ゆめうつつに、こい。
薄暗い一室に、一期一振はただ一振りで座っている。己を見つめ直すためだけの時間とするつもりであったので、明かりは必要がないだろうと判断してのことだ。
「……なんたる無様な」
ぽつりとこぼした言葉は何度か耳にするうちに馴染んでしまった言葉で、独り言のようであってそうではない。一振りだけで座っている一期一振ではあるが、その目前には横たわる二振りの姿がある。鶴丸国永と、一期一振。己よりも先に顕現され、そして原因も分からぬままに眠り続ける一振り目たちだ。一期一振自身は彼らと言葉を交わしたことはなく、彼らのことは、先に顕現していたものたちから伝え聞くばかりである。
共に暮らす日々ではどんなことがあったのか。
戦場ではどのように刀を振るったのか。
本丸の仲間たちは一振り目と二振り目とを重ね合わせてしまうことがないようにと気をつけてくれていたし、不必要に過去を振り返るようなことはしなかった。それでも、と話をねだっていたのは一期一振である。一振り目がどのような性格で在ったのかを知ることは、己の在り方を考えることにも繋がった。一振り目と混ざり合ってしまうことのないようにと向き合う時間も作りつつ、その足跡を辿り、己を作り上げていく。そのようなことをしていること自体、言いふらすことでもないので誰も気がついていないのではないかと思っている。それでも、もしも知った誰かに「そこまでしてどうして一振り目のことを知ろうとするのか」を問われたとしたら、逆に問うてやりたいのだ。根源が同じであったとしても、彼と己は別個体である。それを確認し、独自の自己を作り上げることの何がいけないのかと。
そろそろ夕餉の時間となるだろうか、と意識を徐々に切り替える。早く戻らなければ、鶴丸が呼びに来てしまうことだろう。過去には時間を忘れていたことがあり、散々からかわれたことがある。
鶴丸は一期一振と同じく二振り目として顕現された存在であった。同じ二振り目として気が楽な部分もあって、鶴丸とは二振りでこの部屋の前の廊下を占領し、長い時間を共に過ごしてきたものだ。それでもやはり部屋の中はどこか特別で、鶴丸に導かれて一振り目達と対面を果たした一回を除けば、共に部屋へと入ったことは一度もない。そもそも、鶴丸がこの部屋の中に入っている姿を見たことがないのだが、その辺りの感覚については互いに触れたことがない。一期一振にとっては騒めく感情を落ち着かせるための部屋なのだけれど、おかげでこの部屋にはぐちゃぐちゃとした感情が渦巻いているような気がしてならない。特に今は、見られたくはなかった。ここには、一期一振の無様な姿しかないようで。気合いを入れて立ち上がると、並ぶ二振りを静かに見下ろす。寄り添う、とは言いたくなかった。そんなにお綺麗なものでもないだろうに。
頃合いはちょうど良かったようで、広間へと向かう途中で鶴丸と遭遇した。時間を忘れていやしないかと気になって、と冗談めかして笑う鶴丸に、過去のことは棚に上げ、そこまでのんびり屋ではないと笑い返してやる。歩きながら、そういやあ、と鶴丸は笑う。
「今日の主菜は天ぷららしいぞ」
「なるほど。……つまり」
「南瓜もあるだろうが、紫蘇を食べてから、だぜ」
「ああ、そんな、殺生な」
大袈裟に嘆いてみせれば、鶴丸は楽しそうに笑っている。
ほくほくとした南瓜は甘みがあって好き。紫蘇は独特の味が嫌い。わかりやすく感情を表現してやると、それだけ居心地の良い空間へと変わることに気がついたのはいつのことだっただろう。一振り目は凛とした性格であったと聞いた時には、少なくともふわりと温かな性格で在ろうと決めてはいたのだけれど。どうせどこかで比べられてしまうのだとしたら、初めから全く異なるもので在ればいいと、そう考えてのことだった。食の好みはそれを顕著にしているだけで、本当は南瓜と同じくらいに紫蘇の天ぷらも好きだった。好き嫌いは良くないぜ、と強引に食べさせてくる鶴丸は、もしかすると気がついているのかもしれない。気恥ずかしさと共に僅かばかりの悔しさもあって、一期一振はいつの日にか、鶴丸が掲げている軽薄な笑みの下を暴いてやりたいと思っている。
❁
なんとも難しい場所を引き当ててしまったものだ。
そんな感想が真っ先に浮かんだのだということは、一期一振が顕現して初めて抱え込んでしまった秘密である。縁を結んだ審神者に問題があるわけではなく、本丸に問題があるわけでもない。そばに控えている弟の表情や姿を見てもそれは明らかであり、ここまでの情報で終わっていたならば「何が不満なのだ」と詰られて終わることだろう。しかし、それらの好条件が一気に覆る爆弾がこの本丸には眠っているのだ。
黙っていてもすぐにばれるだろうから伝えてしまっておくけれど。
そんな前置きがあった時点で、碌でもない情報である。それでも聞かないという選択肢はなく、言いにくそうにしている主を促したのは一期一振自身であった。ばれる、という表現をしている時点で後ろ暗い何かがあることは伝わっているのだから、お互いに覚悟を決めてしまおう、と。そうしてようやく聞かされた言葉ではあったのだけれども、それを噛み砕いて飲み込むまでには、少しばかり時間が必要であった。そのせいで、主と、あの場にいた弟――平野藤四郎には、もたらされた情報が一期一振にとって何かしら思うところのあるものであったことくらいは気がつかれてしまっていることだろう。もっとも、それを聞いて何も感じないということがあるとするのならば、それはよほど心の強い存在であるか、既に心が死んでしまっているのか。少なくとも一般的な刀剣男士として顕現した存在であれば、少なからず衝撃を受けてしまうほどの爆弾が叩き込まれたわけなので、仕方のないことであった、とは割り切っているのだけれど。
(まったく、場合によっては顕現早々に志気が下がるだけであるだろうに)
もしかすると、それを狙っての情報開示であったのかもしれない。どうせ避けては通ることのできぬ道なのだ。後で知って心が折れてしまうよりもずっと、最初からふるいにかけてしまったほうが良い。それは当人にとっても、この本丸にとっても。後で訪れる別れだなんて、そんなもの、悲しみしか生まないものであろうから。
先導する平野藤四郎の後を追いながら、一期一振はその向こう側へと思いを巡らせる。顕現早々に開示された碌でもない情報によれば、この本丸には、もう一振りの一期一振が在るらしい。果たして彼はもう一振りの顕現を知っているのだろうか。本丸の皆は、二振り目である自分を受け入れてくれるのか。
(まあ、考えていても仕方がないか)
顕現し、その情報を入手してもなお、この本丸に在ろうと決めたのは自分なのだ。会ったこともない顔触れの心情を推し量ろうだなんて、そんなのは無茶に決まっていると早々に諦めた。もしも仮に受け入れられなかったら、その時は。
(折れるとしたら、こちらでしょうなぁ)
物理的になのか精神的になのか、いずれにせよ、先に在るものを立てなければならない世界はどこでも同じであるはずだ。そもそもの土台がこの本丸に根付いているのは先に在る一振り目、新参者である二振り目に勝てる見込みがあるはずもない。負け戦を想定することは悔しいが、変えることのできぬ事実から目を背け続けるほどの愚かものでは在りたくない。ただ覚悟だけは決めておかねばと黒く落ち込む感情を飲み込みながら、平静を装いつつもどこか嬉しそうな平野藤四郎の後を追っていた。弟、は自、分を一兄と呼んでくれるのだろうか。
❁
本丸での生活は、想像していた以上に快適なものであったように思う。一振り目と二振り目とを比べる視線が煩わしかろうと覚悟していたというのに、そういった視線は全くと言っても良いほどに感じられなかった。思い返してみれば、色々と表情に出やすい面子と長く顔を付き合わせるようになったのは、最近になってからのこと。ある程度、本丸に馴染んでからであったかもしれない。言葉にこそされていないものの、心配だとか気遣いだとか、皆の優しさであったのだろう。
一振り目との対面も、何の問題もなく終えた。問題があるはずもなかった。与えられた部屋からは、随分と遠くに位置している一振り目の部屋。顕現した順に部屋を割り振っているのだというこの本丸では、一振り目の次に顕現した刀の部屋から増築により増やされた区画となっている。現状では一振り目の部屋が端となり、その反対側に増築が進められているところであるので、新参者である二振り目は一振り目と遠く離れた部屋となったわけだ。そんな一振り目の部屋では、ひたすらに静かな時間が流れていた。その中心で眠り続けるだけの存在と、どうして問題を起こすことができようか。一振り目の部屋まで連れてきた鶴丸もまた、部屋の中で眠る同じ顔をただただ静かに眺めているというのに。
いつ、誰に尋ねても「一振り目は眠っている」としか教えられなかった。随分と寝汚い同位体がいるものだと考えてはいたものの、さすがに何かがおかしいと思い始めた頃のことであったように思う。人の器にも慣れ、戦場において自らの手で刀を振るうことにも慣れ始め、心に余裕がうまれだした頃のことだ。
時間があればどこかで何かしらの「驚き」を提供し、そして何度かはやりすぎだと叱られる。随分と人間らしい生活を謳歌しているらしい鶴丸国永。所蔵場所のことから付き合いがないわけでもないが、それはあくまでも本霊の話であって、この本丸においてはさほど関わってきたわけではなかった。そんな鶴丸に手を引かれたものだから、一体何をされるのかと身構えてしまったことは仕方のないことであっただろう。彼が口にした言葉がお決まりの「驚きの結果を君に」であったものだから、その不安は高まるばかり。基本的にはその「驚き」が問題のないものであるせいか、楽しそうな鶴丸に連れ去られる一期一振を助けようとしてくれるものはいなかった。やりすぎて叱られないように、と声をかけてくれるものはいたのだけれど。そうして連れ込まれたのが、一振り目の部屋であった。果たしてこれは「やりすぎ」であろうか。そのようなことを考えたような気がする。
