輪廻の縁で逢いましょう
正直申し上げて、完全に気が狂っていたのだとしか言いようがない。言い訳をさせてもらえるのであれば、とにかく疲れきっていたのだ。身体的にも、精神的にも。そうでもなければ、遠目に見かけた見知らぬ男に対して「ちょっと御手を拝借してもよろしいでしょうか」なんて声掛けを行うこともなかったことだろう。
「一回握手させていただいて、その上で少し拝ませていただければそれでいいんです」
手を拝借、握手させてくれ、で止まっておけばよかったものを、拝ませてくれはアウトだった。何の捻りもなく単純に「は?」とだけ返した見知らぬ人は、それでも少し考えた後に面白がって右手を差し出してくれたので、ありがたく拝借した。ダメ元で両手を要求すれば素直に貸し出してくれたので優しい人だと思う。とても綺麗で、あたたかい。
「あ、そうだ。拝む前にお名前を伺ってもよろしいですか?」
随分と変な奴に絡まれたな、というのが率直な感想だった。同業者ならば血筋を狙って声を掛けられることがあるし、見ず知らず一般人であっても容姿から声を掛けられることは多い。だからこそ、知らない女の声に「あの、」と話しかけられた瞬間に「ああ、いつものやつか」と考えてしまったのだ。隣に立つ男も、己と系統は違えど女子受けが良いことを知っている。さて、今回はどちらだろうかと振り返った先にいたのは、真っ直ぐにこちらを見ている女の姿だった。女、と表現するのは乱暴であるかもしれない。同い年くらいの、つまりはきっと女子高生である。相手が制服を着ていないので確かなことは言えないが、年齢区分としては間違っていないはずである。
横に居る夏油の姿など見えていない様子の彼女であるが、その視線が熱に浮かされているようなものであるか、と問われるとそうとも言い切れないように感じた。どちらかと言えば、同業者の一部が向けてくる感情に近い。つまりは、尊敬のような、信仰のような、ある種、こちらを上位に据え置いて縋り付くようなものだ。まさか同業者か、とサングラスを僅かにずらし六眼で直接相手を見るも、術式はよく見えない。術師の家系であれば何が何でもこじ開けるのが一般的であるので、潜在的には何かを有しているのだろうが未だ発現に至っていない彼女は一般家庭の者なのだろう。判断方法に呪術師界の闇が見える。
ともかく、である。推定一般人な彼女がこちらを最強の五条悟だと認識して声を掛けてきたとは考えられなかった。その割に、眼差しに乗せられている感情に色めいたものはない。尊敬、信仰、少しばかりの憧憬もあるか。過去に助けた一般人、にしては記憶にない。記憶力に偏りはあると自覚しているが、それでも、記憶にないのだから仕方がない。だからこそ五条は戸惑ったのであるし、隣に立っていたはずの親友は少しばかり距離を取ってから面白がっているのが見えた。あとでぶん殴ってやろうと思う。
ひとまず。声を掛けられ、立ち止まって相手を認識してしまった以上は何かしらの対応を取らねばならない。どのように話しかけるべきか、と考えつつも口を開いた五条の前に立つ彼女もまた、同じように口を開いた。
「ちょっと御手を拝借してもよろしいでしょうか」
この時点で、共に最強の名を冠している大親友は携帯電話のカメラをこちらに構えていた。
「一回握手させていただいて、その上で少し拝ませていただければそれでいいんです」
どこか必死な様子を見せる彼女には申し訳ないが、返答はただただシンプルに「は?」の一音である。間抜けなピロンという音が重なってきたことには苛立ちしかない。
まず疑うべきは、握手やら拝むやら、そういった行動をきっかけに発動する術式や呪具の存在であった。しかし、ざっと確認しても術式は発現していないようであるし、呪具を手にしている様子もない。その姿から誰かに脅されて鉄砲玉として扱われていることを考えないわけでもないが、それにしては彼女があまりにも一般人でありすぎた。つまり、術師として彼女に害されることはない。他に考えられるのはもっと「一般」的な、例えばスタンガンやら注射針やら、そんなものでの攻撃となるのだろうが、そのようなもの、無限があればどうとでもなる。何かあっても夏油は……まあ、自力で何とかするだろう。先に裏切ったのはあちらであるし、何が何でも守らなければならない程に弱くないことは知っている。
思わず勢いで言葉にしてしまったのだろうか。五条の反応で冷静さを取り戻してしまったらしい彼女の表情が焦りに染まっていく様を見て、まあ、文字通り手を貸して拝まれるくらいならば良いか、と思った。
「いいよ。ほら、右手でいい?」
