ゆめうつつに、こい。
再び、地下戦場が開かれる。
運が良いのか悪いのか。件の通知が来た際に近侍を任されていたのは一期一振であった。全員を大広間に集めて伝えたことといえば、その場所が開かれること、捕らわれた仲間が誰なのか、先陣を任されるのは誰なのか、その他諸注意が数点。
「――以上が現時点での決定です。部隊の編成については直前の変更もあり得ますので、鍛錬に励むように、と」
それでは解散、と告げた一期一振の様子を窺う目線の数は数えていない。それが何色をしているのかも、重要ではなかった。それでも、皆が己を気遣うように窺っていたことが強く心に残っている。彼らがどうしてそのような反応を見せているのかについては、不本意ながら心当たりがありすぎた。以前、地下戦場攻略の最中に倒れてしまった鶴丸国永。原因が究明されないままに、彼は未だ一期一振の部屋で眠り続けている。
当事者でありながら、笑い出してしまいたくすらなった。彼らは一体、何に惑わされているというのだろう。自分たちに求められていることは、暗がりに潜む敵を殲滅して捕らわれた仲間を助け出すこと。それ以上でもそれ以下でもなく、かつて共に在ったこともある仲間の言葉を借りるならば「給料分は仕事をする」だけであるというのに。
一期一振があまりにもいつも通りであるからだろう。まずは、戦場に生き様を見出したものたちが移動する。続くように仲の良いものと連れ立って移動を始め、そして残されたのは。
「……気にするな、と言っても難しいのでしょうね」
「眠っている俺のおかげで、今回は大人しくしていろとのお達しだからな」
一期一振と鶴丸国永。皆に気を遣われた、のだろう。欠けてしまった一振りの穴を埋めるために目覚めさせられた彼とのことを、彼らは気にしているのだ。一期一振が一振り目とただならぬ関係であったことを、明言こそしていなかったが察してはくれていたようで。それを要らぬと切り捨てることは容易いのだけれど、それをしてしまうと今以上に皆の視線が煩わしいものになる気がしていた。ある程度は許容して、見逃していた方が得策であると気がついたのはいつのことだったか。
退屈すぎて死にそうだとぼやく彼は、此度の戦場へ足を運ぶことを認められなかった。遠征部隊へ名を連ねることもあるのだろうが、それでも、そこで本能のままに刀を振るうことができるかと問われたならば答えは否。内番でもしていれば気も紛れるのだろうが、それすらも無ければ彼の最も嫌う「退屈」が目前に口を開いて待ち構えているに違いない。
鶴丸のお目付役を任されることの多い一期一振は、いつもの如く地下探索の先発隊隊長を仰せつかっている。あまりにも疲労が溜まりすぎてしまうと誰かと入れ替えられてしまうのだろうが、そのようなヘマをするつもりは毛頭無かった。最下層まで駆け抜けて、求める結果を掴むのみ、である。その間に暇を持て余した男が何かしでかしはしないかと不安に思う部分はあるものの、そうなる前に誰かが気がつき、止めてくれると信じている。
残されはしたものの、今、何を話すべきなのか。一期一振には分からなかった。皆が思うほどには、自分たちの間には何もないのだ。己も鶴丸も、一振り目と二振り目とでは異なっているのだということを受け入れている。
そう、一期一振と鶴丸の間には何もなかったのだ。何もなかったというのに、鶴丸は一期一振から距離を取るようになってしまった。一期一振から話しかけたならば返事をしてくれる。誘えば受けてくれる。しかし、決して自分からは近付いてくれなかった。間に流れる無言は苦痛ではないものの、広い部屋へわざわざ残された手前、居心地の悪さは残った。
どちらが悪いわけでもないのに、沈黙が続いてしまうと言葉を発することを戸惑ってしまう。打ち破ったのは、鶴丸だった。
「まあ、あれだ。あえて言う程のことではないと思うが」
気をつけてな。
少し前に貴方ではない鶴丸国永をそうやって送り出したのだと、それを口にしてしまえば全ては変わってしまうのだろうか。ぼんやりと考えながら、一期一振はそれを笑顔で覆い隠して「ありがとうございます」と返すに留めた。
鶴丸国永が眠りにつき、そして目覚めなくなってしまって随分と経つ。前線で活躍していた彼に何が起こったのか。それは仲間や審神者は勿論のこと、政府の専門機関が調べても明らかにすることができなかった。
――どこかに不具合が生じているわけでもなく、可能性があるとするならばそれは心に原因があるのだろう。
無責任とも言える「検査結果」の紙切れが一枚だけ届く頃には、もうその姿は一期一振の自室にあった。
置物と化してしまった鶴丸国永を迎え入れることは、一期一振自身が審神者に進言したことだ。審神者は少々面食らった様子であったものの、近侍であった平野の口添えもありそれは認められることとなった。
日常に驚きを求める鶴丸と、本丸に規律を求める一期一振と。
口を開けば厭味の応酬という状況も見慣れた光景で、だからこそ、信じられなかったのかもしれなかった。決して折るな、と繰り返し言い聞かされたことは記憶に新しい。
(誰がこの御方を折りましょうか)
指先でそっと触れた肌は、温かいのか、冷たいのか。もう分からなくなってしまった。彼が眠りについてから一期一振の内に炎は宿らず、けれど、同時に彼を待ち焦がれてもいる。彼が生きているのか、死んでいるのか。自分は生きているのか、死んでいるのか。一期一振にはもう分からなくなってしまっていたけれど、それもまたどうでも良いことであったから。愛しい人のいない世界に、自分が生きているとは言い難く。
鶴丸の倒れた地下戦場は閉ざされてしまったけれど、もしかしたら、という思いはある。閉ざされたあの空間に、捕らわれているのは新たな仲間と、そして。荒唐無稽な話だと笑われるかもしれないが、それでも、誰もが同じことを考えたに違いない。だからこそ、一期一振が隊長を任されることに誰も異を唱えなかった。
「隠れ鬼は終わりですよ、鶴丸殿。必ずや、見つけ出して捕まえますからね」
返答がないと分かっていながらも、一期一振は鶴丸に語りかけることを止めない。外部からの刺激が目覚めを促すかもしれない、という政府の人間の言葉を信じたわけではない。ただ、一期一振が伝えたいことを鶴丸に伝えているだけなのだ。答えが無くとも、語りかけること。いつぞやの蔵の中で、幾度となく繰り返されてきたことなのだから。
戦場の開放は明日の正午。本当は身体を動かしていたいのだけれど、こうした突発的な戦場に関する出陣の場合は余計な疲労を残さないよう、前日の正午で手合わせの類いは禁じられている。先程まで弟たちを中心に相手取って身体の動きを確認していたのだけれど、残念ながら時間切れを迎えてしまった。簡単に汗を流したものの、未だ、熱は身体の内で暴れ回っている。
行き場を失ったそれが眠る彼に噛み付きやしないかと、鶴丸の頬に手を滑らせる。そのまま、首筋、肩をなぞり、布団の中へ隠れていた腕をたどって手のひらを緩く握る。当然ながら返されるものはなく、沈みそうになる意識は軽く瞼を下ろすことで目をそらす。己までもが動けなくなってしまうことは、避けなければならなかった。少なくとも今は、まだ。
――それぞれの二振り目が育ったその時には、共に眠ろう。
どちらかが折れてしまったその時は、新たな戦力が育った時に後追いを許すという、随分と前に交わしたように思えるその約束があるからこそ、一期一振はここまで耐えてきた。一振り目の鶴丸と交わしたその約束は、あともう少しで実現しそうなのだ。二振り目の鶴丸国永は、順調に一振り目と匹敵するだけの実力をつけてきている。だから、残る問題は二振り目の一期一振の存在だけだった。
しかし、こういう時に限って事態は思うようには進まない。鍛刀をしても、進軍をしても、もう一振りの自分が見つからない。もどかしいこの現状は、もしや眠る一振り目が何らかの方法で邪魔をしているからなのではないか、とまで考えたこともある。彼は優しいから。死んだように眠る彼を自室へと囲い、活き活きと駆け回る彼を見守りながら、一期一振は己を殺してくれる刀の存在を待ち望んでいる。
穏やかな表情で眠る彼は、どのような夢を見ているのだろうか。その夢の中は、平穏だろうか。彼の愛する驚きが広がっているだろうか。楽しんでいるのだろうか。そこに、一期一振の姿はあるのだろうか。
もしかすると、一期一振自身が夢の中にいるのかもしれないとすら考えることもある。薄暗い部屋、大切にしまい込まれたまま、埃を被りながら緩やかに死へと向かっていた毎日。そこからの脱却を夢見た、身の程知らずの幻想。置いて行かれた今、それは悪夢となって続いている。
白く輝く彼がいなければ、どうしても駄目だった。思考が薄暗い方向へと傾いてしまっていることに気がついて、一期一振は胸の奥に居座ってしまっているそれらを息と共にふっと吐き出す。そうしているから駄目なのかもしれなかった。閉ざされた部屋の中に薄暗い思考が吐き出され、そしてそこで眠る彼と、待つ自分と。しかし、どうすれば良いのか分からない。
「鶴丸殿、約束を忘れてしまうほどに耄碌した、とは言わせませんからね」