前後の記憶はいくらか曖昧なものとなっているのけれど、その場所で鶴丸と交わした言葉はよく覚えている。
――どうだ、驚いたか。
――ええ。
ただ、それだけ。本丸を駆けていた明るさは欠片もなく、ただひたすらに静かな言葉であって、それは確かに一期一振の心に衝撃を与えるものであった。
目覚めを願うものからの、色とりどり、様々な贈り物に囲まれて眠るのは一振り目の一期一振。そして、一振り目の鶴丸国永。隣に立つ鶴丸もまた、一振り目の眠ったあとに起された存在であるらしい。突然倒れ、眠り続けることとなった一振り目。専門機関で検査をしたものの原因は分からず、いつか訪れる目覚めの日までをこの部屋で過ごしているらしい一振り目。物言わぬ姿で静かに眠っているだけであるというのに、その存在を実際に目にしてしまうと頭が真っ白になってしまって、そんな無様を晒してしまった相手が鶴丸で、彼だけでよかったと考えることができるようになったのは、その日の夜になってからのことであった。
会わせても良いものか、なかなか踏ん切りがつかなくて、と。鶴丸の手で無理矢理に一期一振が一振り目との対面を果たしたことは、その日の遠征土産を一振り目の部屋へと運んできたものと鉢合わせしたことで瞬く間に皆の知るところとなり、主からはそんな釈明を受けることとなった。とはいえ事情が事情であるだけに判断が難しかったという思いも分からないわけではなく、鶴丸国永が迷う本丸から単騎で飛び出し強引にカタをつけてしまった、ということであれば彼らもまた「驚き」の被害者であろう。思うところがないと言えば嘘になるが、言っても仕方のないことをぐだぐだと口にするほど子どもではない。
「ふふ、それが皆の優しさであったことくらいは理解しておりますとも」
ふわりと笑いかけてやれば、それだけで主はほっと息を吐く。歴史を守るために戦っている最中なのだから、このようなことで心を曇らせてしまうなどあってはならない。どこか申し訳なさそうにこちらを窺っていた何振りかも肩の力を抜いたようで、少なくともこれで最低限の役目は果たしたことだろう、と。
「それで、鶴丸殿は今どちらに」
「微妙な問題で勝手に動いた罰、ということで遠征に出てもらっているんだけど……、うん、そろそろ帰ってくる頃だろ思う」
丸く収まったというのは結果論でしかなく、悪い方向へと事態が進んでいた可能性もある。何が悪かったのか、どうするべきであったのかを考えてきなさい、と単騎遠征に送り出したのだと。部屋に謹慎とはせずに、遠征任務により多少なりとも働いてこいということらしい。死蔵するよりもずっと好感のもてる処罰であって、悪くない主を引き当てることができたと改めて感じる。ちらつく一振り目の姿にさえ目を瞑れば、という注釈は必要であるものの。
鶴丸の所在を確認してどうしたのか、と再び不安を覗かせた主を安心させるように、笑みは絶やさないまま考える。この主のことだから、足並みを乱した鶴丸に何らかの対応を行ったはずで、ただそれが知りたいと思っただけであったから。素直にそれを伝えてもいいのだけれど、それはあまり「一期一振」らしくはないような気がして。
「……いえ、昨日はあまり話せませんでしたから。今日はゆっくりと、と思いまして」
結果、あまり気の利いたことは言えずに当たり障りのない言葉に落ち着いてしまったのだけれど、どうやらそれが正解であるらしかった。何をするとも決まっていなかった今日の予定が埋まる。鶴丸の予定はどうであるのかを考えていないな、ということにはすぐに気がついたのだが、罰としての遠征任務さえ終わってしまえば、出陣や内番といった当番は割り振られていないらしい。であれば、残る問題は鶴丸の個人的な予定のみとなるのだが、それならばきっと大丈夫だろうと思っている。少なくとも一期一振の知る鶴丸国永という刀のままであるとするならば、むしろ彼の方から話をするために部屋を訪ねてくるはずである、と。
遠征任務終了の報告後に部屋へ向かうよう伝えようか、という主の提案はありがたいものではあったが、それには及ばないだろうと断らせてもらう。黙って部屋で待たせてもらい驚きのお返しをしてやるのだと言えば、そういうことならばと楽しそうに主は笑ってくれたので、この後の行動も決まる。勝手に上がり込んで気を悪くしないだろうかという不安は僅かにあるものの、一期一振の知る鶴丸国永という刀は、その程度のことで気を悪くするほど器の小さな刀ではなかったはずである。この本丸で過ごす間に変わってしまっていたとすればそれは残念なことであるのだけれど、今の一期一振にはそうでないことを祈ることしかできないのだ。
一振り目の詳細を黙っていたことに対する釈明と謝罪は受け取り、何の覚悟もできないままに一振り目の状況を突きつけてきた鶴丸に対する処罰についても確認ができた。もうこの場に留まる理由もなかろうと立ち上がれば、鶴丸の反応を後で教えてね、とにこやかに見送られる。自室へと戻ったところで何か身なりを整えなおす予定もない。直接鶴丸の部屋へと向かってしまおうか、と考えたところで時空間の転移門が開閉されたことを感じ取る。主の言葉を信じるのならば、きっと鶴丸だ。彼のことだから、まずは主の元へと成果報告のため足を運ぶはずである。となると、早く移動しなければ鉢合わせをしてしまうかもしれない。
鶴丸が帰ってきたことは皆も感知したからだろう。こっちですよ、と一期一振の手を引いたのは今剣だ。
「鶴丸のやらかしたことにはおよびませんけど、ぜんりょくでやってやりましょう」
まずは、ばれずにへやにしんにゅうしなければ。
くすくすと楽しげな様子の彼は、どうやら協力をしてくれるらしい。顕現したばかりの身であるとはいえ、見つかることなく部屋へという程度であればさほど難しいものでもないのだ。古参の一振りである彼の手を煩わせるほどでは、とは思うものの、折角の好意を断るほどのものでもないか、と。
早く早くと追い立てる声に見送られ、小走りで先導する姿の後を追う。どこか昨日と似た状況に、果たしてこの先に待ち受ける驚きは、と。鶴丸は何を思って一振り目と引き合わせたのか。どうしてあの瞬間だったのか。彼は、何を感じたのか。聞きたいことは複数あるものの、一体どこまでさらけ出してくれるのだろうか。浮かぶ不安は全て覆い隠し、小さな協力者の楽しげな言葉に相槌を打つ。おどろかせてやりましょうね。ええ。へやではなにを。まだ考えていませんが、まあ何とかなるでしょう。もくてきは、あくまでもはなしをすること、ですもんね。ええ、そうなんです。
実はここが抜け道に、などといった情報を添えての進軍はつつがなく終わり、今剣は一期一振を鶴丸の部屋へと押し込むと、あとはわかいおふたりで、なんて。見つかっては意味がないからとすぐさま立ち去った姿にはお礼を伝える間もなく、後でお菓子でも贈ることにしようかとぼんやりと考える。同時に初めて入る部屋の内装を眺めてみれば、まあ彼らしい部屋、なのではないだろうか、と。
(……らしくない部屋、というものも想像がつかない御方ではありますが)
余計なものが削ぎ落とされた部屋も、雑多なもので溢れかえった部屋も、どちらも「鶴丸国永の部屋」らしいものだと思う。そしてこの部屋は、程よく人間味あるあたたかな部屋だ。見苦しくない程度にはものが雑に置いてあり、どこか生活感の感じられる部屋である。
勝手に触れて回るほどの礼儀知らずではないつもりだが、部屋へと勝手に上がり込んでおいて礼儀知らずもなにも、と己の冷静な部分が囁いてくる。せめて部屋の前で待つべきだったのではないか。行動に移そうとしたところで、近付いてくる足音に失敗を悟る。部屋の主とは、このまま対面しなければならないらしい。
中心に正座をして視線を落とす。とす、とす、とす。気配を消したところで、という思いもあり、ただただ静かにしているだけだ。きっと鶴丸には部屋の中に誰かが入り込んでいることくらいは伝わってしまっていることだろうに、その足取りは変わらない。昨日のことがあるのだからと、犯人が一期一振であることくらい容易に想像できてしまったのかもしれない。主への報告は「驚かせることに失敗しました」になるか、と考えたところで部屋に光が差し込んでくる。待ち人の帰還だ。
勝手に部屋に上がり込んで、と咎められることも想定はしていたが、やはり彼は気にしていないらしい。ふ、と小さく息を零すと、正座している一期一振に対して「座布団くらい敷いてもよかったのに」と言いながら戦装束を解いていく。
「出ているならばともかく、仕舞われているものを探すために漁るというのも」
「勝手に上がり込んでおいてよく言うぜ」
「それは、まあ、そうなのですが」
ある程度身軽になった鶴丸は、そのまま一期一振と向かい合うように腰を下ろすと胡座をかく。正座なんて堅苦しくせずとも力を抜けよ、と言われはしたものの、そこまで割り切ることができるほどの関係性は、少なくともこの本丸においては築くことができていない。生真面目なやつだなと評しはしたものの、それ以上は言葉を重ねるつもりがないらしかった。
背筋をぴんと伸ばしたままの一期一振を面白そうに眺めながら、鶴丸は膝を台として頬杖をつく。
「それで、今日は何を言いに来たんだ」
謝るつもりは毛頭ないが、文句や不満くらいなら聞いてやるぜ、と。
悪びれた様子もなく、堂々と開き直る姿。一期一振自身は鶴丸の行動が必ずしも悪いものであったとは考えていないので構わないのだが、随分とこちらを気遣ってくれているらしい面々に見られでもすれば、新たな火種になりかねない態度である。どう答えてやるべきかと僅かに迷い、そして結局。
「何を、と言いますか、ただお話がしたくて」
ご迷惑でしょうか、と小首を傾げてやったというのに、目前の男は随分と大きな溜息で答えを返してくる。表情も少しばかり引き攣っているような気がして、答えを間違えてしまった気もするが後には引けない。何より、嘘をついているわけではないのだ。本当に、何も話らしい話はできなかった昨日の続きを願っただけで。