「右でも左でもどっちでもありがたいですが、両手でもよろしいでしょうか」
「どっちでも良いとか言うくせに図太くね?」
良いポジションを探して動き回っていた夏油は、真横からのアングルに落ち着いたのか微動だにせず、ただ全力で面白がっているのが伝わってくる。殴りたい、その笑顔。
断る理由もないので両手を差し出せば、そっと包み込むように握られる。触れられなければ怪しまれるだろうと人体は無限を通過するよう設定をしているが、何かがつっかえる様子もないので手のひらに針の類を隠しているということもないようだった。疑っていたことが申し訳なくなるくらい、戦うことを知らない優しい手。恭しく触れられることがどこかむず痒く、いっそ、早く拝んでしまってくれ、と思った矢先に少女が口を開く。
「あ、そうだ。拝む前にお名前を伺ってもよろしいですか?」
一気に現実へと引き戻されたし、この何も知らない様子が演技であったとするならばもう何も信じられそうになかった。
「はぁ……五条悟だけど、」
あんたは、と続けようとした言葉は音にならなかった。こちらの名を聞いた瞬間、信じられない名を聞いたとばかりに驚愕を隠さぬ姿、そして一瞬のうちにそれが喜色へと塗り替わる。
「五条! 五条さん! 今日の私はついている!!」
五条の名を聞いた途端のこの反応に、どこか落胆してしまったことを自覚する。視線のみで「どうする」と問うてくる夏油にこちらも視線のみで助けを求めるも、黙殺された。なら訊くな。
優しく五条の手を解放した少女は、何が嬉しいのか、上擦った声色で紡ぐ。
「驚き桃の木山椒の木! 驚き桃の木山椒の木! 驚き桃の木山椒の木!」
「……なんて?」
戸惑う五条と遂に声を上げて笑い出した夏油を置き去りにしたまま、少女が続けたのは二礼、二拍手。神社へと参拝する際の基本的な動作である。そして。
「来たれ、新たなる刀剣男士よ!」
言い終わるかどうか、というその瞬間に視界は桜色に染まり、花吹雪の向こう側から声が届く。
「よっ。鶴丸国永だ。俺みたいのが突然来て驚いたか? と言いつつ俺も俺も驚いたんだがな」
からからと笑う、第三者の声。すぅ、と溶けるように空気へと消えた花弁の向こう側で、少女がどこからか現れた男に抱きついているのが見えた。
「は? ……は!?」
ばっと夏油へと目を向けると、彼もまた何が起こったのかが分からなかったようだった。それでも撮影は止めない辺り、随分と肝が据わっている。
こちら側の困惑など気にも留めず、どうやら感動の再会らしい二人の会話は続く。
「あああああもうやっと会えたあああ」
「そうだなそうだな。もう少し様子を見ていようと思っていたんだが、何やらぎゅいんと引っ張り出されたような感覚だ。驚きだぜ」
「おどろきもものきさんしょのきぃ」
「さっきも動物園でそんなこと言ってたな……それは顕現のための口上じゃないぜ?」
「見てたの……見てたのに来なかったの……」
「いやぁ、ここからどんな驚きを見せてくれるのかと気になって仕方がなくてな」
すまんすまん、と謝る声は随分と軽い。それでも、眼差しには相手を愛おしく思う感情が有り余るほどに乗せられていて、男に抱きついているからこそ気がついていない少女に教えてやるべきか、否か。ここでようやくこちらの存在を思い出したらしい彼女は、名残惜しそうにゆっくりを身を離しながら、こちらへと向き直る。
「……すみません、取り乱しました。ええと、完全にその色合いだけで声を掛けさせていただいたんですが、お名前パワーありがとうございました。お陰で、願いが叶いました。ありがとうございました」
それでは失礼、とあっさり離れようとする腕を慌てて掴み引き止める。男は面白がっているようで、ぴゅう、と口笛を吹いてみせた。なるほど、色合い。髪も肌も衣服も、全てが真白の男である。いや、呪霊、の類だろうか。六眼を以てしても、判断に迷う。これまでにはなかった感覚だった。
「ちょーっと待ってくんね? 見ず知らずの人間の突飛なお願い聞いてやった俺に、もうちょっと何かないわけ?」
「……すみません、遠出しすぎて電車やバスに乗るお金すらないんですけど」
「金ならこっちで出すからさ、オハナシ、しようぜ」
それでチャラにしてやると優しさを見せてやったというのに、返されたのは「面倒なことになったな」という表情を隠しもしない姿だった。
全身真白の和装男。どこへ向かうにしても目立つ彼をどうするべきか、と視線を向ければ即座に懸念を把握したらしい。気にするな、と笑いながらふわりと溶けるように消えた。微な残穢はある。そう、残穢。先程まで確かにあった姿は影も形もなく、ことの発端となったであろう少女もまた戸惑った様子で周囲を見渡していたが、暫し宙を見つめ、小さく頷いていた。何やら、把握したらしい。
