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二次log

 ぱちり。
 きっと、音に表すとしたならばそんなところ。何がきっかけで、というわけでもないのだが、不意に浮上してしまった意識が瞼を押し上げてしまったせいで目が覚めてしまった。寝室に時計はなく、さて、今は何時なのかと考える。体内時計は正確でなければならなかった環境下での生活のおかげで、大人になってから時計がなくて困った経験はあまりないが、その「あまりない経験」が今、ひとつ積み重ねられることになった。
「……まあ、いいか」
 人に会う約束も、どこかに行く予定もなかった。疲れ果てて眠りについた己を受け止めてくれた柔らかなベッド。考えなくてもいいでしょう、もう一度身体を預けてごらん、と語りかけてきてくれているような気がしてならない。上がってしまった瞼をそっと下ろしてはみたのだけれど、一度光を感知してしまったせいで眩しさが気になって仕方がない。身体ごと向きを変えてみたり、タオルケットを頭まで被ってみたりと抵抗はしてみたのだけれど、その動きのせいで余計に眠気は遠ざかってしまったような気がしている。
 日本へと到着したのは、八時間前のことだ。すぐに報告へ来いとのお達しであったのでおとなしく従い、これまでのこと、これからのことを擦り合わせて解散したのが五時間前。まだ解約されていないことを信じて転がり込んだのは、かつて生活拠点としていた一室だった。それが、二時間前のこと。――その時点で東の空がどことなく明るかったような気がしたのだけれど、見えなかったふりをした。この間に一度でも時計を目にすることがあれば話は違ったのだろうけれど、残念なことに機会がなかったので時計を合わせ直すことができなかった。出国した時間、到着した時間から逆算すれば正確なところは分かるのだろうけれど、はて、到着したのは何時の便であったか。言われるがまま、流されるままに移動してきた弊害だろうが、なにせ疲れ切っていたので何も考えたくなかった。窓から入ってくる光の様子からまだ「午前中」ではあるような気がしているが、間違っていたところで問題はない。食事を一度抜いたところでダメになるような、柔な身体はしていないので。
 ベッドに居る時点で薄々察していたのだけれど、家には自分一人だけが残されているらしかった。それでも、机の上には二リットルのペットボトルが一本とメモが残されているので放置されたわけではないようだ。起こしてくれたら良かったものを、放置したのは優しさか、それとも悪戯か。封を切りそのまま口元へと運べば、意識していなかっただけで身体は水分を欲していたらしい。三分の一程度を一気に飲んで、ほっと息をつく。周囲を見渡し、そしてポケットへと手を伸ばして舌打ちをひとつ。
「……誰にねだるかなぁ」
 日本へ来る前に、携帯端末は手放してしまった。最低限、必要な連絡先はバックアップを取ってあるのだけれど、それを流し込む受け皿がなければ意味がない。誰に泣きついても助けてもらえる自信はあるが、今後の身の振り方と合わせ、慎重に検討を――するのも面倒なのでひとまずメイン端末の用意はいつもの相手に押し付けることにする。なんなら、既に動いてくれているのかもしれない。目的や相手に合わせたサブ端末だけ、何人かをピックアップしてねだることにしようと決めた。
 ここは、日本で初めて仕事をした時に借りた部屋だった。最低限安心して眠るための場所が確保できたならばそれで良いかと結論付け、同じ結論に至った同期と借りた狭い空間。二年ほどは何だかんだとすれ違いながら共同生活を送っていたものの、海外での活動も増え、そのままなし崩しに出ていくことになってしまった。家賃負担は半々で、とは初めに決めた約束事であったので、部屋を出てからも事あるごとにまとまったお金を相方へと送っていた。数ヶ月分を滞納し、延滞金に追加して数年分をまとめて支払うようなサイクルではあったのだけれど、それでも、部屋が解約されていないということは、不足は補填しながら管理してくれていたのだろう。立場も上がり、そこそこの仕事部屋をいくつか所有しているという話は聞いている。眠るために帰る場所も、食事のために戻る場所も。あの頃とは違い、金に困るような生活ではない。冷蔵庫の中は空っぽで、なんなら、部屋のブレーカー自体が落とされていた空間だ。使うわけでもなく、それでもそのままに残されている、ということは、彼もまたこの小さなワンルームでの生活を気に入っていた、ということだろう。日本へ来る度にまずはここへと帰ってきてしまう自分のために、部屋を残し、そして水と伝言を残すためだけに立ち寄ってくれた彼。案外、優しい男なのだと言って何人が信じてくれるだろうか!
