ゆめうつつに、こい。
慣習として「ただいま」と口にはしたものの、鶴丸は直後に失敗したと思った。
時計の短針は既に頂点を通り過ぎ、朝へと歩を進めている午前二時。新入社員への教育をして、自らの業務を終わらせて、さあ帰ろうか、というところで他部署にもかかわらず気に入ってくれている上司に出会って飲み会へ。なかなかにハードな一日であったから、少しばかりぼんやりとしていたのかもしれない。
(頼むから起きてくれるなよ)
扉を開ける直前までは覚えていた筈の気遣いは、家へと帰ってきたのだという安心感から抜け落ちてしまっていた。
鶴丸よりも先に帰宅していた同居人へは、事情を説明する連絡を済ませていた。人付き合いも仕事の一環ですからね、と送り出してはくれたけれど、あまり遅くなりすぎないように、と釘を刺されてもいた。果たして、この時間帯は同居人に許されるものであるだろうか。
あまり大きな音を立てないようにして、リビングへと続く廊下をゆっくりと歩く。心臓の忙しさ、滲む手汗の感覚は、正にお偉いさん達の前で大きな企画についてプレゼンをする直前のそれだ。アルコールはまだ残っているものの、冷静な思考力が戻ってくる。リビングの電気は、幸か不幸か点いたまま。それは、暗い部屋に帰ることのないように、という彼からの気遣いなのか、それとも帰りの遅い鶴丸を詰るために待ってくれているからなのか。
リビングと廊下とを隔てている扉を、ゆっくりと押し開ける。きぃ、と小さく音を立てる金具のせいで冷や汗が流れた。恐る恐る確認した室内は、電灯こそ点けっぱなしにされているものの、人影はない。少なくとも、目視できる範囲には。知らず縮こまっていた背を伸ばし、少し悩んだものの鶴丸は扉を開けたままにしておくことにした。閉める際にも音は鳴ってしまう。余計な危険な橋は、渡りたくないのだ。
机の上には、五〇〇ミリリットルの水。横には綺麗な字で「一本を飲み切ってから眠ってください」と書かれたメモが添えてある。リビングを見渡しても一期が隠れているようには見えず、どうやら、電灯は彼からの優しさであったらしいことに頬が緩む。用意された常温の水も含め、酔いの回った脳はその喜びを短絡的に表現しろと命令を下して。
もう眠っているだろう、という当たり前のことを思考の隅へと追いやって、鶴丸は一期の部屋へと足を向けた。優しい恋人への愛しさを、感謝を伝えなければという使命感のみが身体を動かしている。音を立てないようにしているのは、相手を起こさないようにすることが目的だ。しかし、それもまた、自分が行動を起こす前に気付かれてしまっては面白くない、という理由へとすり替わってしまっていた。
ペットボトルを片手に、来た道を数歩戻った。先ほどは素通りしたその場所に、目的地はある。そっと扉を開くと、薄暗い部屋の中、ベッドには山が一つ。耳を澄ませると、小さな寝息が聞こえてきて。
途端に、緊張がぶり返してきた。ペットボトルのキャップを外す音すらも響いているようで、一期が起きやしないかと注意を払いながら、ゆっくりと水を取り入れる。温くなっているはずのそれが冷たく感じられ、自覚はしていなかったものの、思っていた以上にアルコールを摂取してしまっていたのだなとどこか客観的に分析する。それは、わずかに残っていたらしい理性が分析結果を伝えてきているだけであり、やはり、鶴丸の感情の大部分は「粟田口一期へ愛を叫べ」と主張を繰り返している。
足音を忍ばせ、枕とタオルケットを抱き込むようにして眠っている彼の顔を覗き込んで。
「……一期?」
暗がりの中、滑り落ちる光が見えた。すっと頭が冷え、閉じられたままの眦に指先を寄せる。濡れた軌跡をなぞっている間にも、再び流れようとしたそれが鶴丸の指先で進路を変えた。それもまとめて拭いながら、一期の顔を覗き込む。しかし、眉間に皺が寄っているわけでもなく、一見しただけでは普段通りの寝顔なのだ。だから、すぐには気が付くことができなかった。いつも通りの穏やかな表情で、しかし、静かに涙を零しているのだ。
