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二次log

 さぁっと風が吹き抜ける。枝がしなり、擦れ合い、微かな音を立てる。堪えることのできなかった花弁が舞い、一瞬、視界が遮られる。思わず瞼を下ろしてしまった男の見上げたその場所には――穏やかに微笑む麗人の姿があった。

 映画の予告編として各地の劇場でそれが公開され始めると、瞬く間に大きな反響を呼んだ。映画のモチーフとなっている花の開花に合わせ、公開は四月の第一週目。大御所と呼ばれる役者、期待の新人として注目され始めている役者の名が連ねられる中、人々が心奪われたのは「桜の精」であった。
 逆光であるために、顔は見えない。髪の長さからは女のようにも見えるが、しかし、身体つきは和装であることもあってどちらとも取れる。無言のまま、柔らかに弧を描く口元だけが映されていて、それなのに、肝心の役者が誰であるのかは未公開。
 憶測が憶測を呼び、公開前の映画でありながら、人気の役者が揃っている中、人々の心を奪ったのは謎多き「桜の精」だったのである。
 とまあ世間で話題沸騰中の存在ではあるのだが、一部の人間にとっては詐欺だと叫びたくなるような事実がそこには転がっていた。その筆頭たる真白友也は、件の予告編を見てしまったが故に楽しみにしていたアクション映画の内容が半分も頭に入っては来なかった。そのために直談判をしたほどである。そう、その一部の人間にとって、問題の「桜の精」は非常に身近な存在だったのだ。
「枯れ木に花を咲かせましょう! 咲いた花には色を付けましょう! 貴方のお好みは何色でしょうか。赤色、青色、緑に金色。お望みであれば虹色の花をお届けします。さあさあ遠慮なく、欲望のままに叫んでください。この日々樹渉が貴方の願いを叶えましょう!」
 ああ、あの麗人はどこへ行ってしまったのか。同じ構図でありながら、口を開いてしまえば騒々しさばかりが目立つ。真白の隣に立つ北斗もまた、同じ感想を抱いたのだろう。二人の溜息が重なってしまった。
 世間では謎の役者として憶測ばかりの飛び交う「桜の精」であるが、何を隠そう、日々樹渉、というのが件の役者の名前である。段階を踏んで少しずつ情報を出していく、という手法で観客を焦らしていくことが目的であったらしいのだが、謎の存在「桜の精」が思いがけず大きな反響を得たために、映画の公開までは誰が演じているのかを隠してしまおうという方針になったらしかった。
 お花見をしましょう、と強引に北斗と真白が呼び出されたのは、お花見スポットとして人気のある公園の一角だった。時刻は午前7時。場所が場所なだけに、何人かは場所取りのためブルーシートを敷いて寝転がっているのだけれど、それでも一般の人間が活動を開始するには少々早い時間帯である。もう少し声を抑えてくれ、という北斗の切実なる願いが真っ先に届けられたのも当然のことであった。
 本日の衣装は、どこかギリシア神話を思わせるもの。まだ寒さの残る四月頭の朝方に、そのような薄着で大丈夫なのかと心配になってしまうのだが、それでも彼は朗らかに笑うのだろう。他者を楽しませるためならば自分など二の次にしてしまえる在り方は、尊敬の対象であると同時にどこか庇護欲を掻き立てられる。自分たちにはそこまで取り繕わなくとも、と思っているのだが長年をかけて染みついてしまったエンターテイナー根性は、そう簡単には拭いきれないらしい。
 とにかく、そのような洋装ではあるものの、その他は問題の予告カットさながらに決めてくれているものだから、見上げている北斗と真白の方が慌ててしまう。今はまだ人が少ないものの、このご時世、いとも簡単に情報は出回ってしまう。誰かに見つかってしまうと、そこから「桜の精」と日々樹渉を結び付けられてしまうと、何のためにスタッフたちが情報を伏せているのかが分からなくなってしまう。それが日々樹の落ち度ともなれば、などと後輩たちが様々なことを考えているというのに、当の本人は楽しげに口上を続けるばかりなのだから救いようがない。先の北斗の願い故か、辛うじて下の二人に届く程度の声量へと抑えられたことだけが救いだろうか。
「おやおや二人して黙り込んでしまって、どうしたんです? 私の美しさに言葉を失ってしまいましたか。今回の衣装のモチーフはアフロディテではなくニンフのつもりなのですが……まあ、良いでしょう。モチーフにどのような名を付けるかなんて、それを見た人の想像力に委ねられているのですから。さあどうぞ。存分に魅了され、そして惑わされてください」
 ぱちん、と日々樹が指を鳴らすと、どのような仕組みになっているのやら二人の目の前に落ちてくる薔薇。そのような品種なのか、それとも彼が自ら手を加えたのか、外側から内側へ、赤色から白色へのグラデーションが美しい。
 どうぞ、の言葉の通り、北斗と真白に観賞の時間を与えてくれているのだろう。黙って静かに微笑んでいる姿は、確かに麗しい「桜の精」そのものだった。桜の白色に近い花弁の色と、彼の持つ白銀の髪のたなびく様は、朝日の中で美しく輝いているかのようである。とはいえ。
「部長、いい加減に下りてきてくださいよ。俺たち、お花見に来たんです。部長の観賞をしに来たわけじゃないんで」
 わざと冷たく言い放ってからてきぱきと準備を進めていくと、音もなく、日々樹は木から下りてくる。どことなく嬉しそうな様子からは、彼にとってはこうしたお花見も初めての経験であるような気がしてならない。そわそわとしているその姿には謎めいた「桜の精」としての片鱗なんてどこにもなくて、どこにでもいるような、ただの人間らしさしか見受けられなかった。
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