砂糖の海
目覚めても、相変わらず世界は馴染みのない世界のままだった。記憶が戻らないのだから、それも当然だろう。動く気にもなれなくて、けれど、微妙に開いてしまっているカーテンの隙間から差し込んでくる光が眩しくて、誰かが閉めてくれないものかとぼんやり思う。しかし、この部屋には伏見以外の人間はいない。
昨日、ゲームセンターで思う存分遊んだ後、秋山が連れて行ってくれたカフェでゆっくりとした時間を過ごした二人は、そのまま寮へと帰ってきた。二日連続で泊まるのは、と秋山は自室へ戻ってしまい、伏見は部屋で一人の時間を過ごすことになる。自分の部屋だ、という説明は受けたし、家具の配置等は自分好みだから、きっとそれは正しいのだ。けれど、やはり実感は持てなくて居心地の悪い夜を過ごした。お陰で、休めた気なんて全然しない。秋山がいた昨日の夜は、まだマシだったのに。
カーテンを閉めるためでも動くのは面倒で、目覚めてしまったからと活動を開始することなんて論外だ。舌打ちがどこか寒々しい部屋に響いてしまったのを聞きたくなくて、意味がないと分かっていながら、伏見は毛布を頭から被る。動きたくない、というのは建前だ。本当は、何も見たくない。何も聞きたくない。自分の知らない自分を探すため、なんて、ただの三流小説に引っ込んでおけ、なんて。
今日は、どうしよう。いや、どうしたいのだろう。秋山はきっと、今日も伏見の元を訪れるのだ。そして、一緒にカギを探そう、と伏見の手を引いて歩くのだろう。八田とは違うはずなのに、どこか八田に似た安心感を与えてくれる彼が、少し苦手だ。どうすればいいのか、分からなくなる。
「バカみてぇ」
伏見にとっては初めて会った人なのに、秋山は違うから。伏見自身も知らない伏見の姿を知っていて、それを取り戻そうとするから。伏見は、別に今のままでもいいと思っているのに。不安がない、といえば嘘になる。けれど、蓋をしてしまいたかった記憶を思い出すことに、意味があるとは思えない。思えないのに、秋山の望む結果が得られないことが申し訳ない、と感じる自分がいる。
手を伸ばし、枕元に置いていたはずの端末を探る。見えないが、きっとこの辺り、と見当を付けて適当に動かしてみると、カツン、と爪に当たる固い感触。引っかけるようにして手元へ引き寄せてみると、着信を知らせるランプが点滅していた。電話ではなく、メールだったのが救いだろうか。睡眠の邪魔をされたくなくて、マナーモードにしていたせいで気が付かなかったようだ。なお、職場から支給される端末だと、マナーモードにしていても緊急の着信は大音量で入るらしい。ロックを解除するためのパスワードが分からず、伏見の仕事用端末は使い物にならないのだが。
パスワードを求められ、無意識のままに動く指に任せて解除する。プライベート用の端末は、ロック解除のためのパスワードが伏見の記憶にあるものと変わっていなかった。セキュリティ上それもどうかとは思うが、今回ばかりは助かった。それに、万が一ロックを他人に解除されてしまったとしても、見られたくない部分には別のパスワードが設定されている。それも、個別に、だ。伏見が初めて端末を手にした頃に、本やネット上で見つけた適当な単語と、カレンダーを使って無作為に選んだ日付が組み合わせただけのものだが、統一性がないために、伏見から教えない限りは看過されないだろう。
着信を確認してみると、それは秋山からだった。カギを探しに出かける時間と場所を相談したいという内容。昨日はよく訪れていたゲームセンターのうちの一カ所しか行けなかったな、とぼんやり思う。ならば、今日は他のゲームセンターだろうか。吠舞羅のメンバーは昨日のゲームセンターに暫くの間は通い続けるだろうから、運悪く遭遇してしまう、という状況にはならないと信じたい。
行き先は、昨日と違うゲームセンター。集合場所は寮の一階談話室で、時間は一時間後。簡潔にそれだけを送ってから、ついでにメールの受信フォルダを眺めていく。よく一緒にいたのか、という伏見の問いは秋山によって有耶無耶にされてしまっていたのだけれど、受信しているメールの大半が、秋山からのものだった。何気なくスクロールしていると、別の人の名前が偶に出てきて、そこでようやく指を止め、目を留める、というのが伏見の行動を表すのに相応しいかもしれない。それほど、秋山からのメールは多かった。
タイトルは「無題」「Re:」「Re:Re:」「Re:Re:Re:」「明日」「Re:明日」等の非常に簡潔な物が多い。増えていく「Re:」の数に、一体どのような話をしているのだろうかと気になるのだけれど、覗くことは躊躇われた。この端末の持ち主が伏見であることに変わりはないのだが、それでも、記憶を失ってしまった自分が覗き見て良いものではないような気がするのだ。自分の知らない、けれど、確かに積み重ねてある時間の片鱗。無遠慮に触れてしまい、今の自分との違いを見つけてしまうことが怖かった。
秋山は約束の時間10分前に行動する優等生。そんなイメージを信じて10分前には伏見も準備を終わらせて談話室へ向かってみた。案の定、彼は椅子に座って何をするわけでもなく待っていた。次は、15分前行動の方が良いのかもしれないな、なんて。
「早いですね」
「猿比古さんこそ」
まだ10分前ですよ、と言う秋山に、そっくりそのまま同じ言葉を返してやりたい。行きましょうか、と立ち上がった秋山の身体からふわりと香ってくる、特徴的な匂い。伏見が眉を寄せたことに気が付いたらしい秋山は、一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたものの、すぐにその理由に思い至ったらしい。