 ――うさぎ。
 ただただシンプルな平仮名三文字を、一体どのような顔をして綴ったのか。想像するだけでもなんだか笑いが込み上げてくる。拠点を変えることの多い仕事であるとはいえ、頻繁に変えるわけではない場所はいくつかある。それは生活拠点であったり職場としてであったりと様々なのだけれど、会いたければこの場所に来い、というメッセージがこれだった。その土地の言葉で、というのは海外を飛び回ってばかりいる自分たちが、今どこにいるのかを認識するための小さな気遣いである。
 直接場所を示しているわけではないし、かといって暗号などではないものだからこうして無造作に残されている。ある意味では暗号であるのかもしれないけれど、その場所に持って行ったものが識別名となっているだけのそれを「暗号」と呼んでも良いものなのか。初めは意思の疎通に手っ取り早いだけであっただけなのに、互いに記憶力を試し合うようになり、今では呼び出される度、新たなキーワードを設定するべく何かしらの手土産を携えるようになった。うさぎは遡ること八年前。お別れの品にとターゲットの娘から押し付けられたぬいぐるみで、誰かしら押し付けられる子持ちの構成員がいるだろう、と睨んでの手土産であったはずだ。場所は、薬剤関係の研究施設だったと記憶している。
 どうせならば次も可愛らしい単語をキーワードに選んでやりたいのだけれど、調達するための金がない。手土産なんて用意する時間はなかった上、日本円に換金しないまま戻ってきてしまったし、カードは報告と同時に巻き上げられてしまったときた。一枚くらいは功労者たるこちらに残しておいてくれたって良いものを、組織に所属する人間として逆らうことができなかったことが悔やまれる。寝泊まりする場所へ戻るために使えと渡されたのは交通ICカードで、残額が減ったならばオートチャージをしてくれるという親切設計。チャージのためのお金は、どうも己の働きによって潤沢となっている口座から回されているような気がするがその辺りは無視しておく。最近はそれを使って買い物をすることができるということも分かっているのだが、なんだか癪だったので、このカードを使っての買い物はやむを得ない場合に限ると決めている。
 さてどうしたものか、と考えたところで目に入るのは大きく机の上で主張をしているペットボトルだ。残念なことに、それが入るようなカバンはこの部屋にはない。備え付けの家電にベッドがひとつ。それがあるだけでも充分であることはよくよく分かっているのだけれど、いくらなんでも二リットルのペットボトルだけを抱えて出勤というのはいかがなものか。着の身着のままで良いという言葉に甘えた自分が悪いのかもしれないが、せめて、このペットボトルを買った時に入れられていたであろう袋だけでもあれば違ったのだろうけれど。手土産を携えて向かう必要も本来ならば無いのだが、なんだかんだと続けてきた「遊び」をたかが「手持ちの金がなかった」なんて理由で途切れさせてしまうのは悔しい。
 空にしてしまうよりは、多少残っている方がまだマシか。いざとなれば、まあ打撃用の武器にもなるだろうし。羞恥心を捩じ伏せて開き直ってしまえば、あとは早かった。相手の用意した品を「手土産」としてしまうことに敗北感はあるが、遊びの中断と天秤にかけてしまえばどちらに傾くかなんて分かりきっている。荒んだ環境にいる自覚はあった。そんな自分たちの、ささやかな遊びだった。この部屋と残されるメッセージはその延長線上にあって、どうにも捨てられないままここまで来てしまったことが、果たして吉と出るか凶と出るか。少なくとも問題が発生しないうちは、このまま続けたいと思っている。だからこそ、彼も続けてくれているのだろう。部屋の管理も、馬鹿らしいキーワードのメモも。

