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やほよろづ

 ほんの少しだけ流れに逆らったところに、その場所はある。辺りを見渡して誰にも見られていないことを確認してから、僅かに口を開けている隙間から中へと潜り込む。狭い通路を進んだ先に広がる空間こそ、私お気に入りの秘密基地だ。適当なところに腰を下ろし、静かに瞼を下ろす。耳を澄ませた時に聞こえるごおごおという音は、内に流れている血の音らしい。誰にも邪魔をされないでそれを聞くことが、小さな楽しみのひとつだった。この場所には娯楽が少なすぎる。毎日、なんの代わり映えもない。一日がどこで区切られるのかすら曖昧な世界だ。
 多くの仲間たちは地上で暮らしているの、と教えてくれた「人」がいる。その人の訪れによって、己と同じ姿をしている存在のことを知った。身近で泳いでいる彼らは、さかな、という別の種族であるらしい。道理で言葉が通じないはずだ。根気よく「言葉」を教えてくれたお姉さんのように、語りかけてくれたのであれば何かが変わっていたのかもしれないけれど。
 水の中で暮らす私は、仲間たちにしてみれば、かなりの変り者になるらしい。余計な争いを避けるため、人目にはできるだけ触れないように、と教えてくれたのもお姉さんだ。元からこの場所(難破船、とそのお姉さんは呼んでいた)を中心としてそれほど動き回ることがないので、その忠告を守ることは難しいことではなかった。船の中に閉じこもって、亀裂から遠くの水面に想いを馳せる。誰にも邪魔をされることのないその穏やかな時間が、私は好きだった。
 少し前から、この穏やかな空間に入り込んできたものがある。どこからか流されてきたらしい小さな黒い粒は、みるみるうちに姿を変えた。ひび割れた箇所から伸びてきた緑色を見て、それが「海藻」であることやその「種」であったことを知った。普段は陸上で過ごしているお姉さんは、水中で暮らす私のことを気にかけてくれているとはいえそれほど多く顔を合わせるわけではない。短い交流の時間に色々と教わっているところであるし、教わることと実際に目で見ることとは随分と違う。知っている海藻のどれとも重ならない姿であるけれど、少なくとも「植物」と呼ばれる種類の何かではあるだろうから害はないはずだと、そう判断した。後になってから「食虫植物」という肉食の植物も存在するのだと教えられて、ゾッとする。魚達だって海藻を食べるものがいれば、己よりも小さな魚を食べるものだっている。肉食の植物がいたって、不思議ではない。

 ぴゅぅい、ぴゅいぃ。
 波が小さな音を運んでくる。お姉さんからの合図だ。穏やかな時間にまどろんでいた身体を勢いよく飛び上がらせ、慌てて「謎の植物」のところへと戻って葉を毟る。その程度ではもうびくともしない。今日はお姉さんにこの植物について尋ねなければならないのだ。少しでも手掛かりは多い方が良かった。
 船から抜け出し、ぐるりと周囲を確認する。これまでも余計な邪魔者が入ってくることがないように大きな損傷には気を配っていたが、今は中に「宝物」が眠っている。未知の植物、緑色の財宝。誰にも壊されたくないし、盗まれたくもなかった。幸いなことに今日も大きな破損は見当たらなかったので、出入口として利用している隙間の前に大きめの岩を転がして隠す。小型の魚であれば問題はない程度に植物も大きくなったので、安心して離れられる。種から芽吹いたばかりの頃は肌身離さずに持ち歩いていたのだが、最近ではそれも難しいほどに成長してしまった。喜ばしいことであるはずなのに、ほんの少しだけ、寂しい。
 お姉さんがいつ訪ねてくるのか、はっきりとした約束を交わしたことはない。水の中を渡ってくる笛の音が、来訪の合図だということを決めただけ。その音が聞こえたら私がお姉さんと初めて出会った場所に向かうことになっている。水の中での呼吸の仕方が分からないお姉さんと、水の外での呼吸の仕方が分からない私。逢瀬は海と陸の境界、岩礁の陰で行われることが常だった。
 少しずつ浮上すると、白くて細い脚が周囲の黒に浮き上がって見えてくる。今日もまた、地上は夜らしい。水の底で過ごしているせいか、私の目はお姉さんの知る地上の仲間たちよりもずっと光に弱いらしかった。厚い雲に覆われた空でも、少し目が痛くなってしまう。そのことに気がついてから、お姉さんはいつだって夜に会いにきてくれた。
