変な物言いをするんじゃない。ふざけてるのかい?」

 ノルテが小声で言うも、レオンは直そうとする気が無いらしく、含んだ笑みを見せた。

 「構わぬ、ノルテ。……少し彼と話をしたいのだが、良いか?」

 「この子とかい?」

 ヴォルフラントの突然の申し出に、レオンとノルテは顔を見合わせる。
 きょとんとするレオンを他所に、ヴォルフラントは静かに人払いを命じた。

 「何デショーか」

 後ろに手を回し、粛々とした様子のレオンが言う。
 ヴォルフラントとレオンだけになった執務室は、差し込む陽の光だけが唯一の暖かみだ。
 窓から斜めに射し込む光の筋は、三つ。その中に立ったヴォルフラントは、自身の顔をわざと陰らせているようだった。光を背負い、レオンをじっと見つめた。

 「少し話をしようと思ってな」

 ヴォルフラントの声は低い。だが、ラオフェンほど響くことはない。
 女性がうっとりと聞き入ってしまいそうな、優しい男の声だ。
 決して美丈夫ではないが、大人の男性ならではの落ち着いた佇まいと調和し、まさに「湖」のような静かな魅力を醸し出している。

 「レオン・ブラックロウザ。まずは昨晩の礼を言おう」

 レオンは頭を垂れ、軽く首を横に振った。

 「定石通りの仕事デシた。僕に功績はありマセン」

 「謙虚なのか皮肉なのか分からぬな。さすがはノルテの弟子と言ったところか」

 相変わらず見えにくいヴォルフラントの顔が少し動いた。
 笑ったのか、怒ったのかは分からない。

 「ゴルモアの性格をよく把握していたな。あれは実力がある。場を与えれば実力以上のものを発揮する男だ。しかし、少々決断力に欠ける。それが、あやつを第二部隊の隊長に据えている理由だ」

 「はあ」

 「お前の疑問に答えたつもりだが」

 く、とヴォルフラントが喉を鳴らす。
 聞いていないようで、しっかり聞き取られていたらしい。
 ばつが悪そうに口を尖らせたレオンは、意味もなく顎を上下させた。

 「それはどうもデス」

 こんな口の聞き方をしては、不敬だと怒られるのが普通だろう。
 だが、ヴォルフラントはゆったりと足を進め、光の筋を移動している。

 「リーリエには、有能な軍師がおらぬ。いや、居るには居るのだが、ノルテの手により育てられたものではなく、独学で兵法を学んだ者だ」

 そういえば、元々リーリエは研究施設が主だった都市か。
 東からの侵入を案じ、後から軍施設を整えたのだと言う。
 レオンは一人納得しつつ、ヴォルフラントの話に耳を傾けた。

 「というのもな、あの異形のおかげで元よりいた軍師が一人、戦死したのだ」

 「……軍師が?」

 「そやつは、作戦を考える能力はあったのだが、人を使うことに長けてはいなかった。軍略を用いるには少し癖がある方がいい。純粋すぎたのだろう」

 それではまるで、軍師全てが一癖ある人種のようではないか。
 まあ、間違ってはいない。
 レオンは、ノルテの怒る様子を想像して苦笑した。

 「ま、そうデショーね。僕なんかまさにそうデス」

 「僻むな。……いや、癖があると言ったのは私か」

 ヴォルフラントはやれやれと腕を組む。
 そうして、レオンの方に一歩歩み出て、やっとその表情を明らかにした。
 光に揺らめく翡翠の瞳は、確かに優しい。
 しかし、レオンはそれを敢えて憎らしいと思って見つめ返す。そうすることで、自身のプライドを保とうとした。

 ――この男に少しでも良い所を見出だしてしまえば、もう何もかも負けてしまった気になる。

 レオンのそんな緊張を、別の物として取ったのか、ヴォルフラントは首を傾げた。
 そして、まるであやすような優しい声で、レオンに言った。

 「ヴァイスの民ではないが故、苦労も多かっただろう。だが、その癖はやめておけ。……そなたには、このリーリエの新たな軍師として役に立ってもらいたいのだ」

 「……俺が?」

 レオンの顔が、複雑な表情で歪む。
 ヴォルフラントは続けて、あくまでも優しく言葉を紡いだ。

 「うむ。準三級軍師という序列では、特定の人物の参謀は勤められないが、まもなくお前は二級軍師まで昇格する。レヒトから明日にも書状が届くだろう」

 「……それで帰られたんデスか」

 「そうだ。家庭教師の件は正式な辞令ではないのだろう? 事情の説明をする為、王都にも赴く必要があるからな」

 「そこまで俺を買い被っていいんデスか?」

 「無論、そなたの実力は承知している。しかし、このリーリエに於いて、お前以外に軍師たる適役がいない」

 いや、兄弟子がたくさんいマスけど。
 喉から出かかった言葉を引っ込め、レオンは項垂れた。
 此処の軍師になんてなったら、つまりは。

 「……ミリアの事だが、間もなく我が妻として迎える手筈になっている」

 そら来た。それが嫌だって言うんだ。
 レオンの唇が強ばり、胸が行き詰まった。
 それは、本人から直接聞きたかったのに。
 レオンの表情が曇るのを、ヴォルフラントははっきりと見ていたのだが、彼はそれに構わず言葉を続けた。
 まるで、焦るように。

 「お前とは幼い頃から親しい間柄だと聞いている。よく、話も聞いていた。故に、お前を信用して頼みたい」

 ミリアをダシに物を頼むなんて、案外女々しいのではないかとレオンはほくそ笑む。
 そう思えば、この男も少しは馬鹿で可愛いかもしれない。
 不遜な態度を隠しもせず、レオンは胸を張ってヴォルフラントを見る。
 だが、光の筋から離れたヴォルフラントの顔には、深い疲労と、落胆の色だけがあった。

 「リーリエ領主として、お前に頼みたい」

 「……何をデスか……」

 「私が倒れし後、どうかミリアを支えてやってくれないか…………」

 三つの光の筋の中、その男性は余りに静かに佇んでいた。
 もう、半分ほどこの世界から離れてしまっているような男の影。
 静謐に閉じ込められた姿に、光が透けた。
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