「……その、先程まで弁財と」
どこかバツが悪そうに言う秋山は、恐らくは無意識にだが左ポケットを押さえつけた。よく見てみると、何となくだがポケットが箱の形に膨らんでいるように見える。昨日、ほぼ一日中一緒にいたのだが、伏見が全く気付かなかったということは、それだけ秋山が気をつけていたということだろう。
「気にせずに吸ってもらっても」
「嫌です」
構いません、と言おうとした伏見だったが、遮るように秋山が拒否する。副流煙などを気にするというのなら、それはもう手遅れだと伝えたい。吠舞羅にいると、嫌でも煙に包まれてしまうという日があった。自宅へ帰ってからも自分の身体からその匂いがしてくる、というのは嫌だったが、今更、健康面を気にして口煩く言うつもりなんてないのだ。
それでも、秋山は伏見のためだと言って吸わないのだろうな、と思う。子供扱いされているように感じるからなのか、彼のその気遣いがむず痒い。けれど、不快ではないのだ。
「……行きましょう」
結果の見えてしまっている問答をする時間が惜しい。先に歩き出した伏見を慌てて追ってきた秋山は、隣に並ぶ。彼が動く度にふわりと紫煙が立ち上る錯覚に陥るのだけれど、そんなものはいくら目を凝らしたって見えない。見えないのだけれど、隣にいるとそれに包まれているような感覚がして、どこか落ち着くのだ。
前日とは違い、しっかりと遊ぶということはしないまま様々な場所を巡っていく。ただ時折、目について空いているもので軽く遊ぶ程度。何とか秋山を説き伏せて、自分の遊ぶ分の金は伏見が自分で出すことにすることができた。連日、彼にばかり金を使わせているという状況が非常に申し訳なかった伏見にとって、これはかなり大きなことだ。これで、いくらか軽い気持ちで外へ出ることが出来るというもの。外へ出る度に秋山の財布が(伏見のせいで)緩むようであれば、外へ出ることが躊躇われる。
そろそろ昼食を、ということで適当なチェーン店へ入り、注文をしたところで何気なく外を見る。
「あ、雨」
「です、ね。猿比古さん、洗濯物とか大丈夫ですか?」
「洗濯物……は、大丈夫です」
帰ってから今日の分も一緒にして回そうとしていたから、なんて言ったら、目の前の「真面目さん」は怒るのだろうか、と考えてみた。だが、案外、変なところで手を抜くタイプに見える。伏見がそう言ったところで、怒るどころか「なら、一緒に回しちゃいましょうか」と洗濯物を全て奪っていってしまう気がする。ああ、でも。
「氷杜さんって、洗い方の表記とか気にするタイプでしょう」
「え? ああ、はい。一応は」
「でも、面倒だと思って洗濯物を溜めるの、一日くらいなら耐えられる人ですよね」
「……実は記憶が戻ってるってオチは」
「ないです」
疑いの目を向けてくる秋山に、自分の予想が正しかったことを知る。特にコレといった決め手があったというわけではない。ただ、本当に何となくのイメージ、なのだ。ほんの少し、それも割とどうでも良い情報だが、自力で入手できたことがどことなく嬉しい。
それを悟られぬよう、早々に話題を転換する。
「このあと、どうします?」
「そう、ですね」
傘を持たない二人には、どこかで傘を調達するか、このまま時間を潰すかという選択肢がある。幸いなことにドリンクバーがあるため、余程混雑しない限りは追い出されることなく時間を潰すことが出来るだろう。
「このまま、ここでお喋りしてましょうか」
まさに、伏見が考えていたことを秋山が口にする。成人男性が「お喋り」なんて表現を、とは思うが、それが似合ってしまうのが秋山氷杜という男だ。
そうですね、とだけ返したところで、料理が届く。別々の物を頼んだのだが、一緒に食べ始めることが出来るようにという配慮からか、同時に運ばれてきた。皿の上を確認し、彩りとして乗せられている野菜に気が滅入る。いくら美味しそうに湯気のたっている食事でも、野菜が存在している時点で印象は悪い。仕方のないこと、子供っぽいといわれても、そこだけは譲れない。
と、睨み付けていた野菜が伸びてきた箸によって視界の外へと持ち出される。一度目は驚きからそのまま見送ってしまったが、二度目は流石に、その持ち出された先――秋山の皿へと目を向ける。
「あの、氷杜さん?」
「え、食べたかったですか?」
「まさか」
戻してこようとした秋山の手をはたく。ぽろりと箸からこぼれ落ちたニンジンは、ギリギリ、彼の皿の上。危ないじゃないですか、と苦笑する秋山だが、そんな凶悪なものをわざわざ戻してくれなくてもいい。だから、自分は悪くないと伏見は思う。
次の日も、そのまた次の日も、秋山と共に外へ出てみた。いや、連れ出された、という方が正しいのかもしれない。じっと家の中に籠っていても息が詰まるだけなのだろうけれど。
「ねえ、猿比古さん」
伏見が黙っていても、秋山は声を掛け続けるのだ。無遠慮な奴だ、と弾き出してしまえばいいのだと思うのに、何故か、それが出来ない。どうも、彼の取る間合いは居心地がよすぎて困るのだ。あまりにも変化が見られないからと、吠舞羅に交渉して何人かと話をした。その中には当然、伏見にとっての王であった周防もいたし、何かと構ってくれた草薙や十束、そして片時もずれたことなんて無かった八田だっていたのだ。
そう、ずれたことなんて、無かったはずだったのだ。
ぴったりと嵌ってずれ動いてしまうことなんて無かったはずなのに、彼曰く「久しぶりに話した」せいで、どこかおかしい、なんて。八田からのタイミングだけならばまだ良かった。実感はわかないけれど、どうやら彼とは仲違いをしてしまって、顔を合わせる度に大きな乱闘を起こさずにはいられない関係性になってしまったらしかったから。それなのに。
