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ゆめうつつに、こい。

「なあ、起きているかい」
 この声は、鶴丸殿ですね。彼が口を開くと薄暗いこの場所も、どこか明るくなるような気がします。微睡んでいた意識が、ゆるりと覚醒します。
「鶴丸殿のせいで目が覚めてしまいましたが」
 鶴丸殿は誰に対しての呼びかけかを明確にはしていらっしゃらないのですが、この蔵の中において、彼が呼びつけるのは一期一振殿のみであるということを皆が理解しています。初めの頃は意識のあった全員が答えていたのですけれど、その度に鶴丸殿は「ああ、違うんだ。君じゃない」なんておっしゃるのです。そして最終的に一期一振殿が答えると「随分と遅いから、俺より先に耳が遠くなってしまったのかと思ったぜ」とかなんとか。初めから一期一振殿を示して呼べば良いものを、ということは言うだけ無駄だと鶯丸殿が小さな声で仰っていました。
 僕らは刀剣の付喪神でしかありません。自己を表現する術としては「声」しか持ち合せておりません。思念を直接ぶつけているようなものですから、厳密には「声」ではないような気もしますが。
 とにかく、僕は一期一振殿と鶴丸殿の会話を聞いていることが楽しみでした。振るわれないままに仕舞いこまれている今、それくらいしか娯楽がないのです。仕方のないことでしょう。誰かに「僕」を伝える時には、あの二振のように。誇り高く、凛々しくありたい。そんな、憧れであったのです。
 あの薄暗い蔵の中を「墓場」と称したのは鶴丸殿でした。
「本当の墓場を知る貴方様にしてみれば、ここは随分と生温いでしょうに」
「同じようなものさ。いき損ないが溢れているこちらの方が性質の悪い場所だろうよ」
 生き損ないか、逝き損ないか。果たしてどちらであるのかは、暫しの間、鶯丸殿との会話の種となりました。鶴丸殿に直接尋ねたならばすぐに解決したのでしょうが、それでは面白くありません。少しでも娯楽を見つけなければ、死はすぐそこへと近付いてきているのですから。
 一期一振殿は僕と同じ方に作られた太刀ですが、鶴丸殿は僕や一期一振殿よりもずっと昔、二百年ほど昔に作られた太刀です。鶯丸殿は僕らの二百七十年程前に作られた太刀。そう。僕が仲良くさせていただきたいと考えている方々は皆さまが太刀でして、僕だけが短刀です。ほんの少しだけ、僕が勝手に感じているだけだとは分かっているのですが、どうも疎外感があります。いえ、僕だって粟田口の優れた短刀。だからこそこの場所にいるのだということは分かっているのですが。
 話を戻しましょうか。いき損ない、という鶴丸殿の言葉が、一期一振殿の琴線に触れたようでした。主と共に燃え、再刃された太刀。今後、武器として振るわれる未来があったとしても一期一振殿には許されぬのです。
「いき損ない、とは酷いですな」
「これは失礼した。別に、一期一振のことを言ったわけじゃないんだぜ」
「どちらでも構いませんとも。ただ、黄泉路より現へと連れ戻されたお方の言葉とは思えませぬなと」
「ほう、俺こそがいき損ないだと」
「そのようなつもりはありませんでしたが、鶴丸殿に自覚があるからそう聞こえたのでは」
 鶴丸殿と一期一振殿の声は、非常に素敵なのです。素敵なのですが内容にひやりとすることも多くありまして。この場に仕舞いこまれてしまった以上、移ることはきっとないのでしょう。そうであるならば、もっと仲良くすれば良いのに、と考えてしまうのは僕が甘いのでしょうか。鶯丸殿は放っておいたら良いと言います。
『あれは互いの矜持の高さに惚れこんでいる。しかし鶴丸は己の矜持故、一期一振は鶴丸と対等であらんとするが故、ああしてぶつかり合う以外に道が分からんのだろうよ』
 いつだったか、口にされたその内容に思わず納得してしまいました。納得すると同時に、なんと面倒臭い方々だとうかとも思いました。誰にも伝えませんでしたが。僕だって、余計な火種がどのようなもので、それが燃え広がった時に何がどうなるかを察することができるくらいには長く生きていますから。
