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やほよろづ

 あ、頭蓋骨。鬼の骨だってさ。いや、でも解析の結果は人骨なんでしょ。
 小さく抑えられたはずのその声は確かに自分へと向けられているようで、それに気がついた瞬間に意識が目覚める。慣れた景色ではない。ここは、どこだ。
 薄いガラス越しにこちらを見ているらしい人影がふたつ。勝手なことを言うそれらはすぐに横へと流れていき、しかし、少し間を開けて次の人影が前に立つ。祈るわけでも拝むわけでもない人の流れに、どこかで展示をされているらしい、ということを把握した。展示される経験がないわけではないのだが、いつもは小さな神社に祀られているこの身。ここ最近は年に数度ほど氏子と触れ合う程度の展示ばかりが続いていたために落ち着かない。意識が完全に眠った状態の間に大きな展示があったのかもしれないが、自覚していないのであればそれは「なかった」も同然の出来事だった。
 どうやら、これは様々な骨を集めた展示であるらしい。視認可能な範囲を見渡して、通り過ぎていく人々の会話に耳を傾けてそう判断した。展示品としての頭蓋骨は、どちらかと言えばありふれたものの部類に入るのだろう。足を止めて見る人は少なく、他の目新しいものへと流れていく。それに少しだけ安心する。ここは、どうも煩すぎる。
 騒々しさを少しでも振り払いたくて、目と耳を閉ざす。途端に訪れた暗闇と静寂にひとまずは安心したものの、やはり少し物足りなくなってしまい目だけは開く。そうすると音がないことに落ち着かなくなってしまい、耳も少しだけ開く。人の話し声ではなく、電灯や空調の稼働音だけを拾い上げるように。厳密には「目」や「耳」で外界を感知しているわけではないのだけれど、元が人型をとっていた身であるせいか、生前の認識を流用している方が何かと都合が良かった。
 見知らぬ誰かが発する雑音が煩わしい。私は、鬼だ。鬼として生まれ、鬼として生き、そして鬼として死んだ。鬼として祀られ、鬼として伝えられる存在だ。それをどうして否定する。昔と比べると、解明された「不可思議」が増えたことは確かだろう。それでも、何を根拠にして鬼を否定する。解析の結果が人間と一致した、だからこれは人間だ、なんて。随分と簡単な理論で納得してくれるものだ。鬼を知らないものが、どうして「違う」と断言できるのか。
 いつの頃からか、額に空いた穴は「鬼の角があった場所」だとされた。鬼の力を恐れた人が、その力を削ぐために奪ったのである、と。実際がどうであるのかを私がいくら説明したところで、それは誰の耳にも届かない。おかげで何度か議論の対象となっていたようだ。私は鬼であるか、人であるのか。
「角を折ったにしては、穴の周囲の損傷が少ない」
 私が鬼であることを、そう否定したのは誰だったか。
「鬼を捩じ伏せる意味合いで奪っただけだとは限らない。同時に畏怖、或いは敬意でもいい。そんな感情があれば、作業は慎重であっても良いだろう」
 そう反論したのは誰だったか。角を削り取り、そうして穴を穿ったとすれば、と。それでも、どうせは結論の出ない推測でしかない。彼らの目前にあるのは「穴のあいた頭蓋骨」がひとつだけなのだから。飽きもしないでよくもまあ議論を重ねるものだと思う。私は今の居場所で変わらずに鬼として在り続けることができるのであれば、周囲の有象無象にどう評価されようが構わない。
 そう考えてはいるけれど、否定的な意見を全く気にしないというわけでもないのだ。有象無象の雑音が、私を愛してくれる子供達の声を掻き消してしまうのではないかと不安になることだってある。語り継がれるうちに、村の中でも私の逸話に曖昧な部分が生まれてしまっている。そこに雑音が混ざってきて、そして元とはかけ離れた物語が紡ぎ出されてしまうこと。私はそれが恐ろしい。

