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槻倉荘

 ぱしゃ、という音は少女にとって忘れられない音だった。幼い頃に参加した夏祭り、すくい上げた真っ赤な金魚。揺らめくその様子を眺めるために近付いただけで、驚いたのか、或いは喜んでくれたのか、水面を揺らして音を立てていた。フレームによって風景を切り取る音は、一週間だけ共に暮らした「彼女」の音によく似ていた。
 趣味を問われたならば迷わずに写真撮影だと答える少女、仁科和泉が高校で所属するのは写真部である。とはいえ、活動内容としては新聞部とした方が近いのかもしれない。廃部の危機にある新聞部。そこに籍を置く二人の学生は、新聞部と写真部とを兼部している。写真部は写真部で人数が少なく、写真部だけでどこかに場所を借りて作品の展示会を行うということも難しかった。両部の利害を考えた結果として、新聞部の紙面で作品を公開するようになって随分と経つ。元より写真撮影が好きな人間が集まっていた写真部だ。イベントの度に新聞部として腕章を付け、楽しそうな風景を切り取ることになっていたとしても決して苦にはならなかった。
 それでもやはり、自分たちが名乗るべきは「写真部」である、という思いはあった。いずれは写真部としての展示会を行いたい、という思いから少しずつ行われていた貯金の額が必要なだけに達したのが夏休み明けの頃。和泉が写真部に入部して初めての展示会は、十二月二十四日と二十五日に開催されることが決定した。今後の活動資金に充てるための募金箱も設置する予定で、楽しいイベントの日に重ねておけば気の緩んだ来場者が財布の紐も緩めてくれるのではないか、という打算もある。そんな大切な展示会で披露するための写真を、和泉は撮影することができずにいた。
 夏祭り、秋祭りと、ベストショットを撮ることのできそうな地元のイベントには欠かさず足を運んでいる。何枚か、その場では「これだ」と思える写真もあった。しかし、時間が経ってしまうと、現像してしまうと駄目なのだ。美味しそうに綿菓子を頬張る小さな子、手を繋いでいる浴衣姿のカップル、神輿の躍動感。現実から切り取られた瞬間に、色褪せてしまった。一体、何が駄目なのか。和泉は、スランプと呼ばれるものに陥っていた。どうしたら良いのかも分からないまま、和泉は暇さえあればカメラを片手に出かける日々を送っている。
 和泉の暮らす町の周辺は、祭りの盛んな地域だった。大小様々な神社がそれぞれに秋祭りを開催し、人が動く。全国的に見てもかなり珍しい部類に入ると思う。毎週のように各地で祭りの行われる月もあり、切り取りがいのあるシャッターチャンスの数だけを見ればかなりのものであっただろう。どうしても納得のいくものが撮れなかった和泉は、その日も単身でとある秋祭りに足を運んでいた。和泉の住む場所からは、電車で四十分ほどかかる場所にあるその町では、昔ながらの祭りの形が未だに残っているらしい。少子高齢化に苦しみながらも、太鼓を叩くのは男児の役割、神輿の担ぎ手も、また。母親の実家があり、祖父母が暮らすこの町には、幼い頃は何度か訪れていた。しかし、学年が上がるにつれ、特に中学校へ入学してからは、部活動や勉強に割くべき時間ばかりが増えてしまい足が遠のいていた。
 写真を撮らせてほしい、という話は事前に伝えてあった。すると「撮影した写真のうちの何枚かを使わせてほしい」という条件のもとで許可が出され、腕章まで渡されることとなった。祖父母が暮らしているとはいえ、和泉は町を詳しくは知らない部外者に近い。それなのに「広報」とアピールするものをつけることに違和感はあったが、これもまた滅多にない経験だろうと割り切ることにした。
「あ、写真撮ってもいいですか」
「おう。格好よく撮ってくれよ」
 声を掛けながら、人混みの中を歩いていく。午前中に町中を練り歩いた神輿は、神社の境内へと入った。お昼休憩も兼ねた今の時間は、祭りの中でも特に人の多い時間帯だ。手早く昼食を済ませた和泉は、屋台の間を回りながらシャッターを切る。祭りに合わせて帰省する人、親戚の元を訪れる人も多いらしく、少なくとも普段の二倍は人がいるらしい。そこかしこで再会を喜ぶ声も聞こえ、温かな町だ、というのが和泉の印象だ。