 ぱしゃり、ぱしゃり、と波がお姉さんの脚と遊んでいる。こちらから見えているというということは、お姉さんからも私が見えているということ。気付かれていると分かっていながら、できるだけ静かに腕を伸ばす。あともう少しで指先が、というところで目標物が見えなくなる。お姉さんが脚を上げてしまったらしい。すぅっと息を吸い込んで、水面を破る。ぱしゃり。
「こんばんは」
「あら、今日は随分とはやいのね」
「待ってたの」
 ここで息苦しくなってきて、一度水に戻る。言葉と一緒に、声の出し方を教えてくれたのもお姉さんだった。水の外では息が続かない私に付き合って、ゆっくりと。時にはお姉さんが水に潜ってくれたこともある。言葉を交わすことができたら楽しいからと、ただそれだけの理由で。
 手にあの植物の葉を握っていることを確認して、そして浮き上がる。
「あのね、これが何かを訊きたくて」
 差し出した葉を受け取ったお姉さんと、ほんの少しだけ指先が触れ合う。気温と水温とでは、なんてよく分からないことを並べ立てられたこともあったけれど、よく分かっていない。とりあえず、お姉さんの体温の方が私の体温よりもずっと高くて、そしてそのせいで長く触れ合っていると肌が傷んでしまう、らしい。お姉さんはそれを気にしていて、触れ合うことに良い顔をしなくなってしまった。
 お姉さんが葉を観察している間、ぼやけてはしまうけれど水の中からお姉さんの姿を観察する。今日も、色とりどりの「服」を着ている。陸ではそれを着て肌を晒さないことが普通であるらしい。日々の服を選ぶことが楽しいのだとお姉さんは言っていたけれど、面倒で仕方がないように思えてしまう。ひとりで泳いで暮らすには確かに不要なものでしかない、とお姉さんは笑っていたけれど、少し残念そうにしていたことには気がついている。私に似合った服があったという話は未だに口にされているので、いつか、お姉さんが選んでくれた服を着てみるのも良いかもしれない。その時にはあの植物も着飾らせてみようか。きっと、流れに踊る枝と服の裾は見ているだけでも楽しい。
 波に揺られながら、離れすぎないよう少しだけ流れに逆らって。そうやって待つことは苦ではないものの、思っているよりも少し長くて、そしてまだもう少しかかりそう。
(いつもは、すぐに答えてくれるのに)
 珍しい。もしかしたら、これほどまでに時間を掛けられてしまうことは初めてかもしれない。だからどうした、というわけでもないのだけれど、少し不安になってくる。私がお姉さんに渡したあの一枚の葉は、そんなに珍しいものだったのだろうか。珍しい、だけならいい。悪いものであったなら。私が知らないだけで、危険なものであったのだとしたら。
 不安を口にしてしまいそうになった時、見計らったかのようにお姉さんからの合図が降ってきた。話をしよう、上がっておいで、と呼ぶ笛の音。高く鳴り響くその音は、他の何にも邪魔をされずに耳まで届く。その鋭さに導かれるまま、岩に打ち寄せる波に乗ってふわりと浮上する。
「お待たせ」
「……それは、良いもの? 悪いもの?」
 お姉さんの表情はいつもと変わらないものだったけれど、ただそれだけが気掛かりだった。だから真っ先に尋ねたというのに、お姉さんはどこか嬉しそうに笑いながら答えてくれる。
「そんなに心配しないで。悪いものではないはずだから」
 曖昧な答えだ、と思いながら息継ぎのために一度潜る。水を被る直前、見えたのは葉を月にかざしているお姉さんの姿。
「はずって」
「私には、地上で見る木々の葉と変わらないように見える。ただ、水の中で育つ種類に心当たりがなくて」
 だから「はず」なのだとお姉さんは笑う。
「でもね、あなただって地上で暮らす人と変わらないようで、水の中を生きる人だもの。植物にだって同じようなことが起きたって不思議じゃない」
 そう、なのだろうか。私には知らないことが多すぎて、お姉さんの言葉が正しいのかを判断することができない。悪いものではないという言葉が、私を不安から解放するための嘘であったとしても、分からないのだ。確かめる方法も分からない。
 ぐるぐると、それでも少しずつ悪い方向へと進み始めようとした思考を止めたのは、不意に襲いかかってきた水飛沫。波の動きではなかった。ぱちぱちと瞼を動かし、いつの間にか屈み込んでいたお姉さんといつもよりも近い位置で目が合う。中途半端な位置で止まった腕がきらきらと輝いているのを見て、どうやらお姉さんに水をかけられたらしいことを理解する。呼吸のために一度潜り、再び浮上してもなお、お姉さんは変わらない体勢で待ってくれていた。
