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槻倉荘

 慣れた屋敷の中を歩いていた小鶴の耳に、子どもの小さな泣き声が届いた。今の当主に子はおらず、屋敷内に子どもが居ることなどあり得ない。近所の悪戯坊主が潜り込みでもしたかと思い、出所を探る。床下か、或いは天井裏か。息を殺しながら神経を鋭くとがらせていくと、どうやらそれは客間として使用されている部屋から聞こえてきているらしかった。そっと中を窺うと、見慣れぬ子どもが一人、ぽろり、ぽろりと涙を落としている。押し殺すことのできない嗚咽が響き、小鶴の元へと伝わってきていたようだった。
 当初の考え通り、悪戯坊主が帰れなくなったのかとも思った。しかし、子どもの羽織っている着物には主家の紋が染め入れられている。この部屋に着物の類はなかったはずであるから、子どもがどこからか勝手に持ち出したのでなければ誰かが渡したものに違いなかった。子宝に恵まれぬ当主の元へ、どこからか養子としてやって来たのかもしれない。父や母を恋しがるほどの年齢の子どもだ。言い聞かされていたとしても、さみしさが勝り涙を流すことも当然であろう。
 子どもが害のある存在ではないと分かれば、もう小鶴には関係のない話だった。元より子どもが苦手であることもあり、小鶴は子どもに声を掛けないまま静かに背を向ける。小鶴がこの屋敷に転がり込んだのも、ちょうど部屋の中で泣いている子どもくらいの歳頃であった。敗走する親に連れられ、行き倒れたところで拾って面倒を見てくれていた先代。この家を守ってほしい、という先代の言葉があるからこそ、小鶴は今もこの場所にいる。

 その日は、激しい雨が降っていた。連日の晴天によって溜め込んでいた水分を一度に出し切ってしまおうとでも言うように、大量の水滴が地面に叩き付けられている。場所によっては一面が水浸しになってしまっていたし、傘などあってもなくても同じこと。誰もが濡れ鼠となることを煩わしく思い、外出を極力控えているような一日だった。
 雨が寒気を連れてきたのか、普段よりも寒さを感じる。警備の職務に就いている以上、持ち場を離れるわけにもいかずに軒下でひたすら突っ立っていた、と言っても間違いではない。手を擦り合わせながら、しきりに足踏みをしながら、この天気ならば敵襲もあるまいに、と考えていた矢先のことである。
「ん?」
 水煙の先、傘も差さずにこちらへ歩を進めてくる姿がある。ふらり、ふらり、とでも表現しようか。とても地に足がついているとは思えぬ様子で頼りなく近付いてくる存在に、自然と手は腰へと。単なる異常者であれば良い。幽鬼の類であれば、果たして自分に斬ることができるだろうか。しかし、やらねばならぬのだ。怪しげな雰囲気に呑まれそうになりながら、不穏な気配を見せたならば必ずや、と意気込んでいた。
 近付いてきたことで、少なくとも人間の男の姿をした存在であることは判断できた。しかし、だから何だというのだ。この雨の中、外に出ることを躊躇う人間が殆どである。いつもならば人通りの多い道であるというのに、半分にも満たない数しか目にしなかったことが何よりの証拠。そんな酷い雨の中を、傘も差さずにふらふらと歩いている存在がまともな人間であると言えるのだろうか。
「おい、そこの」
 相手は刀を差していない様子ではあったが、それでも、互いの間合いにまであと数歩という場所で声を掛けた。雨に濡れて肌に張り付いている髪や着物の様子が、より一層、男の怪しげな雰囲気を増幅している。こちらの呼びかけによって足を止めた男は、この寒さのせいなのか随分と青白い顔をしていた。
「傘も差さずに、どうしたんだ」
 緊張は解けぬまま、しかし問答無用で切り捨てるわけにもいかず、当たり障りのない言葉を投げかける。ゆったりとした動作でこちらを見たその男は、やはり頼りなくか細い声で答える。
「子を、探しているのです」
「子どもを?」