ペットボトルをベッドに転がし、一期の上に覆いかぶさるように両手をつく。もう、彼が目覚めないようにという気遣いなどそこにはなかった。むしろ、起こすべきであるような気がした。悪夢、ではないのだろう。それでも、彼は涙を流している。理由はそれだけで十分だった。
何度か名を呼び、身体を優しく揺する。何を見ているのかは知らないけれど、早く目を覚まして俺を見ろ、と。
「ん……つ、るまる、どの?」
「寝惚けてるな? ただいま」
「……何時ですか、今」
それよりも先に言うことは、と水を向けて何とか「おかえりなさい」の言葉を引きずり出す。時間を問う言葉は無視をした。こんな時間に帰ってきたのかだとか、どうしてこんな時間に起こしたのだだとか、そんな叱責があることは目に見えていたからだ。
時計を確認しようとした一期の邪魔をするように、鶴丸は両腕の力を抜いた。当然、そのまま身体はベッドへと。逃げられない一期の上へ直接的な衝撃が向かわぬようにと気遣いはしたが、半ばのしかかるようにしながら収まりの良い位置を探す。
しっかりとは覚醒していなかった一期も、鶴丸のこの行動で少しばかりではあるが頭がさえたらしかった。酒臭いです、だとか、着替えてないじゃないですか、だとか、水はちゃんと飲んだんですか、だとか。徐々に内容が鶴丸を気遣うものへと変化していくことに胸の奥がむず痒くなる。ふふふ、と笑いながら一期の言葉を聞き流しつつ、焼き付いて離れないのは先ほどの泣き顔。穏やかに眠りながら、流された滴。
「……なあ、どんな夢を見ていたんだ?」
「夢、ですか」
寝惚けていた様子から察するに時代劇か、なんて茶化してやると、恥ずかしがった一期は赤くなりながら言い返す。そのはずだった。
薄れようとする記憶を捕まえようと、どこか遠くを見ながら一期は夢の内容を紡ぐ。そこには見慣れた顔触れがあって、共に暮らしていて、刀を握って敵を倒していて。いつか、誰もが夢見る世界がそこにはあったのだという。戦って、勝って、世界を守る。そんな、漫画のような設定の話。
「楽しそうだな」
「ええ、とても楽しかった」
ふわりと笑う一期の横顔を見ていた鶴丸だったが、鶴丸へと向けられた一期の眼差しに、その中にある複雑な色に戸惑う。閉じ込められている星は、生きているのか、それとも。
「……貴方が、眠ってしまうまでは、とても楽しかったのです」
「俺もいたのか。というか、眠って?」
「そう、眠って」
ある日、目覚めなくなってしまった鶴丸の側で、一期はずっと待っていたのだという。朝も、昼も、夜も。みっともなく縋りつくことだけは、プライドが許さなかった。だからじっと、静かに座って。
「そうすれば、目覚めた鶴丸殿が最初に紡ぐのは自分の名であると、そう信じて」
薄暗く閉じた部屋の中で、息を潜めて待っていた。すると何故だか己の名を呼ぶ声は部屋の外から聞こえ、そちらへ意識を向けると同時に目が覚めたのだ、と。
なるほど、だから夢の中での呼び方に引きずられていたのか、と理解した。どういった設定の世界であったのかは分かりにくい部分も多いが、刀を武器としているくらいだ。鶴丸殿、だなんてどこかくすぐったい呼び方も、そこではきっと 馴染んでいた。
「逆転したな」
「ふふ、そうですね」
夢の中では鶴丸が眠り、一期がその目覚めを待っていた。しかし、現実には一期が眠り、鶴丸がその目覚めを待っていた。目覚めた男が口にしたのは、鶴丸の名であった。穏やかに、しかしどこかほっとした様子で笑う一期は、自身が泣いていたことに気が付いていないのかもしれない。それで良かった。
本当は風呂に入ってから、せめて着替えてから眠るつもりだった。一期が用意してくれたペットボトルは飲み切って、それから眠るつもりだった。けれど、全てを明日の朝へと先送りにしてしまって、今はもう眠ってしまおうと思った。
安心したからなのか、アルコールのせいなのか、穏やかな一期のせいなのか。心地よい眠りが鶴丸のすぐ傍にまでやってきていて、もう、動くことが億劫になってしまっている。それに、今ならば言い訳が許されるような気がして。
「このまま眠ってしまえば、安心だな」
「……今度は貴方が名を呼ぶ番ですよ、鶴丸さん」
約束をするように指を絡めて、そして静かに瞼を下ろす。ゆるやかに沈みゆく暗闇の中で、星を閉じ込めた色を引き寄せた。