 不意に、どこか懐かしい水の匂いがする。プールの近くへ来たような、もうすぐ雨が降るような、明確な判断はできないけれども懐かしい。過去のどこかで嗅ぎ慣れた匂いが、ふわりと鼻腔を擽った。見上げても怪しい雲はなかったが、見渡した視界に飛び込んでくる「金魚すくい」の文字。近くには「スーパーボールすくい」や「ヨーヨーつり」の文字もあり、どうやら水を扱った屋台の密集地へと足を踏み入れていたらしかった。
「お嬢ちゃん、一回くらいやって行かないか」
「スーパーボールなんて喜ぶ年齢じゃないもんな。うちはどうだい」
 足を止めた和泉に気が付いた店主たちが、こぞって声を掛けてくる。折角だから、と向き合うのは金魚すくいの屋台前。和泉が祭りに参加する度、一度は必ず投資する場所である。今回もその例には漏れない。カメラが濡れてしまわないよう気を付けながら腰をおろし、獲物を探る。
 赤、金、白、黒。色とりどりの鱗が光り、合間を悠々と泳ぐ出目金がやけに目を引く。どの子を狙おうか、と目を走らせる中で惹きつけられた一匹がいた。基本色は赤。口紅のように、口元だけが白色をした小柄な子。記憶の合間を自由気ままに泳いでいる「彼女」に、とてもよく似ている。
 狙いが定まればあとは早かった。伊達に、何度も繰り返し遊んできたわけではない。どのようにすれば掬い上げることができるのか、過去の成功と失敗から和泉は多くのことを学んでいる。狙っていた金魚のみならず、その他にも数匹を掬い上げた。
「お、うまいじゃないか」
「祭りのたびに遊んでますからね」
 お世辞でも、褒められて喜ばないわけがない。いい気になって手を動かしているうちに、紙が破れてゲームは終了。一匹だけを袋に入れてもらった。勿論、それは初めに狙いを定めた子。記憶の中の「彼女」によく似た外見をした子である。境界が分からないのか、袋の中で何度も壁にぶつかっている様子もまた、そっくりだ。
 ここまで歩きながら写真を撮り続けてきて疲れていたこと、金魚すくいによって集中力が切れてしまったことから、和泉は本格的に休憩を挟むことに決める。様々な祭りに参加してきた和泉が見つけ出した共通の休憩場所は、本殿の裏である。場合によってはそこも活用されていることだってあったけれど、大抵は人気の少ない、むしろ人の来ない静かな空間となっていた。座り心地のよさそうな石、というか岩を発見したので腰を下ろさせてもらう。人目につくことが少ないからか、神社の本殿裏は少しばかり雑多な印象を受けることが多い。喧騒から少し離れるだけで、気持ちが落ち着く。神社という場所の特殊性が、その思いに拍車をかけているのかもしれない。
 金魚の袋を手首に引っ掛け、揺らさないように、水を零さないようにと気を遣いながら撮った写真を確認し、ぶれてしまっているものだけを削除する。この場で見て納得しなかったとしても、帰ってから確認したら違うかもしれない。ぶれてしまっていない限り、どんなものでも残しておく。それが和泉のスタイルだった。
 いくつかの写真を削除する和泉の視界には、赤い色が時折ちらつく。私を見て、とでも言うように元気に泳ぎ回っている金魚の姿は、見れば見るほどに記憶の中の彼女の姿と似通っている。初めてすくった金魚だったから、より鮮明に覚えているのだろうか。顔の前にまで袋を持ち上げ、つん、と指先で突く。本殿の奥に広がっている緑が水越しにぼやけ、揺らめいている。それを背景にして泳ぐ赤色は色鮮やかで、じわりと愛おしさが増してきた。
 金魚すくいですくった金魚を持ち帰ったのは最初の一回だけで、あとは育てることができないからと店に返していた。本当は一匹目の子が暮らしていた金魚鉢があったのだけれど、どうしてもそこに新しい子を住まわせる気にはなれなかったのだ。今回、久しぶりに連れて帰ろうと思ってしまったのは、この子が記憶の中の彼女とぴったり重なってしまったせいだ。偶然なのか、その最初の一回というのもまた、この神社のお祭りだった。その後はタイミングが合わず、祭りに参加することがなくなってしまっていた。だから、和泉がこのお祭りで金魚すくいをするのはこれが二回目となる。
「んー、お前の名前はどうしようか」
 返答が無いと分かってはいるものの、問いかけずにはいられなかった。初めの彼女に付けた名は、安直にも「アカ」だった。けれど、いくら似ているからといって同じ名前をつけることほど酷い所業もないだろう。袋越しに指を少し押し込んだ状態で止めていると、つんつんと口先で突いてくれる感覚がどこかくすぐったい。