 気に入っている「拠点」であるので、最寄駅とするのは歩いて一時間ほどの場所にある駅である。疲れていると、途中にある駅やバス停へ足を向けたくなってしまうのだけれど、そのせいで捨てなければならなくなった場所のことを思い出しては足を進め続けた自分のことを、誰か褒めてほしい。そうやって「最寄駅」から電車に乗って、そういえば満員電車ってこんな感じだったなぁと半ば潰されながら思い出し、ただ立っているだけであったのに疲れた気がしたのでコーヒーのチェーン店で休憩をすることに。なんとなく「いける」気がしたので、散々注目を集めたペットボトルは空にしてしまって抱えつつ店先で看板を眺めていれば、親切なお姉様が声を掛けてくれたのでお言葉に甘えさせてもらった。お金がなくて、と肩を落とせばアイスラテ。合わせて渡された名刺はありがたくポケットへとしまい込み、適当なゴミ箱へと空いたペットボトルを放り込む。アイスラテのプラカップを片手に施設の中へと入るまでは良かった。そこまでは。
 表から入るにしろ裏から入るにしろ、そう簡単に見つかる場所に探し人がいるとは思っていなかったので、表で最初に出会った知り合いに連れて入ってもらうことに決めていた。だというのに、単純な人事異動であれば良いのだけれども、何か大きな失態でもあったのだろうか。知っている研究員が見事に通らない。侵入できなくもないのだけれど、こちらを知らない人を相手にしていちいち説明をして回ることも、揉め事になることも面倒だ。機密情報もあるので、中に入るためには専用のカードキーが必要だ。が、辛うじて日本にある拠点が年単位で誰も生活していない部屋であるので、基本的に重要な諸々は相方に管理を押し付けている。呼びつける先としてこの場所を選択した以上は必要な一式を合わせて置いておいてくれたならば良いものを、全て任せきりにした意趣返しに違いない。
 そっと口を潤す。手持ち無沙汰になると何やら口に含みたくなるのはどうしてだろうか。受付前のロビーに長く居座っている自覚はあるし、そろそろ、視線が気になってきた。あわよくばここを訪れているネームドの誰かに指示を仰いで、何かしらのアクションがないかと待っていたところはあるのだけれどもそこまでは甘やかしてくれないらしい。いや、面倒ごとが嫌だというだけで、入れないというわけではないことを分かっているからだと思うのだけれど。
 はぁ、とため息を吐き出して気持ちを切り替えようとしたその時、ようやく待ち人がやってきた。出鼻を挫かれたような気もするが、楽に入ることができるにこしたことはないのたから。
「ベル!」
 連れてくる、ということは組織の構成員なのだろう。三人の男を引き連れて正面から入ってきたのは、過去に何度も世話になったことのあるベルモット。女優としての顔も持つ彼女は、組織に関係のある施設へ足を運ぶ場合に変装をしていることも多い。今回もその例には漏れず、ブラウンの髪を纏めたキャリアウーマンにしか見えない。それでも彼女が彼女だと分かるのは、何とも説明し難いのだが「長年の付き合い故の直感」であるとしか言いようがない。
 未だ多くカップに残っているアイスラテをこぼさないよう気をつけつつ、ようやく訪れた知り合いへと駆け寄った。途端に頬を摘まれたことは、甘んじて受け入れる。喜びのあまり、変装している彼女を「ベルモット」であると大声で断じてしまったので。
「きゃんきゃん吼えるお口はこれかしら?」
「変装したってその素晴らしさが溢れ出ているということでここはひとつうううああいたい」
 いくら組織の関係施設であり、この場にいるのが大なり小なり組織のことを知る人間ばかりであるとはいえ、あまり人目につく場所で騒ぐことは得策ではない。頬を摘まれたまま関係者エリアへと連れ込まれ、捻りながら解放されつつ問われた言葉に素直に答えたというのに、お気に召さなかったようで再び摘み上げられた。後ろに付き従っている男たちからの視線が痛い。
 摘みながらでは歩きにくいから、という理由で解放された頬をさすりつつ、改めて見知らぬ三人組の容貌を確認する。彼女が連れてきたということは、今後、どこかで一緒に仕事をする場面があるかもしれない。