オハナシの場として選んだのはファミレスである。そもそも、任務終わりに小腹が空いたからと二人で向かっている矢先に巻き込まれた事象であったし、ああいう場は案外、内緒話に向いているので。金はこちらで払う、と言ったというのに彼女が選んだのはアイスカフェラテ一杯だった。
「こっちの事情も色々とあるんだけどそれは置いといて、まずはそっちの事情から適当に話しといて。ひとまず名前から」
続々と届く料理とそれを吸い込むように食べる男二人を眺めながらのオハナシとなるからか何とも言えない表情であるが、許してほしい。空腹感をどうにかしたい健全な男子である五条と夏油は食べながら聞く、少女は飲みながら話す。効率の良い分担だろう。
「あー、神倉美琴です。そっちのお兄さんは」
「夏油傑」
げとうさん、と繰り返す様子を見るに字が浮かんでいないようだ。まあ、今は重要ではないので置いておく。
「その、先程は本当に失礼しました。それから、ありがとうございました」
「さっきの、何? 見た感じ術式が開花したわけでもなさそうなんだけど」
見た感じ、とは文字通り。五条と関わったこと、拝んだことで目覚めたのかと思いきや、どうやらそうでもないようなのだ。先程の男は式神の類であるような気もするが、どうも掴めないままに姿を消して逃げられた。
「んー、まず、怪しい宗教勧誘とかじゃないのは信じてほしいんですが」
わざわざ前置きをする辺りが怪しく聞こえる、とは言わないでおいてやった。
――曰く、彼女にはずっと未来で生きた前世の記憶があるのだという。
時の流れは一方向で、過去は変えられないものである。それでも「もしも」は誰もが考えるものだろう。
遠い昔に「もしも」という夢を見る。
考えるだけならば何の問題もなかった。しかし、それを実行に移すだけの力を持つ存在が現れたのだ。望む未来を手に入れるため過去へと介入する存在は「歴史修正主義者」と呼ばれ、その願いを託した式を過去へと送り込むに至る。歴史上重要な人物や出来事に干渉し歴史改変を目論む彼らを阻止するべく、作り出されたのは「刀剣男士」と呼ばれる存在だった。古くから人の側にあるもの。武具としても呪具としても、信仰を集めた刀剣たちには力が宿っていた。大元となる刀剣の写しをつくり、そこに付喪神をおろす。守るべき歴史の分岐点は数多く、僅かでも素質があれば審神者として戦うことを求められる。数多の人間が「神」を従えるためのシステムであった。
戦いの結末は覚えていない。己の拠点として構えた本丸で、自らの顕現した刀剣男士たちに見守られる中で大往生をした記憶があるのだという。生まれてこの方、男士たちの姿を見たことはなかった。それでも、すぐ側に存在があることは分かっていた。
「本丸では、鍛刀によって彼らをおろす刀剣を用意することができましたけど、この現代日本で一介の女子高校生にできることなんて、たかが知れていますよね」
付喪神となるまでに人に愛された刀剣たちだ。本物を手に入れることなんて到底できるはずもない。博物館や美術館、寺社などで展示されていれば欠かさず足を運んだが、男士を呼ぶには至らなかった。前世で励起した彼らは、言うならば分霊のようなものであったので、この時代に存在する大元の刀剣に宿る「本霊」に負けているのではないか、というのが仮説である。前世が審神者であるとはいえ、その本霊を励起するほどの力があるわけではない。仮に彼らが顕現したとして、それがかつて共に本丸で過ごした仲間たちである、という保証もない。それでも足を運んでしまうのは、少しでも縁の補強になることを願って。そして、その刀剣にまつわるグッズを集めるためである。
「グッズ」
「ほら、模造刀とかポストカードとかペーパーナイフとか」
「一応聞くけど、何で?」
「買ったら、見えませんけど本人が喜んでる感じがしましたし、あと、こういうの、気持ちと触媒が大事なんですよ」
触媒。なるほど、己は容姿から触媒に相応しいと判断されたのか、と五条は理解する。
「動物に縁ある刀剣って何振りかいるので、今日は動物園に行ってたんですがやっぱりダメで」
そりゃあそうだろうな、と思いながらハンバーグにナイフを入れる。ああ、肉汁がじゅわりと溢れてしまい勿体ない。
「丹頂鶴でダメならもう打つ手がないな、と思ったところで遠目に五条さんが見えて、こう、びびびっと来たんですよね」
