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やほよろづ

 遠くから雷の音がしたような気がして、女郎はゆっくりと瞼を上げた。ここ数日、微熱と身体の怠さが続いている。原因は分かりきっているので、慌てることもない。ただ、少しだけではあるが憂鬱であった。ああ、また、と。
 女郎は、いわゆる「ジョロウグモ」と呼ばれる存在である。女郎蜘蛛から転じ「絡新婦」とも記述されるその妖怪は、漢字に現れている通り女体を取るものが多い。女郎自身を除いて男体を目にしたことはなく、故に群れを離れた。明確な言葉をぶつけられたことこそ無いものの、明らかに異なる姿形をした女郎にとって居心地の良い場ではなかったのだ。
 基本的に女体しか現れぬ種族に誕生した奇形であったためか、女郎は子を産むことができた。産む、という表現が正しいのかは分からない。孕むわけではない。ただ、子が自然とそこに「在る」瞬間がやってくる。同居人たる面々がその絡繰りを解き明かさんと、決して目を逸らさぬよう注視していたこともあったが詳細は依然分からぬまま。瞬きの間に、寄り添い立っていたのだという。
 女郎蜘蛛、という種は幼体と成体とでその性質が異なっている。成体たる女郎の性質は水であるが、幼体たる子の性質は炎。平時はやや低めである女郎の身体も、子の在る時期には熱を孕むようになる。体調が優れぬからか、或いは子を守らんとする親の本能なのか、気の浮き沈みが激しくなってしまう女郎が少しでも穏やかに過ごすことができるようにと用意されたのが、別荘とでも呼ぶべき小屋であった。
 他者の目に晒されることは女郎の望むところではなく、また、此度も訪れたこれは他者がどうこうできる問題でもない。それ故の選択ではあったのだが、それでも、不意に人肌が恋しくなることがある。そのような時に誰にも縋ることができないということは、数少ない問題の一つと言えた。
 薄暗さの向こう側、粗末な作りであるために生じた隙間から垣間見える外界は、夜と言うにはまだ明るいようだった。しかし、昼間とも言い難く。
「……ああ、雨か」
 ぱらぱらと、弱く屋根を打ち鳴らす音が聞こえる。遠く、降り注ぐ水気が身体の熱を冷ましてくれるような気がして、ほぅっと息を吐く。まだ降り始めたばかりのそれは、徐々に強さを増していくのだろう。最近は晴れ間が続いていた。雷を主食とする同居人も、これ幸いと食事に精を出すに違いない。
 今は離れて過ごす家族に思いを馳せ、そして、気がついた。
「あの子、は。そういえば、あの子はどこに」
 今、この時間を女郎と過ごす子ども。その小さな炎が、見えない。慌てて身を起こす。物も少なく、隠れる場所のないこの小屋の中に姿が見えないということは、導き出せる解など一つしかない。
「……まったく、あの子は」
 危険だから出てはいけないよ、という女郎の言葉に頷きながらも、外への興味を捨て切ることができずにいたことはずっと心に残っていた。案の定、とでも言おうか。いつか、やらかしてくれる気はしていたのだ。
 焦りはあるが、驚きはない。起こってしまった過去を変える力など女郎は持ち合わせていない。焦り、嘆き、怒るよりも先にやるべき事はこれからどうするかを考えること。飛び出していってしまったあの子をどうやって見つけ出すのか、どうやって連れ戻すのか。
 寒さに震えやしていないか、どこかで座り込んでいやしないか。そんな不安に紛れる「もしかしたら」からは目を逸らす。大丈夫。きっと、雨が不審を隠してくれている。炎の化生たるあの子どもが果たしてどこまで耐えられるのかと、そういった意味での不安は相変わらず残っているのだが、それでも、人に見つかってしまうよりはずっと良い。
 じっとしていても仕方がない。未だに動きの鈍い身体を無理矢理に動かして立ち上がろうとした時、女郎の耳に足音が届いた。ぬかるんだ泥を踏みしめるそれは、子どものものにしては随分と重く。
 一瞬訪れた緊張は、戸を開くために差し込まれた手を見てすぐに解れた。その部位を見ただけで判別することができる程に、同じ時間を過ごしてきた同居人。
「ほれ、捕まえておいてやったぞ」