なんというか、と前置きをする鶴丸は、どうやら言葉を選んでくれているらしい。
「……随分といい性格をしているんだな、君も」
「ありがとうございます」
わかってやっているだろう、との言葉は笑顔で流す。わかっているのならばそれ以上は触れてくれるな、と。
しばらく笑顔で見つめ続けてやれば、はあ、と大きくわざとらしい溜息をつき、話題を切り替える気になってくれたらしい。
「それで。話ってのは昨日の続きか」
「ええ。途中で切り上げることになりましたから」
一振り目との対面を果たし、彼らが眠り続けているのだという話を聞き、鶴丸国永もこの本丸には二振り在るのだと聞き。昨日はそこで話が途切れてしまった。
「私が共に過ごす鶴丸国永という存在は貴方だというのに」
貴方自身の話は何も聞けていないではないか、と。だから話をしにきたのだ、と。
初めこそ興味深そうにふんふんと頷いていたというのに、途中からは片手で顔を覆い微動だにしなくなる。そっと近くへと身を寄せても、気がついているだろうに動こうとはせずに。
「……ふむ、お加減が優れないのかとも思いましたが顔色に何の変化もないとは」
「赤くなってやる可愛げもなくて悪いな」
君のその性格と付き合っていくのかと思うと頭が痛くなったんだ、とは随分とひどい言い草である。仮に、照れた様子を見せてくれたのならば。考えようとした「もしも」は、その薄ら寒さから即座になかったことにする。己がそうして媚びる存在であると認識されることも、薄っぺらい言葉を額面通りに受け取って心を揺らされている姿も、真っ平御免であった。
「ああ、もう。わかった。君はそう在るんだな」
「ええ、私は私、ですから」
この在り方を変えるつもりはないのだと言外に含める。だから、どうぞ早く慣れてくださいな、と。大きな深呼吸とともに全てを飲み込んだらしい鶴丸が顔を上げると、そこにはもう随分と「見慣れた」表情が浮かべられていた。飄々とし、絶やすことなく浮かべられた笑み。この本丸に来てから目にすることの多かったその表情が、どうも苦手になりそうだ、と感じられた。
❁
いちにぃ、と呼び掛けられることにも随分と慣れてきた。兄、弟、という認識はこの本丸に顕現してから得たものであり、そういうものなのだとわかってはいても、しばらくの間はどうにも不思議な感覚が拭えなかったものだ。ぎこちなくも兄弟として過ごしているうちに、徐々に馴染んできたその呼び名。最近では、己が呼ばれたわけでもないというのに、弟の声が聞こえると自然とそちらを確認するほどになってしまった。今日もまた、洗濯物を抱えて廊下を進む最中に聞こえてきた「行ってきます」の声に、足を止めてそちらを確認してしまう。遠く距離があり、姿が見えないというのに、だ。
「今日も、君の弟達は元気いっぱいだなあ」
「楽しそうで、本当に」
政府の整えた模擬戦場は、修行を終えて戻ってきた彼らにとって良い遊び場になっているらしい。受けた傷も帰還時には治されているということもあり、狂ってしまった身体の感覚を取り戻すと同時に、新たな戦術を試すのだ、と入れ替わり立ち替わり。敵の強さも丁度良い、らしいのだが一期一振にはよくわからない感覚だった。現時点では一期一振が新参者である状況に変わりはなく、ただ一振りだけ、抜きん出て経験に乏しい状態だ。あまりに経験差が激しいと、検非違使と遭遇した際に足を引っ張ってしまうのみであることは、苦々しくも身をもって勉強済みだ。仮に検非違使が出なかったとしても、強い面々に周囲を固められての進軍においては、己の出る幕もないままに戦闘が終わってしまうことすらある。戦うために顕現した身としては守られながらの戦場に物足りなさもあり、何振りか新しい顔触れが揃ってから成長のための部隊を組もう、という話になっていた。
内番や遠征任務を中心とした一期一振の日常には、いつの間にやら白い鶴が寄り添うようになっていた。一期一振同様に二振り目である鶴丸もまた、古参と並ぶには未だ経験が足りない一振りである。持て余す時間を一期一振で潰すようになったのだと周囲が認識するようになれば、自然と当番割り振りの時点で気遣われるようになったらしい。共に仕事をこなすことが増え、共に休息をとる時間が増えた。
初めの会話こそ他の同位体とはかけ離れたものであったが、そんなことが何だと言うのか。言葉にはしなかったものの、鶴丸は一期一振の元で羽を伸ばしている様子であった。表に出さないよう気をつけてくれているとはいえ、己の知らない「己」の姿を知っているもの達と会話をすることは、息苦しさを伴うことがある。そんな折に一期一振のそばは随分と息がしやすいらしい。気心の知れた、そして同じ感覚を知る存在であるが故に一期一振としても鶴丸と過ごす時間は居心地がよく、気がつくと現状ができあがっていた。やっぱり二振りは仲がいいんだ、という主の言葉には物申したい部分がないわけではないけれど。仲の良し悪しではなく呼吸のしやすさなのだとか、一振り目と重ねるなだとか。無意識に出てしまっているもの全てに目くじらを立てても仕方がないし、無意識下のそれにさえ目を向けなければ程良い気遣いにあふれている本丸は本当に居心地が良いのだから勿体ない。
出陣における武運を願い終えて歩きだした一期一振の後を追うように歩く鶴丸は、いつも律儀に手足を止めて一期一振が満足するのを待ってくれている。ただ、それがただの優しさでないことは薄らとわかっていた。一挙一動、その下に潜む感情までもを見逃さないよう、見透かすようにじぃと見詰めてくる姿。気付かれていることを知りながらもやめる様子がなく、むしろ開き直って「君を知りたいのさ」と言われてしまえばもう何も言えなかった。
「ふふ、今夜の布団はふっかふかにして驚かせてやるんです」
「……まあ、干す場所を考えないと帰還と同時にばれるけどな」
「日当たりの最高な場所が一番危険だということは調査済みですよ」
とにかく運び切ってしまわねば、と意気込む一期一振の手には掛布団の山。鶴丸の手には敷布団の山がある。恐ろしいのはどちらもほんの一部に過ぎないということだ。兄弟の数が多い粟田口一派であるが、今日の目標はその布団一式を洗い切ってしまうこと。洗い場にさえ運んでしまえば、科学の力で洗うのは一瞬である。それでも、その前後の運搬がどうしても人力で時間がかかってしまう。本当に驚きをもたらしたいのであれば、少しも時間は無駄にできなかった。
早く戦場に出たいという思いは当然のごとくあるのだけれど、こうして穏やかに人間らしい生活を送ってみることも悪くはなかった。内側を何かが通っていく感覚に、呼吸と食事を知る。この身であれば、水にもお湯にも浸かることができた。意識の闇に溶ける感覚を眠りだと教わりはしたが、未だに気絶との違いがよくわかっていない。触れ合う肌の温もりも、傷を受ける痛みも知った。目覚めの光が眩しいことも、暗闇では何も見えなくなることも、不思議な感覚だった。鶴丸もそうだたのだろう。あれは知っているか、こちらはどうだ、と様々な「驚き」を教えてくれた。まあ、その方法に問題があり揃って叱られたことも、決して忘られぬ経験とはなった。蔵の中では刀の付喪を叱り飛ばすような気概のある存在が居なかったので。まあ、叱られるようなことをしなかったということも大きな理由のひとつではあるのだろうが。
こうして並んで布団を運ぶことになろうとは、全く考えたこともなかった。そもそも実体を得ることになろうとは、という点については別問題としてである。かつて、蔵の中では鶴丸国永という刀に飽きられることのないようにと、とにかく気を張っていたように思う。退屈を嫌う御方だ。つまらぬ会話を一度でもしようものなら、評価は底辺にまで下がり切ってしまうことだろう。そんな思いがあったものだから、当時を知る鶯丸や平野藤四郎には頭の上がらないところがある。静かで穏やかであるはずの寝所が随分と殺伐と張り詰めていたものだ、だとか、それに比べるとどちらも随分と穏やかになったものだ、だとか。どうやら一振り目達はそれを引き摺っていたらしく、それでも収まるところに収まったのだとか。いつの宴であったか、そんなことを口にしていたものがいた。だからどうしたというわけでもないのだけれど、なるほど、随分と自由に生きた方々であったらしいなと。私にそんな心の余裕なんてありませんよ、と返した言葉は事実である。
そういえば、と一期一振は足を止めぬままに振り返る。布団の山の向こう側で、どうかしたのかと訝しむ様子に「大したことではないのですが」と前置きをして。
「弟達が、茶受けを土産にくれたのですが」
「なんだ、休憩のお誘いか」
「ええ、そうですよ。今日の休憩の際、一緒にいただきましょうか」
どうせ誘うつもりだったので素直に頷いたというのに、妙な表情をしている鶴丸は断られるものだと思っていたようだ。表情の内訳としては、困惑と、驚きと、それから疑念、覚悟だろうか。何か裏があるのではないかと、こちらを探ろうとしている眼差しが向けられているような気がする。何をそんなに疑って、とは思わない。ここ最近はお遊び程度ながらも見返りを求めた誘いが目立ってしまっていたので。部屋を片付けてやる代わりに倉庫の整理を手伝えだとか、それこそ、茶菓子を分ける代わりに合う茶葉を買ってきてほしいだとか。無理難題をふっかけているつもりもないし、鶴丸も何だかんだ言いながらこなしている。楽しんでいる、とは言わないまでも、それなりにうまく付き合っているのではないだろうか。
「……ええと、何かないのか」
「何か、とは」
「いやいや、ないに越したことはないからな」
余計なことを考えるなよ、とわざとらしく口にする彼に対して、いつから意地悪めいた戯れを始めたのかは覚えていない。ただ、何がきっかけとなったのかは覚えている。彼がどこまでを許してくれるのか、どうすれば薄っぺらい表情を崩すことができるのか。その許容範囲が知りたくなった。それでいて許されないことを考えると恐ろしく、当たり障りのない要求しかできなかった。それだけの話である。