時計の短針は既に頂点を通り過ぎ、朝へと歩を進めている午前二時。新入社員への教育をして、自らの業務を終わらせて、さあ帰ろうか、というところで他部署にもかかわらず気に入ってくれている上司に出会って飲み会へ。なかなかにハードな一日であったから、少しばかりぼんやりとしていたのかもしれない。
(頼むから起きてくれるなよ)
扉を開ける直前までは覚えていた筈の気遣いは、家へと帰ってきたのだという安心感から抜け落ちてしまっていた。
鶴丸よりも先に帰宅していた同居人へは、事情を説明する連絡を済ませていた。人付き合いも仕事の一環ですからね、と送り出してはくれたけれど、あまり遅くなりすぎないように、と釘を刺されてもいた。果たして、この時間帯は同居人に許されるものであるだろうか。
あまり大きな音を立てないようにして、リビングへと続く廊下をゆっくりと歩く。心臓の忙しさ、滲む手汗の感覚は、正にお偉いさん達の前で大きな企画についてプレゼンをする直前のそれだ。アルコールはまだ残っているものの、冷静な思考力が戻ってくる。リビングの電気は、幸か不幸か点いたまま。それは、暗い部屋に帰ることのないように、という彼からの気遣いなのか、それとも帰りの遅い鶴丸を詰るために待ってくれているからなのか。
リビングと廊下とを隔てている扉を、ゆっくりと押し開ける。きぃ、と小さく音を立てる金具のせいで冷や汗が流れた。恐る恐る確認した室内は、電灯こそ点けっぱなしにされているものの、人影はない。少なくとも、目視できる範囲には。知らず縮こまっていた背を伸ばし、少し悩んだものの鶴丸は扉を開けたままにしておくことにした。閉める際にも音は鳴ってしまう。余計な危険な橋は、渡りたくないのだ。
机の上には、五〇〇ミリリットルの水。横には綺麗な字で「一本を飲み切ってから眠ってください」と書かれたメモが添えてある。リビングを見渡しても一期が隠れているようには見えず、どうやら、電灯は彼からの優しさであったらしいことに頬が緩む。用意された常温の水も含め、酔いの回った脳はその喜びを短絡的に表現しろと命令を下して。
もう眠っているだろう、という当たり前のことを思考の隅へと追いやって、鶴丸は一期の部屋へと足を向けた。優しい恋人への愛しさを、感謝を伝えなければという使命感のみが身体を動かしている。音を立てないようにしているのは、相手を起こさないようにすることが目的だ。しかし、それもまた、自分が行動を起こす前に気付かれてしまっては面白くない、という理由へとすり替わってしまっていた。
ペットボトルを片手に、来た道を数歩戻った。先ほどは素通りしたその場所に、目的地はある。そっと扉を開くと、薄暗い部屋の中、ベッドには山が一つ。耳を澄ませると、小さな寝息が聞こえてきて。
途端に、緊張がぶり返してきた。ペットボトルのキャップを外す音すらも響いているようで、一期が起きやしないかと注意を払いながら、ゆっくりと水を取り入れる。温くなっているはずのそれが冷たく感じられ、自覚はしていなかったものの、思っていた以上にアルコールを摂取してしまっていたのだなとどこか客観的に分析する。それは、わずかに残っていたらしい理性が分析結果を伝えてきているだけであり、やはり、鶴丸の感情の大部分は「粟田口一期へ愛を叫べ」と主張を繰り返している。
足音を忍ばせ、枕とタオルケットを抱き込むようにして眠っている彼の顔を覗き込んで。
「……一期?」
暗がりの中、滑り落ちる光が見えた。すっと頭が冷え、閉じられたままの眦に指先を寄せる。濡れた軌跡をなぞっている間にも、再び流れようとしたそれが鶴丸の指先で進路を変えた。それもまとめて拭いながら、一期の顔を覗き込む。しかし、眉間に皺が寄っているわけでもなく、一見しただけでは普段通りの寝顔なのだ。だから、すぐには気が付くことができなかった。いつも通りの穏やかな表情で、しかし、静かに涙を零しているのだ。
ペットボトルをベッドに転がし、一期の上に覆いかぶさるように両手をつく。もう、彼が目覚めないようにという気遣いなどそこにはなかった。むしろ、起こすべきであるような気がした。悪夢、ではないのだろう。それでも、彼は涙を流している。理由はそれだけで十分だった。