 墓場で「いき損な」って生き続けるのか、それともいつか眠りにつくのか。
 そんなことを考えていると、いつの間にやら歴史が大きく動いていたようでした。ええ、文字通りに。歴史修正主義者、と呼ばれる存在によって。審神者によって本丸へと分霊が顕現されると、長い生の中で初めて、人間の身体というものを手に入れました。己の脚で動き、己の手で自分を振るうことができる。これ以上の驚きと喜びはないでしょう。人間らしい「心」というものもまた、大きく発達していきました。身体が無ければ僕たちは自分の意思で動くことなどできません。故に、心なんて人間らしいものは不要でした。だって、そんなものに魂が振り回されたところで、僕らには何もできないのです。虚しいだけなのです。だから、無意識のうちに避けていたのかもしれません。
 顕現し、共に戦う仲間の中には懐かしい姿もありました。もう二度と会えぬと思った方もおりました。けれど、そのような方々と共に戦うことができる喜びと同時に、僕が抱いたのは戸惑いでした。兄弟、という感覚が不思議だったのです。確かに、同じ親によって作られた短刀は沢山あります。けれど、その「親元」に在る間は意思なんて存在しておらず、意思の芽生えた頃になると、僕らは散り散りであったと言っても過言ではありません。敵であったり、味方であったり、意思を持ってから姿を見ることのできた「兄弟」も居ましたが、姿を見ることのできなかった「兄弟」も居ました。けれど、そんな実情など無視をして、僕らは「兄弟」として扱われるのです。仲が良くて当然である、と。それが、不可解でした。
 兄弟、となって一番の衝撃は一期一振殿が顕現された時でしょう。あの御方も、初めは戸惑っておられるようでした。けれど、自らに求められた役割を正確に理解されてしまえば後はそれに従うのみ。兄弟を平等に、愛してくれるようになったのです。数百年を共にした僕も、会ったことのある弟も、会ったことのない弟も、覚えている弟も、覚えていない弟も、全てを平等に。とても、悔しかったのです。寂しかったのです。そこに居るのは、一期一振という刀剣男士でした。墓場に閉じ込められた中でも誇りを、凛々しさを失わなかった粟田口の至高、一期一振という太刀ではありませんでした。
 それでも、僕は割り切らねばならないことを分かっていました。僕だって、一期一振殿と同じだけの時間を歩んできたのです。粟田口の優れた短刀なのですから。
 ただ、同じように本丸で顕現された鶴丸殿は納得ができないようでした。心というものを拒絶し、一期一振殿に「兄」であることを止めろと求めているようでした。あの蔵の中における一期一振殿の願いは、鶴丸殿と対等であること。誇り高き五条の太刀と、対等であること。どうやら「弟」の居ない場所では「墓場のいき損ない」に戻っているようでした。
「弟たちを過度に驚かせることはやめていただきたいと、何度言えば分っていただけるのでしょうな」
「そんなに過保護だと弟くんたちも退屈で死んじまうだろう。それが可哀想だと思ってだな」
 これだけならば本丸の皆さんも耳馴染があるのでしょうけれど、耄碌されましたかな、だとか、振るわれなくなって久しいから臆病なのも当然か、だとか、そんな言葉が飛び出し始めると戸惑うでしょう。僕は懐かしい一期一振殿の声が聴きたくて、忍ぶこともあるのですが。

 鶴丸殿は、あの墓場の中で未だに眠っていらっしゃる。
 一期一振殿は、鶴丸殿が目醒めるまで寄り添うつもりであるらしい。
 そして目醒めてしまった僕は、鶯丸殿と共にその目醒めを待っています。案外、人間らしく暮らすことも楽しいものです。早くお二方にもそれを知っていただきたく思っています。
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