「とても可愛らしい形をしているので、自分だけではどうにも食べる踏ん切りがつかず」
蓋をあけた瞬間に浮かんだ顔に、これはと共に食べなければ、と。だというのに、鶴丸の表情は何とも言い難いものへと逆戻りした上、しみじみと呟く。
「……君にそんな可愛げがあったとは知らなかったな」
「失礼な。私にだってものを愛でる心くらいありますとも」
どんな形をしていたのか、と興味を持ったらしい鶴丸には、早いところ仕事を終わらせてしまえば見ることができる、とだけを繰り返す。果たして、どのような反応を見せてくれるのかと、楽しみで緩む口元は手に持つ布団で隠してしまう。そのまま足早に洗い場へと急げば、後に楽しみができたからなのか、それとも単に付き合ってくれているだけなのか、鶴丸もぴったりと後ろをついてきてくれていた。
(……さて、笑っていただけるのか、それとも気を損ねてしまうのか)
紅白めでたい鶴の形。弟達が何を思ってそれを一期一振に選び渡したのかは分からないけれど、きっと、鶴丸と共に食べることも、可能性のひとつとしてはあったに違いない。その根底にあるものが何であるのかを知らなくても、一期一振と鶴丸が時間を長く共有していることは事実であったし、何かとものを分け合っている姿も本丸において繰り返し見せてきたものだ。当然のごとく仕事も分け合っている、と言うと鶴丸は押し付けられているのだと憤慨するのかもしれないが、とにかく、共同作業の数も多い。純粋に仲が良いというばかりでないことは一期一振と鶴丸の間にある共通認識であるのだが、それを表に出したところで「恥ずかしがらなくても」とよくわからない反応をされてしまうことは既に経験済みである。過度にまとめて扱われるわけでもないので、まあいいか、と流すことにしたのは割と早い段階であったように思う。
弟達からの贈り物だ。少なくとも、邪険に扱われることはないだろうとは思っている。気になっているのは一期一振がそれを可愛らしいと評したからであって、己を連想させるものをそう評された鶴丸が何を思うのか。それが見てみたいと思うと同時に、言わなければよかったとも思う己のことを面倒くさいと一期一振は常々感じている。こうして人の器を得る前から「心」はあっただろうに、いつからこんなにも面倒になってしまったのか。
何往復かを繰り返し、ようやく全ての布団を運び終える。全ての洗濯機を稼働させてしまえば、あとは終了の合図を待つばかり。手伝おうか、というありがたい申し出を意地になって断ったおかげか、達成感はいつも以上に大きように思う。
「やりきりましたね」
「まあ、この後にも干して、部屋に戻して、の大仕事があるんだが」
「それはそれ、これはこれ、ですよ」
小さな目標達成の積み重ねが大きな目標達成に繋がるのですから、と胸を張ってやると鶴丸は小さいながらも笑ってくれる。
「は、随分と壮大だなぁ」
「夢は大きく、理想は高く、が信条ですので」
「それはどうも違う気がするぜ」
「ふふ、細かいことを気にしては損ですよ」
さて、と仕切り直して鶴丸へと目を向けると、その口角は楽しげに上がっている。約束していたとおり、休憩の時間だ。
「私は部屋へ取りに行ってまいりますので」
「茶はこちらで用意しておこう。いつもの場所でいいな」
是非を問うというよりは単なる確認であったが、異論があるはずもない。茶受けとは伝えたが、どのようなものであるのかについては黙秘を貫いている。可愛らしい形であるという情報は漏らしてしまったので、少なくとも煎餅の類でないということは判断されているような気はするものの、果たして何を想像し、どのような茶葉を合わせてくるのかと。考えている間にも自室へたどり着き、卓の上に鎮座する箱を片手にすぐさま次なる目的地へ。長い廊下を進み続けるうちに到達するのは本丸の端。一振り目達の眠る部屋の前だ。
眠る二振りを気遣ってか、余程の用が無ければこちら側にまで足を運ぶものは少ない。隣室は鶯丸のものであるが、長らく待ち望んでいた大包平が本丸へとやって来て以来、そちらに主たる荷物を移動してしまったと聞いている。更にその隣は江雪左文字の部屋であるのだが、そちらもまた、実際に過ごしているのは小夜左文字の部屋であることが多い。短刀であるが故か誰かの懐は落ち着くらしく、兄弟でゆったりと過ごしているうちに寝落ちを繰り返して以来の習慣であるとか。
元よりそのような状況にある一角であるために、一期一振と鶴丸が二振りだけになるには随分と都合の良い場所だった。場所が場所、居るものが居るものだけにか、余計に。
のんびりとしていたつもりはないのだが、鶴丸は既に廊下の縁に腰掛けていた。隣には僅かな蒸気ののぼる急須が置いてあり、準備も万端であるようだ。
「お待たせいたしました」
「さて、俺も今来たところだぜ、と返しておくべきか」
「ご冗談を」
明らかな嘘を喜んでやる義理もなく、ばさりと切り捨てて隣に腰掛けると、鶴丸の視線は一期一振の手中にある箱に釘付けである。ここまで来て焦らす必要もないかと無造作に蓋を開けてやれば、鶴丸は情緒がないなとぼやきながら覗き込み。
「……なるほど、これを君は可愛らしい、と」
「ええ、可愛らしい練り切りでしょう」
それ以上でもそれ以下でもない。そんな表情を貫けば、何やら言いたそうな様子であった鶴丸は言葉を飲み込んだようだった。口から飛び出してしまいそうになった「自意識過剰にもご自身が連想された上での言葉だと思われましたか」なんてものをぐっと飲み込んだ甲斐があったというものである。本当は口にしてやってもよかったのだけれど、それにより機嫌を損ねてしまうことは避けたかった。損なってしまったものを気遣いながらの休憩など、御免である。
贈られた練り切りの鶴は、全体的に滑らかな白色に、頭頂部の鮮やかな赤。丁寧に羽も作り込まれていて、食べてしまうのがもったいないと思ってしまった。そこに嘘はなく、兄としての欲目がなくともあの弟達が選んだものが美味しくないはずもないので、ならばいつものごとく分け合えば良いと、そう思ったのだ。
「ふむ、まあ確かにそうなんだがな」
ゆっくりとひとつを摘み上げようとした手は、忘れていた、と先に急須へ伸ばされる。こぽ、こぽ、と微かな音と共に注がれる緑茶の香りは華やかに広がって。すぐにいただきたくなるところではあったが、話が途中だったろう、と鶴丸に目を向ける。一仕事を終えた鶴丸は気にした様子もなく、今度こそ練り切りへと指先を伸ばし、そっと摘み上げた。
「これは、可愛らしいというよりもむしろ、綺麗だ、と言うべきだろう」
見事だなぁと言いながらも、ためらうことなく口へと放り込む。その姿を見て、ようやく一期一振も丁寧に練り切りを摘み上げた。
「なるほど、綺麗、ですか」
意味もなく光に透かすように掲げては存分に目で堪能し、そしてそっと口の中へ。ゆるやかに舌へと絡む甘さもくどくはなく、静かに啜りあげた緑茶のほのかな苦味と合わさって内へと流れ込んでいく。
「どうだ」
「茶葉の出所は鶯丸殿ですな」
「君、なぁ……」
素直においしいと口にすることはどこか気恥ずかしく、また、食べてしまえば一瞬のうちに終わってしまったことに、何だこんなものだったのかと考えてしまって。結果としてずれた回答をわざとしたことには気がつかれているものの、そこを深くは問いただしてこない距離が心地よかった。
茶葉の出所として鶯丸の名が出てくる。それが当然であるかのように錯覚してしまうほど、鶯丸といえば茶、である。故に今回もそうであると思ったのだが、どこかいたずらめいた表情をする鶴丸の様子から考えるにどうやら違うらしい。
「鶯丸に押しつけられたやつを気に入ってな、俺が自分で買ってきた茶葉だぜ」
「なる、ほど」
大きく括ってしまえば出所は鶯丸であるような気もするのだが、出資者という観点で判断するならば鶴丸になるのだろう。だからどうした、という話でもないのだが、鶴丸がそう主張するのならば一期一振にそこまでのこだわりはなく、その主張によって一期一振に一泡吹かせられたと満足するのであればそれで良いだろう、と。
それにしても、と手中で湯呑みを揺らしながら一期一振は記憶をたどる。
「こちらのお茶、私はいただいた記憶がないのですが」
「ああ、一杯だけ呼ばれた時のものだからな。大包平と飲もうと思って淹れたが出陣だったとかなんとかで」
自然と分け合う習慣がついてしまっていたものだから、自分の知らない味がある、ということがなんとも不思議だった。それだけだというのに、鶴丸はにやにやと笑みを浮かべている。
「独り占めされたと思ったのか」
「独り占めも何も、貴方が受け取ったものをどう扱おうと自由でしょうに」
その自由の中で、一期一振は共有すること選んでいるというだけの話である。何だつまらん、とこぼす声色は随分と平坦で一瞬どきりとするも、ただ単に、その問いかけにも回答にも重きを置いていないが故の平坦さである様子。心臓に悪い、と内心では思いつつ早いところ話題を変えてしまおうと、ぽつり、ぽつり、適当な話題を振れば、これまた適当な返答がある。内容なんてないに等しいものの、程良く気の抜けた状況である証拠のようで不満はなかった。
ぴぴぴ、と小さな音が耳へと届く。洗濯が終わったようだ。
「さて、もうひと踏ん張りするか」
「干して、取り込んでのふた踏ん張りですな」
思い出させないでくれと露骨に顔をしかめる鶴丸に対し、こぼしてしまう笑みを隠さぬまま一期一振は手早く箱と茶器を持って立ち上がる。
「私はこちらを片付けてから向かいますので、あとはよろしくお願いいたしますね」
「あとはって、……おい、ちゃんと来るんだろうな」
「ええ、何事もなければ必ず」
後片付けに何事があってたまるかとぼやく鶴丸と並び歩きながら、これで「何事」が発生したならば鶴丸はどのような反応をするのかと若干の興味がわく。これだという出来事も特には浮かばないのできっちりとあとを追うことにはなるのだろうが、それではやはりどこかつまらないかと考えてしまう辺り、共に過ごす時間が長い分だけ鶴丸に毒されてしまっているのかもしれなかった。