八田美咲が、分からない。
伏見の中の「八田美咲」と目の前の「八田美咲」の間には、何も変わっていることなんて無いはずなのにどこかズレがあった。どこが、なんて聞かれても分からない。ただ、違うのだ。話すタイミングも、反応も、少しずつ。息が、詰まる。
帰り道、気遣うように声を掛けてくる秋山の声を聞いて、ようやく呼吸が出来たような気がした。隣に並んで歩くことが、この一週間で当たり前のことのようになっていた。選択に迷ってしまったとしても、きっと秋山ならば正しい道へと導いてくれる。そんな、安心感。八田となら、間違った道だったとしても一緒に居たら大丈夫だ、と思うことが出来ていたという点で異なるのだけれど。
秋山自身から明確な言葉として伝えられたわけではないけれど、どうやら彼と自分は「恋人」と呼ばれる関係性にあったらしい。部屋や端末に残されていた痕跡から、伏見はそれを知った。男同士であるということに戸惑いはあるものの、だからこその距離感だったのかと納得もした。いや、かといって八田と恋仲である自分が想像できるわけではない。ただ、秋山ならばアリだな、という感覚が胸中にあるだけだ。
けれど、つまり秋山が甲斐甲斐しく伏見の世話を焼くのは「恋人」を取り戻したいからであって、記憶に蓋をしてしまった伏見に優しいのは、記憶が無くても身体は「恋人」のものだからだ。それはまるで、彼が「今」の伏見を通して「恋人」を見ているような気がして嫌だ。しかし、それでもいいじゃないか、と囁く自分も確かに存在していた。
だって、そうしている間は――。
「猿比古さん、記憶、どうですか?」
「……すみません」
貴方の「恋人」を返すことが出来なくて。
その言葉はぐっと飲み込んだまま、気にしていないと笑う秋山を眺めることしかできなかった。口にしてしまうと、形だけでも彼は怒るだろうから。それは「今」の伏見のことも大切にしてくれているのだと錯覚してしまいそうで、怖い。彼の優しさは、彼の「恋人」に向けられたものなのに。
そのことを思うと泣きたくなってしまうから、見ない振りを、気付かない振りをした。泣きたくなってしまう程度には、一週間だけの触れ合いでも絆されてしまった。けれど、きっと記憶に蓋をしてしまったのは、泣きたくなかったからなのだろうな、とぼんやり思う。見ない振りではふとした瞬間に蘇ってきてしまうから、蓋をして、見えないように隠してしまいたかったのだろうな、と。その理由が八田にあるのか秋山にあるのか、はたまた別の何かなのかは分からないのだけれど。
頭を振って思考を切り替えるとすると、どうしても浮かんできてしまうのは会ってきたばかりの「親友だと思っていた人」のこと。一週間くらい、八田と過ごす時間はなかったに等しいのだけれど、それだけで、慣れ親しんだ間合いを忘れてしまうわけがない。たった一週間で、変わってしまうわけがない。だから、どこかがずれてしまったのだとすると、それは八田側に原因があるとしか思えなかった。責めるつもりはない。ただ、少し寂しい。それだけ。
秋山は「何も進展が無かった」と嘆くのだけれど、伏見にしてみればそこまで悲観することでもないのだ。確かに記憶を取り戻すためのカギは見つけることができなかったのだけれど、それはそれで良いか、なんて思えるくらいには楽しい時間を過ごすことが出来たように思う。勿論、記憶が不完全であるということに不安はあるけれど、秋山といると、それを上手に忘れさせてくれるから。それを伝えることは恥ずかしいし、伝えるための言葉なんてそもそも見つかっていないのだけれど。
あと数時間で、秋山の休暇は終わる。二人で謎解きをする時間は、終わりだ。寂しい、なんて言わない。ただ、同じことを彼が考えていてくれたら幸せだと思う。言わないけれど。あいている時間に仕事をしていることに気が付いている。秋山はばれないようにと気を付けているようだけれど、少数精鋭な職場から伏見、秋山の二人が抜けてしまったのだから手が回らないこともあるようで、電話がかかってくるのだ。気を遣ってか席を外すのだけれど、それを察することが出来ないほど、子供ではない。
ここ一週間の間に恒例となった、伏見の部屋で行う語らいの時間。空腹感を覚えないために必要性を感じないのだが、放置していると本当に何も食べないから、と心配した秋山が伏見の夕食を作るようになったのが始まりだ。夕食を食べながら、片付けながら、そして片付けてから眠るまでの間、様々なことを話した。記憶を失う前の伏見がどのような存在だったのか、どのような仕事をしていたのか。
外側が同じでも内側にある人格が似て非なるものなのだから、仕事の内容なんて教えてくれないだろうな、と思っていたのに、とても嬉しそうに、誇らしそうに話してくれた。本人にはそのような自覚が無かったのかもしれないけれど、全身で、共に働いていた伏見のことを尊敬していると、大切に思っているのだと語っていた。おかげで、このまま記憶が戻らなかったとしても「以前」のように働くことが出来るのではないかとすら思えてくる。
楽しそうに話す秋山を見ていると、脳裏にはここ一週間で見た彼の様々な表情が浮かぶ。吠舞羅に所属している意識のままセプター4の中へ放り出され、右も左も分からなかった。真っ先に駆け寄って、戸惑っただろうにそれを見せないよう気を遣いながらも手を引いてくれた。自分のことで手一杯だったけれど、少しずつ、それに気付いた。ふとした瞬間の行動を見た時の小さな反応で、それが彼の求める「伏見猿比古」と同じものなのか、違うものなのかを知った。八田だって、今と昔とでは違っているのだ。自分も変わった部分があるのだろうと、その度に安心したのだ。良い方向であれ悪い方向であれ、自分も歳を重ねることで成長したのだろう、と。