 濡れて張り付く髪を鬱陶しげに払いながら、男は片手に抱えていたそれを内へと放り投げた。受け身をとることもできずにべしゃりと落ちたそれは、粗雑な扱いに対する不平不満など何一つなくむしろ。
「もう一度!」
 起き上がった際の勢いを殺すことなく男の足元へとまとわりついていた。呆気に取られる女郎に目を向けることなく、楽しげに。
 こら、と窘める女郎の声にようやく状況を把握したらしい。先までの表情とは一変し、固まり凍りついた様子を見て心が揺れる――ということもなく、女郎は子どもを手招いた。体力は未だ回復しきってはおらず、それは子どもも分かっているのだろう。恐る恐る、という表現に相応しい慎重さで近付くその背後で、男が楽しげに笑っている。
「それで、何か言うことは」
 俯く子どもの顔は、布団から身を起こしただけの女郎からは良く見えている。しかし、自分のことで精一杯の、足元ばかりを見つめている子どもはそれに気がついていないのだろう。言葉を探しつつも見つけ出せずにいるらしい様は愛おしい。もっとも、それを出してしまうと全てが水の泡となってしまうことも分かっている。絆されかけた女郎は、軽く息を吐き出して気持ちを切り替える。
「ほら」
「……勝手に出ていってごめんなさい」
「他には」
「えっと」
 言い淀む姿に、助言をしようとでもいうのか口を開いた男を目線で制する。余計なことは言うな、と。
「えっと……えっと、ただい、ま?」
「はい、おかえりなさい。帰ったらまずはそれでしょうに」
 よくできました、と腕を広げてやれば、子どもは女郎の胸へと飛び込んでくる。どれだけの時間を外で過ごしていたのか、随分と冷えてしまっているその身体を抱きしめてやる。分け与えてやるだけの熱量を持たぬ己の身が、こうした時には恨めしい。気怠さを感じるほどには熱があるものの、それでも炎の化身たる子には遠く及ばないのだ。こうして抱きしめてやる間も、子の熱が己の肌を焼こうとする。
 安心したように身を委ねている子どもは、子どもなりに女郎の身を案じてくれてはいたのだろう。冷たく綺麗な水があれば喜ぶのではないか、元気になってくれるのではないか、という思いから飛び出したまでは良かったが、思いがけず降り始めてしまった雨のせいで進むことも戻ることもできなくなってしまったのだ、と。
「なるほど、そこを貴方が見つけて回収してくださった、と」
「そろそろ置いておいた水も切れる頃かと思ってな」
 また汲みに行ってやろうかと足を運んだ先で、身動きできなくなっていた一匹を見つけたのだと男は笑う。眠っている間に戻るつもりだったのだ、と釈明を続ける子の頭を撫でてやりながら、女郎は部屋の片隅に置いてある桶へと目を向ける。そのすぐ横に置いていた器が見当たらないので、きっと子どもはそれに新しい水を入れて戻ろうとしたのだ。今は持っていないようなので、突然の雨に驚いてどこかに放り出してしまったに違いなかった。
 何も言わずとも、男は女郎の思いを察してくれたらしい。黙って桶を手に取ると、音を立てぬよう気を付けながら外へと抜け出していく。相変わらず雨は降り続いているようだったが、彼は気にすることなくいつもよりも時間をかけて水を汲みに行ってくれるのだろう。女郎と子どもが、しばらくの間は落ち着いて過ごすことができるように。
 ぐずついている子どもの声が、少しずつ小さくなり、同時に子の体温が上がっていく。ああそろそろか、と思った。今回はいつもよりも少し早い気がするが、きっと、無理をしてしまったせいだ。雨に打たれてしまったから。
 囁くように子守歌を歌ってやると、安心しきって脱力した身体からほぅっと穏やかな息が漏れる。その息が吐き出されるのと同じ速度で、子どもはその身を崩してゆく。ゆらゆらと輪郭をぼやけさせ、形を失い、そして元からそこには何もなかったかのように。
 消えてしまったのでも、溶けてしまったのでもない。女郎はいつも、子どもはかえってきているのだ、と考えている。先ほどまで抱え込んでいた筈の熱は手の内にもうないのだけれど、それでも、胸の内には確かに宿っている。子が身を寄せていた箇所に残る火傷こそ、女郎が子と過ごしていた証であり、子の生きていた証だった。
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