 繰り返した言葉に、小さく頷く。そして続けて言うことには、どうやら、少し目を離してしまった隙に姿が見えなくなってしまったらしかった。その子どもを、早く見つけてやりたいのだと。
 もう行っても良いか、と尋ねてくる男を引きとめる術など何も持っていなかった。相変わらずふらり、ふらりと力ない足取りで進み始めた男は、目前を通り過ぎ、そして少し先でくるりと振り向いた。特に理由もなくその姿を目で追っていただけに、視線が交わってしまったことが少しだけではあるが気まずい。それでは、と一礼をして歩き始めた男の姿は、小鶴が瞬きをする間に掻き消えてしまっていた。激しい雨だ。きっと水の勢いが激しすぎて遠くが見辛くなっているのだ、とは思うのだが、それでも薄気味悪さは残る。何か別のことを考えよう、と思った矢先に思い出したのは、子どものことだ。あの、客間で泣いていた子ども。そういえば、あれから姿を見たことがない。この家に貰われてきたのであればおかしな話である。あの子どもは、どこへ消えたのだろうか。そもそも、あの子どもはどこから来たのであろうか。
(まさか、な)
 嫌な想像を振り払い、小鶴は再び雨の向こう側へと目を走らせる。不穏なことを考えてしまうのは、この雨のせいなのだ。どこかに切れ間がないかと探しながら、それでも、雨音に交じって子どもを探す声が、子どもの泣く声が響いている。

 晴天続きだったその反動からか、あの男と出会った大雨の日以降も雨が降り続いていた。程度の強弱はあるものの、雨天であることに変わりはない。身に纏わりつくようなじんわりとした空気の中、小鶴はその日もまた、門番の職務に就いていた。屋敷を訪れるものなど、この天候のせいか数えるほどしかいない。それでも全くいないというわけではないので、気が抜けない仕事である。先が少しばかり見辛い程度の雨を眺めながら、どうしても思い出してしまうのはあの怪しげな男のことだった。彼は、無事に子どもを見つけることができたのだろうか。考えたくはないが、もしも、万が一、彼の子どもが小鶴の見たあの泣いている子どもであったとしたら、一体、どうすれば良いのだろう。あれからずっと考えているが、答えは出そうにない。
 ぼんやりとしていたせいだろうか。脇を走り抜けた小さな影に対し、反応が遅れてしまった。それが外から内に向かってではなく、内から外に向かって飛び出したこともまた、原因の一つであっただろう。雨の中、水を吸ってしまい重くなり始めているだろう着物の裾をひらりと揺らし、駆けだしていく子どもの姿が。
「小鶴! 追いかけろ!」
 あの子だ、と認識をするとほぼ同時に、屋敷の側から当主の声が鋭く飛んでくる。命じられたとなればあとは早い。子どもが何を思って飛び出したのか、子どもが屋敷でどのような位置づけであるのか、気になることは多々あるが、そういった諸々の邪念はこの場では排除する。小鶴に与えられたのは、子どもを追いかけること、それだけだ。
 大人と子どもだ。すぐに追いつけるだろうと踏んでいたのだが、ぬかるんだ道に足を取られてしまうせいか、思うように距離を縮めることができずにいた。子どもを見失うことはない。しかし、近付くこともできない。この道は商店の立ち並ぶ区画へと続いている。雨のお蔭で人通りはそれほど多くないと信じたいが、それでも、傘を差しながら歩く人々の間を抜けていくとなると、子どもと大人とではかなりの差が開いてしまいそうだった。
「待て!」
 言っても無駄だとは思いながら、それでも、叫ばずにはいられなかった。小鶴は子どもを呼び止めるための名前も知らぬのだから。
 当然ではあるが、子どもは振り返ることすらせずに道を駆け抜けていく。道には人の姿が増え始めており、これでは見失ってしまうのも時間の問題だった。人々の間をすり抜け、見え隠れする子どもの後を追う。着物が水を吸って重くなる。疲れて足も上がらなくなってきた。しかし、子どもは相変わらずの速さで走り抜けていくのだ。重さなど、疲れなど感じさせぬ軽やかさで。
 水滴が目に入らぬよう、瞼が防衛行動を取ろうとする。そうしている間にも、子どもを見失ってしまうかと思うと意識してその反応に抗おうとする。しかし、どうしても無意識が勝ってしまう瞬間があり、それが、命取りだった。