秋山の探す「伏見猿比古」を探すことは、苦痛ではなかった。彼は確かに記憶を失った伏見を通して「恋人」を見てはいたけれど、決して同一であることを求めようとはしなかった。早く取り戻したくて協力していたくせに、そんな素振りを少しも見せなかったのだ。それが彼の優しさなのだと気が付かないほど伏見は子供ではなかったけれど、仮にも「恋人」と呼ばれる関係性だったというのなら、もっと求めてくれたっていいではないか、と思ったことだってあった。勿論、記憶を失ってしまった今の自分が言ったところで、秋山を困らせてしまうだけだということも分かっていたから、口にしたことは無かったけれど。
「あの」
「氷杜さんって、恋人にはとことん尽くすタイプでしょう」
「まあ、そうですけど……どうしてそう思ったんですか」
あまりにも自然に、呼吸と同じように尽くして甘やかしてくれるのだ。これで気付かない方がおかしい。ばれていないとでも思ったのか。
「だって、俺が相手でもドロドロに甘やかそうとするから」
「そのまま、ドロドロに溶かされてくれても良かったんですけどね」
冗談、なのだろうか。目が笑っていない気もするのだけれど。
伏見にしてみれば、ドロドロに甘やかされていたこの一週間が不快ではなかった。秋山がいなければ形を保てないくらい、ドロドロに溶かされてしまっても構わないとさえ思えた。そうすればきっと、秋山は傍にいてくれる。彼はそんな、優しい人だから。
「氷杜さんになら、溶かされてもいいかもしれない」
「え?」
「あ、でも氷杜さんって、全部自己満足だからって言いそう」
そう、自己満足。優しいからこそ、自分のやっていることは自分が満足するためにやっていることなのだから気にしなくても良い、なんてことを言うのだろうな、と。それが「秋山氷杜」という男なのだろうということが分かるくらいには濃密な一週間を過ごすことが出来たとは思うのだが、面白くないと思った。
(いくら感謝を伝えても、全部「自己満足だから気にするな」って言われそう)
ああ、その光景が目に浮かぶようだ。気にするな、と言われても気にしてしまう場合はどうすればいい。どうすれば感謝を受け取ってもらえるのだろうか。自己満足だと彼自身が片付けてしまったら、外側にいる自分はどうすればいい。
自分で口にした言葉なのに、それがやけに引っかかってしまった伏見の様子をおかしいと感じたのだろう。どうしたのか、と秋山が問いかけてくる。
「自己満足とか、ムカつくからイヤだ」
「……え?」
「うん。やっぱ、氷杜さんに溶かされるのはイヤだ」
だからごめんなさい、なんて冗談めかして笑ってみる。溶かされてしまうまで優しくされたら、いくら他者と関わり合うことが苦手な伏見であっても心が動いてしまうだろう。それなのに当人が全てを「自己満足」で片付けてしまうのなら、伏見はどうやってそれを返していけばいいのかが分からない。自己満足、ということは、満足してしまえば離れていってしまうということなのかもしれない。それも、寂しくて悲しい。
「自己満足ってことは、結局、こちらの意志や思いなんて無視するわけですよね? 別に、自分が満たされるためなら誰でもいいって感じで、いや、まあもしかしたらその人が相手だから、みたいな感じかもしれないですけど、でも、それにしたって全部自己満足で片付けられるとか、イヤです。満足したら、こっちの都合なんて考えずに捨てていきそうだし、そもそも、自己満足だからってこっちからの行為を全部否定してきそう。うわー、何か、本当に氷杜さんに似合う。怖い。氷杜さん、付き合う時は気を付けた方がいいですよ。相手をドロドロに溶かして逃げられなくしてるのに、自分は気が付かないでさっさと捨てていきそうだから」
思いつくままに言葉を連ねていきながら、自分は何を言っているのだろうと伏見は思う。折角、二人で過ごすことの出来る最後の夜なのに。何を言っているんだ、と責めるような目を見たくなくて、秋山の表情を確認するのが怖くて、自然と目線は下がっていってしまう。なんて自分勝手なのだろう。それが「伏見猿比古」という人間なのだけれど。
何か思うところがあったのだろう。違う、と主張したかったのかもしれない。彼の真意がどこにあるのかが分かるほどに心の機微が理解できるわけでも無く、ただ、黙って秋山の言葉が終わるのを待つしかない。そんな状態の伏見に、秋山は思いを吐き出してくる。
「自己満足で始まっても、俺、我儘なんで我慢できなくなるんです」
「は?」
「初めは確かに自己満足、自己献身かもしれないですけど、だんだん、相手が自分から離れていってしまうのが嫌になって、だから、自己満足だ、なんて言いながら相手をドロドロに溶かして逃げられなくしちゃいたくなるんです」
ああ、だから伏見が逃げられなくなるように、ここ一週間は甘やかしていたのかもしれないな、なんてぼんやり思う。記憶を失う前の伏見も、失ってからの伏見も全部ドロドロに溶けて混ざり合ってしまって、そして、秋山がいなければ生きられないくらいになってしまえば幸せなのに、と。秋山は伏見を失わないし、伏見も秋山を失わない。本当にそうだったら、嬉しいなんて。
それでも、それを口にしてしまうことは憚られた。秋山が求めているのは記憶を失う前の伏見で、今の伏見がそんな思いを伝えたって困ってしまうだろうから。記憶が戻ってしまえば、どうせ今の自分なんて消えてしまうのに。
「……いっそ、会わない方が良かったのかもしれない」
伏見の心なんて全てお見通しだとでも言うように、タイミングよく呟かれたその言葉。思わず、肩が揺れる。