そういえば、先程の男は鶴丸国永と名乗っていた。だから丹頂鶴なのだろうが、それでダメならば打つ手がないというのもどうなのか。それにしても、実家か学校で叩き込まれた知識の中にどこか引っ掛かるものがある気がする。鶴丸国永、刀剣、それから。
「ああ、だから五条って聞いて喜んだの」
隣でオムライスを頬張っている夏油はぴんと来ていないので、どうやら実家由来の知識であったらしい。
「さっきの白い男が、鶴丸国永という刀剣の刀剣男士とかいうやつ。で、その鶴丸国永を打った刀工の名前が五条国永……で合ってるよな?」
うろ覚えだったので念のために神倉へ確認するが、力強く肯定されたのでほっとする。
「縁って、ほんと大事なんですよ。鶴丸が呼べたならそこを取っ掛かりに呼べる面子、結構多いのでほんと、嬉しいです。神様仏様五条様って感じで」
何をしたわけでもないが感謝されて悪い気はしないが、神様仏様、の下りでぞわりと何かが背筋を駆け抜けたような気がするのは彼女に縁ある「神様」たちの嫉妬だろうか。切実に、やめてほしい。付喪神は妖怪に区分されることも多いが、それでも「神」と呼ばれているのだ。寺社で御神体や御神刀として祀られている刀剣だってあるのだし、そういった存在からの嫉妬なんて、馬鹿にできないものであることをよく知っている。
これは早々に気を逸らしてしまうに限る、と話を振る。
「その、取っ掛かりで呼べる面子って、例えば?」
どんな刀剣の名が出てくるのだろうか、という期待もあった。詳しくはないが、男としてカッコいい武器には憧れるので。
「まあ、おだて組はいける気がします」
「何て?」
「織田と伊達の刀たち、の略です。あ、あと三条派もいけ、ると思います?」
「よく分からないけど、気持ちと触媒が大事なら何とかなるんじゃないかな?」
知らねぇし、と返しそうになるも先に夏油が答えたので何とか飲み込んだ。この親友、どう考えても面白がっている。
「じゃあ呼べるってことで。それでおじいちゃん来るのも強いけど、おだてが来るの、ほんと嬉しいな。そざさん、ニキ、みっちゃん……」
誰を呼べるのかと思考の海に潜り始めたらしく、かつて、彼女が呼んでいたらしい呼び名で紡がれる数々の名前には全く心当たりがない。
「そざさんから小夜ちゃんが辿れて、そうなると細川組行けるでしょ? ニキが来た時点で粟田口行けるでしょ? みっちゃんのおかげで長船……と、あと古備前もかな? 最高ですね?」
「うんうん、そうだね」
適当な相槌を打つ夏油は、完全に面白がっている。
「三条源氏組で源氏兄弟も辿れそうだし、ぱっぱで神剣ゼミれる……のなら、にっかりと三日月パワーのバフでずずまる様来ますかね。となると天下五剣バフが重なっておでん……? からのソハヤ?」
前田バフも用意しなきゃ、と呟く姿にはどこか哀愁が漂っている。何でも、前世では縁というバフを盛りに持ってもうまく鍛刀できずになかなか呼び出せなかったらしい。縁を「バフ」と称して良いものなのかと感じていたはずなのに、徐々に麻痺してきてしまった。ご縁バフもりもり五剣なら鬼丸の方が来やすいかもしれない、と呟いている。
「ずずまる……カカカ……くにひろ……からの、御用改めである……? 最強ですね? 拝んでもいいですか?」
「なんかよく分かんねぇけど、連想ゲームがすげぇことは分かる」
言葉通り拝もうとしたらしい動きは、途中でぴたりと止まる。
「……事故って落ちてきた鶴は黙ってろください」
「ん?」
「いや、鶴丸が拝むなら俺にしろと煩くて」
「……居るの?」
「顕現してこちらで縁を結び直したからなのか、声が聞こえるようになりましたね。どこにいるのか知りませんけど」
本人が首を傾げているので、それ以上のことは本当にわからないのだろう。それこそ、刀剣男士たちへ直接尋ねでもしない限り。
軽く手を合わせて拝んできた神倉は、ようやくこちらを置き去りにしていたことに気がついたらしい。ずずず、とアイスカフェラテを啜りつつ、どこか恥ずかしそうに謝罪の言葉を口にした。
「すみません。なんかこう、ほんと鶴って縁が、縁起がいいなぁと思うと止まらなくて……」
ここではたと何かに気がついた様子を見せたので、それほど長い付き合いではないというのに何となく察してしまった。
「縁起が良い、はっぴー、ということは幸福王子も呼べるのでは?」
「何も分からないのに途轍もないこじつけだってことは分かる」
にっかりにこにこ笑顔と貞ちゃんバフ盛るのでこじつけじゃないです、と言い切られたが全く信用できないな、と思ったのはきっと親友も同じだったことだろうが、その性格も含めた在り方が面白いと思ったこともきっと同じだったのだろう。万年人手不足の呪術師業界へと勧誘するべく、ここから二人がかりで口説き落とすことになる。