 人々の間を駆け抜け、開けた道。そこに、子どもの姿はない。緩やかに速度を落とし、上がってしまった息を整えながら必死に周囲に目を走らせる。どこかに、あのひらりと軽やかな裾が見えやしないかと。しかし、どこにも子どもはいない。濡れて張り付く髪を乱暴に払いながら、小鶴は途方に暮れた。子どもは、どこに消えたのか。主には「追いかけろ」という命を受けたのだ。言葉通りに取ったのであれば、もう十分なはずである。しかし、あの言葉の裏には「捕まえろ」という命が潜んでいる。小鶴は、主の命を達成できなかったのだ。
 いつか見た男のように、雨の中、傘も差さずに小鶴は子どもを探す。どこだ、どこにいる。ほんの僅かな痕跡も見逃さぬよう、しきりに周囲へと目を走らせながら。
 ふと、店と店との間にある細い路地に目が留まった。大人が一人通るのがやっとの細いその場所は、天候も相まってかただでさえ薄暗い陰を一層濃くしている。小鶴は、子どもがその先に向かったのではないかと思った。子どもの足跡が見えるだとか、着物の裾が引っかかっているだとか、そんな根拠はどこにも無い。強いて言うならばそれは小鶴の直感でしかなく、そうであってほしいという願望だった。
 実際に路地の前に立ってみると、遠目で見ていたよりもずっと幅が狭いような気がした。しかし、通れないほどではない。雑多に物が立てかけられている部分もあり、奥までは見通せないことに何故だか不安を抱く。恐れているわけではないのだが、先に進むことを躊躇わせる何かがそこには待っているような気がした。恐る恐る、一歩を踏み出す。雨はもう気にならなかったが、遅くなりすぎる前に、何らかの成果を持ってあの屋敷へと帰らなければならない。
(せめて、親子が再会する前に)
 二人の不運を願うわけではないのだが、もしもあの子どもを探していた男と逃げ出した子どもが親子なのであれば、あれは彼らの望まぬ事象だったのだ。子どもからあの屋敷の話を聞いた男が、どのような行動をするのか。第三者に判断を委ねるならば、誰もが主家を悪いと断じるだろう。それを口にする、しないは別としてだ。厄介の種を取り除くためと、あの二人を斬らなければならなくなる未来など、小鶴はごめんだった。
 立てかけてあるものを倒さぬよう気を付けながら、隙間をすり抜けていく。頭の中に思い描いているのは、以前に見た周辺の簡単な見取り図だ。頻繁に訪れる商店の配置などがどう描かれていたかについては思い出せるのに、その裏側がどうなっていたのか、思い出せない。両脇を建物に囲まれたまま、細道は入り組んでいる。分かれ道になると、小鶴は己の直感を信じて止まることなく進んでいた。もう。自分がどの辺りに居るのかも分からない。
 弱まり始めた雨の中、道の先にぼんやりと明かりが見えた。明かりを目指して進み、そしてようやく、路地を抜ける。どこかの山の麓、のような。それに気が付いた時、小鶴は失敗したと思った。あの路地がどこへどう繋がっているかを知らなかったとはいえ、山へ来ることなどあってはならぬのだ。町は山に面していないし、それでなくても、一番近い山へ向かうには半日ほど歩かなければならない。明らかに異様な現象だった。
 幽鬼に誑かされたかと思いながらも、腰の刀にそっと触れる。雨の中をこうして動き回るつもりなど無かったから、愛刀もまた、水分を吸ってしまっている。これでは、錆び付いてしまうかもしれない。父から受け継いだ大切なものではあるが致し方なく、せめて最後に、この事態を招いた元凶であろう幽鬼を切り捨ててやり華々しく最後を飾ってやりたかった。それがあの男や子どもの姿をしていないことを祈りながら、明かりはどこだと周囲を注視する。そして、足跡を見つけてしまったのだ。ぬかるんだ土の上に残された、小鶴が追いかけていた位の子どもの足跡。それは山に入らず、道とも言えない道を進んでいるようだった。