「そうすれば、きっと二人とも後悔なんてしなかったのに」
秋山は、後悔していたのだろうか。続きを聞きたいような、聞きたくないような。それに、彼は「二人とも」と言った。伏見も、後悔していたのだろうか。後悔していたから、記憶に蓋をしてしまったのだろうか。伏見だけ、というのは不公平な気もするのだけれど。
「……俺も、その真っ白な世界へ連れて行ってくれたら良かったのに」
その続きを、聞きたくなかった。
「猿比古さん、幸せですか?」
それをお前が訊くのかと、詰ってやりたかった。それなのに、言葉は胸の奥で停滞する。
「猿比古さん?」
どうして涙が出てくるのだろう。あの、長いようで短かった幸せな時間が終わってしまったからだろうか。
「俺は、幸せだったよ」
それだけを言うのが精一杯で、泣き顔を見られたくないが故に秋山に抱きついたまま顔を押し付ける。じわじわと彼の服が濡れていくことに対して少し申し訳なく思うのだけれど、今だけはこのままで。
八田と決別してから、どんなに近しい人とでも別れの瞬間があるのだということを知った。伏見の思いとは関係なく、離れなければならなくなってしまう瞬間が来てしまうことがあるのだということを知ってしまった。秋山と過ごす時間は優しくて、幸せで、けれど、別離の瞬間への恐怖も同時に付きまとっていて。
だから、別れの瞬間への恐怖を知らない時にまで戻って、幸せな時間を味わいたかっただけなのだ。
昨日、ゲームセンターで思う存分遊んだ後、秋山が連れて行ってくれたカフェでゆっくりとした時間を過ごした二人は、そのまま寮へと帰ってきた。二日連続で泊まるのは、と秋山は自室へ戻ってしまい、伏見は部屋で一人の時間を過ごすことになる。自分の部屋だ、という説明は受けたし、家具の配置等は自分好みだから、きっとそれは正しいのだ。けれど、やはり実感は持てなくて居心地の悪い夜を過ごした。お陰で、休めた気なんて全然しない。秋山がいた昨日の夜は、まだマシだったのに。
カーテンを閉めるためでも動くのは面倒で、目覚めてしまったからと活動を開始することなんて論外だ。舌打ちがどこか寒々しい部屋に響いてしまったのを聞きたくなくて、意味がないと分かっていながら、伏見は毛布を頭から被る。動きたくない、というのは建前だ。本当は、何も見たくない。何も聞きたくない。自分の知らない自分を探すため、なんて、ただの三流小説に引っ込んでおけ、なんて。
今日は、どうしよう。いや、どうしたいのだろう。秋山はきっと、今日も伏見の元を訪れるのだ。そして、一緒にカギを探そう、と伏見の手を引いて歩くのだろう。八田とは違うはずなのに、どこか八田に似た安心感を与えてくれる彼が、少し苦手だ。どうすればいいのか、分からなくなる。
「バカみてぇ」
伏見にとっては初めて会った人なのに、秋山は違うから。伏見自身も知らない伏見の姿を知っていて、それを取り戻そうとするから。伏見は、別に今のままでもいいと思っているのに。不安がない、といえば嘘になる。けれど、蓋をしてしまいたかった記憶を思い出すことに、意味があるとは思えない。思えないのに、秋山の望む結果が得られないことが申し訳ない、と感じる自分がいる。
手を伸ばし、枕元に置いていたはずの端末を探る。見えないが、きっとこの辺り、と見当を付けて適当に動かしてみると、カツン、と爪に当たる固い感触。引っかけるようにして手元へ引き寄せてみると、着信を知らせるランプが点滅していた。電話ではなく、メールだったのが救いだろうか。睡眠の邪魔をされたくなくて、マナーモードにしていたせいで気が付かなかったようだ。なお、職場から支給される端末だと、マナーモードにしていても緊急の着信は大音量で入るらしい。ロックを解除するためのパスワードが分からず、伏見の仕事用端末は使い物にならないのだが。
パスワードを求められ、無意識のままに動く指に任せて解除する。プライベート用の端末は、ロック解除のためのパスワードが伏見の記憶にあるものと変わっていなかった。セキュリティ上それもどうかとは思うが、今回ばかりは助かった。それに、万が一ロックを他人に解除されてしまったとしても、見られたくない部分には別のパスワードが設定されている。それも、個別に、だ。伏見が初めて端末を手にした頃に、本やネット上で見つけた適当な単語と、カレンダーを使って無作為に選んだ日付が組み合わせただけのものだが、統一性がないために、伏見から教えない限りは看過されないだろう。
着信を確認してみると、それは秋山からだった。カギを探しに出かける時間と場所を相談したいという内容。昨日はよく訪れていたゲームセンターのうちの一カ所しか行けなかったな、とぼんやり思う。ならば、今日は他のゲームセンターだろうか。吠舞羅のメンバーは昨日のゲームセンターに暫くの間は通い続けるだろうから、運悪く遭遇してしまう、という状況にはならないと信じたい。
行き先は、昨日と違うゲームセンター。集合場所は寮の一階談話室で、時間は一時間後。簡潔にそれだけを送ってから、ついでにメールの受信フォルダを眺めていく。よく一緒にいたのか、という伏見の問いは秋山によって有耶無耶にされてしまっていたのだけれど、受信しているメールの大半が、秋山からのものだった。何気なくスクロールしていると、別の人の名前が偶に出てきて、そこでようやく指を止め、目を留める、というのが伏見の行動を表すのに相応しいかもしれない。それほど、秋山からのメールは多かった。