「……なんたる無様な」
ぽつりとこぼした言葉は何度か耳にするうちに馴染んでしまった言葉で、独り言のようであってそうではない。一振りだけで座っている一期一振ではあるが、その目前には横たわる二振りの姿がある。鶴丸国永と、一期一振。己よりも先に顕現され、そして原因も分からぬままに眠り続ける一振り目たちだ。一期一振自身は彼らと言葉を交わしたことはなく、彼らのことは、先に顕現していたものたちから伝え聞くばかりである。
共に暮らす日々ではどんなことがあったのか。
戦場ではどのように刀を振るったのか。
本丸の仲間たちは一振り目と二振り目とを重ね合わせてしまうことがないようにと気をつけてくれていたし、不必要に過去を振り返るようなことはしなかった。それでも、と話をねだっていたのは一期一振である。一振り目がどのような性格で在ったのかを知ることは、己の在り方を考えることにも繋がった。一振り目と混ざり合ってしまうことのないようにと向き合う時間も作りつつ、その足跡を辿り、己を作り上げていく。そのようなことをしていること自体、言いふらすことでもないので誰も気がついていないのではないかと思っている。それでも、もしも知った誰かに「そこまでしてどうして一振り目のことを知ろうとするのか」を問われたとしたら、逆に問うてやりたいのだ。根源が同じであったとしても、彼と己は別個体である。それを確認し、独自の自己を作り上げることの何がいけないのかと。
そろそろ夕餉の時間となるだろうか、と意識を徐々に切り替える。早く戻らなければ、鶴丸が呼びに来てしまうことだろう。過去には時間を忘れていたことがあり、散々からかわれたことがある。
鶴丸は一期一振と同じく二振り目として顕現された存在であった。同じ二振り目として気が楽な部分もあって、鶴丸とは二振りでこの部屋の前の廊下を占領し、長い時間を共に過ごしてきたものだ。それでもやはり部屋の中はどこか特別で、鶴丸に導かれて一振り目達と対面を果たした一回を除けば、共に部屋へと入ったことは一度もない。そもそも、鶴丸がこの部屋の中に入っている姿を見たことがないのだが、その辺りの感覚については互いに触れたことがない。一期一振にとっては騒めく感情を落ち着かせるための部屋なのだけれど、おかげでこの部屋にはぐちゃぐちゃとした感情が渦巻いているような気がしてならない。特に今は、見られたくはなかった。ここには、一期一振の無様な姿しかないようで。気合いを入れて立ち上がると、並ぶ二振りを静かに見下ろす。寄り添う、とは言いたくなかった。そんなにお綺麗なものでもないだろうに。
頃合いはちょうど良かったようで、広間へと向かう途中で鶴丸と遭遇した。時間を忘れていやしないかと気になって、と冗談めかして笑う鶴丸に、過去のことは棚に上げ、そこまでのんびり屋ではないと笑い返してやる。歩きながら、そういやあ、と鶴丸は笑う。
「今日の主菜は天ぷららしいぞ」
「なるほど。……つまり」
「南瓜もあるだろうが、紫蘇を食べてから、だぜ」
「ああ、そんな、殺生な」
大袈裟に嘆いてみせれば、鶴丸は楽しそうに笑っている。
ほくほくとした南瓜は甘みがあって好き。紫蘇は独特の味が嫌い。わかりやすく感情を表現してやると、それだけ居心地の良い空間へと変わることに気がついたのはいつのことだっただろう。一振り目は凛とした性格であったと聞いた時には、少なくともふわりと温かな性格で在ろうと決めてはいたのだけれど。どうせどこかで比べられてしまうのだとしたら、初めから全く異なるもので在ればいいと、そう考えてのことだった。食の好みはそれを顕著にしているだけで、本当は南瓜と同じくらいに紫蘇の天ぷらも好きだった。好き嫌いは良くないぜ、と強引に食べさせてくる鶴丸は、もしかすると気がついているのかもしれない。気恥ずかしさと共に僅かばかりの悔しさもあって、一期一振はいつの日にか、鶴丸が掲げている軽薄な笑みの下を暴いてやりたいと思っている。
❁
なんとも難しい場所を引き当ててしまったものだ。
そんな感想が真っ先に浮かんだのだということは、一期一振が顕現して初めて抱え込んでしまった秘密である。縁を結んだ審神者に問題があるわけではなく、本丸に問題があるわけでもない。そばに控えている弟の表情や姿を見てもそれは明らかであり、ここまでの情報で終わっていたならば「何が不満なのだ」と詰られて終わることだろう。しかし、それらの好条件が一気に覆る爆弾がこの本丸には眠っているのだ。
黙っていてもすぐにばれるだろうから伝えてしまっておくけれど。
そんな前置きがあった時点で、碌でもない情報である。それでも聞かないという選択肢はなく、言いにくそうにしている主を促したのは一期一振自身であった。ばれる、という表現をしている時点で後ろ暗い何かがあることは伝わっているのだから、お互いに覚悟を決めてしまおう、と。そうしてようやく聞かされた言葉ではあったのだけれども、それを噛み砕いて飲み込むまでには、少しばかり時間が必要であった。そのせいで、主と、あの場にいた弟――平野藤四郎には、もたらされた情報が一期一振にとって何かしら思うところのあるものであったことくらいは気がつかれてしまっていることだろう。もっとも、それを聞いて何も感じないということがあるとするのならば、それはよほど心の強い存在であるか、既に心が死んでしまっているのか。少なくとも一般的な刀剣男士として顕現した存在であれば、少なからず衝撃を受けてしまうほどの爆弾が叩き込まれたわけなので、仕方のないことであった、とは割り切っているのだけれど。
(まったく、場合によっては顕現早々に志気が下がるだけであるだろうに)
もしかすると、それを狙っての情報開示であったのかもしれない。どうせ避けては通ることのできぬ道なのだ。後で知って心が折れてしまうよりもずっと、最初からふるいにかけてしまったほうが良い。それは当人にとっても、この本丸にとっても。後で訪れる別れだなんて、そんなもの、悲しみしか生まないものであろうから。
先導する平野藤四郎の後を追いながら、一期一振はその向こう側へと思いを巡らせる。顕現早々に開示された碌でもない情報によれば、この本丸には、もう一振りの一期一振が在るらしい。果たして彼はもう一振りの顕現を知っているのだろうか。本丸の皆は、二振り目である自分を受け入れてくれるのか。
(まあ、考えていても仕方がないか)
顕現し、その情報を入手してもなお、この本丸に在ろうと決めたのは自分なのだ。会ったこともない顔触れの心情を推し量ろうだなんて、そんなのは無茶に決まっていると早々に諦めた。もしも仮に受け入れられなかったら、その時は。
(折れるとしたら、こちらでしょうなぁ)
物理的になのか精神的になのか、いずれにせよ、先に在るものを立てなければならない世界はどこでも同じであるはずだ。そもそもの土台がこの本丸に根付いているのは先に在る一振り目、新参者である二振り目に勝てる見込みがあるはずもない。負け戦を想定することは悔しいが、変えることのできぬ事実から目を背け続けるほどの愚かものでは在りたくない。ただ覚悟だけは決めておかねばと黒く落ち込む感情を飲み込みながら、平静を装いつつもどこか嬉しそうな平野藤四郎の後を追っていた。弟、は自、分を一兄と呼んでくれるのだろうか。
❁
本丸での生活は、想像していた以上に快適なものであったように思う。一振り目と二振り目とを比べる視線が煩わしかろうと覚悟していたというのに、そういった視線は全くと言っても良いほどに感じられなかった。思い返してみれば、色々と表情に出やすい面子と長く顔を付き合わせるようになったのは、最近になってからのこと。ある程度、本丸に馴染んでからであったかもしれない。言葉にこそされていないものの、心配だとか気遣いだとか、皆の優しさであったのだろう。
一振り目との対面も、何の問題もなく終えた。問題があるはずもなかった。与えられた部屋からは、随分と遠くに位置している一振り目の部屋。顕現した順に部屋を割り振っているのだというこの本丸では、一振り目の次に顕現した刀の部屋から増築により増やされた区画となっている。現状では一振り目の部屋が端となり、その反対側に増築が進められているところであるので、新参者である二振り目は一振り目と遠く離れた部屋となったわけだ。そんな一振り目の部屋では、ひたすらに静かな時間が流れていた。その中心で眠り続けるだけの存在と、どうして問題を起こすことができようか。一振り目の部屋まで連れてきた鶴丸もまた、部屋の中で眠る同じ顔をただただ静かに眺めているというのに。
いつ、誰に尋ねても「一振り目は眠っている」としか教えられなかった。随分と寝汚い同位体がいるものだと考えてはいたものの、さすがに何かがおかしいと思い始めた頃のことであったように思う。人の器にも慣れ、戦場において自らの手で刀を振るうことにも慣れ始め、心に余裕がうまれだした頃のことだ。
時間があればどこかで何かしらの「驚き」を提供し、そして何度かはやりすぎだと叱られる。随分と人間らしい生活を謳歌しているらしい鶴丸国永。所蔵場所のことから付き合いがないわけでもないが、それはあくまでも本霊の話であって、この本丸においてはさほど関わってきたわけではなかった。そんな鶴丸に手を引かれたものだから、一体何をされるのかと身構えてしまったことは仕方のないことであっただろう。彼が口にした言葉がお決まりの「驚きの結果を君に」であったものだから、その不安は高まるばかり。基本的にはその「驚き」が問題のないものであるせいか、楽しそうな鶴丸に連れ去られる一期一振を助けようとしてくれるものはいなかった。やりすぎて叱られないように、と声をかけてくれるものはいたのだけれど。そうして連れ込まれたのが、一振り目の部屋であった。果たしてこれは「やりすぎ」であろうか。そのようなことを考えたような気がする。