「あなた、イタリアにいたんじゃなかったかしら?」
「昨日? 今朝? 帰ってきたんだ。しばらくはこっちで過ごすつもり」
「……ああ、それで」
「何が?」
「またいいのを見繕うように、とボスに言われたのよ」
 ヘマをするだなんて珍しい、との言葉に他意はなく、純粋な驚きであることが少しむず痒い。その美貌から男を手玉に取る彼女直々に教え込まれた手腕を以てして、良い金蔓から巻き上げられるだけ巻き上げて組織へと納めることが主な仕事となっている自分にとって、彼女が純粋に驚いていることはそれほどまでに自分を認めてくれている証左に違いないので。
 ヘマ、と一括りにされてしまうことに思うところがないわけではないが、大きく見れば「イタリアの財布」を切り捨てる結果となった原因が己にあることに変わりはない。それでも、ほんの少しの悪足掻きを試みる。
「ヘマっていうか、ベル仕込みのあれやこれやのおかげで、皆がのめり込んでくれた結果なんだけど」
「引き際を見誤ったあなたの落ち度ね」
「あー、それを言われてしまうと反論できない」
 イタリアの財布、ことマフィア構成員の皆々様。彼の地で「マフィア」とは古い歴史を持つ組織であり、流石にその大元とは互いの領分を犯さないようにすることで全面的な争いを避ける方向で動いてはいた。それでも起こってしまう末端同士の小競り合いやら、獲物の奪い合いやらは黙認されてきた部分もあったのだ。そこに目をつけ、いくつかの枝葉グループにコンタクトを取り、取り入って、金を巻き上げるまでは上手くいったのだ。上手く行ったのだけれど、上手く行きすぎた結果として彼らが親元へと納めるべき金や武器にまで手をつけ始めたものだから、流石に目溢しはできない、と叱られてしまったので切り捨てなければならなくなってしまった。ほとぼりが冷めるまでは入国も避けた方が無難であるだろうし、あの国の風土や人々との生活が肌に合っていただけに、残念でならない。
 ということを徒然と、半ば愚痴混じりにぶち撒けていると、そもそも発端となるコンタクトの時点では見逃されていたのか、と後ろから声が上がる。誰の声だったのかは分からなかったけれど、くるりと振り返る。
「声を掛けたの、全部うちの組織だったり、他の組織だったりとよくいざこざを起こすグループばっかりでさ」
「そこだけが破綻する程度であれば、あちらとしても厄介な奴らを切り捨てられてよかった、と」
「素直に破綻してくれたら良いものを、親の金にまで手をつけ出しちゃったから流石になぁ」
 巻き添えで叱られた上に財布を失い、国外に追い出されるなんて踏んだり蹴ったりな結末となってしまった。幸いなことに今回の「親」たるドンナは寛容で、「バカをやらかす輩が増えてきたらまた巻き上げにおいで」と言いながら日本行きの飛行機を用意してくれたので、お言葉に甘えるつもりではいる。ただ、今回の一件で引き締めは行なわれただろうし、果たしていつになることやら。
 そんなこんなで財布をひとつ失うことになってしまったので、次はベルモットが持つ女優としての繋がりから新たなる財布候補が選ばれるらしい。決まるまでは僅かな休息期間といったところか。楽しく遊び、時には気持ち良いことも嗜みながら生活をしているだけであるようなものなのだけれど、今回は敵陣での単独行動であったことが、ほんの少しの優しさの理由であるのかもしれない。
 親の金はなぁ、とどこかズレた相槌を打ってくれた一人にほっこりと心温まったところで、ある会議室へと入る後ろ姿を見た。こんな仕事をしているくせに、腹が立つほど美しい髪をしている男。今回、この場所へ到達するまでに無駄な時間を食うこととなった元凶である。
 知り合いの通過を待っている間に決めた「一発入れる」を実現するために駆け出した結果については――まあ、主戦場が異なる時点で察してほしい。
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