 私と村の関係は、木の葉が散り始めた頃に始まった。冬に備え、貯蔵するための肉や木の実を求めて山に入ったとある夫婦が私を見つけたことが全ての始まりで、彼らに手を引かれながら下った山道は、とにかく転ばないようにと必死だった。一歩踏み出すごとにかさりと音を立てる落ち葉のせいで、何度足を滑らせたことか。その度に腕を引いてくれたのは、父だったか。それとも母だったか。もう朧げになってしまった記憶が申し訳ないのだけれど、とにかくほっとしたことを覚えている。見上げた赤色の葉を数え、落ちてくる黄色い葉を数え、虫の声を子守唄に落ち葉を被って眠る夜はもう来ないのだと。
 私が人とは違うのだということは、幼い頃からよく分かっていた。不用意に近付けば石を投げつけてくる村人たち。悲鳴を上げて逃げられることだってある。私が成長することができたのも
、見世物としての価値を見出した小屋主がいたからだった。価値を損なうことがないよう健康と衣服には気を使われていたし、巡行の最中に野盗が襲ってこなければ一生を見世物小屋の中で終えてもいいとさえ思っていた。死の恐怖に命からがら逃げ出して、それっきり。誰が逃げ延びて誰が死んだのかも知らない。武芸を生業とする人だっていたけれど、戦うために身につけたわけでもないそれがどこまで通用するのか。軽業や蜘舞衆だって、うまく逃げることができたのかどうか。自分のことだけで精一杯だった。
 野盗に見つからぬよう山を越えて、大型の動物に見つからぬよう息を潜めて。食べることのできる植物は、移動の合間に教わったことがあった。行き先なんてものは分からない。ただ、足を止めてしまうと恐ろしい死が追いついてしまうような気がして、山の中を歩いたのは果たしてどれほどの時間だったのか。何度目かの夜を迎えた後は、余裕もなくなり数えることをやめてしまった。それよりも、無事に朝を迎えられるよう祈って眠ることが増えたように思う。明日も逃げ切ることができますように。無事に生き延びることができますように。
 疲れていても、不安や緊張のせいで眠りは浅かった。がさり、という落ち葉を踏みしめる音に意識は引き戻される。野兎などの小さな動物であればいい。そうでないのであれば、見つかってしまう前に逃げなければならない。即座に瞼を上げるものの、反射的に逃げ出そうとする身体の動きは抑え込む。寒さを凌ぎ、遠目からでは見つかりにくいようにと落ち葉を身に被せていた。焦りのあまり無計画に飛び出して、そのせいで見つかってしまっては意味がない。動かずとも良いのであれば、無駄な動きは控えるべきだった。どう動くことが正解であるのかを必死で考えながら息を潜めていて、そして、後に「母」と呼ぶことになる女と目が合った。
「あれ、まあ、こんなところで」
 そんなことを口にしていたように思う。私は見つかってしまったことで頭がいっぱいになってしまって、ここからどう逃げ出したものかと考えを巡らせていた。植物を刈り取るためか、小動物を仕留めるためか、それとも大型の動物から身を守るためか、彼女の手には鉈が握られていて、その鈍い輝きが野盗のそれと重なる。ああ、あれを真っ先に振り下ろされたのは。
 身を起こして逃げ出すべきだということは分かっていた。頭では分かっていたのだ。それでも、身体が動かなかった。心が恐怖に震えていた。女はゆっくりと近付いてくる。その手に鉈は握られたまま、今は降ろされたままの腕がいつ振り上げられるのかと。ぎゅっと目を瞑ったままでも、彼女が目の前に屈み込んだことが分かった。ああ、もう逃げられない、と。でも、もう疲れてしまったから構わないか、と。静かに覚悟した私に向けて、優しい声が降ってくる。
「ここじゃあ休めないでしょう。ひとまず、うちへおいでなさいな」
 狐に化かされているのかとさえ思った。或いは、もう既に鉈がこの身を襲ってしまったのではないかと。恐る恐る瞼を上げて、その声の主を確認する。随分とあたたかな眼差しで、優しい声色で、ああ、これならば大丈夫だろうと。いつかの小屋主と同じ表情だった。