前後の記憶はいくらか曖昧なものとなっているのけれど、その場所で鶴丸と交わした言葉はよく覚えている。
――どうだ、驚いたか。
――ええ。
ただ、それだけ。本丸を駆けていた明るさは欠片もなく、ただひたすらに静かな言葉であって、それは確かに一期一振の心に衝撃を与えるものであった。
目覚めを願うものからの、色とりどり、様々な贈り物に囲まれて眠るのは一振り目の一期一振。そして、一振り目の鶴丸国永。隣に立つ鶴丸もまた、一振り目の眠ったあとに起された存在であるらしい。突然倒れ、眠り続けることとなった一振り目。専門機関で検査をしたものの原因は分からず、いつか訪れる目覚めの日までをこの部屋で過ごしているらしい一振り目。物言わぬ姿で静かに眠っているだけであるというのに、その存在を実際に目にしてしまうと頭が真っ白になってしまって、そんな無様を晒してしまった相手が鶴丸で、彼だけでよかったと考えることができるようになったのは、その日の夜になってからのことであった。
会わせても良いものか、なかなか踏ん切りがつかなくて、と。鶴丸の手で無理矢理に一期一振が一振り目との対面を果たしたことは、その日の遠征土産を一振り目の部屋へと運んできたものと鉢合わせしたことで瞬く間に皆の知るところとなり、主からはそんな釈明を受けることとなった。とはいえ事情が事情であるだけに判断が難しかったという思いも分からないわけではなく、鶴丸国永が迷う本丸から単騎で飛び出し強引にカタをつけてしまった、ということであれば彼らもまた「驚き」の被害者であろう。思うところがないと言えば嘘になるが、言っても仕方のないことをぐだぐだと口にするほど子どもではない。
「ふふ、それが皆の優しさであったことくらいは理解しておりますとも」
ふわりと笑いかけてやれば、それだけで主はほっと息を吐く。歴史を守るために戦っている最中なのだから、このようなことで心を曇らせてしまうなどあってはならない。どこか申し訳なさそうにこちらを窺っていた何振りかも肩の力を抜いたようで、少なくともこれで最低限の役目は果たしたことだろう、と。
「それで、鶴丸殿は今どちらに」
「微妙な問題で勝手に動いた罰、ということで遠征に出てもらっているんだけど……、うん、そろそろ帰ってくる頃だろ思う」
丸く収まったというのは結果論でしかなく、悪い方向へと事態が進んでいた可能性もある。何が悪かったのか、どうするべきであったのかを考えてきなさい、と単騎遠征に送り出したのだと。部屋に謹慎とはせずに、遠征任務により多少なりとも働いてこいということらしい。死蔵するよりもずっと好感のもてる処罰であって、悪くない主を引き当てることができたと改めて感じる。ちらつく一振り目の姿にさえ目を瞑れば、という注釈は必要であるものの。
鶴丸の所在を確認してどうしたのか、と再び不安を覗かせた主を安心させるように、笑みは絶やさないまま考える。この主のことだから、足並みを乱した鶴丸に何らかの対応を行ったはずで、ただそれが知りたいと思っただけであったから。素直にそれを伝えてもいいのだけれど、それはあまり「一期一振」らしくはないような気がして。
「……いえ、昨日はあまり話せませんでしたから。今日はゆっくりと、と思いまして」
結果、あまり気の利いたことは言えずに当たり障りのない言葉に落ち着いてしまったのだけれど、どうやらそれが正解であるらしかった。何をするとも決まっていなかった今日の予定が埋まる。鶴丸の予定はどうであるのかを考えていないな、ということにはすぐに気がついたのだが、罰としての遠征任務さえ終わってしまえば、出陣や内番といった当番は割り振られていないらしい。であれば、残る問題は鶴丸の個人的な予定のみとなるのだが、それならばきっと大丈夫だろうと思っている。少なくとも一期一振の知る鶴丸国永という刀のままであるとするならば、むしろ彼の方から話をするために部屋を訪ねてくるはずである、と。
遠征任務終了の報告後に部屋へ向かうよう伝えようか、という主の提案はありがたいものではあったが、それには及ばないだろうと断らせてもらう。黙って部屋で待たせてもらい驚きのお返しをしてやるのだと言えば、そういうことならばと楽しそうに主は笑ってくれたので、この後の行動も決まる。勝手に上がり込んで気を悪くしないだろうかという不安は僅かにあるものの、一期一振の知る鶴丸国永という刀は、その程度のことで気を悪くするほど器の小さな刀ではなかったはずである。この本丸で過ごす間に変わってしまっていたとすればそれは残念なことであるのだけれど、今の一期一振にはそうでないことを祈ることしかできないのだ。
一振り目の詳細を黙っていたことに対する釈明と謝罪は受け取り、何の覚悟もできないままに一振り目の状況を突きつけてきた鶴丸に対する処罰についても確認ができた。もうこの場に留まる理由もなかろうと立ち上がれば、鶴丸の反応を後で教えてね、とにこやかに見送られる。自室へと戻ったところで何か身なりを整えなおす予定もない。直接鶴丸の部屋へと向かってしまおうか、と考えたところで時空間の転移門が開閉されたことを感じ取る。主の言葉を信じるのならば、きっと鶴丸だ。彼のことだから、まずは主の元へと成果報告のため足を運ぶはずである。となると、早く移動しなければ鉢合わせをしてしまうかもしれない。
鶴丸が帰ってきたことは皆も感知したからだろう。こっちですよ、と一期一振の手を引いたのは今剣だ。
「鶴丸のやらかしたことにはおよびませんけど、ぜんりょくでやってやりましょう」
まずは、ばれずにへやにしんにゅうしなければ。
くすくすと楽しげな様子の彼は、どうやら協力をしてくれるらしい。顕現したばかりの身であるとはいえ、見つかることなく部屋へという程度であればさほど難しいものでもないのだ。古参の一振りである彼の手を煩わせるほどでは、とは思うものの、折角の好意を断るほどのものでもないか、と。
早く早くと追い立てる声に見送られ、小走りで先導する姿の後を追う。どこか昨日と似た状況に、果たしてこの先に待ち受ける驚きは、と。鶴丸は何を思って一振り目と引き合わせたのか。どうしてあの瞬間だったのか。彼は、何を感じたのか。聞きたいことは複数あるものの、一体どこまでさらけ出してくれるのだろうか。浮かぶ不安は全て覆い隠し、小さな協力者の楽しげな言葉に相槌を打つ。おどろかせてやりましょうね。ええ。へやではなにを。まだ考えていませんが、まあ何とかなるでしょう。もくてきは、あくまでもはなしをすること、ですもんね。ええ、そうなんです。
実はここが抜け道に、などといった情報を添えての進軍はつつがなく終わり、今剣は一期一振を鶴丸の部屋へと押し込むと、あとはわかいおふたりで、なんて。見つかっては意味がないからとすぐさま立ち去った姿にはお礼を伝える間もなく、後でお菓子でも贈ることにしようかとぼんやりと考える。同時に初めて入る部屋の内装を眺めてみれば、まあ彼らしい部屋、なのではないだろうか、と。
(……らしくない部屋、というものも想像がつかない御方ではありますが)
余計なものが削ぎ落とされた部屋も、雑多なもので溢れかえった部屋も、どちらも「鶴丸国永の部屋」らしいものだと思う。そしてこの部屋は、程よく人間味あるあたたかな部屋だ。見苦しくない程度にはものが雑に置いてあり、どこか生活感の感じられる部屋である。
勝手に触れて回るほどの礼儀知らずではないつもりだが、部屋へと勝手に上がり込んでおいて礼儀知らずもなにも、と己の冷静な部分が囁いてくる。せめて部屋の前で待つべきだったのではないか。行動に移そうとしたところで、近付いてくる足音に失敗を悟る。部屋の主とは、このまま対面しなければならないらしい。
中心に正座をして視線を落とす。とす、とす、とす。気配を消したところで、という思いもあり、ただただ静かにしているだけだ。きっと鶴丸には部屋の中に誰かが入り込んでいることくらいは伝わってしまっていることだろうに、その足取りは変わらない。昨日のことがあるのだからと、犯人が一期一振であることくらい容易に想像できてしまったのかもしれない。主への報告は「驚かせることに失敗しました」になるか、と考えたところで部屋に光が差し込んでくる。待ち人の帰還だ。
勝手に部屋に上がり込んで、と咎められることも想定はしていたが、やはり彼は気にしていないらしい。ふ、と小さく息を零すと、正座している一期一振に対して「座布団くらい敷いてもよかったのに」と言いながら戦装束を解いていく。
「出ているならばともかく、仕舞われているものを探すために漁るというのも」
「勝手に上がり込んでおいてよく言うぜ」
「それは、まあ、そうなのですが」
ある程度身軽になった鶴丸は、そのまま一期一振と向かい合うように腰を下ろすと胡座をかく。正座なんて堅苦しくせずとも力を抜けよ、と言われはしたものの、そこまで割り切ることができるほどの関係性は、少なくともこの本丸においては築くことができていない。生真面目なやつだなと評しはしたものの、それ以上は言葉を重ねるつもりがないらしかった。
背筋をぴんと伸ばしたままの一期一振を面白そうに眺めながら、鶴丸は膝を台として頬杖をつく。
「それで、今日は何を言いに来たんだ」
謝るつもりは毛頭ないが、文句や不満くらいなら聞いてやるぜ、と。
悪びれた様子もなく、堂々と開き直る姿。一期一振自身は鶴丸の行動が必ずしも悪いものであったとは考えていないので構わないのだが、随分とこちらを気遣ってくれているらしい面々に見られでもすれば、新たな火種になりかねない態度である。どう答えてやるべきかと僅かに迷い、そして結局。
「何を、と言いますか、ただお話がしたくて」
ご迷惑でしょうか、と小首を傾げてやったというのに、目前の男は随分と大きな溜息で答えを返してくる。表情も少しばかり引き攣っているような気がして、答えを間違えてしまった気もするが後には引けない。何より、嘘をついているわけではないのだ。本当に、何も話らしい話はできなかった昨日の続きを願っただけで。
なんというか、と前置きをする鶴丸は、どうやら言葉を選んでくれているらしい。