「あのね、明らかに悪いものならそれを隠すつもりなんてないし、仮に本当は悪いものでそれに私が気がつかなかったとしても、それは自業自得なの。そもそも、並大抵のものに私は脅かされないってこと、知っているでしょう」
 むしろ、滅多にない「並大抵でないもの」であったなら歓迎する、なんてあまりにも明るく言い放つものだから、抱えていた不安は霧散してしまう。お姉さんは「フロウフシ」なのだそうだ。昔に「ニンギョ」を食べたから。よく分からないのだけれど、怪我をしてもすぐに治ってしまう便利な身体なのだと説明をされた。だから並大抵のことでは死ぬこともないのだと。溺れることはないけれど、それでも陸の上で暮らすことに慣れてしまったから水中の息苦しさは不快だと聞いたこともある。あれは、発声練習の時だったか。
 お姉さんから返された葉を、月に透かしてみる。規則正しく走る線を「葉脈」と呼ぶのだと教えてくれた。葉の先端まで、水や空気を運ぶ管。海の底だ。水はたくさんある。でも、空気はどうだろう。この葉が連なっていたあの木は、どうしてあの場所で芽吹き、根を伸ばそうとしたのだろう。地上に連れ出してやることもできた。それをしなかったのは私だけれど、そこに根を張ったのはあの木だ。あの子の選択だ。きっと、大丈夫なのだろう。大丈夫だと思ったから、あの場所で育つことを決めたのだ。
 ひとまず、お姉さんにもこの木の正体がわからないことは分かった。それだけでも収穫だった。少なくとも、悪いものではなさそうだということも分かった。成長の速度はとても早いようだけれども、それだけだ。育つ環境が違うのだから育ち方も違うのかもしれない。今のところは、それでいい。
「それで、あなたはどうしたい? その木を取り除いてしまいたいのなら、そうね、近いうちに何か切るための道具を持ってくるけれど」
 切る。そんなこと、考えてもみなかった。居心地の良い私だけの船の中に入り込んできた異物ではあったけれど、排除したいわけではなかった。ただ、その正体を知りたかっただけだった。
「悪いものではない、んでしょう? それなら、私はこの子がどう育つのかを見てみたい。どんな花が咲いてどんな実をつけるのか、見てみたい」
 水だけはたくさんある。でも、空気は、光は。地上で育つよりもずっと過酷な環境だろう。そのような場所で芽吹いた木が、そのような場所で育つことを決めた子がどうなっていくのか、私はそれが見てみたい。
 切るという選択肢はお姉さんが出したものなのに、そこに拘りはないらしい。あっさりと私の希望を受け入れたお姉さんは、それなら会う度に成長報告をしてね、なんて朗らかに笑う。本当は自分で確認することが理想なのだけれど、水の中での過ごし方を忘れてしまったから。だから、しっかり観察して成長報告を聞かせてね、と。私よりもずっと長く生きているお姉さんが「知らない」ことなんて初めてで、だからそんなお願いをされたことなんて初めてで、なんとなく胸の奥がむず痒い。
 次の「報告」は近いうちに。それだけを約束して、お姉さんとの時間は終わり。人目につかないところで会うようにはしているけれど、ただ海に潜れば良い私とは違ってお姉さんは人に見つからないように帰らなければならない。か弱い女の人が夜遅くに一人で歩いている、という状況が見られてしまうと少し面倒くさいらしい。か弱いってなんだろう。よく分からない。次に会う時に教えてもらおうか。
 海から離れていくお姉さんの姿が見えなくなってから、私も私の居場所へと潜る。お姉さんがどこへと帰っていくのかを私は知らない。お姉さんの居場所が陸にあって、私の居場所は海にある。それだけで十分だった。いつの間にか握りしめていた掌をゆっくりと開く。くしゃくしゃになってしまった葉がまだそこにあることを確認して、そっと包み込むように抱え込む。もう手遅れだとは思うが、それでも、これ以上傷つけてしまわないように。謎の植物の葉は、特別な木の葉に変わった。

 出て行った時と変わりのない船の様子に、ほっと力が抜ける。第二の家ともいえるこの船を害することのできるような存在はこの辺りにいないはずだけれど、縄張りなんて餌場と共に移動するものだ。用心しすぎて困ることはない。