 整備など全くされておらず、足場は悪い。しかし、そのおかげで水捌けの悪いままの土壌が残されていて、小さな足跡がくっきりと進路を示してくれていた。それが良いことなのか、悪いことなのか、小鶴には分からない。追えという声に従って、それを辿り続けている。徐々に雨は弱くなっていき、そして久しぶりに、止んだ。
「……ここか」
 同時に辿り着いたのは、小屋、と表現するのが相応しいような家だった。足跡はその家の扉へと一直線に進み、中へ入って消えている。心臓の音が響いて空気までも揺らしているような気がした。緊張のあまり唾を飲み込む音も、また。小屋に窓は無いが、造りが甘く、壁には隙間がある。そのうちの一つへと音を立てぬよう近付き、そして静かに覗き込んだ。
 頼りない蝋燭の灯りが室内を仄かに照らしている。隅々までに光は届いていないのだが、小鶴の求める姿を照らすには十二分の働きをしてくれていた。逃げ出した子どもと、そして、いつぞやの男と。小鶴の願いは叶わなかったというわけだ。この場で男を切り捨てて子どもを無理矢理に連れ帰ってしまうこともまた、選択肢の一つではある。しかし、そうまでして子どもを連れ帰れという命は受けていないのだ。そのような言い訳を理由にしながらも、刀から手を離すことができずにいる。状況から考えて、小鶴が迷い込んでしまった不可解な状況の原因となる幽鬼は目前で抱きしめあっている親子なのだ。愛おしそうに子に触れる男か、父親に抱かれたが故に涙を流す子どもか。
 どうするべきかと動けずにいる小鶴のことになど気付かぬ様子で、親子は再会を喜ぶかのようにただただ触れ合うばかりであった。子どもの口から何が起こったのかが語られる素振りは無く、さみしかった、怖かった、という言葉が繰り返されるばかり。男はそれに対して、悪かった、もう大丈夫だから、と声を掛け続けるばかりである。常であれば微笑ましいという感想だけで済ませることのできる情景であるが、小鶴は子どもを追いかけろという命を受けてこの場所へと迷い込んできた。そして、本来ならば繋がるはずのない場所へと小鶴を招いてしまったのは、互いの無事を確かめ合っている親子なのだ。
 押し入ることは勿論のこと、立ち去ることもできずにいた小鶴の見守る中で、それは起こった。

 ――炎に包まれ、そして、姿を消した子ども。

 腕の中で子どもが燃えたのだ。間近で熱を浴びたせいか男は顔を歪めてはいたけれど、それだけだった。驚いた様子も、取り乱した様子もなく、その事象を受け入れていた。一方の小鶴はというと、こちらもまた、声を上げることなくただじっとそれを見ていた。正確に言うならば、声を出すことができなかった、という方が正しいか。驚きのあまり、吸いこんだ息が行き場を見失ってしまったようだった。
 弱々しい蝋燭の灯りなどとは比べ物にならないほどに、鮮烈な光だった。まるで、その小さな命を燃料に燃え上がったのかとさえ思う。それは明らかに異質な状況ではあったのだが、小鶴は同時に納得もしていた。やはり、彼らは幽鬼であった。ならば、自分があの子どもを連れ帰ってしまうことがなくて良かったのだ。怒り狂ったあの男が何をするのか、子ども自身もまた、あの屋敷に何をもたらすのか。連れ帰ることができずとも良い理由が、そこにはあった。
 男に気付かれてしまう前に、と小鶴は踵を返す。この場所がどのような場所なのか、どうすれば見慣れた道へと戻ることができるのかなど分からなかったけれど、少なくとも、小鶴が踏み荒らしても良い領域では無かった。男を切り捨てねば、と考えている自分がいることに気がついてはいたけれど、彼が一体何をしたというのだろうか。ただ、子どもを探していただけである。そしてその子どももまた、親の元へと帰りたがっていただけだ。
 帰り道を探す小鶴の背に、男の視線が突き刺さっているような気がした。首に、腕に、足に、細い糸が絡みついてくるような気がした。それは小鶴の抱いた罪悪感だろうか。それとも、男の向ける怒りだろうか。その糸は小鶴をこの場に引き留めるためのものではなく、男を、幽鬼を主の元へと導くためのものであるような。