「……随分といい性格をしているんだな、君も」
「ありがとうございます」
わかってやっているだろう、との言葉は笑顔で流す。わかっているのならばそれ以上は触れてくれるな、と。
しばらく笑顔で見つめ続けてやれば、はあ、と大きくわざとらしい溜息をつき、話題を切り替える気になってくれたらしい。
「それで。話ってのは昨日の続きか」
「ええ。途中で切り上げることになりましたから」
一振り目との対面を果たし、彼らが眠り続けているのだという話を聞き、鶴丸国永もこの本丸には二振り在るのだと聞き。昨日はそこで話が途切れてしまった。
「私が共に過ごす鶴丸国永という存在は貴方だというのに」
貴方自身の話は何も聞けていないではないか、と。だから話をしにきたのだ、と。
初めこそ興味深そうにふんふんと頷いていたというのに、途中からは片手で顔を覆い微動だにしなくなる。そっと近くへと身を寄せても、気がついているだろうに動こうとはせずに。
「……ふむ、お加減が優れないのかとも思いましたが顔色に何の変化もないとは」
「赤くなってやる可愛げもなくて悪いな」
君のその性格と付き合っていくのかと思うと頭が痛くなったんだ、とは随分とひどい言い草である。仮に、照れた様子を見せてくれたのならば。考えようとした「もしも」は、その薄ら寒さから即座になかったことにする。己がそうして媚びる存在であると認識されることも、薄っぺらい言葉を額面通りに受け取って心を揺らされている姿も、真っ平御免であった。
「ああ、もう。わかった。君はそう在るんだな」
「ええ、私は私、ですから」
この在り方を変えるつもりはないのだと言外に含める。だから、どうぞ早く慣れてくださいな、と。大きな深呼吸とともに全てを飲み込んだらしい鶴丸が顔を上げると、そこにはもう随分と「見慣れた」表情が浮かべられていた。飄々とし、絶やすことなく浮かべられた笑み。この本丸に来てから目にすることの多かったその表情が、どうも苦手になりそうだ、と感じられた。
❁
いちにぃ、と呼び掛けられることにも随分と慣れてきた。兄、弟、という認識はこの本丸に顕現してから得たものであり、そういうものなのだとわかってはいても、しばらくの間はどうにも不思議な感覚が拭えなかったものだ。ぎこちなくも兄弟として過ごしているうちに、徐々に馴染んできたその呼び名。最近では、己が呼ばれたわけでもないというのに、弟の声が聞こえると自然とそちらを確認するほどになってしまった。今日もまた、洗濯物を抱えて廊下を進む最中に聞こえてきた「行ってきます」の声に、足を止めてそちらを確認してしまう。遠く距離があり、姿が見えないというのに、だ。
「今日も、君の弟達は元気いっぱいだなあ」
「楽しそうで、本当に」
政府の整えた模擬戦場は、修行を終えて戻ってきた彼らにとって良い遊び場になっているらしい。受けた傷も帰還時には治されているということもあり、狂ってしまった身体の感覚を取り戻すと同時に、新たな戦術を試すのだ、と入れ替わり立ち替わり。敵の強さも丁度良い、らしいのだが一期一振にはよくわからない感覚だった。現時点では一期一振が新参者である状況に変わりはなく、ただ一振りだけ、抜きん出て経験に乏しい状態だ。あまりに経験差が激しいと、検非違使と遭遇した際に足を引っ張ってしまうのみであることは、苦々しくも身をもって勉強済みだ。仮に検非違使が出なかったとしても、強い面々に周囲を固められての進軍においては、己の出る幕もないままに戦闘が終わってしまうことすらある。戦うために顕現した身としては守られながらの戦場に物足りなさもあり、何振りか新しい顔触れが揃ってから成長のための部隊を組もう、という話になっていた。
内番や遠征任務を中心とした一期一振の日常には、いつの間にやら白い鶴が寄り添うようになっていた。一期一振同様に二振り目である鶴丸もまた、古参と並ぶには未だ経験が足りない一振りである。持て余す時間を一期一振で潰すようになったのだと周囲が認識するようになれば、自然と当番割り振りの時点で気遣われるようになったらしい。共に仕事をこなすことが増え、共に休息をとる時間が増えた。
初めの会話こそ他の同位体とはかけ離れたものであったが、そんなことが何だと言うのか。言葉にはしなかったものの、鶴丸は一期一振の元で羽を伸ばしている様子であった。表に出さないよう気をつけてくれているとはいえ、己の知らない「己」の姿を知っているもの達と会話をすることは、息苦しさを伴うことがある。そんな折に一期一振のそばは随分と息がしやすいらしい。気心の知れた、そして同じ感覚を知る存在であるが故に一期一振としても鶴丸と過ごす時間は居心地がよく、気がつくと現状ができあがっていた。やっぱり二振りは仲がいいんだ、という主の言葉には物申したい部分がないわけではないけれど。仲の良し悪しではなく呼吸のしやすさなのだとか、一振り目と重ねるなだとか。無意識に出てしまっているもの全てに目くじらを立てても仕方がないし、無意識下のそれにさえ目を向けなければ程良い気遣いにあふれている本丸は本当に居心地が良いのだから勿体ない。
出陣における武運を願い終えて歩きだした一期一振の後を追うように歩く鶴丸は、いつも律儀に手足を止めて一期一振が満足するのを待ってくれている。ただ、それがただの優しさでないことは薄らとわかっていた。一挙一動、その下に潜む感情までもを見逃さないよう、見透かすようにじぃと見詰めてくる姿。気付かれていることを知りながらもやめる様子がなく、むしろ開き直って「君を知りたいのさ」と言われてしまえばもう何も言えなかった。
「ふふ、今夜の布団はふっかふかにして驚かせてやるんです」
「……まあ、干す場所を考えないと帰還と同時にばれるけどな」
「日当たりの最高な場所が一番危険だということは調査済みですよ」
とにかく運び切ってしまわねば、と意気込む一期一振の手には掛布団の山。鶴丸の手には敷布団の山がある。恐ろしいのはどちらもほんの一部に過ぎないということだ。兄弟の数が多い粟田口一派であるが、今日の目標はその布団一式を洗い切ってしまうこと。洗い場にさえ運んでしまえば、科学の力で洗うのは一瞬である。それでも、その前後の運搬がどうしても人力で時間がかかってしまう。本当に驚きをもたらしたいのであれば、少しも時間は無駄にできなかった。
早く戦場に出たいという思いは当然のごとくあるのだけれど、こうして穏やかに人間らしい生活を送ってみることも悪くはなかった。内側を何かが通っていく感覚に、呼吸と食事を知る。この身であれば、水にもお湯にも浸かることができた。意識の闇に溶ける感覚を眠りだと教わりはしたが、未だに気絶との違いがよくわかっていない。触れ合う肌の温もりも、傷を受ける痛みも知った。目覚めの光が眩しいことも、暗闇では何も見えなくなることも、不思議な感覚だった。鶴丸もそうだたのだろう。あれは知っているか、こちらはどうだ、と様々な「驚き」を教えてくれた。まあ、その方法に問題があり揃って叱られたことも、決して忘られぬ経験とはなった。蔵の中では刀の付喪を叱り飛ばすような気概のある存在が居なかったので。まあ、叱られるようなことをしなかったということも大きな理由のひとつではあるのだろうが。
こうして並んで布団を運ぶことになろうとは、全く考えたこともなかった。そもそも実体を得ることになろうとは、という点については別問題としてである。かつて、蔵の中では鶴丸国永という刀に飽きられることのないようにと、とにかく気を張っていたように思う。退屈を嫌う御方だ。つまらぬ会話を一度でもしようものなら、評価は底辺にまで下がり切ってしまうことだろう。そんな思いがあったものだから、当時を知る鶯丸や平野藤四郎には頭の上がらないところがある。静かで穏やかであるはずの寝所が随分と殺伐と張り詰めていたものだ、だとか、それに比べるとどちらも随分と穏やかになったものだ、だとか。どうやら一振り目達はそれを引き摺っていたらしく、それでも収まるところに収まったのだとか。いつの宴であったか、そんなことを口にしていたものがいた。だからどうしたというわけでもないのだけれど、なるほど、随分と自由に生きた方々であったらしいなと。私にそんな心の余裕なんてありませんよ、と返した言葉は事実である。
そういえば、と一期一振は足を止めぬままに振り返る。布団の山の向こう側で、どうかしたのかと訝しむ様子に「大したことではないのですが」と前置きをして。
「弟達が、茶受けを土産にくれたのですが」
「なんだ、休憩のお誘いか」
「ええ、そうですよ。今日の休憩の際、一緒にいただきましょうか」
どうせ誘うつもりだったので素直に頷いたというのに、妙な表情をしている鶴丸は断られるものだと思っていたようだ。表情の内訳としては、困惑と、驚きと、それから疑念、覚悟だろうか。何か裏があるのではないかと、こちらを探ろうとしている眼差しが向けられているような気がする。何をそんなに疑って、とは思わない。ここ最近はお遊び程度ながらも見返りを求めた誘いが目立ってしまっていたので。部屋を片付けてやる代わりに倉庫の整理を手伝えだとか、それこそ、茶菓子を分ける代わりに合う茶葉を買ってきてほしいだとか。無理難題をふっかけているつもりもないし、鶴丸も何だかんだ言いながらこなしている。楽しんでいる、とは言わないまでも、それなりにうまく付き合っているのではないだろうか。
「……ええと、何かないのか」
「何か、とは」
「いやいや、ないに越したことはないからな」
余計なことを考えるなよ、とわざとらしく口にする彼に対して、いつから意地悪めいた戯れを始めたのかは覚えていない。ただ、何がきっかけとなったのかは覚えている。彼がどこまでを許してくれるのか、どうすれば薄っぺらい表情を崩すことができるのか。その許容範囲が知りたくなった。それでいて許されないことを考えると恐ろしく、当たり障りのない要求しかできなかった。それだけの話である。
「とても可愛らしい形をしているので、自分だけではどうにも食べる踏ん切りがつかず」