「一回握手させていただいて、その上で少し拝ませていただければそれでいいんです」
手を拝借、握手させてくれ、で止まっておけばよかったものを、拝ませてくれはアウトだった。何の捻りもなく単純に「は?」とだけ返した見知らぬ人は、それでも少し考えた後に面白がって右手を差し出してくれたので、ありがたく拝借した。ダメ元で両手を要求すれば素直に貸し出してくれたので優しい人だと思う。とても綺麗で、あたたかい。
「あ、そうだ。拝む前にお名前を伺ってもよろしいですか?」
随分と変な奴に絡まれたな、というのが率直な感想だった。同業者ならば血筋を狙って声を掛けられることがあるし、見ず知らず一般人であっても容姿から声を掛けられることは多い。だからこそ、知らない女の声に「あの、」と話しかけられた瞬間に「ああ、いつものやつか」と考えてしまったのだ。隣に立つ男も、己と系統は違えど女子受けが良いことを知っている。さて、今回はどちらだろうかと振り返った先にいたのは、真っ直ぐにこちらを見ている女の姿だった。女、と表現するのは乱暴であるかもしれない。同い年くらいの、つまりはきっと女子高生である。相手が制服を着ていないので確かなことは言えないが、年齢区分としては間違っていないはずである。
横に居る夏油の姿など見えていない様子の彼女であるが、その視線が熱に浮かされているようなものであるか、と問われるとそうとも言い切れないように感じた。どちらかと言えば、同業者の一部が向けてくる感情に近い。つまりは、尊敬のような、信仰のような、ある種、こちらを上位に据え置いて縋り付くようなものだ。まさか同業者か、とサングラスを僅かにずらし六眼で直接相手を見るも、術式はよく見えない。術師の家系であれば何が何でもこじ開けるのが一般的であるので、潜在的には何かを有しているのだろうが未だ発現に至っていない彼女は一般家庭の者なのだろう。判断方法に呪術師界の闇が見える。
ともかく、である。推定一般人な彼女がこちらを最強の五条悟だと認識して声を掛けてきたとは考えられなかった。その割に、眼差しに乗せられている感情に色めいたものはない。尊敬、信仰、少しばかりの憧憬もあるか。過去に助けた一般人、にしては記憶にない。記憶力に偏りはあると自覚しているが、それでも、記憶にないのだから仕方がない。だからこそ五条は戸惑ったのであるし、隣に立っていたはずの親友は少しばかり距離を取ってから面白がっているのが見えた。あとでぶん殴ってやろうと思う。
ひとまず。声を掛けられ、立ち止まって相手を認識してしまった以上は何かしらの対応を取らねばならない。どのように話しかけるべきか、と考えつつも口を開いた五条の前に立つ彼女もまた、同じように口を開いた。
「ちょっと御手を拝借してもよろしいでしょうか」
この時点で、共に最強の名を冠している大親友は携帯電話のカメラをこちらに構えていた。
「一回握手させていただいて、その上で少し拝ませていただければそれでいいんです」
どこか必死な様子を見せる彼女には申し訳ないが、返答はただただシンプルに「は?」の一音である。間抜けなピロンという音が重なってきたことには苛立ちしかない。
まず疑うべきは、握手やら拝むやら、そういった行動をきっかけに発動する術式や呪具の存在であった。しかし、ざっと確認しても術式は発現していないようであるし、呪具を手にしている様子もない。その姿から誰かに脅されて鉄砲玉として扱われていることを考えないわけでもないが、それにしては彼女があまりにも一般人でありすぎた。つまり、術師として彼女に害されることはない。他に考えられるのはもっと「一般」的な、例えばスタンガンやら注射針やら、そんなものでの攻撃となるのだろうが、そのようなもの、無限があればどうとでもなる。何かあっても夏油は……まあ、自力で何とかするだろう。先に裏切ったのはあちらであるし、何が何でも守らなければならない程に弱くないことは知っている。
思わず勢いで言葉にしてしまったのだろうか。五条の反応で冷静さを取り戻してしまったらしい彼女の表情が焦りに染まっていく様を見て、まあ、文字通り手を貸して拝まれるくらいならば良いか、と思った。
「いいよ。ほら、右手でいい?」
「右でも左でもどっちでもありがたいですが、両手でもよろしいでしょうか」
「どっちでも良いとか言うくせに図太くね?」
良いポジションを探して動き回っていた夏油は、真横からのアングルに落ち着いたのか微動だにせず、ただ全力で面白がっているのが伝わってくる。殴りたい、その笑顔。