以前であれば噛みつく声があったというのに、それがない。新たな彼とも、やろうと思えばできるのだろう。ただ、相手が一線を引いてしまっているから。彼自身が、自分は一期一振の求める「鶴丸」ではないのだと理解してしまったから。だから、お互いに踏み込むことができずにいる。
鶴丸自身が二振り目であると気が付くまでに、そう時間はかからなかったように思う。己好みの調度が揃った部屋には生活感があり、顔を合わせる者たちは一瞬、寂しげな顔をする。短刀たちと隠れ鬼をしている最中、迷い込んだのは一期一振の部屋だった。そこで眠る、鶴丸国永。遠征から戻り、薄暗い部屋で白色が並んでいる様子を目にして、果たして自分は何と口にしたのだろうか。その辺りがどうも、思い出せなかった。
表面上では反りの合っていなかった一期一振と鶴丸の間にはただならぬ関係がある。暗黙の了解となっていたそれがあるからこそ、良心的な仲間たちは一期一振が部屋を閉め切っている時には近付かないようにしてくれているようだった。穏やかな眠りを暴くことのないように。その優しさがどこかむず痒く、そして、その生温さが気持ち悪く。
だからこそ、珍しい音に耳を傾けたのだ。近付いてくる足音が一つ。いつの間にか聞き慣れて、そして聞こえなくなってしまう筈だったもの。一期一振が間違える筈のないそれは、部屋の前で止まる。
「一期一振、起きているかい」
「どこぞの寝坊助殿とは、一緒にしないでいただきたい」
「……ああ、もう。そのことは忘れてくれ」
それが誰を指しているのか掴み損ねたのだろう。返答までに一瞬の間があった。気分が落ち込んでいたからだろうか、意地が悪かったなと一期一振は己を戒める。どこぞの寝坊助。つい最近、寝坊して朝食を食べ損ねた鶴丸国永、つまり二振り目の彼を示したつもりの言い回しであったのだけれど、この部屋の中にだって鶴丸国永がいるのだ。昏々と眠り続けている、一振り目が。
苦笑いを浮かべているのであろうその表情は、ありありと想像できた。部屋の前に立ったまま、しかし、隔てる壁を取り除こうとはしない彼。彼もまた、この部屋の中に何があるのかを理解した上で口を閉ざした、優しい一振りであった。
「それで、何かありましたか」
この本丸では、顕現した順番に部屋が割り当てられている。同じ刀派、かつて縁のあったもの同士を近い部屋に、という本丸もあるようなのだが、例えば粟田口のように捕らわれた短刀が後になって見つかることもあれば、一振りだけが先に来て他はなかなか、ということもある。それよりは空室へ順番に放り込んでしまった方が分かりやすかった。出陣は近い錬度のものがまとまることが多く、つまりはほぼ顕現された順と重なるのだ。何かあったときにすぐに同じ部隊のものと相談がしやすい、ということは非常に良く、今のところは不平不満があがっていない。偵察が得意であり、体力があり、そして室内でも屋外でもある程度の活躍をすることのできる脇差は、敵襲に備えて出入口付近の部屋を割り当てることが望ましい。政府が推奨しているようなそういった例外の他、厨当番を好むものがその近くに、といった場合を除いては皆が当初に割り当てられた場所を使っている。
一期一振はどちらかといえば後半に本丸で顕現された存在で、部屋は本丸の東端に位置している。次に顕現されたものの部屋はそれまであった部屋の西側へと増設が進められることとなったため、一時期は同一部隊のものとの相談のため頻繁に東西を行き来していたものだ。一期一振の次に顕現され、最初に西側の増設部屋を与えられた存在が鶴丸国永である。審神者が一振り目の鶴丸国永を一期一振の部屋に寝かせ続けることを認めたのには、こういった立地も関係しているのかもしれなかった。わざわざ反対側の部屋へと足を運ぶことさえなければ、もう一振りの存在を目に入れることもないだろう、と。
足を運んだ理由を問うただけであるというのに、鶴丸が答えるまでに僅かな間があった。何もないのならばないでそれは構わなかったのだが、普段は一定の距離を置いている鶴丸のことである。何もないということはないはずだ、という一期一振の考えが問いかけの中に鋭く潜んでしまっていたのかもしれない。
僅かに言い淀んだ彼は小さな声で、しかし確かに答えた。
――少し、遠出をしないか。
手合わせの類は禁じられている。静めきることのできない身体を持て余しているのであれば、少し気分転換をしないか、と。
「それは」
「ああ、許可は取ってあるぞ。暇すぎて何をしでかすか分からんやつがいる、と言えば一発だったな」
「鶴丸殿、それを世間一般では脅しと言うのですよ」
「認めなければ暴れてやると言ったわけでもないのに、言いがかりはやめてくれ」
軽口の応酬をしている間に、踏ん切りがついたのだろう。徐々にいつもの調子を取り戻していく声に、彼が何を考えてそれを言い出したの考えようとして――やめた。これまで距離を取っていたのは鶴丸だが、一期一振もまた、進んで近付こうとはしてこなかった。動こうとはしなかった一期一振に、動き出した鶴丸へとやかく言う資格などないのだ。
「鶴丸殿、先に門で待っていてください。すぐに向かいますから」
「あまり遠出はしない予定だからな、短刀との遠足並みの重装備はいらないぜ」
是、という答えを受けて戻っていく軽やかな足音を聞きながら、一期一振は静かに立ち上がる。
「……それでは、行って参ります」
いつか、同じ夢を見るために。そのためだけに、一期一振は部屋を出て行く。本当は出たくなどないのに、もう、眠ってしまいたいのに。待ち遠しい「いつか」の夢を眠り続ける彼に寄り添わせ、様々な感情だけを眠らせて。
今日は、どこへ連れ出してもらえるのだろうか。そこで、何を見聞きするのだろうか。動き出そうとしている彼と、何を変えていくのだろうか。前向きな思考と並列して、二振り目の一期一振はあとどれだけ待てばやってくるのか、なんて薄暗いそれも一期一振の内には潜んでいる。
自分を殺すための刀を待つだなんて、と思われていることは知っている。けれど、元より自分は生きてなどいないのだ。それは再刃された時からなのか、大切にしまい込まれた時からなのか、はっきりとしたことは分からない。それでも確かに、一期一振はいきぞこなってしまったのだと自覚していた。生きても、死んでもいない。中途半端な存在である、と。生の実感を与えてくれていた半身を欠いた今、一期一振が待っているのは自らを殺す刀ではなく、自らを生かしてくれる刀だった。
手早く用意を済ませて待ち合わせ場所へ足を運んだ一期一振の姿を見て、鶴丸はほっと息を吐き、そして嬉しそうに笑う。一期一振が、外へ出てきてくれた。自分と共に歩いてくれる。それが嬉しくて堪らないのだと、そう全身で叫んでいる。
それには気がつかなかったふりをして、一期一振は微笑みかけてやる。それを、彼が望むから。
「お待たせしました」
「急な誘いだったからな、むしろ早いくらいだ」
では行こうか、と声を掛けてくれる鶴丸は、しかし、手を引いてはくれない。確かに一線、越えられない何かがそこにある。一期一振にはそれを何とかするつもりなんて毛頭ないのだけれど、それでも、もしも彼が望むのであれば、その望みの邪魔をするつもりもなかった。彼が変わろうとするのであれば、応じてやっても良いと思うくらいには絆されてしまっている。しかし、まだそこへ手を付けるつもりはないらしかった。そうであるならば、一期一振はそれに従うのみである。
「それで、どちらへ」
歩き始めた鶴丸の後を追いながら問いかけると、実はまだ決まっていないんだ、と返される。
「どこか行きたい場所があればそこで構わないんだが」
「そう、ですね」
一瞬、浮かんだ光景があった。眼前に広がる、一面の。
行っても良いのか、別の場所にした方が良いのか。判断に迷ったその一瞬を、鶴丸は見逃してはくれなかった。
「お、どこか気になるところがあるようだな」
「……貴方にはつまらない場所かもしれませんが、それでも良ければご案内いたしましょう」
一振り目の彼と足を運び、もう一度という約束が果たされないままとなった場所。特筆するようなものは何もなく、本丸で積み重ねてきた時間があったからこその場所だったとも言える。だからこそ、二振り目の彼を連れて行っても良いものなのか、分からなかった。彼とはそこまでの時間を過ごしてきたわけではない。だから踏み込まれたくない、というわけではなくて、彼が失望しやしないかと、それだけが気がかりであった。
一期一振の葛藤には気がついているはずなのに、知らぬ振りを貫き通すつもりであるらしい。それでも、行かないのかと振り返る眼差しには僅かな不安が滲み出ていて。
「行きましょう。暗くなる前に帰らなければ」
「おいおい、どれだけ遠くへ行くつもりなんだ」
応える一期一振が歩き始めたのを見て、ほっと安堵の息を吐く。柔らかく細められたその瞳は本当に綺麗で、一期一振の大好きな色をしていた。むしろ、まぶしすぎるほどに。皆の優しさに甘やかされてしまった己はきっと、彼の愛したものとは遠くかけ離れた色をしてしまっているのだろうと、一期一振はすっと目を逸らす。あからさまなそれに気付かぬわけがないのに、鶴丸は何も言わずに流すのだ。
自分が二振り目である、と気がついてからも、二振り目の彼は「鶴丸国永」だった。己の為すべきことを知り、それに殉ずる哀れな刀。