 軽く頭を振り、馬鹿馬鹿しい幻惑を掻き消す。手で触れても、そこに糸など存在しない。雨に濡れ、冷え切ってしまった肌と肌とが触れ合うばかり。微かな熱が灯ったような気がしたけれど、それもまた先の親子の触れ合いが焼き付いてしまっているからだろう。帰り道を探しながら、ゆっくりと先へ進む。纏わりつき、張り付く着物が邪魔だった。網膜に焼き付いてしまった光景と共に、不快なそれを早く拭い去ってしまいたかった。

 無心で足早に進んでいた小鶴が見覚えのある道へと戻ってくることができたのは、日の暮れはじめた頃になってからだった。いわゆる、逢魔ヶ刻。久しぶりに雨が上がったからか、人通りは駆け抜けた数刻前よりも多くなっている。しかし、この中のどれだけが「人」であるのだろうか。もしかすると、あの男のような、あの子どものような、そんな存在が。
 嫌な想像を振り払おうと、とにかく早く帰らなければと顔を上げた小鶴の目の前で、炎が灯る。浮かんだのは、先ほど見た光景だ。突然、その命を燃やした子ども。暗闇に閉じてしまおうとする世界を切り裂くように、店先に灯が掲げられていく。それは小鶴の行く手を阻むように、いや、追い立てるように。道行く人々とぶつかりながらも、小鶴は駆けていく。責めたてるように燃え広がる炎が、小鶴にとって大切な場所へとたどり着いてしまう前に、その前に、無事を確認したかった。
 そんな馬鹿げた話があるはずも無い、と囁く声は確かにあったのだが、それ以上に大声で喚きたてていたのは恐怖だったのだ。子どもは無事に親元へ還ったのだけれど、それでも、彼らを引き裂いた時間が無くなったわけではない。男が何を思うのか、還った子どもは何を伝えたのか。彼らにとっては許し難い存在であったとしても、その場所こそが、小鶴にとっては唯一の帰る場所であったから。家を守らねばならぬという重圧に呑まれてしまったのか、当主は変わってしまった。それでも、かつては小鶴と共に遊んでくれた、良い友人であったのだ。先代との約束、そして幼い頃の記憶が小鶴を突き動かす原動力となっている。
 駆け戻った小鶴が目にしたのは、一見すると平時と変わらぬ屋敷の姿であった。幻炎が足元から広がっていくような気がしたけれど、あくまでも、それは気がしただけだ。現実にそのような事柄が起こっているわけでも無く、小鶴はようやく、不安や焦りから解放されたような心地になる。しかし、これで終わりだ、というわけでもないのだ。子どもが逃げ出した後の屋敷で何が話されていたのか、そもそも、あの子どもについて屋敷ではどのように認識していたのか、小鶴には知る術もない。ただ肌を刺すような緊張感が周囲に満ちていることだけはしっかりと伝わってきていて、これは、当主が随分と荒れているようだ、という事実のみを理解した。
 走っている間にいくらかは乾いたものの、雨水を吸った着物は未だに水滴を吐きだし続けている。小鶴の帰還に気がついた者が手拭を差し出してくれたのだが、正直なところ、拭く間も惜しかった。当主の部屋には火が灯されているらしく、影が不規則に揺らめいている。重苦しい緊張の中心となっているその場所へ、小鶴は少しでも早く向かわねばならなかった。逃げ出した子どもを追い、そして見失ったのだ、と伝えねばならなかった。
 急いでいるとはいえども、主の部屋へと水を滴らせて入るわけにはいかない。それくらいの分別はまだ残っていたために、小鶴は受け取った手拭で水分を吸い取っていく。しかし、あくまでも簡単に、だ。ある程度のところまで拭き終ると、着替える間も惜しんで小鶴は主の部屋の前に立つ。
「……遅くなりました」
 入れ、と答える声は低い。小鶴の声から、何かを感じ取っているのかもしれない。少しずつ闇が広がり始めている空の彼方には、闇をも飲み込まんとする重く黒い雲が広がっているのが見える。その一部だけであったとしても、この屋敷の上に来る未来だけは避けねばならぬ、と小鶴はぼんやりと思った。