何度か名を呼び、身体を優しく揺する。何を見ているのかは知らないけれど、早く目を覚まして俺を見ろ、と。
「ん……つ、るまる、どの?」
「寝惚けてるな? ただいま」
「……何時ですか、今」
それよりも先に言うことは、と水を向けて何とか「おかえりなさい」の言葉を引きずり出す。時間を問う言葉は無視をした。こんな時間に帰ってきたのかだとか、どうしてこんな時間に起こしたのだだとか、そんな叱責があることは目に見えていたからだ。
時計を確認しようとした一期の邪魔をするように、鶴丸は両腕の力を抜いた。当然、そのまま身体はベッドへと。逃げられない一期の上へ直接的な衝撃が向かわぬようにと気遣いはしたが、半ばのしかかるようにしながら収まりの良い位置を探す。
しっかりとは覚醒していなかった一期も、鶴丸のこの行動で少しばかりではあるが頭がさえたらしかった。酒臭いです、だとか、着替えてないじゃないですか、だとか、水はちゃんと飲んだんですか、だとか。徐々に内容が鶴丸を気遣うものへと変化していくことに胸の奥がむず痒くなる。ふふふ、と笑いながら一期の言葉を聞き流しつつ、焼き付いて離れないのは先ほどの泣き顔。穏やかに眠りながら、流された滴。
「……なあ、どんな夢を見ていたんだ?」
「夢、ですか」
寝惚けていた様子から察するに時代劇か、なんて茶化してやると、恥ずかしがった一期は赤くなりながら言い返す。そのはずだった。
薄れようとする記憶を捕まえようと、どこか遠くを見ながら一期は夢の内容を紡ぐ。そこには見慣れた顔触れがあって、共に暮らしていて、刀を握って敵を倒していて。いつか、誰もが夢見る世界がそこにはあったのだという。戦って、勝って、世界を守る。そんな、漫画のような設定の話。
「楽しそうだな」
「ええ、とても楽しかった」
ふわりと笑う一期の横顔を見ていた鶴丸だったが、鶴丸へと向けられた一期の眼差しに、その中にある複雑な色に戸惑う。閉じ込められている星は、生きているのか、それとも。
「……貴方が、眠ってしまうまでは、とても楽しかったのです」
「俺もいたのか。というか、眠って?」
「そう、眠って」
ある日、目覚めなくなってしまった鶴丸の側で、一期はずっと待っていたのだという。朝も、昼も、夜も。みっともなく縋りつくことだけは、プライドが許さなかった。だからじっと、静かに座って。
「そうすれば、目覚めた鶴丸殿が最初に紡ぐのは自分の名であると、そう信じて」
薄暗く閉じた部屋の中で、息を潜めて待っていた。すると何故だか己の名を呼ぶ声は部屋の外から聞こえ、そちらへ意識を向けると同時に目が覚めたのだ、と。
なるほど、だから夢の中での呼び方に引きずられていたのか、と理解した。どういった設定の世界であったのかは分かりにくい部分も多いが、刀を武器としているくらいだ。鶴丸殿、だなんてどこかくすぐったい呼び方も、そこではきっと 馴染んでいた。
「逆転したな」
「ふふ、そうですね」
夢の中では鶴丸が眠り、一期がその目覚めを待っていた。しかし、現実には一期が眠り、鶴丸がその目覚めを待っていた。目覚めた男が口にしたのは、鶴丸の名であった。穏やかに、しかしどこかほっとした様子で笑う一期は、自身が泣いていたことに気が付いていないのかもしれない。それで良かった。
本当は風呂に入ってから、せめて着替えてから眠るつもりだった。一期が用意してくれたペットボトルは飲み切って、それから眠るつもりだった。けれど、全てを明日の朝へと先送りにしてしまって、今はもう眠ってしまおうと思った。
安心したからなのか、アルコールのせいなのか、穏やかな一期のせいなのか。心地よい眠りが鶴丸のすぐ傍にまでやってきていて、もう、動くことが億劫になってしまっている。それに、今ならば言い訳が許されるような気がして。
「このまま眠ってしまえば、安心だな」
「……今度は貴方が名を呼ぶ番ですよ、鶴丸さん」
約束をするように指を絡めて、そして静かに瞼を下ろす。ゆるやかに沈みゆく暗闇の中で、星を閉じ込めた色を引き寄せた。