「アキ、でいいかな」
 秋祭りで出会ったからというものが一番大きな理由だが、和泉の中では秋のイメージカラーが赤色だった。きっと、紅葉の印象が強いのだ。ストレートに「モミジ」としなかったのは、二文字の名前の方が呼びやすいということ、頭の中にはアカの姿がちらついていたことが大きいだろう。アキ、と呼びかけてやると、呼ばれたことを理解したわけでもないだろうにタイミングよく指先に触れてくれた。
 写真の一時的な取捨選択は終わったし、休憩もできた。アキに名前を付けてやることも出来た。そろそろ戻ろうか、と考えた和泉の前を、赤色が横切った。手元に居るアキよりもずっと大きな、しかしそれは、優雅に揺らめくヒレだったと断言できる。
「え?」
 視界の端で消えたその先に慌てて目を向けるものの、そこにはどこか寂しそうな影がある本殿裏の自然が広がるばかり。薄暗いそこに、赤色の入る余地などどこにもない。戸惑う和泉の視界の端に、再び赤色が。そこからは無意識だった。そちらへとカメラを構え、シャッターを。ぱしゃり、と聞き慣れた音――水音のようなそれを響かせてほんの一瞬を切り取る。和泉が改めてその場所を確認した時には、やはり薄暗い緑だけが広がっていた。急な動きのせいで、手首に引っ掛けているだけだった袋の水もまた、ぱしゃりと跳ねる。大きく揺れたそのなかで、アキだけが素知らぬ顔で泳ぎ回っていた。
「今の、は」
 見間違え、ではなかったはずだ。あれは、大きなヒレだった。この場所がまるで水中であるかのように、悠々と泳いでいた。震えそうになる手で、先ほど撮った写真を表示する。薄暗い緑色、そして、赤色が。
「金魚……?」
 そう。それは確かに金魚だった。和泉の知っている金魚よりも随分と大きいようだけれど、その大きさにさえ目を瞑ってしまえばそれは確かに金魚だった。丸みを帯びたフォルムに、揺らめくヒレ。写真の中にははっきりと映っているその存在は、どうしてだか実際の風景にいくら目を凝らしても見つけることができなかった。
 現実味のない現象に、和泉の手は震えそうになる。しかし、不思議と「恐い」とは思わなかった。それは目に見えない存在が見慣れた姿をしているからかもしれない。正に、和泉の手首で揺れている姿のような。ちらりとそちらに目をやると、外の世界のことなど知ったことではないとばかりに相も変わらず漂っているアキの姿がある。それを見ていると、自然と心は落ち着いた。時折、視界の端を赤色が通り過ぎていくのだけれど、初めほど驚かされることもない。巨大な金魚のような生物がどこにいるのかは分からないけれど、和泉はできる限りこの場の全体が写るようにカメラを構える。そして、ぱしゃり。ここだと思った場所で撮影してすぐに確認してみると、端の方に少しだけヒレが写り込んでいた。
 カメラを連写モードに切り替えながら、和泉は瞼をおろし想像してみる。本殿の裏は木々が多く、陰になっているせいかどこか空気がひんやりとしている。和泉には目視できないけれど、どうやら金魚のようなものがその辺りを泳いでいるらしい。つまりこの場所は、その金魚にとっては水の中、ということになる。
 耳元で、ごぽり、という音がした気がした。
 そっと瞼を上げる。そこは確かに先程と変わらない場所のはずだった。けれど、ただ薄暗いだけだった空間が、時折、きらきらと輝いている。向こうの方が、揺らめいているようにも見える。こぽこぽという音が、耳の奥で響いている。身体を撫でる風の冷たさは、そう、まるで水の中にいるような。先ほどまでは見ることのできなかったあの巨大生物も含めた「何か」が、そこかしこを泳いでいる。そんなイメージが目前の風景に重なる。
 和泉は、そっとカメラを構えた。こちらを気にも留めずに「泳い」でいる多種多様な生き物たちを閉じ込めていく。先ほどから和泉の前を横切っている、大きな赤い金魚。水草の間を泳いでいる、長い触角を持ったヘビのような魚。小さくカラフルなクリオネのような生物が飛ぶように泳いでいる中を、和泉はゆっくりと進んでいく。驚かさないように、慎重に。見たこともない世界は色鮮やかで、一瞬たりとも見逃すことがないよう、撮り逃すことがないよう、神経を集中させていた。と、カメラの向きを変えたところで。
「わっ」