 別れて食材を探していた「父」の元へと連れられて、そして三人で山を下る。父は私を連れた母を見て驚いた様子だったけれど、それでも、何も言わなかった。仮に私が二人に危害を加えようとしても抑え込むことは容易いと、そう考えたのかもしれない。私は無手で、二人の手には武器があった。武器を握っていない方の手を私と繋いで、三人分の食べ物をまた明日取りに来ようと話す姿に、相槌を打つことだけで精一杯だった。斜面の落ち葉に足を取られないようにと、そちらに気を取られてしまっていたから。
 私を簡単に連れて帰ろうとした両親ではあったけれど、私の見目が村に混乱を引き起こすことは分かっていたらしい。皆に説明するまでは我慢してくれ、と、人目を避けるように隠れながら家の中へと連れ込まれた。それでも、土埃等で汚れて気持ちが悪いだろうと濡らした手拭いで身を清め、破れてしまっていた着物は取り替えてくれて。私を迎え入れることがどのような面倒ごとをもたらすのか、分からない齢ではない。明らかに人とは異なる身体。そうでなくとも、単純に食い扶持が増える。二人の身なりや暮らしぶりから考えて、それほど裕福な生活ではないというのにどうしてそこまで。疑問に感じても、それを口にしてしまうことは憚られた。
 これからどうなってしまうのか。二人を本当に信用しても良いものか。まだこの場所が安全だと分かったわけでもないのに、身体はすぐに休息を求め出す。家という雨風を凌ぐことのできる環境に、ここに至るまでの二人の行動に、どこか緊張が途切れてしまったのだろう。
「……ああ、眠いのね。すぐに布団を敷きましょう」
「とりあえず、母さんのを使ってくれ。君の分もすぐに用意しような」
 そう言っていそいそと場所を整え始めてしまうものだから、胸の奥底に沈んだはずの覚悟が小さく声を上げる。どうせ、ここまで来てしまったらもう逃げられない。言動の裏も読みきれない今、疑い続けるよりも優しさを受け入れてしまえばいい。いや、その方がきっといい。逆らって機嫌を損ねてしまうよりも、甘えて身体を休めてしまった方がずっといい。それでも、もしも騙されているだけであったのだとしても、もうその時はその時だ、と。
 気を抜くとすぐに降りてしまう瞼を必死になって留めながら、私はどこか楽しそうにしている両親の姿をじっと見ていた。二人とも、私がまだ信用しきれずにいたことを分かっていたのだろう。不穏な動きをしないかと監視する意味合いも含まれた視線であると分かっていながら、何も言わなかった。むしろ、傷付ける意図はないのだと改めて説明するかのように、私の見える範囲で丁寧な動きを心掛けてくれていた。布団へと案内しながらも、落ち着かないだろうとすぐに離れてくれた優しさ。離れる前に一度だけ、思わず、といった様子で伸ばされた母の手に、遠く離れてしまった小屋主との記憶を見たところで私のその日の記憶は途絶えている。

 楓、という名の子供がいたらしい。生きていれば私と同じくらいの年齢で、ちょうど私の拾われた年の夏、元気に走り回っていたと思ったら突然に倒れてそのまま亡くなってしまったそうだ。あまりに突然のことで気持ちの整理がつかない中、私を見つけた。重ねて見ているわけではないのだけれど、放っておけなかった理由はそこにあった。すぐにわたしの着物や生活用品が揃えられたのも、少し前までそれを使う人がいたからだった。実は、と口にされる前から、薄らとは察していた。真新しいわけではない、しかし使う人の見当たらない品の数々。理由なんて、それくらいしか浮かばなかった。
 興行の中で、私は鬼女伝説にあやかって「紅葉」と呼ばれていた。戸隠山で退治された、様々な作品の題材となった鬼女の名。真白の髪に真白の肌。絵の中の彼女とは異なる色合いだけれど、そこそこうまく立ち回っていたらしかった。嫌でないのならば、とこの村でも「紅葉」と呼び続けてくれている。楓と紅葉。同じ山の植物の名前。違うと分かっていても、姉妹のようで少し嬉しかった。