タイトルは「無題」「Re:」「Re:Re:」「Re:Re:Re:」「明日」「Re:明日」等の非常に簡潔な物が多い。増えていく「Re:」の数に、一体どのような話をしているのだろうかと気になるのだけれど、覗くことは躊躇われた。この端末の持ち主が伏見であることに変わりはないのだが、それでも、記憶を失ってしまった自分が覗き見て良いものではないような気がするのだ。自分の知らない、けれど、確かに積み重ねてある時間の片鱗。無遠慮に触れてしまい、今の自分との違いを見つけてしまうことが怖かった。
秋山は約束の時間10分前に行動する優等生。そんなイメージを信じて10分前には伏見も準備を終わらせて談話室へ向かってみた。案の定、彼は椅子に座って何をするわけでもなく待っていた。次は、15分前行動の方が良いのかもしれないな、なんて。
「早いですね」
「猿比古さんこそ」
まだ10分前ですよ、と言う秋山に、そっくりそのまま同じ言葉を返してやりたい。行きましょうか、と立ち上がった秋山の身体からふわりと香ってくる、特徴的な匂い。伏見が眉を寄せたことに気が付いたらしい秋山は、一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたものの、すぐにその理由に思い至ったらしい。
「……その、先程まで弁財と」
どこかバツが悪そうに言う秋山は、恐らくは無意識にだが左ポケットを押さえつけた。よく見てみると、何となくだがポケットが箱の形に膨らんでいるように見える。昨日、ほぼ一日中一緒にいたのだが、伏見が全く気付かなかったということは、それだけ秋山が気をつけていたということだろう。
「気にせずに吸ってもらっても」
「嫌です」
構いません、と言おうとした伏見だったが、遮るように秋山が拒否する。副流煙などを気にするというのなら、それはもう手遅れだと伝えたい。吠舞羅にいると、嫌でも煙に包まれてしまうという日があった。自宅へ帰ってからも自分の身体からその匂いがしてくる、というのは嫌だったが、今更、健康面を気にして口煩く言うつもりなんてないのだ。
それでも、秋山は伏見のためだと言って吸わないのだろうな、と思う。子供扱いされているように感じるからなのか、彼のその気遣いがむず痒い。けれど、不快ではないのだ。
「……行きましょう」
結果の見えてしまっている問答をする時間が惜しい。先に歩き出した伏見を慌てて追ってきた秋山は、隣に並ぶ。彼が動く度にふわりと紫煙が立ち上る錯覚に陥るのだけれど、そんなものはいくら目を凝らしたって見えない。見えないのだけれど、隣にいるとそれに包まれているような感覚がして、どこか落ち着くのだ。
前日とは違い、しっかりと遊ぶということはしないまま様々な場所を巡っていく。ただ時折、目について空いているもので軽く遊ぶ程度。何とか秋山を説き伏せて、自分の遊ぶ分の金は伏見が自分で出すことにすることができた。連日、彼にばかり金を使わせているという状況が非常に申し訳なかった伏見にとって、これはかなり大きなことだ。これで、いくらか軽い気持ちで外へ出ることが出来るというもの。外へ出る度に秋山の財布が(伏見のせいで)緩むようであれば、外へ出ることが躊躇われる。
そろそろ昼食を、ということで適当なチェーン店へ入り、注文をしたところで何気なく外を見る。
「あ、雨」
「です、ね。猿比古さん、洗濯物とか大丈夫ですか?」
「洗濯物……は、大丈夫です」
帰ってから今日の分も一緒にして回そうとしていたから、なんて言ったら、目の前の「真面目さん」は怒るのだろうか、と考えてみた。だが、案外、変なところで手を抜くタイプに見える。伏見がそう言ったところで、怒るどころか「なら、一緒に回しちゃいましょうか」と洗濯物を全て奪っていってしまう気がする。ああ、でも。
「氷杜さんって、洗い方の表記とか気にするタイプでしょう」
「え? ああ、はい。一応は」
「でも、面倒だと思って洗濯物を溜めるの、一日くらいなら耐えられる人ですよね」
「……実は記憶が戻ってるってオチは」
「ないです」
疑いの目を向けてくる秋山に、自分の予想が正しかったことを知る。特にコレといった決め手があったというわけではない。ただ、本当に何となくのイメージ、なのだ。ほんの少し、それも割とどうでも良い情報だが、自力で入手できたことがどことなく嬉しい。
それを悟られぬよう、早々に話題を転換する。
「このあと、どうします?」
「そう、ですね」
傘を持たない二人には、どこかで傘を調達するか、このまま時間を潰すかという選択肢がある。幸いなことにドリンクバーがあるため、余程混雑しない限りは追い出されることなく時間を潰すことが出来るだろう。
「このまま、ここでお喋りしてましょうか」
まさに、伏見が考えていたことを秋山が口にする。成人男性が「お喋り」なんて表現を、とは思うが、それが似合ってしまうのが秋山氷杜という男だ。
そうですね、とだけ返したところで、料理が届く。別々の物を頼んだのだが、一緒に食べ始めることが出来るようにという配慮からか、同時に運ばれてきた。皿の上を確認し、彩りとして乗せられている野菜に気が滅入る。いくら美味しそうに湯気のたっている食事でも、野菜が存在している時点で印象は悪い。仕方のないこと、子供っぽいといわれても、そこだけは譲れない。
と、睨み付けていた野菜が伸びてきた箸によって視界の外へと持ち出される。一度目は驚きからそのまま見送ってしまったが、二度目は流石に、その持ち出された先――秋山の皿へと目を向ける。
「あの、氷杜さん?」
「え、食べたかったですか?」
「まさか」
戻してこようとした秋山の手をはたく。ぽろりと箸からこぼれ落ちたニンジンは、ギリギリ、彼の皿の上。危ないじゃないですか、と苦笑する秋山だが、そんな凶悪なものをわざわざ戻してくれなくてもいい。だから、自分は悪くないと伏見は思う。