蓋をあけた瞬間に浮かんだ顔に、これはと共に食べなければ、と。だというのに、鶴丸の表情は何とも言い難いものへと逆戻りした上、しみじみと呟く。
「……君にそんな可愛げがあったとは知らなかったな」
「失礼な。私にだってものを愛でる心くらいありますとも」
どんな形をしていたのか、と興味を持ったらしい鶴丸には、早いところ仕事を終わらせてしまえば見ることができる、とだけを繰り返す。果たして、どのような反応を見せてくれるのかと、楽しみで緩む口元は手に持つ布団で隠してしまう。そのまま足早に洗い場へと急げば、後に楽しみができたからなのか、それとも単に付き合ってくれているだけなのか、鶴丸もぴったりと後ろをついてきてくれていた。
(……さて、笑っていただけるのか、それとも気を損ねてしまうのか)
紅白めでたい鶴の形。弟達が何を思ってそれを一期一振に選び渡したのかは分からないけれど、きっと、鶴丸と共に食べることも、可能性のひとつとしてはあったに違いない。その根底にあるものが何であるのかを知らなくても、一期一振と鶴丸が時間を長く共有していることは事実であったし、何かとものを分け合っている姿も本丸において繰り返し見せてきたものだ。当然のごとく仕事も分け合っている、と言うと鶴丸は押し付けられているのだと憤慨するのかもしれないが、とにかく、共同作業の数も多い。純粋に仲が良いというばかりでないことは一期一振と鶴丸の間にある共通認識であるのだが、それを表に出したところで「恥ずかしがらなくても」とよくわからない反応をされてしまうことは既に経験済みである。過度にまとめて扱われるわけでもないので、まあいいか、と流すことにしたのは割と早い段階であったように思う。
弟達からの贈り物だ。少なくとも、邪険に扱われることはないだろうとは思っている。気になっているのは一期一振がそれを可愛らしいと評したからであって、己を連想させるものをそう評された鶴丸が何を思うのか。それが見てみたいと思うと同時に、言わなければよかったとも思う己のことを面倒くさいと一期一振は常々感じている。こうして人の器を得る前から「心」はあっただろうに、いつからこんなにも面倒になってしまったのか。
何往復かを繰り返し、ようやく全ての布団を運び終える。全ての洗濯機を稼働させてしまえば、あとは終了の合図を待つばかり。手伝おうか、というありがたい申し出を意地になって断ったおかげか、達成感はいつも以上に大きように思う。
「やりきりましたね」
「まあ、この後にも干して、部屋に戻して、の大仕事があるんだが」
「それはそれ、これはこれ、ですよ」
小さな目標達成の積み重ねが大きな目標達成に繋がるのですから、と胸を張ってやると鶴丸は小さいながらも笑ってくれる。
「は、随分と壮大だなぁ」
「夢は大きく、理想は高く、が信条ですので」
「それはどうも違う気がするぜ」
「ふふ、細かいことを気にしては損ですよ」
さて、と仕切り直して鶴丸へと目を向けると、その口角は楽しげに上がっている。約束していたとおり、休憩の時間だ。
「私は部屋へ取りに行ってまいりますので」
「茶はこちらで用意しておこう。いつもの場所でいいな」
是非を問うというよりは単なる確認であったが、異論があるはずもない。茶受けとは伝えたが、どのようなものであるのかについては黙秘を貫いている。可愛らしい形であるという情報は漏らしてしまったので、少なくとも煎餅の類でないということは判断されているような気はするものの、果たして何を想像し、どのような茶葉を合わせてくるのかと。考えている間にも自室へたどり着き、卓の上に鎮座する箱を片手にすぐさま次なる目的地へ。長い廊下を進み続けるうちに到達するのは本丸の端。一振り目達の眠る部屋の前だ。
眠る二振りを気遣ってか、余程の用が無ければこちら側にまで足を運ぶものは少ない。隣室は鶯丸のものであるが、長らく待ち望んでいた大包平が本丸へとやって来て以来、そちらに主たる荷物を移動してしまったと聞いている。更にその隣は江雪左文字の部屋であるのだが、そちらもまた、実際に過ごしているのは小夜左文字の部屋であることが多い。短刀であるが故か誰かの懐は落ち着くらしく、兄弟でゆったりと過ごしているうちに寝落ちを繰り返して以来の習慣であるとか。
元よりそのような状況にある一角であるために、一期一振と鶴丸が二振りだけになるには随分と都合の良い場所だった。場所が場所、居るものが居るものだけにか、余計に。
のんびりとしていたつもりはないのだが、鶴丸は既に廊下の縁に腰掛けていた。隣には僅かな蒸気ののぼる急須が置いてあり、準備も万端であるようだ。
「お待たせいたしました」
「さて、俺も今来たところだぜ、と返しておくべきか」
「ご冗談を」
明らかな嘘を喜んでやる義理もなく、ばさりと切り捨てて隣に腰掛けると、鶴丸の視線は一期一振の手中にある箱に釘付けである。ここまで来て焦らす必要もないかと無造作に蓋を開けてやれば、鶴丸は情緒がないなとぼやきながら覗き込み。
「……なるほど、これを君は可愛らしい、と」
「ええ、可愛らしい練り切りでしょう」
それ以上でもそれ以下でもない。そんな表情を貫けば、何やら言いたそうな様子であった鶴丸は言葉を飲み込んだようだった。口から飛び出してしまいそうになった「自意識過剰にもご自身が連想された上での言葉だと思われましたか」なんてものをぐっと飲み込んだ甲斐があったというものである。本当は口にしてやってもよかったのだけれど、それにより機嫌を損ねてしまうことは避けたかった。損なってしまったものを気遣いながらの休憩など、御免である。
贈られた練り切りの鶴は、全体的に滑らかな白色に、頭頂部の鮮やかな赤。丁寧に羽も作り込まれていて、食べてしまうのがもったいないと思ってしまった。そこに嘘はなく、兄としての欲目がなくともあの弟達が選んだものが美味しくないはずもないので、ならばいつものごとく分け合えば良いと、そう思ったのだ。
「ふむ、まあ確かにそうなんだがな」
ゆっくりとひとつを摘み上げようとした手は、忘れていた、と先に急須へ伸ばされる。こぽ、こぽ、と微かな音と共に注がれる緑茶の香りは華やかに広がって。すぐにいただきたくなるところではあったが、話が途中だったろう、と鶴丸に目を向ける。一仕事を終えた鶴丸は気にした様子もなく、今度こそ練り切りへと指先を伸ばし、そっと摘み上げた。
「これは、可愛らしいというよりもむしろ、綺麗だ、と言うべきだろう」
見事だなぁと言いながらも、ためらうことなく口へと放り込む。その姿を見て、ようやく一期一振も丁寧に練り切りを摘み上げた。
「なるほど、綺麗、ですか」
意味もなく光に透かすように掲げては存分に目で堪能し、そしてそっと口の中へ。ゆるやかに舌へと絡む甘さもくどくはなく、静かに啜りあげた緑茶のほのかな苦味と合わさって内へと流れ込んでいく。
「どうだ」
「茶葉の出所は鶯丸殿ですな」
「君、なぁ……」
素直においしいと口にすることはどこか気恥ずかしく、また、食べてしまえば一瞬のうちに終わってしまったことに、何だこんなものだったのかと考えてしまって。結果としてずれた回答をわざとしたことには気がつかれているものの、そこを深くは問いただしてこない距離が心地よかった。
茶葉の出所として鶯丸の名が出てくる。それが当然であるかのように錯覚してしまうほど、鶯丸といえば茶、である。故に今回もそうであると思ったのだが、どこかいたずらめいた表情をする鶴丸の様子から考えるにどうやら違うらしい。
「鶯丸に押しつけられたやつを気に入ってな、俺が自分で買ってきた茶葉だぜ」
「なる、ほど」
大きく括ってしまえば出所は鶯丸であるような気もするのだが、出資者という観点で判断するならば鶴丸になるのだろう。だからどうした、という話でもないのだが、鶴丸がそう主張するのならば一期一振にそこまでのこだわりはなく、その主張によって一期一振に一泡吹かせられたと満足するのであればそれで良いだろう、と。
それにしても、と手中で湯呑みを揺らしながら一期一振は記憶をたどる。
「こちらのお茶、私はいただいた記憶がないのですが」
「ああ、一杯だけ呼ばれた時のものだからな。大包平と飲もうと思って淹れたが出陣だったとかなんとかで」
自然と分け合う習慣がついてしまっていたものだから、自分の知らない味がある、ということがなんとも不思議だった。それだけだというのに、鶴丸はにやにやと笑みを浮かべている。
「独り占めされたと思ったのか」
「独り占めも何も、貴方が受け取ったものをどう扱おうと自由でしょうに」
その自由の中で、一期一振は共有すること選んでいるというだけの話である。何だつまらん、とこぼす声色は随分と平坦で一瞬どきりとするも、ただ単に、その問いかけにも回答にも重きを置いていないが故の平坦さである様子。心臓に悪い、と内心では思いつつ早いところ話題を変えてしまおうと、ぽつり、ぽつり、適当な話題を振れば、これまた適当な返答がある。内容なんてないに等しいものの、程良く気の抜けた状況である証拠のようで不満はなかった。
ぴぴぴ、と小さな音が耳へと届く。洗濯が終わったようだ。
「さて、もうひと踏ん張りするか」
「干して、取り込んでのふた踏ん張りですな」
思い出させないでくれと露骨に顔をしかめる鶴丸に対し、こぼしてしまう笑みを隠さぬまま一期一振は手早く箱と茶器を持って立ち上がる。
「私はこちらを片付けてから向かいますので、あとはよろしくお願いいたしますね」
「あとはって、……おい、ちゃんと来るんだろうな」
「ええ、何事もなければ必ず」
後片付けに何事があってたまるかとぼやく鶴丸と並び歩きながら、これで「何事」が発生したならば鶴丸はどのような反応をするのかと若干の興味がわく。これだという出来事も特には浮かばないのできっちりとあとを追うことにはなるのだろうが、それではやはりどこかつまらないかと考えてしまう辺り、共に過ごす時間が長い分だけ鶴丸に毒されてしまっているのかもしれなかった。