このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

二次log

 嘘でしょ、と心の中で呟いたのが先か、感情が溢れるのが先か。いずれにせよ、こちらを見た弟がわかりやすく慌てて目元に服の袖を押し当ててくるものだから痛い。乱暴にしないでほしい。今はひび割れた感情をそれ以上崩さないようにすることに忙しく、取り繕うだけの余裕がない。ああもう、鬱陶しい。
「俺がか!?」
「なんかもう全部」
 ごしごし、というか、がしがし、というか。力強くこちらを労ってくれているらしい手を掴みつつ鼻をすすった髭切は、相変わらずじわじわとぼやけていく視界を数度の瞬きでクリアにすると、最後の悪あがきとばかりに端末の画面を確認する。
 ――公演中止のお知らせ。
 何度見ても、その文字列は変わらない。
「あぁ、その」
「お前も察しているように、僕が見たのはこのお知らせなわけだけれども」
 ずい、と画面を向けてやれば、居心地が悪いのか視線が泳ぐ。しかし、許してはやれない。
「これよりも先に、知ってたよね? だって、出演者だもの」
「ええと、その、守秘義務、というやつでな」
「正論は黙ってて」
 はい、と大人しく項垂れる弟は何も悪くないというのに、本当に素直な子。今をときめく俳優として名を馳せる彼の主演舞台、幕開けを目前に控えたところでの発表だった。関係者枠で席を取ろうかという申し出はキッパリと断り、熱意と気合と神頼みとで獲得した抽選結果、いわゆるS席。いわば完全勝利であったそこから、弟の勇姿を眺める瞬間を心待ちにしていたというのに。諸般の事情はまるっと無視。社会情勢からして、無事に開演できれば御の字だ、という部分も確かにあったので、やはりか、という思いも正直ある。それでも、それでもだ。それとこれとは話しが別で、やっぱり舞台上で輝いている推しの姿が見たいかった、というのがファン心理というやつである。
「このご時世だもの、覚悟はしていたよ。それでも、日々、稽古に励んでいたお前の努力をこの目に焼き付けたかったし、声援や拍手でその努力を称えてやりたかったんだよ」
「兄者……」
「そりゃ、家で直接顔を合わせるし? 触れ合えるし? でもほら、オンとオフは違うでしょ?」
 分かるよね、という問いかけに力強く頷く姿が愛おしい。こうして兄弟として共に生活はしているけれど、ひとたび「現場」へと足を運べば関係性は「推し」と「ファン」に早変わり。せっせと「こっち向いて♡」だとか「狙い撃って♡」だとかのうちわを量産していることを知っている。――何点か、お手本代わりに拝借したので。声の届けられない場所でも、想いを存分に届けられるうちわの文化、最高である。
 それはそれとして、だ。正直なところ、できるという確証もなかった。ただ、誰かの前で舞台に立つことができるかもしれない、という可能性のため、ひたむきに頑張る姿をずっとそばで見ていた。それが形になるその瞬間を、共有したかった。ただそれだけの話で、悔しさと、悲しさと、やるせなさ。ああ、ダメだ。落ち着いたと思っていた感情が少し波立つだけで、ぽろぽろと零れ落ちてしまう。
 途端に狼狽えて雫を拭おうとするものだから、ぐっとその腕を押さえ込む力を強くする。冷静さを欠いた弟の手では、肌が擦り切れてしまいそうだ。
「ああ、泣かないでくれ兄者、俺も泣きたくなってくる」
 ぐっと眉間に皺を寄せて、辛そうな表情をする癖に。
「お前が泣かないから僕が泣くんだよ」
 努力は己の糧になる。そんな言葉で誤魔化されるばかりではもう耐えられない程に、努力に努力を重ね、日々研鑽を積んできた。誰の目にも触れないまま内へと落とし込んできた努力は数知れず、それでもなお、次の誰かのための舞台を目指して駆け出していこうという前向きな姿。悔しいだろうに強く在る姿に、胸の奥がぐっと、痛い。
「僕が泣いているのはお前のせいだよ」
 泣いてくれないから、だからじくじくとこちらへと潜り込んでくる慟哭が痛い。
「兄者、その」
「ああ、それとも僕が悪いのかな。先に僕が泣いてしまうから」
「それはちがうぞ!」
 あ、と言う間にぽろりと落ちた。一度落ちてしまえば、あとはなし崩しにぽろぽろと溢れゆく。
「見ていただけないのは確かに悔しい。が、それ以上に、それを悲しんでくれるから、次はもっと良いものにして、届けようと、であれば、泣いている暇など、そんな」
 うう、と唸りつつもぽろぽろと思いの丈を溢し始めた姿に、ほっと息を吐く。これで万事解決だ、とは言えないけれども、ほんの少しでもガス抜きになれば良いと思う。健気に駆け抜けようとする姿は応援してやりたいのだけれど、いつか、ぽっきりと折れてしまいやしないかと恐ろしかった。澱みを溜め込んでしまう前に、少しずつ、その荷を軽くしていく術を覚えていってくれたら良いのだけれど。
 それはそれとして、だ。楽しみにしていた舞台の中止はやはり悲しい。ぐずぐずと泣いている弟との時間を共有することもまた、大切なので。
「……明日は仕事を休もうかな」
「やめてくれ兄者!」
 ぽろぽろ、から、ぼろぼろ、というか、どばどば、というか。途端に溢れる涙の量が倍増したものだから、愛されているなぁと呑気に考えてしまう。
「だって、ねぇ?」
 流石に己の一存では決められないし、実現は不可能だと分かっている。それでも、そんな気分になってしまうことは許してほしい。推しのイベントがひとつ潰れた。これが重大事件であると言わずして何が重大か。
 俺のチケットを紙屑にしないでくれ、という悲痛な弟の叫びはシャットアウトして、己の感情の修復作業に入ることにする。何はともあれ、泣いてくれた。ここから共に泣きながら、ゆっくりと浮上していけば良いだろうから。
20/27ページ
    スキ