「お父さん、明日は十本でいいかな」
「いや、十五にしよう」
 ひとつの縄に十の干柿、それを十五本。明日の大事な商品を、そっと籠の中へ詰めていく。十本のつもりで用意をしていたものだから、あと五本を取りに行かなくてはならない。
 私のいた小屋ではやっていなかったのだけれど、ただのお握りでも熊娘が握ったのだというだけで飛ぶように売れたのだとか、見にくるついでに野菜を買って帰るだとか、そんな話は聞いたことがあった。だから、山で柿が多く取れそうな日は多めに収穫をして、売りに出る分の干柿を作ってみることにしたのだ。それまで娘を育てていた二人だから、彼女が居なくなって私がやって来て、何も変わらないのだと笑い飛ばしていたのだけれど、そうやって貰うばかりでは私が嫌だった。何が私にできるのかを考えた時、この人とは異なる外見を使うやり方しか思い浮かばなかったことに、父も母も苦い顔をしていたのだけれど。謳い文句は「鬼娘の干柿」だ。何日かに一度、近くの村を回って売り歩く。ただ普通に干柿を売るよりも、少しだけだけれども高い価値を見出して貰えている。
 ありがたいことに、私の存在は村の中でも許容されていた。勿論、気味悪がって嫌な顔をする人だっている。ただ、そういう人たちも表立っては私を追い出そうとはしなかった。父も母も長くこの村に住む家の人間で、何代か前には村の代表として皆をまとめるような人間もいたらしい。今の二人にそういう力があるわけではないのだけれど、どこか反対はし難い相手、という位置付けであるらしい。だからこそ、「鬼娘の干柿」をはじめとして私たちが何かを売って得た僅かばかりの利益は村へと還元されていた。共有の水車を修繕する材料費に、或いは小さな子供の喜ぶお菓子を買うために。そうすることで、私が村で暮らしやすい空気を作ろうとしてくれたらしく、幸いなことに、その試みは少しずつ実を結んでいた。以前であれば姿が見えた瞬間に道を変えていたような人が、無愛想ながらも挨拶をしてくれた時。仕方のないことだと諦めていたつもりでも、対応が良い方向に変わったことでどこか重荷から解放されたような心地になる。気にしていないようで、負担になってしまっていたらしかった。
「そうそう、徳蔵さんが今度の狩りには弥吉を連れて行ってくれないかって」
「今度っていうと……三日後か。みっちり仕込んでやるから覚悟しておくよう伝えてくれ」
「はーい」
 徳蔵さんは四軒隣に住んでいる人だ。そして、弥吉はそこの一人息子。この辺りの子供には女児が多くて、何かと周りの大人たちから期待を向けられている存在だ。うちの父は村一番の狩りの名手で、どういった場所にどういった罠を仕掛ければ良いのかという知識、銃や弓の扱いについては他の追従を許さないほど。徳蔵さんもよく一緒に狩りへ出ていたそうだが、少し前に山の斜面から滑落してしまってその傷がまだ癒えていないと聞く。冬籠りの支度をしている動物たちは冬を乗り切るための貴重なご馳走で、だからといって獲りすぎないように気をつけながらも数日前に罠を仕掛けてきたばかり。弥吉は狩りとしてはこれが初めての山入りになる。うちの父に狩りのイロハを教わりながら、家族が冬を過ごすための食材を取ってこいということなのだろう。
 徳蔵さんが元から父と仲が良かったということもあり、弥吉は私が村に来て最初に仲の良くなった子供だ。聞けば楓とも仲が良かったという。家が近いために交流がしやすかった、ということは大きいだろう。弥吉は初めこそ私と楓の違いに戸惑っていたようだったけれど、すぐに慣れて村の外の話を聞きたがった。その度に巡業していた頃の話や両親と商品を売りに出た時の話を繰り返した。貴重な若い男手だ。何かと力仕事があれば「覚えておくと良い」と呼びつけられる。期待をされないよりはずっと良いのだろうけれど、お陰で村の外へと出て行きづらいことが悔しいとは以前に漏らしていた。この道の先には何があるのか、あの山の向こうには何が広がっているのか、この空はどこまで続いているのか。興味関心こそあれど、それらを確かめて歩き回るには乗り越えなければならない柵が多すぎる。