 ちらほらと泳いでいる魚達を見送ってから、出入口前に置いていった大きめの岩を体全体で転がして船の中へと戻る。お姉さんとの話が影響してか、出ていく前よりもずっと不思議な木であるように見えてきた。大切に持ち帰ってきた木の葉を根元に埋めてやって、そのまま手を幹へと滑らせ、耳をそっと押し当てる。ほのかに温かく、とくり、とくり、と鼓動が聞こえるような。生きている音だ。ごおごおという私の音とは違う音。広いと思っていた船室は、伸ばされた枝が「天井」を覆ってしまっている。これ以上大きくなりたければ、船の壁を突き破ってしまわなければならない。嫌だと思う自分と、この子ならばと許してしまう自分と。
 整理しきれない感情には蓋をして、ひとまずの現状を確認する。葉は青々と茂っていて、幹も枝もしなやかな強さを持っている。この場所が少し狭そうだということにさえ目を瞑ってしまえば概ね問題はなさそうだ。どうしてこの場所を選んだのかは分からないものの、この子も現状に満足しているように見える。今から言葉を教えていたら、いつか答えてくれるだろうか。どうしてここを選んだのか。ここが素敵な場所であることは私もよく知っているけれど、あなたも気に入ってくれたのか。
 沈んでからある程度の年数が経っているらしいこの船には、沈むきっかけとなった亀裂の他にも細々とした亀裂が走っている。この船室の「天井」にも亀裂はあって、そこから遥かな水面に思いを馳せることが好きだったのだが、今では枝葉によって隠されてしまっている。幹に背を預けながら、遠くなってしまった水面を恋しく思う。決して、その場所へ行けないわけではないのだ。現に、先程まで水面から顔を出してお姉さんと会っていた。だが、それでも普段過ごしているのは水の中、海の底。水面と、それからその遥か上に広がる空に夢を見たくなる。この子も、そうなのだろうか。地に根を張ってしまったせいで空を見ることのできない子。だから、枝を伸ばすのだろうか。
 幹に背を預けて瞼を下ろそうとしたその時――葉と葉の間を星が流れた。
 ぎゅっと一度強く目を瞑り、ゆっくりと開く。何だったのか。見間違いだったのか。流れた星はどこに隠れてしまったのか、もう確認することができない。それでも正体を確かめたくて、しきりに目を凝らす。そして。
「あ」
 また、流れた。今度は先程も少し大きく、そして長く。
 見失わないよう、急いでその場所まで浮上する。不規則な動きをするそれに手を伸ばし、水の流れで驚かさないよう慎重に囲い込む。ゆったりとした速度で光を点滅させるそれを捕まえはしたものの、目前を流れるように泳ぐ「星」は数を増すばかり。どうやら群れでやって来たらしい。
 両手を離すと、すぐにその隙間から飛び出して行った一匹。点滅する小さな星。逃げ出したそれを追いつつ葉の間を泳ぎ回る彼らをじっと観察していると、どうやら若く柔らかな新芽を啄んでいるらしい。初めて見る魚達だ。ほぼずっとと言ってもいいほどに長い時間、この場所でこの子を眺めて過ごしてきた。それでも見覚えがないのだから、きっと彼らも来訪は初めてなのだろう。どこか別の餌場から、移動してきたのかもしれない。でも、どうして。
 星のような魚達は数こそ多いものの、その体が随分と小さいお陰で葉が食べ尽くされることもなさそうだった。ゆっくりと根元へと戻って座り直す。自由に泳ぎ回る光の魚達を眺めながら、彼らはこの子に呼ばれたのかもしれないと思った。海底で、しかも難破船の中であるとはいえ、この場所は全くの暗闇というわけではなかった。これまでは時折届く僅かな光でも満足していた、或いは満足であるよう誤魔化していたのだけれど、これ以上の成長は難しいから「光」を呼び込もうとしたのでは、と。方法は、そう、彼らの餌となる証の匂いだとか、私がお姉さんに呼ばれるように音だとか。原理はどうであれ、この子もこの子なりに環境へ順応しようとした結果なのかもしれない。

 ほんの少しだけ流れに逆らったところに、その場所はある。僅かに口を開けている隙間から中へと潜り込み、狭い通路を進んだ先に広がる空間には大切な宝物が息づいている。適当なところに腰を下ろし、静かに上を見る。波に揺らめく枝葉の間を、煌めく星々が流れていく。誰にも邪魔をされないでそれを眺めることが、私の新しい娯楽のひとつ。
「ただいま。今日はね、お姉さんに歌を教えてもらっていたの」
 お姉さんに教わったことをこの子に教えることも、私の大切な時間に加わった。地上を未だ見たことのないこの子。もしかしたら知らないままに一生を終えてしまうかもしれない子。いつか言葉を覚えたら、この世界がどう見えているのかを教えてくれるだろうか。
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