彼がそれを求めるならば、一期一振は彼を一振り目と同じように愛しても構わなかった。彼もまた一振り目と同じ「鶴丸国永」で、故に、誇り高く、それを望まなかった。だから、一期一振はその思いに応えたのだ。彼の求めるまま、彼の望む姿でありたいと、薄暗い墓場の中で恋い焦がれていた時分よりそう在り続けてきたものだから。
本当は気がついている。愛してくれと、叫んでいる。愛していると、訴えている。それでも全てを諦めて、彼もまた、あの薄暗い揺り籠の中へと己の感情を眠らせてしまった。一期一振には知られていないと、そう信じて、求められた役割を演じきることができているのだと信じている。
その姿が愛おしくて、痛ましくて、かなしくて、やはり、この場所は悪夢の中に違いなかった。それが誰のものなのか、もう、ぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまっていて分からない。
鶴丸に見えぬよう行き先を指定して門を潜る。目的地に到着するまではせめて、期待に胸を膨らませておいてほしいという一期一振の我儘だった。時代と場所を伝えたとして、何もない場所じゃないか、などと言われる未来を避けたかっただけの臆病者だと誹られても良い。そんなもの、耐えられなかったのだ。
並び歩く中で間に流れる無言は苦痛ではない。雨が降っていたのだろうか。葉の纏う水滴が、風に揺らされてぽたりと落ちる。水滴の重さに耐えられなくなった葉が、ふるりと震えて水を払う。小さな光が至る所で反射して、世界が煌めいて。
「……こりゃ、驚いた」
「……それは僥倖」
一期一振も想定したわけではなかったけれど、この光景に鶴丸が驚いて、喜んでくれたのであれば案内した甲斐があったというもの。目的地まではまだ少しあるが、行程を楽しんでくれたというだけでも大きな収穫だろう。美しい光景に目を輝かせる鶴丸の横顔を、一期一振はそっと眺める。琥珀の瞳に光が映り込み、星を閉じ込めたような。
唐突に振り向いた鶴丸は、目を見開く。
「驚いたな。君は瞳に星を閉じ込めたのか」
緩く下がった鶴丸の眦に、一期一振の胸は懐かしい痛みを訴え始める。そうだ。鶴丸は一期一振の抱えるその痛みに気が付いてしまったから、だから彼は一線を引いてしまった。決してそこから、踏み出さぬように。それを思い出してしまった瞬間に、まずいと思った。痛みに気付かれてしまえば、鶴丸は、また。
一瞬だけ鶴丸の瞳が揺れ、悟られてしまったことを知る。しかし、彼は何も言わなかった。何も言わないままに視線を周囲の風景へと戻し、そして全てを閉じ込める。鶴丸は何も言わない。これまでだってそうだった。それを強いているのは、一期一振だった。
「この景色を切り取って持ち運ぶことができたら良かった」
「ええ」
「眼に写したものをそのまま映し出すことができたら便利なんだがな」
「本当に」
話題を与えてくれたことに感謝する。少なくとも普通に話している間は痛みなど忘れることができた。鶴丸に気を遣わせることも、互いに傷つくこともなかった。美しかった輝きは、途端に一期一振へと突き刺さる刃に姿を変える。いっそ、本当に身を切り裂いてくれたならばどれだけ救われたことだろうか。
訪れてしまった痛みは、なかったことにはできなかった。会話はある。身体的な距離があるわけでもない。ただ流れてしまう沈黙が、苦痛で、恐ろしくて、何とかして話題を探さなければならないと考えてしまう。何もなかったように取り繕いながら、それでも決して「なかったこと」にはできなかった。
鶴丸は、二振り目として顕現された何の非もない彼は、そうやって線の引かれてしまった関係性に、別れを告げようと動き出したはずだった。それなのに、一期一振の思い出してしまった痛みのせいで二の足を踏ませてしまう。そうやって甘やかされることは、本意ではなかった。悔しかった。惨めだった。
美しかった景色は途端に色褪せ、何を話しながら歩いていたのかも覚えていない。ただただ、必死だった。鶴丸が変えようとしたのならば、一期一振も変わらなければならなかった。それなのに、何事もなかったかのように帰還し、それぞれの部屋へと別れ、そして、自室に入った途端に一期一振の世界は歪む。薄暗い部屋。眠る、彼の姿。
「わたしには、もう」
閉ざされた場所に、小さく吐き出す。
あなたがいなければ、なにもできなくなってしまった。
見慣れた闇の色を、目前の敵と共に切り捨てる。今回は効率性を重視する、という審神者の決定に基づく部隊編成のおかげで少々物足りなくもある。大太刀連中が敵をなぎ払ってしまい、出番を与えられないものが出てしまっているのだ。多少の傷は気にせずに進軍しているのも、不完全燃焼のまま帰還させられたくないという思いが強いからだろう。
先陣を任されたのは、髭切、三日月、江雪、太郎太刀、次郎太刀、そして一期一振。これまた一癖も二癖もある面々に、これを纏めなければならいのかと頭が痛くなったことは、もう遠い過去の話であった。
「……この世は、地獄です」
「……申し訳ありません」
常日頃は戦に対して否定的な発言も目立つ江雪であっても、刀を振るうことなく目前で敵がなぎ倒されて終わることが続けば話が変わってくるらしい。そもそもが武器として形作られた存在であるのだから、ひとたび戦場へと立てば己の力で戦果をあげたくなるもの。決して太郎太刀や次郎太刀のせいだというわけではないのだが、恨み言の一つや二つ、漏れ出してしまうのも無理はなかった。
この調子ならば予想よりも早く任務が終わるかもしれない。戦闘を好む面々を始め、戦い足りないものには周回をしてもらえばいいのだ。第一目標である仲間の救出に加え、此度の出陣には眠り続ける鶴丸国永に何が起こったのか、それを見極める目的もあった。前回と同じである保証はどこにもなく、しかし、僅かな可能性にも縋りたかった。
「ここは、随分と薄暗いな」
振るうことなく終わってしまった刀を手持ち無沙汰に眺めながら、三日月が呟く。一期一振にとって、そして鶴丸にとって、この薄暗さは懐かしさの象徴であり、そして静けさに包まれているべき場所だった。仲間を助け出すためであるとはいえ、己が踏み荒らす一員として名を連ねている状況は快さから程遠いほどに。それでも、だからこそ、一期一振は進まなければならなかった。このような場所に、たった一振りで残されてしまうこと。それはどれだけ恐ろしいことか。退屈のあまりに心が死んでしまう前に、見つけ出し、連れだし、そして目覚めさせてやらねばならなかった。
埋蔵金伝説の印象が強いのか、地下戦場には大判小判が眠っていることが多い。どうせ進むのならばとそれらも虱潰しに回収しながら、先へと急ぐ。壁面に掛けられた炎に揺れる影が、一つ、二つ、三つ――。
何気なく数えた一期一振は、その場で勢いよく振り返る。
「どうかしたのかい」
「影が」
ひとつ、多いのです。足を止めて尋ねてきた次郎太刀の足下に目を留めたまま、一期一振は小さく答えた。
見間違いではないか、と口にするものはいない。無言で足下に目を走らせ、数えていく。一つ、二つ、三つ――六つ、そして、七つ。敵の部隊は六振り全てを倒し、消滅まで確認している。立っているのは仲間である六振りのみで、しかし、暗がりからもう一振り分の影が。
目視の限りではそこに人影などなく、近付いて腕を伸ばしても触れるものはない。太郎太刀や次郎太刀、そして髭切も首を振る以上、そこには本当に何もなく、そしてあったとしても害を為すものではない、らしかった。
「これは鶴丸殿、なのでしょうか」
「ううん、どうだろうね。影がぼやけて分かりづらいや」
光源が揺らめくものであるせいなのか、それとも「身体」が無いからなのか、六振りに囲まれた影はどうも形を掴みづらかった。ここではっきりと鶴丸国永の姿だと断言できたならば、もっと動きようがあっただろうに。
何はともあれ、まずは審神者に連絡を。結論付けるのは早く、場を整えていたその一瞬。ようやく見つけた「手がかり」に、ほんの一瞬だけ気が緩んだのかもしれない。揺らめく影がぶれ、そして。
瞬きの間に、闇が辺りを覆い尽くしていた。
影の中に招かれたのだろう。四方を包む暗闇に、一期一振は考える。見渡した限りでは自分以外の人影はなく、この場へ招かれたのは己のみであると仮定する。
(身体ごと……或いは、心だけが)
少なくとも「身体」を視認することができ、軽く握り込んで感覚があることを確かめることができた。ともなれば、するべきことは一つである。意識を研ぎ澄ませ、索敵を。仮にここが「影」の中であるとして、周囲の闇から攻撃がこないとは限らない。伸ばした手の先が辛うじて見えるか見えないか、という程度にしか視覚は働いていないのだ。文字通りの闇討ちを画策されているのであれば、これでも一抹の不安が残るほどである。
どうすればここから脱出することができるのかは分からない。それでも落ち着いていられるのは、ここに鶴丸もいるのだという予感めいたものがあるからだった。希望的観測でしかないことは分かっている。それでも、ここまで条件が揃っているのだから、きっと。
動かなければ始まらない。であればまずはどの方向へ進むべきか。一期一振がぐるりと辺りを見渡したとき、微かな音が聞こえてきた。ちりり、と。
「これ、は」