 明日に向けての用意がひと段落したこともあり、徳蔵さん、そして弥吉への伝言を抱えて立ち上がる。私がお使いに出ることに気がついたらしい母が、出るなら干柿をおすそ分けして来なさい、と声を掛けてきた。誰にという指定もないので、いつもの顔ぶれで良いのだろう。お隣から徳蔵さんの家までである。それぞれの家に暮らす人間の数だけ柿を包んで準備は万端。さあ向かおう、というところで戸口から音がする。
「すみませーん。親父が挨拶ついでに予定を確認してこい、と」
 あらあら出遅れちゃったのね、と少し面白そうな表情の母に「すぐ帰るから」とだけ言い残すと、出入り口のど真ん中に突っ立って進路を妨害している弥吉を跳ね飛ばすようにして外へと飛び出した。言われた御役目は、何が何でも果たさなければならない。それだけだ。決して、早く終わらせて弥吉とどこかで話をしようと、そんなことを考えていたわけではない。
 年が近いこともあり、弥吉とは良い関係を築くことができていたように思う。何か良いことがあれば分かち合い、悪いことがあっても支え合い。決して誤解してほしくないのは、互いの間に色恋めいたものは存在していなかった、ということだ。彼は人間で、私は鬼。そうやって生きてきたし、これからもずっとそうだと思っていた。今更、人間になんてなれるはずもなかった。

 そこからは特筆すべきような出来事が何ひとつないなかったように思う。変わらない村での生活がいつまでも続くのだと、そう思っていた。異人の船がやってきたという話を聞いても、この国が変わろうとしている噂が流れてきても、ずっと遠くで起こっている話でしかないと思っていた。この小さな村には関係がなくて、私たちの生活は何ひとつ変わらないのだと、そう信じていたのだ。
 徳蔵さんは、この夏に亡くなった。頭が痛いから少し休んでくると言って、それっきり。以来、あの家は弥吉が守っている。まだ少し早いような気もするけれど、あと何年かもすれば嫁を迎えて子供たちが元気に走り回るようになるのだろう。弥吉の母親は産後の肥立ちが悪く亡くなってしまっているから、今、あの家に暮らしているのは弥吉ひとりだけである。
 父は徳蔵さんの訃報を聞くとしばらくは目に見えて落ち込んでいた。寂しそうな表情はするし、食事もあまり喉を通っていないようだったし、話しかけても上の空であることが多かった。しばらくはそっとしておいてあげましょうね、と言いながら母が教えてくれたのは、父と徳蔵さんが兄弟だということ。兄よりも先に逝くなんて、と。父が兄で、徳蔵さんが弟。村に残ったのは二人だけで、他の兄弟は他所の村へと貰われていったり、病気で亡くなったり。だから仲が良くて、お互いに子供のことを気にかけあっていたのだ、と。兄弟だったと知っても、今更なにも変わらない。変えられない。父が弥吉を可愛がっているのは事実だし、私も徳蔵さんに可愛がってもらえた。その事実さえあれば十分だった。
 山が秋らしく色付き始める頃には父も感情の整理ができたようで、見た目には以前のように過ごせるようになっていた。冬に備えて獣を狩るのは父や弥吉の仕事、それを調理したり、山菜を集めるのは母や私の仕事。そして、余剰に取れてしまった分を売って歩くのは弥吉と私の仕事。昔は父と私の仕事だったのだけれど、老いには勝てず遠出ができなくなってしまった。けれど、お陰で弥吉は憧れていた「空の果て」に少しだけではあるものの近付くことができている。
「明日はどこに行こうか」
「少し足を伸ばして、三つほど山を越えてもいいんじゃないか」
「そうね、今しかいけないもの」
「そう、今しかいけない」
