このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

ばけものこいがたり

 彼女がいつからそこに居たのか。はっきりと答えることのできる人間は誰もおらず、そもそも彼女自身ですらそれを分かっているのかどうか。暗がりの中、ぽつんとそこに立っていた彼女を見つけ出した優奈だけが、ぼんやりとした答えを掴んでいたのかもしれなかった。ただ、当時のまだ幼かった優奈にとって、それを言語化することは非常に難しかった。彼女という存在があいまいで揺らいでいたのは、きっとそれが原因だろう。
 有里家、と言うと「ああ、神社の」と返ってくる。優奈が生まれた家は、町は、そんなところである。ずっと昔、この街周辺で悪さばかりをしていた「悪いやつ」をやっつけたのが、お父さんのお父さんのそのまたずっと前のお父さん。そいつがもう二度と悪さをしないように見張っていることがこの神社のお仕事なんだよ、と。
 幼い子どもでも分かるように噛み砕かれたその英雄譚は、ヒーローというものに憧れる兄たちの心に強く響いたらしい。
「わるいやつがきても、おにいちゃんがまもってあげる!」
 兄たちのその言葉を、何度聞いたことだろう。
 わるいやつ、或いは、こわいやつ。漠然としたそれを敵であると見做し、妹を、ヒロインを守るヒーローになる。
 いくつかある将来の夢のうちの一つとして長らく掲げられていたそれは、いつの間にか口にされなくなっていた。ただそれは成長したことによって口に出すことを恥ずかしがるようになっただけに過ぎず、彼らの心の中には相変わらず、ヒーローになるのだ、という思いが隠されていたらしかった。
 みいな、という彼女。優奈にとっては大切で仲の良い友人であったのだけれど、兄たちにとってはただの人形でしかなかったようだ。というのも、以前であれば優奈が外遊びを断ってままごとをねだったとしても、しかたがないなぁ、と許してくれていたのに、みいなを抱えているだけでも嫌な顔をするようになってしまった。ああ、つまりはただの人形ではなく、不思議な、いやな人形であったのだろう。もしかすると、わるい、であったのかもしれない。
 確かに、彼女は不思議な存在だった。織戸おりと神社はその創建に化物退治が関わっているからか、気がつけば曰く付きのものが集まるようになっていた。境内にはそういった品々を置いておくための蔵があって、当然、自由に入ることはできないよう扉に鍵が掛けられている――のだけれど、この神社で生まれた三兄妹にはそれも意味のないことだった。文字通り、怪我の功名というやつである。
 自由に遊んでいていいけれど、神社の外に出ては駄目。そんな制約の中で遊びまわっていたある日、探検と称して潜り込んだ蔵の床下で不用意に立ち上がってしまったことがある。次兄の名誉のために言っておくが、それは偶然に通りかかった野良猫に驚いたからであって、普段であればそのようなことはしない。
 理由はともかく頭上に、つまりは床板に相当な勢いで衝撃を与えたことは事実である。それによってその部分の床板が外れてしまったことも。怒られることが嫌で誰も口にはしなかったが、お陰で三人は新たなる探索場所を手に入れたというわけだ。
 掛け軸、刀、扇に茶器。多種多様なものがそれなりに整理されて保管されていたその場所で、最も多く目にしたのはやはり人形だった。人の形をした、最も身近な人ならざるもの。得体の知れない恐怖を抱く人間は多かったらしい。
 単に外で走り回っている方が好きだったからか、それとも何かを感じ取ったのか。以降、あまり蔵へは近付かなくなった兄たちを置いて、優奈は一人で潜り込むことが多かった。何をするわけでもない。ただ、そこにぼんやりと座っていることが好きだった。
 壁の向こう側には、人の気配がある。話し声、足音、ざわめきが薄らと届く。しかし、随分と遠い。切り離された空間の中でそれを聞きながら、そこに眠っている物語に思いを馳せる。
 あの掛け軸は、お姫様の持っていたものだ。
 あの刀は、お姫様に恋をしたお侍さんのものだ。
 あの扇は、あの茶器は。
 眠っている彼らがどういった存在であるのか、どういった経緯でこの場所で眠ることとなったのか、優奈には分からない。それでも、彼らが誰かの隣に在ったものであり、それが一緒にいられなくなってしまったらしいということだけは薄々と分かっていた。ああ、かわいそうだなぁと。
 もっと一緒に遊びたかったよね、と問いかける。口には出さない。この場所は皆の眠る場所なのだから、余計な音は不要である。それくらい、優奈にも分かっている。
 あまり遅くなりすぎては、兄たちが探しに来てしまう。残念だけれど、優奈が穏やかな空間を守るためにはある程度の時間で戻らなければならなかった。明日も遊ぼうね、と小さく手を振ってから床下へ向かおうとした時に、かたり、と。
 下ろそうとしていた足を止める。潜り込んでいることがバレてしまったのかと、いっそう息をつめて動きを止める。何があったのか。音の出所を探そうと目線のみを動かし、そして、目があった。
 柔らかく滑らかな肌、艶やかな黒髪に、どこか濡れた黒い瞳。僅かに入り込む光の加減か茶にも見えるその「黒」に、優奈の目は奪われる。
 見たことのない人形だった。ここに居るどの人形とも異なっていて、それでいて、どの人形とも似ているようだった。濡れた目が、必死に何かを伝えようとしている。
「……いっしょに、あそぶ?」
 そろり、と近付いてみる。相手は人形だ。噛みつきはしないと分かっている。それでも音を立てないように、驚かせないように。振動が伝わってしまったのだろう。再び、かたり、と。それがまるで問いかけに対する答えのようで、思わず人形を、彼女を抱き上げてしまう。肌は柔らかく、髪は艶やかで、瞳は薄らと水を湛えているようで。
 みいな、という音がふわりと届く。ゆうなとみいな。そっくりなお名前だ、と笑えばどこからか笑い声が届く。くすくす、くすくす。どうやら起きてしまったらしい。皆の眠っている場所で、優奈が声を出してしまったから。慌てて立ち上がり、しぃ、と人差し指を立てて口元へ。まだ眠っているものだってあるのだから、うるさくしては怒られてしまう。
 みいなを抱えたまま床下へ戻ることには苦労した。それでも、手放そうとは思えなかった。だって、みいなは答えたのだ。一緒に遊ぼう、という優奈の声に。穏やかな眠りを振り切って、外へ出ることを願った友達。優奈にはそれだけで十分だった。
3/4ページ
スキ