 しかしながら、ただの人間である小鶴には天候をどうにかするだけの方法が分かるはずも無く、ただ、漠然とした不安を抱えたままに入室することしかできない。机の傍にはやはり火が灯されていたのだけれど、その光は部屋の四隅まで照らすには弱すぎる。揺れ動くその炎を見ていると例の子どもが浮かんでくるようで、小鶴は忘れかけていた不安が強まるのを感じていた。机に向かって座っていた当主は灯のすぐ近くに居るというのに、角度が悪いのか、表情には影が落ちて小鶴の場所からは伺い辛い。そのこともまた、薄気味悪さに拍車をかけているのかもしれない。
 声を掛けあぐねていた小鶴よりも先に、当主が口を開く。
「あの子どもは、親元へとかえったのか」
 連れ帰ることができなかった小鶴を詰る言葉が飛び出してくるとばかり思っていただけに、反応が少し遅れる。何とか肯定の意を表したものの、それに対する反応は無い。怒っているのか、呆れているのか、それとも諦めているのか。小鶴には目前の男が何を考えているのかが分からなかった。いつから、分からなくなってしまったのだろうか。昔は、何をするにも一緒だった。相手が何を考えているのかなんて、手に取るように分かっていたというのに。
 どうするべきなのかが分からないまま、ただ居心地の悪い沈黙に身を委ねる。遠くの空で身を震わせている雷獣の声と、静かに爆ぜる炎の音と。そこに、随分と聞き慣れてしまった強い雨音が加わる。降り始めてしまったそれに、自然と二人の視線は外へと向けられる。尤も、部屋は閉め切ってしまっているので、薄い壁を隔てたその向こう側を想像することしかできないのだけれど。
「……あの子どもを屋敷に連れ帰ってから、雨が降り続くようになった」
 ぽつり、と当主が漏らしたのはそれだけであったのだけれど、小鶴にはそれだけで十分だった。やはり、あの親子は普通の人間などではなかった。子どもを連れて帰って来てしまうことがなくて、本当に良かった。
「父親が、ずっと探していたようですから」
「あの子どもも、父親を探していたようだった。迷子だったのだ」
 親と逸れてしまった子どもを保護しただけ。初めはそれだけのつもりだった。それが、いつの間にか手放し難くなってしまった。子宝に恵まれず、魔が差してしまった。子どもはずっと泣いてばかりで、決して笑いかけてはくれなかった。せめて、最後に笑顔を見てみたかった、と悔いる。炎に包まれた子どもは、笑っていただろうか。泣いてはいなかっただろうか。雨音の向こう側に揺らめく炎の姿を探そうとした時、ふっと炎が消える。風もなかったというのに、唐突に。
 思わず腰を浮かせた小鶴の前に、影が落ちる。見上げたそこには、男の姿があった。雨を背負い、灯を連れた男の姿が。
「……どうやって」
 小鶴以外の人間にとって、男は見ず知らずの存在であるはずだった。警備を行っている者たちが、大人しく彼を通すわけがない。部屋の外では何が行われたのか、確かめる間もなく男が部屋へと滑り込み、そして外界を断つ。再び、雨音が遠くなる。消えてしまった灯を、男が持ち込んだそれで燈す。
「なに、子が世話になった礼を、と思いまして」
 男の笑顔は薄ら寒く、男によって灯された火もまた怪しげに揺らめいている。小鶴を追って来ていた炎が、縁の糸が、この場所まで辿り着いてきてしまったようだった。
「……あの、子どもは」
「ええ、無事にかえってきましたとも。面倒を見てくださり、ありがとうございます」
「それは、良かった」
 何とかそれだけを口にした当主の前に、小鶴はそっと位置を移す。男は視線だけで動きを追い、何も言わなかった。気にしていないのだろう。人ならざる者である彼にとって、小鶴の行動は何の妨げにもならないのかもしれない。それでも、ほんの気休めであったとしても。小鶴が警戒を解いていないことには気がついているだろうに、雨を背負ってきた男は、不釣合いなほどに温かな灯りの中で気負った様子もなく静かに笑っている。