断る理由もないので両手を差し出せば、そっと包み込むように握られる。触れられなければ怪しまれるだろうと人体は無限を通過するよう設定をしているが、何かがつっかえる様子もないので手のひらに針の類を隠しているということもないようだった。疑っていたことが申し訳なくなるくらい、戦うことを知らない優しい手。恭しく触れられることがどこかむず痒く、いっそ、早く拝んでしまってくれ、と思った矢先に少女が口を開く。
「あ、そうだ。拝む前にお名前を伺ってもよろしいですか?」
一気に現実へと引き戻されたし、この何も知らない様子が演技であったとするならばもう何も信じられそうになかった。
「はぁ……五条悟だけど、」
あんたは、と続けようとした言葉は音にならなかった。こちらの名を聞いた瞬間、信じられない名を聞いたとばかりに驚愕を隠さぬ姿、そして一瞬のうちにそれが喜色へと塗り替わる。
「五条! 五条さん! 今日の私はついている!!」
五条の名を聞いた途端のこの反応に、どこか落胆してしまったことを自覚する。視線のみで「どうする」と問うてくる夏油にこちらも視線のみで助けを求めるも、黙殺された。なら訊くな。
優しく五条の手を解放した少女は、何が嬉しいのか、上擦った声色で紡ぐ。
「驚き桃の木山椒の木! 驚き桃の木山椒の木! 驚き桃の木山椒の木!」
「……なんて?」
戸惑う五条と遂に声を上げて笑い出した夏油を置き去りにしたまま、少女が続けたのは二礼、二拍手。神社へと参拝する際の基本的な動作である。そして。
「来たれ、新たなる刀剣男士よ!」
言い終わるかどうか、というその瞬間に視界は桜色に染まり、花吹雪の向こう側から声が届く。
「よっ。鶴丸国永だ。俺みたいのが突然来て驚いたか? と言いつつ俺も俺も驚いたんだがな」
からからと笑う、第三者の声。すぅ、と溶けるように空気へと消えた花弁の向こう側で、少女がどこからか現れた男に抱きついているのが見えた。
「は? ……は!?」
ばっと夏油へと目を向けると、彼もまた何が起こったのかが分からなかったようだった。それでも撮影は止めない辺り、随分と肝が据わっている。
こちら側の困惑など気にも留めず、どうやら感動の再会らしい二人の会話は続く。
「あああああもうやっと会えたあああ」
「そうだなそうだな。もう少し様子を見ていようと思っていたんだが、何やらぎゅいんと引っ張り出されたような感覚だ。驚きだぜ」
「おどろきもものきさんしょのきぃ」
「さっきも動物園でそんなこと言ってたな……それは顕現のための口上じゃないぜ?」
「見てたの……見てたのに来なかったの……」
「いやぁ、ここからどんな驚きを見せてくれるのかと気になって仕方がなくてな」
すまんすまん、と謝る声は随分と軽い。それでも、眼差しには相手を愛おしく思う感情が有り余るほどに乗せられていて、男に抱きついているからこそ気がついていない少女に教えてやるべきか、否か。ここでようやくこちらの存在を思い出したらしい彼女は、名残惜しそうにゆっくりを身を離しながら、こちらへと向き直る。
「……すみません、取り乱しました。ええと、完全にその色合いだけで声を掛けさせていただいたんですが、お名前パワーありがとうございました。お陰で、願いが叶いました。ありがとうございました」
それでは失礼、とあっさり離れようとする腕を慌てて掴み引き止める。男は面白がっているようで、ぴゅう、と口笛を吹いてみせた。なるほど、色合い。髪も肌も衣服も、全てが真白の男である。いや、呪霊、の類だろうか。六眼を以てしても、判断に迷う。これまでにはなかった感覚だった。
「ちょーっと待ってくんね? 見ず知らずの人間の突飛なお願い聞いてやった俺に、もうちょっと何かないわけ?」
「……すみません、遠出しすぎて電車やバスに乗るお金すらないんですけど」
「金ならこっちで出すからさ、オハナシ、しようぜ」
それでチャラにしてやると優しさを見せてやったというのに、返されたのは「面倒なことになったな」という表情を隠しもしない姿だった。
全身真白の和装男。どこへ向かうにしても目立つ彼をどうするべきか、と視線を向ければ即座に懸念を把握したらしい。気にするな、と笑いながらふわりと溶けるように消えた。微な残穢はある。そう、残穢。先程まで確かにあった姿は影も形もなく、ことの発端となったであろう少女もまた戸惑った様子で周囲を見渡していたが、暫し宙を見つめ、小さく頷いていた。何やら、把握したらしい。
