二次log
クラスが変わって最初のうちは、名前の順で座席が決まっている。日本の総人口が何人なのかは忘れたけれど、五十音のうち同じ音で始まる名前にはあまり出会ったことが――ない、と言いたかったのだけれども、よくよく思い出してみるとそうでもなかった。小学生の頃には「ハシモト」だとか「ハシグチ」だとか、そんな苗字の誰かがいたような気がする。同じクラスだったのかどうかまでは覚えていないけれど。日々、それどころではなかったので。中学生の頃も、似たようなものだった。別の小学校区から「ハシモト」がもう一人か二人か出現したような気がする。いや、もしかすると「ハシグチ」の方だったかもしれない。
中卒で働いたって良かったのだけれど、せめて高校には通ってほしい、と母親に泣き落とされたので通信制の高校に通うことにした。身体的にも精神的にも不安定だった母親は、怪我やストレスの要因となっていたクソ野郎から離れられたことで多少落ち着き、短時間ながらパートに出るようになっていた。それでも、ただそれだけでは家族三人の生活を守ることで精一杯で、私の学費なんて工面できるはずもない。今は母親の実家に身を寄せてサポートをしてもらっているけれど、まさか「高校の学費を出してください」なんて言えるはずもない。私だけならばまだしも、弟だっているのだから。加えて必要なのは、まだ不安定な部分もある母親の病院代。詰まるところ、せめて高校には行ってほしい母親と、お金の面で現実を見ろという私との盛大な親子喧嘩が勃発したわけである。
通信制の高校を選んだのは、そうすれば時間が作りやすいからだった。勉強をしつつ働いて、家のことをして。暴力を見て育ったからなのか、単に地域の治安が悪いのか、弟は随分と「やんちゃ」になってくれやがった。その元気を世話になっている祖父母や母親に返せと言ってやりたいが、血で汚れても、泥に塗れても、服を破いても、楽しそうに過ごしている姿に当人たちがホッと胸を撫で下ろしているようであったから強くは言えない。やり過ぎるようならあのクソ野郎と一緒だよ、と釘を刺すくらいしかできない私も、同罪なのだろう。部屋の片隅で小さくなって震え、怯えている姿をもう二度と見たくはないので、気持ちは分かってしまうのだ。
ああ、前振りが長くなってしまった。そう、同じ音で始まる名の人の話。知り合いがそれほど多くはないので自信を持っては言えないが、それでも「ハ」の音で始まる仲間を私はあまり知らない。ざっと学年名簿に目を通してみたら、同じ学年には私と、クラスに一人。別のクラスにもう一人居るようだけれど、それは同じクラスのやつと兄弟であるようなのでノーカンだ。
知っている「ハ」は「ハシ」系統ばかりであったので、それ以外のお仲間となると何だか嬉しい。仲良くなれたらいいな、と思いつつ過ごすこと、数ヶ月。座席は前後であるというのに、仲良くなるどころか顔すら合わせたことがない、というのはどういうことなのか。
通信制とは言うが、年に何度かは学校へと登校しなければならない。もちろん、私のように働いている生徒もいるので、登校日は人によって様々だ。それは、分かっている。分かっているのだ。だから見事に登校日がすれ違っているだけなのかと思いきや、ちゃんと「登校者一覧」に名前が上がっているのだから奴はれっきとしたサボり野郎である。何か事情があるのかもしれない、とは思った。学びたいと考えて入学したけれど、思いのほか、勉学以外の場所で忙しくなってしまったから、といったような事情が。ただ、珍しく夕飯を一緒に食べる機会のあった弟に「クラスに全然出席してこない灰谷ってやつがいるんだけどさ」と漏らしたところ、もしかしてそれは「灰谷蘭」という男ではないか、違ったとしてそれは「灰谷竜胆」という男ではないか、と反応があった。やんちゃしている弟の口から名前が出てくる時点で、お察しである。
高校へ通えと言う母親と喧嘩をしたとはいえ、決して、通いたくないわけではなかった。学ぶ機会が十分ではなかった小学生、中学生の頃を埋めるように、取り戻すように、勉強をしてみたいとは思っていた。それでも、家庭環境がそれを許してくれるとは思っていなかったから。実現するためにまた、母親が無理をして倒れてしまっては意味がないから、だから喧嘩になったのだ。今時「サムイ」と笑われてしまうかもしれないけれど、私にとって学校に通うことは、特別なことだったのだ。学んで、友達と仲良くなって、遊んで。そんな学生生活を楽しんでみたいと思っていたし、その友達の中に「ハ」仲間さんを含めることだって、名前の順に座らされる学校での学生らしいことだと思っていたので楽しみにしていたのだ。(ちなみに、私の次は山岡さん。ハ行どころかマ行も飛ばしてしまっている、社会人生活云十年の大先輩である。)
それを? 喧嘩が理由の忙しさで登校してこない??