 和泉の顔の真横、向けたカメラの先端が触れそうなほど近くに、あの、赤くて大きな金魚がいた。驚いて声を上げてしまったうえ、足がもつれて転んでしまう。カメラをどこかにぶつけてしまわないようにと庇った結果、尻餅をつくことになってしまい痛みがジンジンと背筋を駆けあがっていく。鮮やかに彩られていた世界は、和泉の声に弾け飛んでしまった。けれど、赤色が一つだけ、和泉の目の前に留まっている。
 和泉のカメラに向かって進んできているようだったその金魚は、カメラよりも少し下に興味を示した。そこにあるのは、アキを閉じ込めた水袋。和泉が倒れ込んだせいで大きく揺られてしまってはいるけれど、水がそれほど零れることはなく、アキもまた、ゆったりと泳ぎ続けている。巨大な金魚が水袋をとんと突き、アキもまた、押し込まれてきたその口先をちょんと突く。その場所から目を逸らさないようにしながら、和泉はカメラを片手に持ち替え、レンズを二匹に向ける。距離が近すぎるだとか、ピントを合わせなければだとか、そんなことは考えられなかった。ただ、彼らを邪魔しないようにそっと、その場所を残しておきたいと思ったのだ。
 ぱしゃり、と。
 シャッターの音だったのか、本当に水の音だったのか。その音が響くと同時に鮮やかな赤色もまた、掻き消える。最後に指先に何かが触れたような感覚だけがして。後に残ったのは、中途半端な位置で両腕を上げたまま尻餅をついている和泉の姿だけであった。慌ててカメラのデータを確認する。何の変哲もない、薄暗い本殿裏の自然ばかりが写しとられている中で、赤色の金魚だけがその姿を留めていた。もっとも、それはフレームの片隅にひらりと揺れる尾ひればかりであったのだけれど。それでも、最後の最後に捉えた一枚だけは、しっかりと二匹の姿を写していた。大きな赤色と、小さな赤色。その邂逅。
 耳の奥で、水の跳ねる音がする。
「……アカ?」
 何となく、そんな気がした。あの赤色は、もしかしたらあの夏の。同意するようにまた、どこかで水の跳ねたような音がする。不意に記憶が蘇る。そういえば、あの子は和泉が戯れに浸けた指先に口付けることの好きな子だった。先ほど最後に触れたのは、あの子の口先だったのだ。そう考えると僅かに感覚の残る指先がとにかく大切なものであるように思え、消えてしまわぬようにと自然に握りしめてしまっていた。今さらになって、腕が、いや、身体が震えてくる。あれは、一体なんだったのか。
 瞼を下ろして未だに続く水音に耳を傾けていると、どこか遠くからどぉんという音が響いてくる。徐々に大きくなるその音に隠れ、水音はいつの間にか遠ざかっていた。寂しさを感じながらも瞼を上げ、音の出処を探る。
「そう、今日は祭りの」
 秋祭りの写真を撮りに来たのだった。神輿が神社へと入り、昼休憩も兼ねた練り歩きの小休止。空気を震わせ、地を揺らす響きの正体は。
「やばい、もう出発しちゃう」
 慌てて立ち上がり、服に着いてしまっている土を払い落す。本殿の横を通り抜ける時、視界の端では懐かしいあの赤色が揺れていた。それは、和泉がこの神社のお祭りですくい上げた初めての金魚だった。ずっとこの場所で和泉を待っていたのかもしれないし、ずっと和泉の傍に居てくれた存在が偶然、姿を見せてくれたのかもしれない。詳しいことは分からないけれど、ただ、あの赤色が記憶の中を泳ぎ回っている「彼女」であることは間違いなかった。一時の奇跡に別れを告げ、和泉は人混みをかき分け進む。その背を彼女が、アカが付いてきてくれているような気がした。
 飛び出した先は、今にも出発しようとしている神輿の傍。カメラを構えた時に、ふと浮かんだ構図があった。
 手首に下げた金魚の水袋。目の高さにまで掲げ、その向こうに神輿が入るように片手で無理矢理にカメラを構える。ピントは、手元に合わせて。そうして。

 展示会の日、完成した作品を見て和泉は笑う。和泉の思惑通り、水袋の中に居る金魚越しに神輿が写る。そしてその手前側、ピントを合わせた金魚よりももっと近くに、ぼやけてしまった金魚のヒレが写り込んでいた。それを見た他の人たちは、もう一つ金魚の入った水袋があったのだ、と考えてくれたようだったけれど、そうではないのだということを和泉は知っている。
 今日もまた、どこか遠くで響いた水音が耳に届く。
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