次の日も、そのまた次の日も、秋山と共に外へ出てみた。いや、連れ出された、という方が正しいのかもしれない。じっと家の中に籠っていても息が詰まるだけなのだろうけれど。
「ねえ、猿比古さん」
伏見が黙っていても、秋山は声を掛け続けるのだ。無遠慮な奴だ、と弾き出してしまえばいいのだと思うのに、何故か、それが出来ない。どうも、彼の取る間合いは居心地がよすぎて困るのだ。あまりにも変化が見られないからと、吠舞羅に交渉して何人かと話をした。その中には当然、伏見にとっての王であった周防もいたし、何かと構ってくれた草薙や十束、そして片時もずれたことなんて無かった八田だっていたのだ。
そう、ずれたことなんて、無かったはずだったのだ。
ぴったりと嵌ってずれ動いてしまうことなんて無かったはずなのに、彼曰く「久しぶりに話した」せいで、どこかおかしい、なんて。八田からのタイミングだけならばまだ良かった。実感はわかないけれど、どうやら彼とは仲違いをしてしまって、顔を合わせる度に大きな乱闘を起こさずにはいられない関係性になってしまったらしかったから。それなのに。
八田美咲が、分からない。
伏見の中の「八田美咲」と目の前の「八田美咲」の間には、何も変わっていることなんて無いはずなのにどこかズレがあった。どこが、なんて聞かれても分からない。ただ、違うのだ。話すタイミングも、反応も、少しずつ。息が、詰まる。
帰り道、気遣うように声を掛けてくる秋山の声を聞いて、ようやく呼吸が出来たような気がした。隣に並んで歩くことが、この一週間で当たり前のことのようになっていた。選択に迷ってしまったとしても、きっと秋山ならば正しい道へと導いてくれる。そんな、安心感。八田となら、間違った道だったとしても一緒に居たら大丈夫だ、と思うことが出来ていたという点で異なるのだけれど。
秋山自身から明確な言葉として伝えられたわけではないけれど、どうやら彼と自分は「恋人」と呼ばれる関係性にあったらしい。部屋や端末に残されていた痕跡から、伏見はそれを知った。男同士であるということに戸惑いはあるものの、だからこその距離感だったのかと納得もした。いや、かといって八田と恋仲である自分が想像できるわけではない。ただ、秋山ならばアリだな、という感覚が胸中にあるだけだ。
けれど、つまり秋山が甲斐甲斐しく伏見の世話を焼くのは「恋人」を取り戻したいからであって、記憶に蓋をしてしまった伏見に優しいのは、記憶が無くても身体は「恋人」のものだからだ。それはまるで、彼が「今」の伏見を通して「恋人」を見ているような気がして嫌だ。しかし、それでもいいじゃないか、と囁く自分も確かに存在していた。
だって、そうしている間は――。
「猿比古さん、記憶、どうですか?」
「……すみません」
貴方の「恋人」を返すことが出来なくて。
その言葉はぐっと飲み込んだまま、気にしていないと笑う秋山を眺めることしかできなかった。口にしてしまうと、形だけでも彼は怒るだろうから。それは「今」の伏見のことも大切にしてくれているのだと錯覚してしまいそうで、怖い。彼の優しさは、彼の「恋人」に向けられたものなのに。
そのことを思うと泣きたくなってしまうから、見ない振りを、気付かない振りをした。泣きたくなってしまう程度には、一週間だけの触れ合いでも絆されてしまった。けれど、きっと記憶に蓋をしてしまったのは、泣きたくなかったからなのだろうな、とぼんやり思う。見ない振りではふとした瞬間に蘇ってきてしまうから、蓋をして、見えないように隠してしまいたかったのだろうな、と。その理由が八田にあるのか秋山にあるのか、はたまた別の何かなのかは分からないのだけれど。
頭を振って思考を切り替えるとすると、どうしても浮かんできてしまうのは会ってきたばかりの「親友だと思っていた人」のこと。一週間くらい、八田と過ごす時間はなかったに等しいのだけれど、それだけで、慣れ親しんだ間合いを忘れてしまうわけがない。たった一週間で、変わってしまうわけがない。だから、どこかがずれてしまったのだとすると、それは八田側に原因があるとしか思えなかった。責めるつもりはない。ただ、少し寂しい。それだけ。
秋山は「何も進展が無かった」と嘆くのだけれど、伏見にしてみればそこまで悲観することでもないのだ。確かに記憶を取り戻すためのカギは見つけることができなかったのだけれど、それはそれで良いか、なんて思えるくらいには楽しい時間を過ごすことが出来たように思う。勿論、記憶が不完全であるということに不安はあるけれど、秋山といると、それを上手に忘れさせてくれるから。それを伝えることは恥ずかしいし、伝えるための言葉なんてそもそも見つかっていないのだけれど。
あと数時間で、秋山の休暇は終わる。二人で謎解きをする時間は、終わりだ。寂しい、なんて言わない。ただ、同じことを彼が考えていてくれたら幸せだと思う。言わないけれど。あいている時間に仕事をしていることに気が付いている。秋山はばれないようにと気を付けているようだけれど、少数精鋭な職場から伏見、秋山の二人が抜けてしまったのだから手が回らないこともあるようで、電話がかかってくるのだ。気を遣ってか席を外すのだけれど、それを察することが出来ないほど、子供ではない。
ここ一週間の間に恒例となった、伏見の部屋で行う語らいの時間。空腹感を覚えないために必要性を感じないのだが、放置していると本当に何も食べないから、と心配した秋山が伏見の夕食を作るようになったのが始まりだ。夕食を食べながら、片付けながら、そして片付けてから眠るまでの間、様々なことを話した。記憶を失う前の伏見がどのような存在だったのか、どのような仕事をしていたのか。