 口にするべき言葉を見つけることが出来ず、小鶴はこれからどうするべきなのか思考を巡らせる。刀は、手元にある。しかし狭い室内で振り回すことは、守るべき存在を傷付けてしまう可能性をも同時にはらんでいる。少なくとも今は敵意を見せていない男に対し、切りかかることで怒りを向けられてしまうことも避けたかった。小鶴が幽鬼と対峙したのはこれが初めてだった。正直なところ、己の勝つ未来を上手く想像できなかったのだ。
 動くことが出来ずにいる小鶴の目の前で、男の周囲に灯が浮かぶ。それはさながら鬼火のようで、やはり、男が、あの子どもが、人では無かったのだと雄弁に語っていた。刀に手を掛けた小鶴の背後では、息をのむ音がする。ふわり、ふわりと揺らめいていた灯は、やがて人の形を取り――しかし、すぐに弾けて消えた。
「今、のは」
「……あの子にも直接礼をさせよう、と思ったのですが」
 やはり力が足りないようで、と嘆く男に纏わりつくようにして、灯が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。それがいつ屋敷に触れるのか、全てを燃やし尽くしてしまうのか、気が気ではなかった。雨音は相変わらず続いているのだけれど、その中でもきっと、炎は鮮やかに夜を彩るのだと思った。この雨は、男が連れてきたものだ。彼が、子の動きをどうして止めるだろうか、と。
 灯は、子どもは、諦めたのかいつの間にか弾けたまま姿を消している。暫く様子を見ていたらしい男は、やがて、小さく溜息を零すと立ち上がる。夜分にご無礼を、と形ばかりの謝罪をした彼は、来た時のようにするりと退室した。慌ててその背を追った小鶴であったが、叩き付けるような雨の中、ほんの少し前に出たばかりであるはずの男の姿はどこにも見当たらなかった。
 雲が通り過ぎてしまったのか、それとも本当に男が雲を連れてきていたのか、呆然とする小鶴の前で雨は徐々に鳴りを潜める。弱まった水煙の先で、小さく炎が揺らめいた気がした。

 その夜を境にして、雨はぴたりと止んだ。神様の気紛れには困ったものだ、などと商人たちは笑い合っている。その間をすり抜けながら、小鶴は再びあの親子の暮らしていた小屋へ行くことが出来ないか、時間を見つけては歩き回っていた。しかし、記憶を頼りにしても、手当たり次第に試してみても、あの場所へと続く路地は見つけることができずにいる。時折、小鶴を誘うかのように灯りが見えることもあるのだけれど、決して、その光の元へとたどり着けないのだ。
 彼らに弄ばれているのでは、という思いはあった。人ではない彼らに引き付けられすぎている現状に、思考の片隅では警鐘も鳴っている。小鶴はそれでもやめられなかった。ふとした瞬間に思い出すのだ。逃げ帰ったあの夕刻、身体に纏わりついたあの感覚。未だに離れてはくれていない幻の糸を断ち切るためには、もう一度、彼らに会わねばならぬと思った。会って何をするのか、何を話すのか、そんなことは欠片も考えていない。ただ、もう一度あの場所へ行かねばと、それだけだった。
 そんな小鶴の熱意に負けたのだろうか。それは小雨の降り始めた夕刻、逢魔ヶ刻。いつかの夜のように、水煙の先で灯が揺らめいていた。逃がしてなるものか、と小鶴は駆ける。人に、商品に、壁に。行く手を阻もうとするそれら全てとぶつかりながら、それでも懸命に。逃げ出した子どもを追ったあの日の感覚と、全てが重なっていた。走り抜けた先、鼻腔を擽るのは水に濡れた山の香。そして、いくつもの灯を纏った男の姿が目に飛び込んできた。
「もう、会うことはないと思っていたのですが」
 まるで小鶴を待っていたかのように立ちながら、男は笑っている。彼の周囲をふわり、ふわりと漂う灯の数は以前に目にしたものよりも随分と多く、徐々に薄暗くなっていく時間帯でありながらも周囲は明るく照らされていた。