オハナシの場として選んだのはファミレスである。そもそも、任務終わりに小腹が空いたからと二人で向かっている矢先に巻き込まれた事象であったし、ああいう場は案外、内緒話に向いているので。金はこちらで払う、と言ったというのに彼女が選んだのはアイスカフェラテ一杯だった。
「こっちの事情も色々とあるんだけどそれは置いといて、まずはそっちの事情から適当に話しといて。ひとまず名前から」
続々と届く料理とそれを吸い込むように食べる男二人を眺めながらのオハナシとなるからか何とも言えない表情であるが、許してほしい。空腹感をどうにかしたい健全な男子である五条と夏油は食べながら聞く、少女は飲みながら話す。効率の良い分担だろう。
「あー、神倉美琴です。そっちのお兄さんは」
「夏油傑」
げとうさん、と繰り返す様子を見るに字が浮かんでいないようだ。まあ、今は重要ではないので置いておく。
「その、先程は本当に失礼しました。それから、ありがとうございました」
「さっきの、何? 見た感じ術式が開花したわけでもなさそうなんだけど」
見た感じ、とは文字通り。五条と関わったこと、拝んだことで目覚めたのかと思いきや、どうやらそうでもないようなのだ。先程の男は式神の類であるような気もするが、どうも掴めないままに姿を消して逃げられた。
「んー、まず、怪しい宗教勧誘とかじゃないのは信じてほしいんですが」
わざわざ前置きをする辺りが怪しく聞こえる、とは言わないでおいてやった。
――曰く、彼女にはずっと未来で生きた前世の記憶があるのだという。
時の流れは一方向で、過去は変えられないものである。それでも「もしも」は誰もが考えるものだろう。
遠い昔に「もしも」という夢を見る。
考えるだけならば何の問題もなかった。しかし、それを実行に移すだけの力を持つ存在が現れたのだ。望む未来を手に入れるため過去へと介入する存在は「歴史修正主義者」と呼ばれ、その願いを託した式を過去へと送り込むに至る。歴史上重要な人物や出来事に干渉し歴史改変を目論む彼らを阻止するべく、作り出されたのは「刀剣男士」と呼ばれる存在だった。古くから人の側にあるもの。武具としても呪具としても、信仰を集めた刀剣たちには力が宿っていた。大元となる刀剣の写しをつくり、そこに付喪神をおろす。守るべき歴史の分岐点は数多く、僅かでも素質があれば審神者として戦うことを求められる。数多の人間が「神」を従えるためのシステムであった。
戦いの結末は覚えていない。己の拠点として構えた本丸で、自らの顕現した刀剣男士たちに見守られる中で大往生をした記憶があるのだという。生まれてこの方、男士たちの姿を見たことはなかった。それでも、すぐ側に存在があることは分かっていた。
「本丸では、鍛刀によって彼らをおろす刀剣を用意することができましたけど、この現代日本で一介の女子高校生にできることなんて、たかが知れていますよね」
付喪神となるまでに人に愛された刀剣たちだ。本物を手に入れることなんて到底できるはずもない。博物館や美術館、寺社などで展示されていれば欠かさず足を運んだが、男士を呼ぶには至らなかった。前世で励起した彼らは、言うならば分霊のようなものであったので、この時代に存在する大元の刀剣に宿る「本霊」に負けているのではないか、というのが仮説である。前世が審神者であるとはいえ、その本霊を励起するほどの力があるわけではない。仮に彼らが顕現したとして、それがかつて共に本丸で過ごした仲間たちである、という保証もない。それでも足を運んでしまうのは、少しでも縁の補強になることを願って。そして、その刀剣にまつわるグッズを集めるためである。
「グッズ」
「ほら、模造刀とかポストカードとかペーパーナイフとか」
「一応聞くけど、何で?」
「買ったら、見えませんけど本人が喜んでる感じがしましたし、あと、こういうの、気持ちと触媒が大事なんですよ」
触媒。なるほど、己は容姿から触媒に相応しいと判断されたのか、と五条は理解する。
「動物に縁ある刀剣って何振りかいるので、今日は動物園に行ってたんですがやっぱりダメで」
そりゃあそうだろうな、と思いながらハンバーグにナイフを入れる。ああ、肉汁がじゅわりと溢れてしまい勿体ない。
「丹頂鶴でダメならもう打つ手がないな、と思ったところで遠目に五条さんが見えて、こう、びびびっと来たんですよね」
そういえば、先程の男は鶴丸国永と名乗っていた。だから丹頂鶴なのだろうが、それでダメならば打つ手がないというのもどうなのか。それにしても、実家か学校で叩き込まれた知識の中にどこか引っ掛かるものがある気がする。鶴丸国永、刀剣、それから。
「ああ、だから五条って聞いて喜んだの」