入学金だって、学費だって、教材費だって馬鹿にならない。出すよ、と言ってくれる祖父母には申し訳なくて、働いて返すからと「借金」をして、そうして必死になっている私とは大違い。どういった事情で通信制高校を選択をしたのか、なんて、顔を合わせたことすらないのだから知るはずもない。分かっているのは「灰谷兄弟はせっかく入学した学校に一度も来ていない」ということ、「灰谷兄弟はそこそこ名の知れたワルである」ということである。背後に転がっているであろう事情なんてクソ喰らえ。見えていないのならば無いも同じ。従って。
「なぁそこ私の席なんだけど」
「あっそ」
「授業始まるからとっととどけや――ってストレートに言わないと伝わんないかな?」
そっかぁ、ごめんねぇ、と心にも無い謝罪を口にしてやれば、やれやれ、ワルらしく沸点が低いのか相手の機嫌が急降下したのが分かった。とはいえ、こちとら可愛い弟と日々大乱闘している仲である。可愛い可愛い弟は、カッとなるとすぐにその場にある何かを振り回してきやがるものだからタチが悪い。男ならば己の肉体を武器にしろ、とは散々言い聞かせているのだけれど、咄嗟に何かを掴んでしまうのは幼少期の記憶が根強く残ってしまっているのだろうか。なけなしの反撃が、簡単にいなされてしまった苦い記憶が。いや、今は可愛い可愛い可愛い弟のことではないのだ。ずっと空席だった「灰谷蘭」の席に座る男と、その後ろの席、つまりは私の席に我が物顔で座る男と。顔立ちが「灰谷蘭」とよく似ているので、彼が「灰谷竜胆」だろうか。
相手とは初対面だとか、相手が不良だとか、そんなことはもう関係がなかった。学校に来ない時点で好感度はマイナススタート、不良なんて帰れば家で待ち構えているし、居なければこちらが待ち構えている、どころかこちらから捕獲しに行く。だって、まだ中学生。あんなでも可愛い可愛い可愛い可愛い弟なので、長生きしてほしい。そのためには早寝早起きバランスの良い食事、これ、大事。
始業のチャイムが鳴ったというのに、推定灰谷竜胆は席を立とうとしなかった。どころか、動く気がないという意思表示のつもりか机の天板に上半身を預けつつ、推定灰谷蘭との会話を続け始めやがった。よろしい、ならば戦争である。
――ガッ
振りかぶったカバンを、勢いよく机にぶつける。そのままスライドする机に身体を持っていかれそうになって、随分と間抜けな格好になりながらもこちらを見上げてくる、その表情といったら!
「ああ、ごめんなさい。ちょっとカバンがぶつかっちゃって。当たってない? 怪我しなかったかな?」
後半はわざとらしく、猫撫で声で。間接的に攻撃を受けた男の機嫌が悪くなる空気を感じ取ったらしく、大きな音に集まってしまった視線は方々へと散る。
「ほら、通路狭いのにカバンが大きくて。悲しいことに、色々詰め込んだら重たくなっちゃってさぁ」
手が疲れてきちゃって、落とすかも。
そんなことを口走る前に、はぁぁぁぁぁぁぁ、と長い長い溜息が聞こえてきた。発生源は推定灰谷竜胆だ。そう言えば、この二人、どちらが兄でどちらが弟なのか。
「帰る」
のそりと立ち上がり、一言それだけを残した推定灰谷竜胆は、おそらくきっと自分が所属するクラスの教室へと戻っていった。帰る、と言うのでそのまま家まで戻ってしまうのかとも思ったのだけれど、昇降口に近い階段は反対側だし、何より、兄弟の推定灰谷蘭が未だ残っている。大きく動いてしまった机をずるずると引き摺りながら、後ろ向きに座ったまま、つまりはこちらを向いたままのクラスメイトを敢えて無視して着席する。
「随分ぶっ飛んでんな」
「ほら、私ってば花のじぇーけーだから」
にやにやと笑っている表情が胡散臭すぎて仕方ないのだけれど、事実なのだから花のじぇーけーを名乗って何が悪い。
「じゃあ花のじぇーけー、名前は?」
「名簿」
「読めねぇ」
「捨ててなかったんだ」
「いや、捨てたけど」
捨てる前に、一通り名前に目を通して読める読めないだとか性別当てゲームを兄とやったのだとか。つまり、推定灰谷蘭は弟であるらしい。
「あー、なんかゲームする流れ含めて分かる。私もやった」
「一人で? さみしいな」
「うるさいな、弟とだよ」
で、名前は、と催促をされたものだから、何となく咳払いをして空気を切り替える。そう、私は花のじぇーけー。楽しく高校生を満喫するのだ。
「羽の宮と書いてハネミヤ、まではおーけー?」
「おーけー。こちら、灰の谷と書いてハイタニな」
名乗り返せ、と目で訴えればきっちりと伝わったらしい。何やらおかしい気もするが、まあ、名乗り合っているのだから良いだろう。
「読めなかったのはここからっしょ。一の蝶と書いてイチョウと読む当て字です。どうぞよろしく」
「あー、なる。まあ、俺も当て字っちゃ当て字か……? 竜の、なんだ? 胆と書いてリンドウですどうぞヨロシク?」
リンドウ? リンドウ。
名前の読みを確かめたい訳ではなかったのだが、復唱してしまった。推定灰谷蘭は灰谷竜胆で、推定灰谷竜胆は灰谷蘭だった?