 山越えには体力を使う。有り余るほどに力があるのは今だけであるのだということを、ふたりとも知っていた。それに、もしも弥吉が家庭を持つようになってしまえば、あまり家を離れることができなくなってしまう。今しか行けないのだと分かっているからこそ、行こうと話に出た段階で目的地は決まったも同然だった。そこで売り切ることができなかったとしても、帰路にいくつか村がある。村を渡り歩いて、それでも残ってしまったものは自分たちで分け合えばいい。簡単な話だった。
 決まってしまえば話は早く、干柿と山菜、それに干し肉を少しばかり加えて旅支度は完成だ。道中の飲食物も、必要最低限は持っておく。余計な荷物は持ちたくない。足りなくなれば山中で食物を確保する術はふたりとも身につけていたし、行き先の村で何かと交換してもらったっていい。
 ひとりで暮らすのは大変だろう、と弥吉を家に誘ったことがある。私の独断ではなくて、どちらかといえば両親の不安を私が代弁した、という形だろうか。同じ村に暮らしているとはいえ、何かあってからでは遅いから、と。それでも住みなれた家を離れたくない、守りたいと言って断った弥吉は、私の家で過ごす時間の方が長いにも関わらず、夜になると自分の家へと帰ってしまう。面倒なことをしていると思いながらも、父や母が何も言わないのであれば、私もそれに従うだけだった。
 弥吉を見送ってから、さてこの後をどう過ごそうかと考えていると、「暇なら魚を獲ってきてちょうだい」と母からの指令がくだる。仕掛けていた罠に掛かっている様子を見て、不足するようであれば釣ってきてほしい、と。
「取れそうなら多めに獲ってきてくれても構わないから、まあ、任せたわ」
 余剰な分は可能であれば保存食にしても良いし、できなくたって他所へ配ればいい。多いにこしたことはなかった。捕まえた魚を入れるための籠と、予備の釣り針だけを掴んで家を出る。釣りをすることになったら、その場で釣竿を作ってしまえばいい。必要な材料になりそうな植物の場所は把握している。帰り道にどれだけの魚が手に入っているのかは分からないけれど、少しでも身軽である方が良かった。何より、罠にかかった魚だけで十分である可能性だってある。そうなってしまうと、使う機会のないまま持ち歩かれる釣竿なんて、余計なところで枝に引っかかって進行を妨げる道具にしかならないだろう。
 夏が終わると、太陽はすぐに沈んでしまうようになる。山の近いこの村では特にそうだった。順調に魚の調達が終わるのであれば問題はないのだけれど、想定よりも魚が少ない場合は釣りに時間がかかってしまうかもしれない。山を下りきるよりも日の入りの方が早い、なんていう失敗をするつもりはないけれど、そのためにも余裕を持って釣り場へ行けるようにしたかった。
 ざく、ざく、と落ち葉を踏みしめる音がする。ざく、ざく。ざく、ざく。ざ、ざざ。
 私が足を止めると、少し遅れて音が付いてくる。誰かが、近くにいる。父や弥吉が後を追ってきたのかとも思ったけれど、そうであるならば私が足を止めると同時に止まる理由が分からない。気付いたことに気付かれないよう、屈み込んで履物の具合を確認する振りをする。いっそ振り返ってしまってもよいのだけれど、相手の行動理由が分からない今、それが誰なのかを知ることが少し恐ろしかった。知らない人間であるならばまだいい。仮に知っている人間であったならば、一体どうすればいいのだろうか。黙って付いてくるだなんて、どうせろくでもないことを考えているに違いないのに。
 いつまでも立ち止まってはいられない。踏み出した一歩はいつも通りのものだろうか。こうしてこの山を逃げるのは初めてではない。駆け抜けて、息を潜めて、そうして父と母と出会ったのはこの山なのだ。得体の知れない不安も杞憂で、きっと足音は誰かの悪戯で。そう信じて踏み出した一歩に、足音が付いてくる。ざく、ざく、ざ、ざざ。