白を彩る金の音。導くように響いてくるそれに向かって、ゆっくりと足を進める。罠であるのかもしれない。それならばそれで、招き入れたことを後悔させてやらねばと、刀を握る手に力を込めた。
音は近付いているような、遠ざかっているような。移動したところで景色が変わるわけでもなく、同じ場所をぐるぐると回っているのではないかとすら思う。それでも、歩みを止めるわけにはいかなかった。微かな手がかりを聞き漏らすことがないように、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。諦めてなるものか、と気持ちを新たに仕切り直したその時、ふっと風が動いたような気がした。
(敵であれば)
先に斬りかかるべきか、それとも奇襲を凌ぎ確実に仕留めるか。
一期一振は先程と変わることなく、再び音を頼りに歩き始める。少しだけ、周囲に対する警戒を強めながら。相対するその瞬間を、待ちわびながら。そして。
「っ、お覚悟」
突如現れた一閃は、居合いで何とか弾く。下がったのかすぐに敵の姿は見えなくなったが、それでも大まかな見当は付いた。一歩踏み込み、そして、振り下ろす。弾かれたそこに、白色。
互いに次の攻撃へ移ろうとした体勢のまま、ぴたりと止まる。
「一期一振、か」
「鶴丸殿、ですか」
ほぼ同時にこぼれ落ちたそれは、待ち望んでいた再会であるはずなのに何の色も乗せられていなかった。驚きすぎると身体まで硬く動きを止めてしまうらしく、刃を交えた状態のまま見つめ合うという何とも言い難い状況が生まれてしまった。
そのような場合ではないと分かっているものの、間近で見る鶴丸の表情に暗さがないことに安堵する。若干の疲労こそあるものの怪我はない。自ら受けた攻撃の様子から見て、問題はなさそうだと判断して良いだろう。努めて客観的に鶴丸を眺め、そしてようやく感情が追いついてくる。そっと刃を引き、収めようとする手が僅かに震えていた。
「……とりあえず、ご無事で何よりです」
伝えた言葉は、震えてはいなかっただろうか。触れたいと叫ぶ心を押さえつけ、まずは職務を優先させる。久しぶりの再会で、見苦しい姿を見せたくはなくて。
同じく刀を収めた鶴丸は、力の抜けた笑みを浮かべた。
「何というか、君もご愁傷様だな。こんな暗闇にまで駆り出されるなんて」
「誰のせいだとお思いですか」
「俺のせいだ、と言わせて楽しいか」
「いいえ、ちっとも」
真に悪いのは、こうして影の中へと招き入れてくれた得体の知れない敵であることは分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。どれほど心配をさせられたことか、その一部分だけでも伝われば良いと思った。素直にそれを口にすることは、気恥ずかしかったものだらから。
驚いたことに、鶴丸がこの暗闇で過ごしていた時間は「一日にも満たない」ものであるらしかった。当然のことながら、太陽も月もないこの場所で正確な時間を知る術は無い。故に「体感では」という但し書きが必要となるものの、それでも、それほどまでに現実との間に乖離が生じているとは思わなかった。
「これでは、私も目覚めるまでにどれほどの時間が必要になることか」
そもそも目覚めることができるのか。
その点については目を瞑ることにする。少なくとも、折れたわけではない。騒々しいから早く出て行けと、追い出される未来が近いように思うのだ。退屈を嫌う鶴丸国永と、そんな彼に相応しく在りたい一期一振と。心なしか、周囲の闇も薄れているように感じられた。
鶴丸とて、無為に動き回っていたわけではないらしい。怪しい場所がないか探そうとしてみたり、敵をおびき出せやしないかと騒ぎ立ててみたり、闇雲に刀を振り回してみたり。得体の知れない場所へ単騎で閉じ込められてしまえば、恥も外聞も全てかなぐり捨ててしまえるものだぞ、とは聞きたくなかった言葉である。とはいえ、そこまでして何の収穫も得られなかったという事実は大きいと言えるだろう。少なくとも、一期一振が同じことをする必要は無いのだから。
辺りには重苦しい闇が満ちていて、出るための方法が分からない。そのような中でよくもまあ「一日にも満たない」時間であったとはいえ一振りだけで過ごすことができたものだと思う。鶴丸と出会うまでの間、敵を警戒するために気を張っていたとはいえ、それでも、恐ろしさや不安は心の中にあった。飲み込まれてしまうともう目覚めることができないような、それまで確かにそこに在ったはずの意識を沈ませてしまうような、そんな、どこか懐かしい闇の中であったから。
はぐれることの無いように、と手を繋ぎながら歩く。身体のどこかを触れ合わせたまま、座って話し込んでみる。もう随分と前のことのように感じられてしまうのだけれど、人の器を得る前に戻ったかのような時間だった。違うのは、こうして触れ合うことができること。お互い、少しだけ素直になれたこと。
穏やかな鶴丸の声を聞きながら、絡めた指にそっと力を込める。思い出すのは、ついに繋ぐことのなかった手のことだ。二振り目として顕現されてしまった、彼のこと。彼は、今頃どうしているのだろう。そもそも、自分はどうなってしまっているのだろう。
「どうかしたのか」
顔を合わせてはいないというのに、鶴丸は一期一振の気持ちが逸れたことを感じ取ったらしい。戻ってこい、とでも言うように、緩く指を握り込まれる。
「いえ、今頃、私の部屋はどうなっているのかと思いまして」
鶴丸と同じように眠ってしまっているのであれば、きっと、暗く閉ざされた部屋で寝かされているのだろう。布団は鶴丸の隣に並べられているのだろうか。世話をしてくれているのは弟たちだろうか。それとも、二振り目の彼が担ってくれているのだろうか。一期一振と同じように、静かに、穏やかに、目覚めを心待ちにして。
「ここぞとばかりに、悪戯でもされているんじゃないか」
「なるほど、額に肉の字を書くような」
「……まさか」
「どうぞ、鏡でご確認を」
この闇の中、見えるはずもないのに鶴丸が空いた手で額を押さえたことが分かった。もしも彼が本当に鏡で確認したならば、そこには相変わらず白く綺麗な肌があることを見ることができただろう。幾度、指先で触れただろう。早く目覚めてほしい、どのような夢を見ているのか知りたい、言葉を交わしたい。そんな願いを込めながら、声にならない言葉を綴っていた。
眠る一期一振の額に願いを描くのは誰だろうか。最有力候補の両手が隣で塞がっている今、可能性のある顔触れが浮かんでは消える。もしかしたらこの瞬間にも誰かが何かを描いているのかもしれなくて、それはあまり考えたくないことだった。だって、一期一振には何も伝わってこないのだ。鶴丸に注いだ何もかもが届いていなかっただなんて、そんなことは寂しすぎる。
慣れた暗闇に、愛おしい沈黙。穏やかなこの場所に留まりたいとも、審神者の元で刀を振るいたいとも思う。どうにも、ちぐはぐだった。代わり映えの無い安寧は、確かに、退屈で心が死んでしまいそうだとも。
ふぁ、と。
間抜けな音が重なる。
「おいおい、こんな時に欠伸だなんて、気が抜けてるんじゃないのか」
「なんとまあ、このような時にそのような態度でいられるものですな」
見事に重なった言葉に、どちらからともなく自然と笑みがこぼれた。
「いやはや、それにしてもここまでとは見事な」
「君とは長年の付き合いだが、こりゃあ驚きだ」
笑いながら、瞼が重くなっていくことを自覚する。身体の感覚も鈍くなり、どうしても睡魔にあらがえない状況そのままであると認めざるをえなかった。ゆっくりと身体を傾けていくと、同じように考えたらしい鶴丸の肩とぶつかる。何も言わず、ただ無言のままに互いの身体を預け合いながら。
そういえば、この暗闇の中で「眠る」のは初めてだなとぼんやり考えた。
開かれた世界に満ちた「白」の眩しさに、思わず目を瞑る。刺さるような、とでも言おうか。暗闇に慣れてしまっていた視界には、刺激が強すぎたのだ。
自らの内側へと意識を巡らせ、横たわっていることを自覚する。軽く力を送り込み、少々反応は鈍いものの全てが問題なく動くことを確認した。そうしてようやく「目覚め」の準備をする。
腕を持ち上げ、顔の前へ。自らのそれで陰を作り、ゆっくりと瞼を上げて。
見慣れた天井に家具。机の上には沢山の花がある。花瓶が足りなかったのか、湯飲みやお菓子の容器にまで花が活けられている様がほほえましい。弟たちからのものだろう。柔らかな風の動きに視線を動かすと、周囲から穏やかな暗闇を守るための壁となっていたその場所が開け放たれていた。そして、その縁側に並んで座る、二振りの姿。
「鶴丸、殿……と」
無意識のうちに漏れてしまったそれは、小さすぎて縁側にまで届かなかったらしい。それでも、拾い上げる声がある。
「君だなあ、一期一振」
穏やかなそれが耳を擽って、ああ、と。伝えたい言葉が、我先にと飛び出そうとしているせいで纏まらない。吐き出すことのできないそれらが胸の奥に詰まり、痛く、苦しく。
ただ、一言だけ。これだけは自分が真っ先に伝えなければならないと思っていた言葉があった。絡まってしまった言葉を紐解いて、大切なそれをすくい上げて。
「おはようございます、寝坊助殿」
顔を向け、白いその姿を確認する。柔らかく蕩けた瞳が、おはよう、とようやく返してくれた。