 そのうちのいくつかが男の元を離れ、小鶴の傍へと近付いてくる。問答無用と切り捨てることもできず、ただ立ち尽くすことしかできない小鶴の緊張など知らぬ様子で、灯は手を伸ばせば掴むことが出来てしまいそうな位置にまで近付いてきた。随分と高温であるらしく、それだけの距離がありながらも己の身が焼かれているような感覚がある。眉を寄せ、灯から距離を取ろうとするのだけれども彼らはそれを許してはくれない。一定の距離を保ったまま、小鶴の傍を離れようとはしなかった。暫くの間はそうやって小鶴を弄んでいた癖に、興味が薄れてしまったのか唐突に男の傍へと戻っていく。ようやくほっと息を吐くことのできた小鶴は、己よりも多くの灯を纏ったままの男に問いかける。
「……熱くは」
「熱いに決まっていますとも」
 この子たちの命は炎ですから、などと口にする男の言葉がどれだけ信用するに値するのか、小鶴には分からない。分からないのだけれど、漠然と嘘ではないのだろうな、とは思った。燃え上がった子どもの姿。恋しいのか、男からは決して離れようとはしない子どもたち。
 いつの間にか雨は止んでいて、じわりと重い空気が辺りに停滞している。加えて、小鶴は自身に絡みついたままになってしまっている幻糸が重みを増したような気がした。重みを増し、そして強く締めつける。息が詰まるような空気の中で、小鶴はただ一言を何とか、口から解き放つ。
「申し訳ない、ことを」
 それが、精一杯だった。
 始まりがどうであったのだとしても、男とその子どもを引き離し、閉じ込めてしまおうとしていたのは小鶴の主だった。その主に命じられるままに、小鶴は逃げ出した子どもを追った。どれほどに寂しかったことだろう。どれほどに恐ろしかったことだろう。男の、父親の腕の中で燃え尽きた炎の子どもは、最期に笑っていただろうか。小鶴の心にはそれが強く根を張っていて、ふとした瞬間に広がるのだ。広がり、そして、絡みつき、締め上げて。幽鬼と縁を結んでしまった主への心配も確かにあった。しかし、その裏ではひっそりと、あの子どもが泣き叫んでいた。
 絞り出した言葉に続くものはなく、小鶴は俯いて動くこともできずにいる。相手は幽鬼なのだ。もう手遅れなのかもしれないし、初めから何も始まっていなかったのかもしれない。彼らの考えることなど、ただの人間でしかない小鶴には全く分からないのだ。それでも、小鶴の脳裏に焼き付いて離れてくれないのは子どもの姿であったから。だから、小鶴は解放されたかった。身勝手な話であるとは分かっている。それが自己満足でしかないのだとしても、構わなかった。ただ、強くはびこってしまった後悔の念から、解放されたかったのだ。
 無意識に詰めてしまっていた呼吸の方法をゆっくりと思い出していた小鶴の肌に、熱源が近付いてくる。瞼を下ろしていても分かる、眩しすぎるほどの灯り。顔を上げると、男は先程と変わらぬ位置に立っている。しかし、彼の子どもたちが、数々の灯が、小鶴の周囲へと集まってきていた。このまま彼らに焼き殺されてしまうのか、と奥歯を噛み締める。
「寂しくて恐ろしかった、とあの子は言っていましたが」
 男は、静かに呟いた。
「それでも、かえって来てくれただけで十分でした」
 男の言葉に同意するように、灯は揺らめく。そして次の瞬間には数人の子どもの姿がそこにはあった。泣いていた子どもと瓜二つの彼らは、無表情に小鶴を見上げている。自身を取り巻く彼らに薄気味悪さを感じるものの、腰へ手を伸ばすことは躊躇われた。相手が子どもの姿をしているせいなのか、親の目の前であるからなのか。どちらにせよ、逃げることもできずに小鶴は目を逸らすことが出来ずにいた。
 突然、風が抜けた。いつかの日のように、小鶴の身体のすぐ横を子どもたちが駆け出していく。楽しげに声を上げながら、彼らは小鶴の辿ってきた道を走り抜けていく。その、先には。
 沈もうとする夕陽の眩しさに男は目を細める。
「あれほどの炎からは、どれだけの子どもが生まれるのでしょうね」
 近付いてくる夜の闇。守るべき場所のすぐ傍では、眠らんとする大きな灯りが明々と燃え上がっている。あの子どもたちは、どこへ向かったのだろうか。今は逢魔ヶ刻。人と幽鬼とが交錯する。揺らめく視界のその向こう側で、炎の子どもたちの笑い声が響いていた。
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