「じゃあ、クラス違うじゃん! 何で戻るっつって蘭の方が出てった!?」
「せんせー入れ替わりに気付くかなー、みたいな?」
「初登校で分かるわけないっしょ馬鹿じゃない?」
「入学式には出たし」
「そんな派手な髪色見てないけど」
「怠かったから校門まできてそのまま帰った」
「出てないじゃん?」
「学校までは来たから出席だろ」
と、ここで担任が教室へ来て「灰谷蘭」が座っていることに驚き、やっと来てくれたんだ、とそんな反応をしたものだから即座に「そいつは灰谷竜胆の方らしいですよ」と告げ口をしてやった。途端、隣の教室まで届くような爆音で「兄ちゃーん! バレたー!!」と叫んで笑いやがった男の座る椅子を全力で蹴り上げた私は、きっと悪くないはずだ。
◇灰谷蘭(高一の姿)
弟がいるクラスメイト。通路が狭いせいでぶつかったカバンにちょっとびっくりした。
◇灰谷竜胆(高一の姿)
兄がいる別クラスの人。通路が狭いせいでぶつかったカバンにちょっとびっくりした。
◇羽宮一蝶(高一の姿)
弟がいる。通路が狭いせいでカバンの幅を見誤ってしまった。
中卒で働いたって良かったのだけれど、せめて高校には通ってほしい、と母親に泣き落とされたので通信制の高校に通うことにした。身体的にも精神的にも不安定だった母親は、怪我やストレスの要因となっていたクソ野郎から離れられたことで多少落ち着き、短時間ながらパートに出るようになっていた。それでも、ただそれだけでは家族三人の生活を守ることで精一杯で、私の学費なんて工面できるはずもない。今は母親の実家に身を寄せてサポートをしてもらっているけれど、まさか「高校の学費を出してください」なんて言えるはずもない。私だけならばまだしも、弟だっているのだから。加えて必要なのは、まだ不安定な部分もある母親の病院代。詰まるところ、せめて高校には行ってほしい母親と、お金の面で現実を見ろという私との盛大な親子喧嘩が勃発したわけである。
通信制の高校を選んだのは、そうすれば時間が作りやすいからだった。勉強をしつつ働いて、家のことをして。暴力を見て育ったからなのか、単に地域の治安が悪いのか、弟は随分と「やんちゃ」になってくれやがった。その元気を世話になっている祖父母や母親に返せと言ってやりたいが、血で汚れても、泥に塗れても、服を破いても、楽しそうに過ごしている姿に当人たちがホッと胸を撫で下ろしているようであったから強くは言えない。やり過ぎるようならあのクソ野郎と一緒だよ、と釘を刺すくらいしかできない私も、同罪なのだろう。部屋の片隅で小さくなって震え、怯えている姿をもう二度と見たくはないので、気持ちは分かってしまうのだ。
ああ、前振りが長くなってしまった。そう、同じ音で始まる名の人の話。知り合いがそれほど多くはないので自信を持っては言えないが、それでも「ハ」の音で始まる仲間を私はあまり知らない。ざっと学年名簿に目を通してみたら、同じ学年には私と、クラスに一人。別のクラスにもう一人居るようだけれど、それは同じクラスのやつと兄弟であるようなのでノーカンだ。
知っている「ハ」は「ハシ」系統ばかりであったので、それ以外のお仲間となると何だか嬉しい。仲良くなれたらいいな、と思いつつ過ごすこと、数ヶ月。座席は前後であるというのに、仲良くなるどころか顔すら合わせたことがない、というのはどういうことなのか。
通信制とは言うが、年に何度かは学校へと登校しなければならない。もちろん、私のように働いている生徒もいるので、登校日は人によって様々だ。それは、分かっている。分かっているのだ。だから見事に登校日がすれ違っているだけなのかと思いきや、ちゃんと「登校者一覧」に名前が上がっているのだから奴はれっきとしたサボり野郎である。何か事情があるのかもしれない、とは思った。学びたいと考えて入学したけれど、思いのほか、勉学以外の場所で忙しくなってしまったから、といったような事情が。ただ、珍しく夕飯を一緒に食べる機会のあった弟に「クラスに全然出席してこない灰谷ってやつがいるんだけどさ」と漏らしたところ、もしかしてそれは「灰谷蘭」という男ではないか、違ったとしてそれは「灰谷竜胆」という男ではないか、と反応があった。やんちゃしている弟の口から名前が出てくる時点で、お察しである。