運が良いのか悪いのか。件の通知が来た際に近侍を任されていたのは一期一振であった。全員を大広間に集めて伝えたことといえば、その場所が開かれること、捕らわれた仲間が誰なのか、先陣を任されるのは誰なのか、その他諸注意が数点。
「――以上が現時点での決定です。部隊の編成については直前の変更もあり得ますので、鍛錬に励むように、と」
それでは解散、と告げた一期一振の様子を窺う目線の数は数えていない。それが何色をしているのかも、重要ではなかった。それでも、皆が己を気遣うように窺っていたことが強く心に残っている。彼らがどうしてそのような反応を見せているのかについては、不本意ながら心当たりがありすぎた。以前、地下戦場攻略の最中に倒れてしまった鶴丸国永。原因が究明されないままに、彼は未だ一期一振の部屋で眠り続けている。
当事者でありながら、笑い出してしまいたくすらなった。彼らは一体、何に惑わされているというのだろう。自分たちに求められていることは、暗がりに潜む敵を殲滅して捕らわれた仲間を助け出すこと。それ以上でもそれ以下でもなく、かつて共に在ったこともある仲間の言葉を借りるならば「給料分は仕事をする」だけであるというのに。
一期一振があまりにもいつも通りであるからだろう。まずは、戦場に生き様を見出したものたちが移動する。続くように仲の良いものと連れ立って移動を始め、そして残されたのは。
「……気にするな、と言っても難しいのでしょうね」
「眠っている俺のおかげで、今回は大人しくしていろとのお達しだからな」
一期一振と鶴丸国永。皆に気を遣われた、のだろう。欠けてしまった一振りの穴を埋めるために目覚めさせられた彼とのことを、彼らは気にしているのだ。一期一振が一振り目とただならぬ関係であったことを、明言こそしていなかったが察してはくれていたようで。それを要らぬと切り捨てることは容易いのだけれど、それをしてしまうと今以上に皆の視線が煩わしいものになる気がしていた。ある程度は許容して、見逃していた方が得策であると気がついたのはいつのことだったか。
退屈すぎて死にそうだとぼやく彼は、此度の戦場へ足を運ぶことを認められなかった。遠征部隊へ名を連ねることもあるのだろうが、それでも、そこで本能のままに刀を振るうことができるかと問われたならば答えは否。内番でもしていれば気も紛れるのだろうが、それすらも無ければ彼の最も嫌う「退屈」が目前に口を開いて待ち構えているに違いない。
鶴丸のお目付役を任されることの多い一期一振は、いつもの如く地下探索の先発隊隊長を仰せつかっている。あまりにも疲労が溜まりすぎてしまうと誰かと入れ替えられてしまうのだろうが、そのようなヘマをするつもりは毛頭無かった。最下層まで駆け抜けて、求める結果を掴むのみ、である。その間に暇を持て余した男が何かしでかしはしないかと不安に思う部分はあるものの、そうなる前に誰かが気がつき、止めてくれると信じている。
残されはしたものの、今、何を話すべきなのか。一期一振には分からなかった。皆が思うほどには、自分たちの間には何もないのだ。己も鶴丸も、一振り目と二振り目とでは異なっているのだということを受け入れている。
そう、一期一振と鶴丸の間には何もなかったのだ。何もなかったというのに、鶴丸は一期一振から距離を取るようになってしまった。一期一振から話しかけたならば返事をしてくれる。誘えば受けてくれる。しかし、決して自分からは近付いてくれなかった。間に流れる無言は苦痛ではないものの、広い部屋へわざわざ残された手前、居心地の悪さは残った。
どちらが悪いわけでもないのに、沈黙が続いてしまうと言葉を発することを戸惑ってしまう。打ち破ったのは、鶴丸だった。
「まあ、あれだ。あえて言う程のことではないと思うが」
気をつけてな。
少し前に貴方ではない鶴丸国永をそうやって送り出したのだと、それを口にしてしまえば全ては変わってしまうのだろうか。ぼんやりと考えながら、一期一振はそれを笑顔で覆い隠して「ありがとうございます」と返すに留めた。
鶴丸国永が眠りにつき、そして目覚めなくなってしまって随分と経つ。前線で活躍していた彼に何が起こったのか。それは仲間や審神者は勿論のこと、政府の専門機関が調べても明らかにすることができなかった。
――どこかに不具合が生じているわけでもなく、可能性があるとするならばそれは心に原因があるのだろう。
無責任とも言える「検査結果」の紙切れが一枚だけ届く頃には、もうその姿は一期一振の自室にあった。
置物と化してしまった鶴丸国永を迎え入れることは、一期一振自身が審神者に進言したことだ。審神者は少々面食らった様子であったものの、近侍であった平野の口添えもありそれは認められることとなった。
日常に驚きを求める鶴丸と、本丸に規律を求める一期一振と。
口を開けば厭味の応酬という状況も見慣れた光景で、だからこそ、信じられなかったのかもしれなかった。決して折るな、と繰り返し言い聞かされたことは記憶に新しい。
(誰がこの御方を折りましょうか)
指先でそっと触れた肌は、温かいのか、冷たいのか。もう分からなくなってしまった。彼が眠りについてから一期一振の内に炎は宿らず、けれど、同時に彼を待ち焦がれてもいる。彼が生きているのか、死んでいるのか。自分は生きているのか、死んでいるのか。一期一振にはもう分からなくなってしまっていたけれど、それもまたどうでも良いことであったから。愛しい人のいない世界に、自分が生きているとは言い難く。
鶴丸の倒れた地下戦場は閉ざされてしまったけれど、もしかしたら、という思いはある。閉ざされたあの空間に、捕らわれているのは新たな仲間と、そして。荒唐無稽な話だと笑われるかもしれないが、それでも、誰もが同じことを考えたに違いない。だからこそ、一期一振が隊長を任されることに誰も異を唱えなかった。
「隠れ鬼は終わりですよ、鶴丸殿。必ずや、見つけ出して捕まえますからね」
返答がないと分かっていながらも、一期一振は鶴丸に語りかけることを止めない。外部からの刺激が目覚めを促すかもしれない、という政府の人間の言葉を信じたわけではない。ただ、一期一振が伝えたいことを鶴丸に伝えているだけなのだ。答えが無くとも、語りかけること。いつぞやの蔵の中で、幾度となく繰り返されてきたことなのだから。
戦場の開放は明日の正午。本当は身体を動かしていたいのだけれど、こうした突発的な戦場に関する出陣の場合は余計な疲労を残さないよう、前日の正午で手合わせの類いは禁じられている。先程まで弟たちを中心に相手取って身体の動きを確認していたのだけれど、残念ながら時間切れを迎えてしまった。簡単に汗を流したものの、未だ、熱は身体の内で暴れ回っている。
行き場を失ったそれが眠る彼に噛み付きやしないかと、鶴丸の頬に手を滑らせる。そのまま、首筋、肩をなぞり、布団の中へ隠れていた腕をたどって手のひらを緩く握る。当然ながら返されるものはなく、沈みそうになる意識は軽く瞼を下ろすことで目をそらす。己までもが動けなくなってしまうことは、避けなければならなかった。少なくとも今は、まだ。
――それぞれの二振り目が育ったその時には、共に眠ろう。
どちらかが折れてしまったその時は、新たな戦力が育った時に後追いを許すという、随分と前に交わしたように思えるその約束があるからこそ、一期一振はここまで耐えてきた。一振り目の鶴丸と交わしたその約束は、あともう少しで実現しそうなのだ。二振り目の鶴丸国永は、順調に一振り目と匹敵するだけの実力をつけてきている。だから、残る問題は二振り目の一期一振の存在だけだった。
しかし、こういう時に限って事態は思うようには進まない。鍛刀をしても、進軍をしても、もう一振りの自分が見つからない。もどかしいこの現状は、もしや眠る一振り目が何らかの方法で邪魔をしているからなのではないか、とまで考えたこともある。彼は優しいから。死んだように眠る彼を自室へと囲い、活き活きと駆け回る彼を見守りながら、一期一振は己を殺してくれる刀の存在を待ち望んでいる。
穏やかな表情で眠る彼は、どのような夢を見ているのだろうか。その夢の中は、平穏だろうか。彼の愛する驚きが広がっているだろうか。楽しんでいるのだろうか。そこに、一期一振の姿はあるのだろうか。
もしかすると、一期一振自身が夢の中にいるのかもしれないとすら考えることもある。薄暗い部屋、大切にしまい込まれたまま、埃を被りながら緩やかに死へと向かっていた毎日。そこからの脱却を夢見た、身の程知らずの幻想。置いて行かれた今、それは悪夢となって続いている。
白く輝く彼がいなければ、どうしても駄目だった。思考が薄暗い方向へと傾いてしまっていることに気がついて、一期一振は胸の奥に居座ってしまっているそれらを息と共にふっと吐き出す。そうしているから駄目なのかもしれなかった。閉ざされた部屋の中に薄暗い思考が吐き出され、そしてそこで眠る彼と、待つ自分と。しかし、どうすれば良いのか分からない。
「鶴丸殿、約束を忘れてしまうほどに耄碌した、とは言わせませんからね」
以前であれば噛みつく声があったというのに、それがない。新たな彼とも、やろうと思えばできるのだろう。ただ、相手が一線を引いてしまっているから。彼自身が、自分は一期一振の求める「鶴丸」ではないのだと理解してしまったから。だから、お互いに踏み込むことができずにいる。