 それからのことは、あまりよく覚えていない。私を追ってきていたのが誰であったのかも分からないけれど、その誰かの放った弓が私の命を刈り取ったのだということは知っている。ぐしゃり、と嫌な音が頭の中に響いてそれっきり。少し経ってから「目が覚め」た時には、私は地に倒れた状態のままぴくりとも動くことができなくなってしまっていた。辺りはすっかり暗くなってしまっていて、父も母も心配しているであろうことは分かっていても動くことができないのだからどうしようもない。一晩であれば、暗くなってから下手に動き回るよりはと野宿をすることだってあったから大丈夫だろう。でも、日が昇ったならば。出発の時間になっても帰らない私を父と母が、待ち合わせ場所に現れない私を弥吉が、心配して山に入ってくるに違いない。そうして私を見つけるのは、叶うのならば弥吉がいいと思った。どうしてなのかは、よく分からないけれど。朝になって、弥吉の姿が「見えた」時点で、私の意識が一度途切れたことは確かだ。無事に帰ることができるのかが不安で張りつめていた緊張の糸が、ぷつりと切れてしまったのだろう。
 村では土葬が主流だったので、私も埋められていたようだった。辺りが暗くて、時折聞こえてくる声に聞こえていないと知りながらも返事をして。私の後に母が死んでしまってから、だんだんと父の様子がおかしくなっていることには気がついていた。けれど、どうしようもない。おかしな父と互いに一方通行の会話をしながら、母にも意識があるのか、あるのであれば、父の頭蓋骨にも意識は残るのか、そうであるならば土の中でもう一度一緒に暮らせるのか、なんてことを考えていた。私の墓へ手を合わせに来てくれる人の声以外を聞いたことがないけれど、それはきっと、隣近所と少し距離があるからだ。棺で区切られた部屋にひとりずつ。間には土の壁もある。地上よりも声が通りにくい状況であっても不思議ではない。雑音が何も聞こえなくて、うるさいくらいだった地上と比べると随分と快適な世界だった。
「紅葉、山でお前を見たよ。綺麗な赤色だった」
 季節が何度巡ったのか、正確なところは分からない。ただ、私の身体はすっかり肉が落ち、真白の骨を見せている。自分では確認ができないけれど、きっと頭蓋骨もそう。今も昔も真白の鬼娘。それが私だというのに、父は色付いた葉に私を見たと言う。それがひどく悔しかった。きっと、おかしくなった父は私の色を忘れてしまったのだ。そうに違いない、などと考えながらも仕方のないことだと諦めていた、というのに。
 ざく、ざく、ざ、ざざ。
 嫌な音が降ってくる。私を平穏から追い立てる音。土の中は寂しいだろうと、父が私を掘り起こす音。このままがいいといくら伝えようとしたって、聞こえていないのだから諦めるしかない。久しぶりに差し込んできた光の中で見えた父の姿は、私の記憶にあるよりもずっと年老いていて、痩せ細っていて、そしてとても小さく見えた。
 私と母がいなくなってからは、弥吉が父の面倒を見てくれていたらしい。食事を持ってきてくれた際に、ボロボロの布団に寝かされた私を見て情けない悲鳴を上げていた。大きくなった弥吉の隣には見知らぬ女性が立っていて、そこでようやく私は彼の結婚を知った。薄情な友人だった。痛む胸がもう無いのは救いだろうか。

 むき出しのままでは寒いだろうからと、弥吉が私を小さな箱に納めることを提案してくれた。どうせそれは建前で、薄暗い家にぼうっと浮き上がって見える私の骨の白さから目を逸らしたかったからに違いなかった。
 二年連続して米を中心に虫害に遭った年があったそうだ。それをきっかけに、外に頼ることのできる人は村を出ることを選択したらしい。父は村を出ることなんて考えられなかったし、弥吉もそんな父を置いて出ていくことができなかった。ありがたいことに弥吉の妻となった女性も賛同してくれたものだから、二家揃っての残留だそうだ。他に残った家はあったものの、老衰には抗えずに人口は緩やかでありながらも減少するばかり。父が倒れたら、弥吉も村を出ていくのだろう。はっきりと聞いたことはなかったけれど、弥吉を村へと留めている柵はもうそれくらいしか残っていなさそうで、そうであるならば外の世界へと飛び出してしまえばいいのにと。もしも私の声が聞こえているようであれば、繰り返しそれを伝えたというのに。ずっと起きていることに疲れてしまったのか、父の体調が悪くなり始めてから私の意識も度々沈むようになる。弱っていく父の姿を、目にしたくなかったのかもしれない。