高校へ通えと言う母親と喧嘩をしたとはいえ、決して、通いたくないわけではなかった。学ぶ機会が十分ではなかった小学生、中学生の頃を埋めるように、取り戻すように、勉強をしてみたいとは思っていた。それでも、家庭環境がそれを許してくれるとは思っていなかったから。実現するためにまた、母親が無理をして倒れてしまっては意味がないから、だから喧嘩になったのだ。今時「サムイ」と笑われてしまうかもしれないけれど、私にとって学校に通うことは、特別なことだったのだ。学んで、友達と仲良くなって、遊んで。そんな学生生活を楽しんでみたいと思っていたし、その友達の中に「ハ」仲間さんを含めることだって、名前の順に座らされる学校での学生らしいことだと思っていたので楽しみにしていたのだ。(ちなみに、私の次は山岡さん。ハ行どころかマ行も飛ばしてしまっている、社会人生活云十年の大先輩である。)
それを? 喧嘩が理由の忙しさで登校してこない??
入学金だって、学費だって、教材費だって馬鹿にならない。出すよ、と言ってくれる祖父母には申し訳なくて、働いて返すからと「借金」をして、そうして必死になっている私とは大違い。どういった事情で通信制高校を選択をしたのか、なんて、顔を合わせたことすらないのだから知るはずもない。分かっているのは「灰谷兄弟はせっかく入学した学校に一度も来ていない」ということ、「灰谷兄弟はそこそこ名の知れたワルである」ということである。背後に転がっているであろう事情なんてクソ喰らえ。見えていないのならば無いも同じ。従って。
「なぁそこ私の席なんだけど」
「あっそ」
「授業始まるからとっととどけや――ってストレートに言わないと伝わんないかな?」
そっかぁ、ごめんねぇ、と心にも無い謝罪を口にしてやれば、やれやれ、ワルらしく沸点が低いのか相手の機嫌が急降下したのが分かった。とはいえ、こちとら可愛い弟と日々大乱闘している仲である。可愛い可愛い弟は、カッとなるとすぐにその場にある何かを振り回してきやがるものだからタチが悪い。男ならば己の肉体を武器にしろ、とは散々言い聞かせているのだけれど、咄嗟に何かを掴んでしまうのは幼少期の記憶が根強く残ってしまっているのだろうか。なけなしの反撃が、簡単にいなされてしまった苦い記憶が。いや、今は可愛い可愛い可愛い弟のことではないのだ。ずっと空席だった「灰谷蘭」の席に座る男と、その後ろの席、つまりは私の席に我が物顔で座る男と。顔立ちが「灰谷蘭」とよく似ているので、彼が「灰谷竜胆」だろうか。
相手とは初対面だとか、相手が不良だとか、そんなことはもう関係がなかった。学校に来ない時点で好感度はマイナススタート、不良なんて帰れば家で待ち構えているし、居なければこちらが待ち構えている、どころかこちらから捕獲しに行く。だって、まだ中学生。あんなでも可愛い可愛い可愛い可愛い弟なので、長生きしてほしい。そのためには早寝早起きバランスの良い食事、これ、大事。
始業のチャイムが鳴ったというのに、推定灰谷竜胆は席を立とうとしなかった。どころか、動く気がないという意思表示のつもりか机の天板に上半身を預けつつ、推定灰谷蘭との会話を続け始めやがった。よろしい、ならば戦争である。
――ガッ
振りかぶったカバンを、勢いよく机にぶつける。そのままスライドする机に身体を持っていかれそうになって、随分と間抜けな格好になりながらもこちらを見上げてくる、その表情といったら!