鶴丸自身が二振り目であると気が付くまでに、そう時間はかからなかったように思う。己好みの調度が揃った部屋には生活感があり、顔を合わせる者たちは一瞬、寂しげな顔をする。短刀たちと隠れ鬼をしている最中、迷い込んだのは一期一振の部屋だった。そこで眠る、鶴丸国永。遠征から戻り、薄暗い部屋で白色が並んでいる様子を目にして、果たして自分は何と口にしたのだろうか。その辺りがどうも、思い出せなかった。
表面上では反りの合っていなかった一期一振と鶴丸の間にはただならぬ関係がある。暗黙の了解となっていたそれがあるからこそ、良心的な仲間たちは一期一振が部屋を閉め切っている時には近付かないようにしてくれているようだった。穏やかな眠りを暴くことのないように。その優しさがどこかむず痒く、そして、その生温さが気持ち悪く。
だからこそ、珍しい音に耳を傾けたのだ。近付いてくる足音が一つ。いつの間にか聞き慣れて、そして聞こえなくなってしまう筈だったもの。一期一振が間違える筈のないそれは、部屋の前で止まる。
「一期一振、起きているかい」
「どこぞの寝坊助殿とは、一緒にしないでいただきたい」
「……ああ、もう。そのことは忘れてくれ」
それが誰を指しているのか掴み損ねたのだろう。返答までに一瞬の間があった。気分が落ち込んでいたからだろうか、意地が悪かったなと一期一振は己を戒める。どこぞの寝坊助。つい最近、寝坊して朝食を食べ損ねた鶴丸国永、つまり二振り目の彼を示したつもりの言い回しであったのだけれど、この部屋の中にだって鶴丸国永がいるのだ。昏々と眠り続けている、一振り目が。
苦笑いを浮かべているのであろうその表情は、ありありと想像できた。部屋の前に立ったまま、しかし、隔てる壁を取り除こうとはしない彼。彼もまた、この部屋の中に何があるのかを理解した上で口を閉ざした、優しい一振りであった。
「それで、何かありましたか」
この本丸では、顕現した順番に部屋が割り当てられている。同じ刀派、かつて縁のあったもの同士を近い部屋に、という本丸もあるようなのだが、例えば粟田口のように捕らわれた短刀が後になって見つかることもあれば、一振りだけが先に来て他はなかなか、ということもある。それよりは空室へ順番に放り込んでしまった方が分かりやすかった。出陣は近い錬度のものがまとまることが多く、つまりはほぼ顕現された順と重なるのだ。何かあったときにすぐに同じ部隊のものと相談がしやすい、ということは非常に良く、今のところは不平不満があがっていない。偵察が得意であり、体力があり、そして室内でも屋外でもある程度の活躍をすることのできる脇差は、敵襲に備えて出入口付近の部屋を割り当てることが望ましい。政府が推奨しているようなそういった例外の他、厨当番を好むものがその近くに、といった場合を除いては皆が当初に割り当てられた場所を使っている。
一期一振はどちらかといえば後半に本丸で顕現された存在で、部屋は本丸の東端に位置している。次に顕現されたものの部屋はそれまであった部屋の西側へと増設が進められることとなったため、一時期は同一部隊のものとの相談のため頻繁に東西を行き来していたものだ。一期一振の次に顕現され、最初に西側の増設部屋を与えられた存在が鶴丸国永である。審神者が一振り目の鶴丸国永を一期一振の部屋に寝かせ続けることを認めたのには、こういった立地も関係しているのかもしれなかった。わざわざ反対側の部屋へと足を運ぶことさえなければ、もう一振りの存在を目に入れることもないだろう、と。
足を運んだ理由を問うただけであるというのに、鶴丸が答えるまでに僅かな間があった。何もないのならばないでそれは構わなかったのだが、普段は一定の距離を置いている鶴丸のことである。何もないということはないはずだ、という一期一振の考えが問いかけの中に鋭く潜んでしまっていたのかもしれない。
僅かに言い淀んだ彼は小さな声で、しかし確かに答えた。
――少し、遠出をしないか。
手合わせの類は禁じられている。静めきることのできない身体を持て余しているのであれば、少し気分転換をしないか、と。
「それは」
「ああ、許可は取ってあるぞ。暇すぎて何をしでかすか分からんやつがいる、と言えば一発だったな」
「鶴丸殿、それを世間一般では脅しと言うのですよ」
「認めなければ暴れてやると言ったわけでもないのに、言いがかりはやめてくれ」
軽口の応酬をしている間に、踏ん切りがついたのだろう。徐々にいつもの調子を取り戻していく声に、彼が何を考えてそれを言い出したの考えようとして――やめた。これまで距離を取っていたのは鶴丸だが、一期一振もまた、進んで近付こうとはしてこなかった。動こうとはしなかった一期一振に、動き出した鶴丸へとやかく言う資格などないのだ。
「鶴丸殿、先に門で待っていてください。すぐに向かいますから」
「あまり遠出はしない予定だからな、短刀との遠足並みの重装備はいらないぜ」
是、という答えを受けて戻っていく軽やかな足音を聞きながら、一期一振は静かに立ち上がる。
「……それでは、行って参ります」
いつか、同じ夢を見るために。そのためだけに、一期一振は部屋を出て行く。本当は出たくなどないのに、もう、眠ってしまいたいのに。待ち遠しい「いつか」の夢を眠り続ける彼に寄り添わせ、様々な感情だけを眠らせて。
今日は、どこへ連れ出してもらえるのだろうか。そこで、何を見聞きするのだろうか。動き出そうとしている彼と、何を変えていくのだろうか。前向きな思考と並列して、二振り目の一期一振はあとどれだけ待てばやってくるのか、なんて薄暗いそれも一期一振の内には潜んでいる。
自分を殺すための刀を待つだなんて、と思われていることは知っている。けれど、元より自分は生きてなどいないのだ。それは再刃された時からなのか、大切にしまい込まれた時からなのか、はっきりとしたことは分からない。それでも確かに、一期一振はいきぞこなってしまったのだと自覚していた。生きても、死んでもいない。中途半端な存在である、と。生の実感を与えてくれていた半身を欠いた今、一期一振が待っているのは自らを殺す刀ではなく、自らを生かしてくれる刀だった。
手早く用意を済ませて待ち合わせ場所へ足を運んだ一期一振の姿を見て、鶴丸はほっと息を吐き、そして嬉しそうに笑う。一期一振が、外へ出てきてくれた。自分と共に歩いてくれる。それが嬉しくて堪らないのだと、そう全身で叫んでいる。
それには気がつかなかったふりをして、一期一振は微笑みかけてやる。それを、彼が望むから。
「お待たせしました」
「急な誘いだったからな、むしろ早いくらいだ」
では行こうか、と声を掛けてくれる鶴丸は、しかし、手を引いてはくれない。確かに一線、越えられない何かがそこにある。一期一振にはそれを何とかするつもりなんて毛頭ないのだけれど、それでも、もしも彼が望むのであれば、その望みの邪魔をするつもりもなかった。彼が変わろうとするのであれば、応じてやっても良いと思うくらいには絆されてしまっている。しかし、まだそこへ手を付けるつもりはないらしかった。そうであるならば、一期一振はそれに従うのみである。
「それで、どちらへ」
歩き始めた鶴丸の後を追いながら問いかけると、実はまだ決まっていないんだ、と返される。
「どこか行きたい場所があればそこで構わないんだが」
「そう、ですね」
一瞬、浮かんだ光景があった。眼前に広がる、一面の。
行っても良いのか、別の場所にした方が良いのか。判断に迷ったその一瞬を、鶴丸は見逃してはくれなかった。
「お、どこか気になるところがあるようだな」
「……貴方にはつまらない場所かもしれませんが、それでも良ければご案内いたしましょう」
一振り目の彼と足を運び、もう一度という約束が果たされないままとなった場所。特筆するようなものは何もなく、本丸で積み重ねてきた時間があったからこその場所だったとも言える。だからこそ、二振り目の彼を連れて行っても良いものなのか、分からなかった。彼とはそこまでの時間を過ごしてきたわけではない。だから踏み込まれたくない、というわけではなくて、彼が失望しやしないかと、それだけが気がかりであった。
一期一振の葛藤には気がついているはずなのに、知らぬ振りを貫き通すつもりであるらしい。それでも、行かないのかと振り返る眼差しには僅かな不安が滲み出ていて。
「行きましょう。暗くなる前に帰らなければ」
「おいおい、どれだけ遠くへ行くつもりなんだ」
応える一期一振が歩き始めたのを見て、ほっと安堵の息を吐く。柔らかく細められたその瞳は本当に綺麗で、一期一振の大好きな色をしていた。むしろ、まぶしすぎるほどに。皆の優しさに甘やかされてしまった己はきっと、彼の愛したものとは遠くかけ離れた色をしてしまっているのだろうと、一期一振はすっと目を逸らす。あからさまなそれに気付かぬわけがないのに、鶴丸は何も言わずに流すのだ。
自分が二振り目である、と気がついてからも、二振り目の彼は「鶴丸国永」だった。己の為すべきことを知り、それに殉ずる哀れな刀。