 父の躯と共に埋め直されるとばかり思っていたのに、私は弥吉と共に父を見送り、そしていつの頃からか私が納められている箱は少しずつ立派なものへと変化していった。この身では悲しみを表現することができないからか、父が死んでからは眠っている時間がますます増えてしまっていた。ただ弥吉はそもそも私に意識があるとも思っていなかったので、気ままに私を手元に置いては、話しかけることをひとつの趣味としていたようだった。彼もまた、父と同じように寂しかったのかもしれない。彼の思い出話に相槌を打ったり、私の覚えている景色を語ってみたり。この時間が、きっと一番穏やかで幸せだった。
 気付いた時には弥吉が徳蔵さんよりも年上になっていて、その子供や孫たちが私の納められている箱に手を合わせるようになっていた。仲の良かった鬼の骨なんだと言いながら、私が村に来るまでの話や二人で過ごした時間のことを語って聞かせていたようだ。恥ずかしいことをしてくれる。それがいつの間にか、父や弥吉とものを売り歩いた私は村のために働いた良い鬼だというおことになって、それでも私を恐れた誰かが私を殺したのだということになって、私が死んだ後の虫害が私の無念のせいだということになって、何代か後にもなると当時を知る人間が誰も残っていないこともあり、それが本当であるかのように語られるようになってしまった。随分とまあ、想像力の豊かなこと。
 いつだったか、弥吉に話したことがある。私はいくら姿形が人間に似ていたとしても、決して人間にはなれなかった。なりたくもなかった。邪険にされた末に見世物小屋へ行くことになったことも、そこでは商品として大切に扱われたことも、私が他の人間とは見目が異なる「鬼」であったからである。「鬼」であることを求められ、「鬼」として生きてきた。だからこそ、今更「人間」になれと言われたところでどうすれば良いのかが分からないし、もしも仮に本当は「人間」だったのだと言われたとしたら、私は、どうすれば。疎まれたことも、商品価値を見出されたことも、全ては自分が鬼であるからだと納得してのことであったのに、その前提を覆されてしまうと感情をどう整理すれば良いのかがわからなくなる。私が鬼であることを理由に殺されたのだとするならば尚更のことだ。
 弥吉の子供達が私のためにと用意した場所にはいつしか他の人たちも来るようになって、そうして私はこの小さな村の中だけの神さまになっていた。そんな大層なものではないということを私自身が知っている。それでもそう在れるように気遣ってくれたのは、きっと、弥吉の優しさだった。今の私が眠るのは、初めに弥吉が用意した箱よりもずっと大きな箱の中だ。壁の向こう側からの声は、大半が願い事の形をしている。それらを叶える力は私に備わっていないので、いつかのように相槌を打ちながら語りかけるばかり。それでも訪れる人たちは満足をして帰っていくのだから、きっとそれで良いのだろう。

 ああ、今は彼らの作ってくれた箱の中ではなかった。煩わしい雑音のせいで思考が現実へと引き戻される。皮を剥いでしまえば、人も鬼も等しく真白。私を鬼たらしめた髪も肌も、彼らは見ることができないのだから仕方のないことといえば仕方のないこと。だからこそ、早くあの暗がりへと帰りたかった。この場所は煩すぎる。眩しすぎる。次に目覚める時はあの慣れ親しんだ暗がりの中であるように願って、私は眠ることにした。こうやって人前に出されることは、ひどく疲れてしまうので。
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