隣でオムライスを頬張っている夏油はぴんと来ていないので、どうやら実家由来の知識であったらしい。
「さっきの白い男が、鶴丸国永という刀剣の刀剣男士とかいうやつ。で、その鶴丸国永を打った刀工の名前が五条国永……で合ってるよな?」
うろ覚えだったので念のために神倉へ確認するが、力強く肯定されたのでほっとする。
「縁って、ほんと大事なんですよ。鶴丸が呼べたならそこを取っ掛かりに呼べる面子、結構多いのでほんと、嬉しいです。神様仏様五条様って感じで」
何をしたわけでもないが感謝されて悪い気はしないが、神様仏様、の下りでぞわりと何かが背筋を駆け抜けたような気がするのは彼女に縁ある「神様」たちの嫉妬だろうか。切実に、やめてほしい。付喪神は妖怪に区分されることも多いが、それでも「神」と呼ばれているのだ。寺社で御神体や御神刀として祀られている刀剣だってあるのだし、そういった存在からの嫉妬なんて、馬鹿にできないものであることをよく知っている。
これは早々に気を逸らしてしまうに限る、と話を振る。
「その、取っ掛かりで呼べる面子って、例えば?」
どんな刀剣の名が出てくるのだろうか、という期待もあった。詳しくはないが、男としてカッコいい武器には憧れるので。
「まあ、おだて組はいける気がします」
「何て?」
「織田と伊達の刀たち、の略です。あ、あと三条派もいけ、ると思います?」
「よく分からないけど、気持ちと触媒が大事なら何とかなるんじゃないかな?」
知らねぇし、と返しそうになるも先に夏油が答えたので何とか飲み込んだ。この親友、どう考えても面白がっている。
「じゃあ呼べるってことで。それでおじいちゃん来るのも強いけど、おだてが来るの、ほんと嬉しいな。そざさん、ニキ、みっちゃん……」
誰を呼べるのかと思考の海に潜り始めたらしく、かつて、彼女が呼んでいたらしい呼び名で紡がれる数々の名前には全く心当たりがない。
「そざさんから小夜ちゃんが辿れて、そうなると細川組行けるでしょ? ニキが来た時点で粟田口行けるでしょ? みっちゃんのおかげで長船……と、あと古備前もかな? 最高ですね?」
「うんうん、そうだね」
適当な相槌を打つ夏油は、完全に面白がっている。
「三条源氏組で源氏兄弟も辿れそうだし、ぱっぱで神剣ゼミれる……のなら、にっかりと三日月パワーのバフでずずまる様来ますかね。となると天下五剣バフが重なっておでん……? からのソハヤ?」
前田バフも用意しなきゃ、と呟く姿にはどこか哀愁が漂っている。何でも、前世では縁というバフを盛りに持ってもうまく鍛刀できずになかなか呼び出せなかったらしい。縁を「バフ」と称して良いものなのかと感じていたはずなのに、徐々に麻痺してきてしまった。ご縁バフもりもり五剣なら鬼丸の方が来やすいかもしれない、と呟いている。
「ずずまる……カカカ……くにひろ……からの、御用改めである……? 最強ですね? 拝んでもいいですか?」
「なんかよく分かんねぇけど、連想ゲームがすげぇことは分かる」
言葉通り拝もうとしたらしい動きは、途中でぴたりと止まる。
「……事故って落ちてきた鶴は黙ってろください」
「ん?」
「いや、鶴丸が拝むなら俺にしろと煩くて」
「……居るの?」
「顕現してこちらで縁を結び直したからなのか、声が聞こえるようになりましたね。どこにいるのか知りませんけど」
本人が首を傾げているので、それ以上のことは本当にわからないのだろう。それこそ、刀剣男士たちへ直接尋ねでもしない限り。
軽く手を合わせて拝んできた神倉は、ようやくこちらを置き去りにしていたことに気がついたらしい。ずずず、とアイスカフェラテを啜りつつ、どこか恥ずかしそうに謝罪の言葉を口にした。
「すみません。なんかこう、ほんと鶴って縁が、縁起がいいなぁと思うと止まらなくて……」
ここではたと何かに気がついた様子を見せたので、それほど長い付き合いではないというのに何となく察してしまった。
「縁起が良い、はっぴー、ということは幸福王子も呼べるのでは?」
「何も分からないのに途轍もないこじつけだってことは分かる」
にっかりにこにこ笑顔と貞ちゃんバフ盛るのでこじつけじゃないです、と言い切られたが全く信用できないな、と思ったのはきっと親友も同じだったことだろうが、その性格も含めた在り方が面白いと思ったこともきっと同じだったのだろう。万年人手不足の呪術師業界へと勧誘するべく、ここから二人がかりで口説き落とすことになる。
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