彼がそれを求めるならば、一期一振は彼を一振り目と同じように愛しても構わなかった。彼もまた一振り目と同じ「鶴丸国永」で、故に、誇り高く、それを望まなかった。だから、一期一振はその思いに応えたのだ。彼の求めるまま、彼の望む姿でありたいと、薄暗い墓場の中で恋い焦がれていた時分よりそう在り続けてきたものだから。
本当は気がついている。愛してくれと、叫んでいる。愛していると、訴えている。それでも全てを諦めて、彼もまた、あの薄暗い揺り籠の中へと己の感情を眠らせてしまった。一期一振には知られていないと、そう信じて、求められた役割を演じきることができているのだと信じている。
その姿が愛おしくて、痛ましくて、かなしくて、やはり、この場所は悪夢の中に違いなかった。それが誰のものなのか、もう、ぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまっていて分からない。
鶴丸に見えぬよう行き先を指定して門を潜る。目的地に到着するまではせめて、期待に胸を膨らませておいてほしいという一期一振の我儘だった。時代と場所を伝えたとして、何もない場所じゃないか、などと言われる未来を避けたかっただけの臆病者だと誹られても良い。そんなもの、耐えられなかったのだ。
並び歩く中で間に流れる無言は苦痛ではない。雨が降っていたのだろうか。葉の纏う水滴が、風に揺らされてぽたりと落ちる。水滴の重さに耐えられなくなった葉が、ふるりと震えて水を払う。小さな光が至る所で反射して、世界が煌めいて。
「……こりゃ、驚いた」
「……それは僥倖」
一期一振も想定したわけではなかったけれど、この光景に鶴丸が驚いて、喜んでくれたのであれば案内した甲斐があったというもの。目的地まではまだ少しあるが、行程を楽しんでくれたというだけでも大きな収穫だろう。美しい光景に目を輝かせる鶴丸の横顔を、一期一振はそっと眺める。琥珀の瞳に光が映り込み、星を閉じ込めたような。
唐突に振り向いた鶴丸は、目を見開く。
「驚いたな。君は瞳に星を閉じ込めたのか」
緩く下がった鶴丸の眦に、一期一振の胸は懐かしい痛みを訴え始める。そうだ。鶴丸は一期一振の抱えるその痛みに気が付いてしまったから、だから彼は一線を引いてしまった。決してそこから、踏み出さぬように。それを思い出してしまった瞬間に、まずいと思った。痛みに気付かれてしまえば、鶴丸は、また。
一瞬だけ鶴丸の瞳が揺れ、悟られてしまったことを知る。しかし、彼は何も言わなかった。何も言わないままに視線を周囲の風景へと戻し、そして全てを閉じ込める。鶴丸は何も言わない。これまでだってそうだった。それを強いているのは、一期一振だった。
「この景色を切り取って持ち運ぶことができたら良かった」
「ええ」
「眼に写したものをそのまま映し出すことができたら便利なんだがな」
「本当に」
話題を与えてくれたことに感謝する。少なくとも普通に話している間は痛みなど忘れることができた。鶴丸に気を遣わせることも、互いに傷つくこともなかった。美しかった輝きは、途端に一期一振へと突き刺さる刃に姿を変える。いっそ、本当に身を切り裂いてくれたならばどれだけ救われたことだろうか。
訪れてしまった痛みは、なかったことにはできなかった。会話はある。身体的な距離があるわけでもない。ただ流れてしまう沈黙が、苦痛で、恐ろしくて、何とかして話題を探さなければならないと考えてしまう。何もなかったように取り繕いながら、それでも決して「なかったこと」にはできなかった。
鶴丸は、二振り目として顕現された何の非もない彼は、そうやって線の引かれてしまった関係性に、別れを告げようと動き出したはずだった。それなのに、一期一振の思い出してしまった痛みのせいで二の足を踏ませてしまう。そうやって甘やかされることは、本意ではなかった。悔しかった。惨めだった。
美しかった景色は途端に色褪せ、何を話しながら歩いていたのかも覚えていない。ただただ、必死だった。鶴丸が変えようとしたのならば、一期一振も変わらなければならなかった。それなのに、何事もなかったかのように帰還し、それぞれの部屋へと別れ、そして、自室に入った途端に一期一振の世界は歪む。薄暗い部屋。眠る、彼の姿。
「わたしには、もう」
閉ざされた場所に、小さく吐き出す。
あなたがいなければ、なにもできなくなってしまった。
見慣れた闇の色を、目前の敵と共に切り捨てる。今回は効率性を重視する、という審神者の決定に基づく部隊編成のおかげで少々物足りなくもある。大太刀連中が敵をなぎ払ってしまい、出番を与えられないものが出てしまっているのだ。多少の傷は気にせずに進軍しているのも、不完全燃焼のまま帰還させられたくないという思いが強いからだろう。
先陣を任されたのは、髭切、三日月、江雪、太郎太刀、次郎太刀、そして一期一振。これまた一癖も二癖もある面々に、これを纏めなければならいのかと頭が痛くなったことは、もう遠い過去の話であった。
「……この世は、地獄です」
「……申し訳ありません」
常日頃は戦に対して否定的な発言も目立つ江雪であっても、刀を振るうことなく目前で敵がなぎ倒されて終わることが続けば話が変わってくるらしい。そもそもが武器として形作られた存在であるのだから、ひとたび戦場へと立てば己の力で戦果をあげたくなるもの。決して太郎太刀や次郎太刀のせいだというわけではないのだが、恨み言の一つや二つ、漏れ出してしまうのも無理はなかった。
この調子ならば予想よりも早く任務が終わるかもしれない。戦闘を好む面々を始め、戦い足りないものには周回をしてもらえばいいのだ。第一目標である仲間の救出に加え、此度の出陣には眠り続ける鶴丸国永に何が起こったのか、それを見極める目的もあった。前回と同じである保証はどこにもなく、しかし、僅かな可能性にも縋りたかった。
「ここは、随分と薄暗いな」
振るうことなく終わってしまった刀を手持ち無沙汰に眺めながら、三日月が呟く。一期一振にとって、そして鶴丸にとって、この薄暗さは懐かしさの象徴であり、そして静けさに包まれているべき場所だった。仲間を助け出すためであるとはいえ、己が踏み荒らす一員として名を連ねている状況は快さから程遠いほどに。それでも、だからこそ、一期一振は進まなければならなかった。このような場所に、たった一振りで残されてしまうこと。それはどれだけ恐ろしいことか。退屈のあまりに心が死んでしまう前に、見つけ出し、連れだし、そして目覚めさせてやらねばならなかった。
埋蔵金伝説の印象が強いのか、地下戦場には大判小判が眠っていることが多い。どうせ進むのならばとそれらも虱潰しに回収しながら、先へと急ぐ。壁面に掛けられた炎に揺れる影が、一つ、二つ、三つ――。
何気なく数えた一期一振は、その場で勢いよく振り返る。
「どうかしたのかい」
「影が」
ひとつ、多いのです。足を止めて尋ねてきた次郎太刀の足下に目を留めたまま、一期一振は小さく答えた。
見間違いではないか、と口にするものはいない。無言で足下に目を走らせ、数えていく。一つ、二つ、三つ――六つ、そして、七つ。敵の部隊は六振り全てを倒し、消滅まで確認している。立っているのは仲間である六振りのみで、しかし、暗がりからもう一振り分の影が。
目視の限りではそこに人影などなく、近付いて腕を伸ばしても触れるものはない。太郎太刀や次郎太刀、そして髭切も首を振る以上、そこには本当に何もなく、そしてあったとしても害を為すものではない、らしかった。
「これは鶴丸殿、なのでしょうか」
「ううん、どうだろうね。影がぼやけて分かりづらいや」
光源が揺らめくものであるせいなのか、それとも「身体」が無いからなのか、六振りに囲まれた影はどうも形を掴みづらかった。ここではっきりと鶴丸国永の姿だと断言できたならば、もっと動きようがあっただろうに。
何はともあれ、まずは審神者に連絡を。結論付けるのは早く、場を整えていたその一瞬。ようやく見つけた「手がかり」に、ほんの一瞬だけ気が緩んだのかもしれない。揺らめく影がぶれ、そして。
瞬きの間に、闇が辺りを覆い尽くしていた。
影の中に招かれたのだろう。四方を包む暗闇に、一期一振は考える。見渡した限りでは自分以外の人影はなく、この場へ招かれたのは己のみであると仮定する。
(身体ごと……或いは、心だけが)
少なくとも「身体」を視認することができ、軽く握り込んで感覚があることを確かめることができた。ともなれば、するべきことは一つである。意識を研ぎ澄ませ、索敵を。仮にここが「影」の中であるとして、周囲の闇から攻撃がこないとは限らない。伸ばした手の先が辛うじて見えるか見えないか、という程度にしか視覚は働いていないのだ。文字通りの闇討ちを画策されているのであれば、これでも一抹の不安が残るほどである。
どうすればここから脱出することができるのかは分からない。それでも落ち着いていられるのは、ここに鶴丸もいるのだという予感めいたものがあるからだった。希望的観測でしかないことは分かっている。それでも、ここまで条件が揃っているのだから、きっと。
動かなければ始まらない。であればまずはどの方向へ進むべきか。一期一振がぐるりと辺りを見渡したとき、微かな音が聞こえてきた。ちりり、と。
「これ、は」