「ああ、ごめんなさい。ちょっとカバンがぶつかっちゃって。当たってない? 怪我しなかったかな?」
後半はわざとらしく、猫撫で声で。間接的に攻撃を受けた男の機嫌が悪くなる空気を感じ取ったらしく、大きな音に集まってしまった視線は方々へと散る。
「ほら、通路狭いのにカバンが大きくて。悲しいことに、色々詰め込んだら重たくなっちゃってさぁ」
手が疲れてきちゃって、落とすかも。
そんなことを口走る前に、はぁぁぁぁぁぁぁ、と長い長い溜息が聞こえてきた。発生源は推定灰谷竜胆だ。そう言えば、この二人、どちらが兄でどちらが弟なのか。
「帰る」
のそりと立ち上がり、一言それだけを残した推定灰谷竜胆は、おそらくきっと自分が所属するクラスの教室へと戻っていった。帰る、と言うのでそのまま家まで戻ってしまうのかとも思ったのだけれど、昇降口に近い階段は反対側だし、何より、兄弟の推定灰谷蘭が未だ残っている。大きく動いてしまった机をずるずると引き摺りながら、後ろ向きに座ったまま、つまりはこちらを向いたままのクラスメイトを敢えて無視して着席する。
「随分ぶっ飛んでんな」
「ほら、私ってば花のじぇーけーだから」
にやにやと笑っている表情が胡散臭すぎて仕方ないのだけれど、事実なのだから花のじぇーけーを名乗って何が悪い。
「じゃあ花のじぇーけー、名前は?」
「名簿」
「読めねぇ」
「捨ててなかったんだ」
「いや、捨てたけど」
捨てる前に、一通り名前に目を通して読める読めないだとか性別当てゲームを兄とやったのだとか。つまり、推定灰谷蘭は弟であるらしい。
「あー、なんかゲームする流れ含めて分かる。私もやった」
「一人で? さみしいな」
「うるさいな、弟とだよ」
で、名前は、と催促をされたものだから、何となく咳払いをして空気を切り替える。そう、私は花のじぇーけー。楽しく高校生を満喫するのだ。
「羽の宮と書いてハネミヤ、まではおーけー?」
「おーけー。こちら、灰の谷と書いてハイタニな」
名乗り返せ、と目で訴えればきっちりと伝わったらしい。何やらおかしい気もするが、まあ、名乗り合っているのだから良いだろう。
「読めなかったのはここからっしょ。一の蝶と書いてイチョウと読む当て字です。どうぞよろしく」
「あー、なる。まあ、俺も当て字っちゃ当て字か……? 竜の、なんだ? 胆と書いてリンドウですどうぞヨロシク?」
リンドウ? リンドウ。
名前の読みを確かめたい訳ではなかったのだが、復唱してしまった。推定灰谷蘭は灰谷竜胆で、推定灰谷竜胆は灰谷蘭だった?
「じゃあ、クラス違うじゃん! 何で戻るっつって蘭の方が出てった!?」
「せんせー入れ替わりに気付くかなー、みたいな?」
「初登校で分かるわけないっしょ馬鹿じゃない?」
「入学式には出たし」
「そんな派手な髪色見てないけど」
「怠かったから校門まできてそのまま帰った」
「出てないじゃん?」
「学校までは来たから出席だろ」
と、ここで担任が教室へ来て「灰谷蘭」が座っていることに驚き、やっと来てくれたんだ、とそんな反応をしたものだから即座に「そいつは灰谷竜胆の方らしいですよ」と告げ口をしてやった。途端、隣の教室まで届くような爆音で「兄ちゃーん! バレたー!!」と叫んで笑いやがった男の座る椅子を全力で蹴り上げた私は、きっと悪くないはずだ。
◇灰谷蘭(高一の姿)
弟がいるクラスメイト。通路が狭いせいでぶつかったカバンにちょっとびっくりした。
◇灰谷竜胆(高一の姿)
兄がいる別クラスの人。通路が狭いせいでぶつかったカバンにちょっとびっくりした。
◇羽宮一蝶(高一の姿)
弟がいる。通路が狭いせいでカバンの幅を見誤ってしまった。
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