白を彩る金の音。導くように響いてくるそれに向かって、ゆっくりと足を進める。罠であるのかもしれない。それならばそれで、招き入れたことを後悔させてやらねばと、刀を握る手に力を込めた。
音は近付いているような、遠ざかっているような。移動したところで景色が変わるわけでもなく、同じ場所をぐるぐると回っているのではないかとすら思う。それでも、歩みを止めるわけにはいかなかった。微かな手がかりを聞き漏らすことがないように、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。諦めてなるものか、と気持ちを新たに仕切り直したその時、ふっと風が動いたような気がした。
(敵であれば)
先に斬りかかるべきか、それとも奇襲を凌ぎ確実に仕留めるか。
一期一振は先程と変わることなく、再び音を頼りに歩き始める。少しだけ、周囲に対する警戒を強めながら。相対するその瞬間を、待ちわびながら。そして。
「っ、お覚悟」
突如現れた一閃は、居合いで何とか弾く。下がったのかすぐに敵の姿は見えなくなったが、それでも大まかな見当は付いた。一歩踏み込み、そして、振り下ろす。弾かれたそこに、白色。
互いに次の攻撃へ移ろうとした体勢のまま、ぴたりと止まる。
「一期一振、か」
「鶴丸殿、ですか」
ほぼ同時にこぼれ落ちたそれは、待ち望んでいた再会であるはずなのに何の色も乗せられていなかった。驚きすぎると身体まで硬く動きを止めてしまうらしく、刃を交えた状態のまま見つめ合うという何とも言い難い状況が生まれてしまった。
そのような場合ではないと分かっているものの、間近で見る鶴丸の表情に暗さがないことに安堵する。若干の疲労こそあるものの怪我はない。自ら受けた攻撃の様子から見て、問題はなさそうだと判断して良いだろう。努めて客観的に鶴丸を眺め、そしてようやく感情が追いついてくる。そっと刃を引き、収めようとする手が僅かに震えていた。
「……とりあえず、ご無事で何よりです」
伝えた言葉は、震えてはいなかっただろうか。触れたいと叫ぶ心を押さえつけ、まずは職務を優先させる。久しぶりの再会で、見苦しい姿を見せたくはなくて。
同じく刀を収めた鶴丸は、力の抜けた笑みを浮かべた。
「何というか、君もご愁傷様だな。こんな暗闇にまで駆り出されるなんて」
「誰のせいだとお思いですか」
「俺のせいだ、と言わせて楽しいか」
「いいえ、ちっとも」
真に悪いのは、こうして影の中へと招き入れてくれた得体の知れない敵であることは分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。どれほど心配をさせられたことか、その一部分だけでも伝われば良いと思った。素直にそれを口にすることは、気恥ずかしかったものだらから。
驚いたことに、鶴丸がこの暗闇で過ごしていた時間は「一日にも満たない」ものであるらしかった。当然のことながら、太陽も月もないこの場所で正確な時間を知る術は無い。故に「体感では」という但し書きが必要となるものの、それでも、それほどまでに現実との間に乖離が生じているとは思わなかった。
「これでは、私も目覚めるまでにどれほどの時間が必要になることか」
そもそも目覚めることができるのか。
その点については目を瞑ることにする。少なくとも、折れたわけではない。騒々しいから早く出て行けと、追い出される未来が近いように思うのだ。退屈を嫌う鶴丸国永と、そんな彼に相応しく在りたい一期一振と。心なしか、周囲の闇も薄れているように感じられた。
鶴丸とて、無為に動き回っていたわけではないらしい。怪しい場所がないか探そうとしてみたり、敵をおびき出せやしないかと騒ぎ立ててみたり、闇雲に刀を振り回してみたり。得体の知れない場所へ単騎で閉じ込められてしまえば、恥も外聞も全てかなぐり捨ててしまえるものだぞ、とは聞きたくなかった言葉である。とはいえ、そこまでして何の収穫も得られなかったという事実は大きいと言えるだろう。少なくとも、一期一振が同じことをする必要は無いのだから。
辺りには重苦しい闇が満ちていて、出るための方法が分からない。そのような中でよくもまあ「一日にも満たない」時間であったとはいえ一振りだけで過ごすことができたものだと思う。鶴丸と出会うまでの間、敵を警戒するために気を張っていたとはいえ、それでも、恐ろしさや不安は心の中にあった。飲み込まれてしまうともう目覚めることができないような、それまで確かにそこに在ったはずの意識を沈ませてしまうような、そんな、どこか懐かしい闇の中であったから。
はぐれることの無いように、と手を繋ぎながら歩く。身体のどこかを触れ合わせたまま、座って話し込んでみる。もう随分と前のことのように感じられてしまうのだけれど、人の器を得る前に戻ったかのような時間だった。違うのは、こうして触れ合うことができること。お互い、少しだけ素直になれたこと。
穏やかな鶴丸の声を聞きながら、絡めた指にそっと力を込める。思い出すのは、ついに繋ぐことのなかった手のことだ。二振り目として顕現されてしまった、彼のこと。彼は、今頃どうしているのだろう。そもそも、自分はどうなってしまっているのだろう。
「どうかしたのか」
顔を合わせてはいないというのに、鶴丸は一期一振の気持ちが逸れたことを感じ取ったらしい。戻ってこい、とでも言うように、緩く指を握り込まれる。
「いえ、今頃、私の部屋はどうなっているのかと思いまして」
鶴丸と同じように眠ってしまっているのであれば、きっと、暗く閉ざされた部屋で寝かされているのだろう。布団は鶴丸の隣に並べられているのだろうか。世話をしてくれているのは弟たちだろうか。それとも、二振り目の彼が担ってくれているのだろうか。一期一振と同じように、静かに、穏やかに、目覚めを心待ちにして。
「ここぞとばかりに、悪戯でもされているんじゃないか」
「なるほど、額に肉の字を書くような」
「……まさか」
「どうぞ、鏡でご確認を」
この闇の中、見えるはずもないのに鶴丸が空いた手で額を押さえたことが分かった。もしも彼が本当に鏡で確認したならば、そこには相変わらず白く綺麗な肌があることを見ることができただろう。幾度、指先で触れただろう。早く目覚めてほしい、どのような夢を見ているのか知りたい、言葉を交わしたい。そんな願いを込めながら、声にならない言葉を綴っていた。
眠る一期一振の額に願いを描くのは誰だろうか。最有力候補の両手が隣で塞がっている今、可能性のある顔触れが浮かんでは消える。もしかしたらこの瞬間にも誰かが何かを描いているのかもしれなくて、それはあまり考えたくないことだった。だって、一期一振には何も伝わってこないのだ。鶴丸に注いだ何もかもが届いていなかっただなんて、そんなことは寂しすぎる。
慣れた暗闇に、愛おしい沈黙。穏やかなこの場所に留まりたいとも、審神者の元で刀を振るいたいとも思う。どうにも、ちぐはぐだった。代わり映えの無い安寧は、確かに、退屈で心が死んでしまいそうだとも。
ふぁ、と。
間抜けな音が重なる。
「おいおい、こんな時に欠伸だなんて、気が抜けてるんじゃないのか」
「なんとまあ、このような時にそのような態度でいられるものですな」
見事に重なった言葉に、どちらからともなく自然と笑みがこぼれた。
「いやはや、それにしてもここまでとは見事な」
「君とは長年の付き合いだが、こりゃあ驚きだ」
笑いながら、瞼が重くなっていくことを自覚する。身体の感覚も鈍くなり、どうしても睡魔にあらがえない状況そのままであると認めざるをえなかった。ゆっくりと身体を傾けていくと、同じように考えたらしい鶴丸の肩とぶつかる。何も言わず、ただ無言のままに互いの身体を預け合いながら。
そういえば、この暗闇の中で「眠る」のは初めてだなとぼんやり考えた。
開かれた世界に満ちた「白」の眩しさに、思わず目を瞑る。刺さるような、とでも言おうか。暗闇に慣れてしまっていた視界には、刺激が強すぎたのだ。
自らの内側へと意識を巡らせ、横たわっていることを自覚する。軽く力を送り込み、少々反応は鈍いものの全てが問題なく動くことを確認した。そうしてようやく「目覚め」の準備をする。
腕を持ち上げ、顔の前へ。自らのそれで陰を作り、ゆっくりと瞼を上げて。
見慣れた天井に家具。机の上には沢山の花がある。花瓶が足りなかったのか、湯飲みやお菓子の容器にまで花が活けられている様がほほえましい。弟たちからのものだろう。柔らかな風の動きに視線を動かすと、周囲から穏やかな暗闇を守るための壁となっていたその場所が開け放たれていた。そして、その縁側に並んで座る、二振りの姿。
「鶴丸、殿……と」
無意識のうちに漏れてしまったそれは、小さすぎて縁側にまで届かなかったらしい。それでも、拾い上げる声がある。
「君だなあ、一期一振」
穏やかなそれが耳を擽って、ああ、と。伝えたい言葉が、我先にと飛び出そうとしているせいで纏まらない。吐き出すことのできないそれらが胸の奥に詰まり、痛く、苦しく。
ただ、一言だけ。これだけは自分が真っ先に伝えなければならないと思っていた言葉があった。絡まってしまった言葉を紐解いて、大切なそれをすくい上げて。
「おはようございます、寝坊助殿」
顔を向け、白いその姿を確認する。柔らかく蕩けた瞳が、おはよう、とようやく返してくれた。