外側が同じでも内側にある人格が似て非なるものなのだから、仕事の内容なんて教えてくれないだろうな、と思っていたのに、とても嬉しそうに、誇らしそうに話してくれた。本人にはそのような自覚が無かったのかもしれないけれど、全身で、共に働いていた伏見のことを尊敬していると、大切に思っているのだと語っていた。おかげで、このまま記憶が戻らなかったとしても「以前」のように働くことが出来るのではないかとすら思えてくる。
楽しそうに話す秋山を見ていると、脳裏にはここ一週間で見た彼の様々な表情が浮かぶ。吠舞羅に所属している意識のままセプター4の中へ放り出され、右も左も分からなかった。真っ先に駆け寄って、戸惑っただろうにそれを見せないよう気を遣いながらも手を引いてくれた。自分のことで手一杯だったけれど、少しずつ、それに気付いた。ふとした瞬間の行動を見た時の小さな反応で、それが彼の求める「伏見猿比古」と同じものなのか、違うものなのかを知った。八田だって、今と昔とでは違っているのだ。自分も変わった部分があるのだろうと、その度に安心したのだ。良い方向であれ悪い方向であれ、自分も歳を重ねることで成長したのだろう、と。
秋山の探す「伏見猿比古」を探すことは、苦痛ではなかった。彼は確かに記憶を失った伏見を通して「恋人」を見てはいたけれど、決して同一であることを求めようとはしなかった。早く取り戻したくて協力していたくせに、そんな素振りを少しも見せなかったのだ。それが彼の優しさなのだと気が付かないほど伏見は子供ではなかったけれど、仮にも「恋人」と呼ばれる関係性だったというのなら、もっと求めてくれたっていいではないか、と思ったことだってあった。勿論、記憶を失ってしまった今の自分が言ったところで、秋山を困らせてしまうだけだということも分かっていたから、口にしたことは無かったけれど。
「あの」
「氷杜さんって、恋人にはとことん尽くすタイプでしょう」
「まあ、そうですけど……どうしてそう思ったんですか」
あまりにも自然に、呼吸と同じように尽くして甘やかしてくれるのだ。これで気付かない方がおかしい。ばれていないとでも思ったのか。
「だって、俺が相手でもドロドロに甘やかそうとするから」
「そのまま、ドロドロに溶かされてくれても良かったんですけどね」
冗談、なのだろうか。目が笑っていない気もするのだけれど。
伏見にしてみれば、ドロドロに甘やかされていたこの一週間が不快ではなかった。秋山がいなければ形を保てないくらい、ドロドロに溶かされてしまっても構わないとさえ思えた。そうすればきっと、秋山は傍にいてくれる。彼はそんな、優しい人だから。
「氷杜さんになら、溶かされてもいいかもしれない」
「え?」
「あ、でも氷杜さんって、全部自己満足だからって言いそう」
そう、自己満足。優しいからこそ、自分のやっていることは自分が満足するためにやっていることなのだから気にしなくても良い、なんてことを言うのだろうな、と。それが「秋山氷杜」という男なのだろうということが分かるくらいには濃密な一週間を過ごすことが出来たとは思うのだが、面白くないと思った。
(いくら感謝を伝えても、全部「自己満足だから気にするな」って言われそう)
ああ、その光景が目に浮かぶようだ。気にするな、と言われても気にしてしまう場合はどうすればいい。どうすれば感謝を受け取ってもらえるのだろうか。自己満足だと彼自身が片付けてしまったら、外側にいる自分はどうすればいい。
自分で口にした言葉なのに、それがやけに引っかかってしまった伏見の様子をおかしいと感じたのだろう。どうしたのか、と秋山が問いかけてくる。
「自己満足とか、ムカつくからイヤだ」
「……え?」
「うん。やっぱ、氷杜さんに溶かされるのはイヤだ」
だからごめんなさい、なんて冗談めかして笑ってみる。溶かされてしまうまで優しくされたら、いくら他者と関わり合うことが苦手な伏見であっても心が動いてしまうだろう。それなのに当人が全てを「自己満足」で片付けてしまうのなら、伏見はどうやってそれを返していけばいいのかが分からない。自己満足、ということは、満足してしまえば離れていってしまうということなのかもしれない。それも、寂しくて悲しい。
「自己満足ってことは、結局、こちらの意志や思いなんて無視するわけですよね? 別に、自分が満たされるためなら誰でもいいって感じで、いや、まあもしかしたらその人が相手だから、みたいな感じかもしれないですけど、でも、それにしたって全部自己満足で片付けられるとか、イヤです。満足したら、こっちの都合なんて考えずに捨てていきそうだし、そもそも、自己満足だからってこっちからの行為を全部否定してきそう。うわー、何か、本当に氷杜さんに似合う。怖い。氷杜さん、付き合う時は気を付けた方がいいですよ。相手をドロドロに溶かして逃げられなくしてるのに、自分は気が付かないでさっさと捨てていきそうだから」
思いつくままに言葉を連ねていきながら、自分は何を言っているのだろうと伏見は思う。折角、二人で過ごすことの出来る最後の夜なのに。何を言っているんだ、と責めるような目を見たくなくて、秋山の表情を確認するのが怖くて、自然と目線は下がっていってしまう。なんて自分勝手なのだろう。それが「伏見猿比古」という人間なのだけれど。
何か思うところがあったのだろう。違う、と主張したかったのかもしれない。彼の真意がどこにあるのかが分かるほどに心の機微が理解できるわけでも無く、ただ、黙って秋山の言葉が終わるのを待つしかない。そんな状態の伏見に、秋山は思いを吐き出してくる。
「自己満足で始まっても、俺、我儘なんで我慢できなくなるんです」
「は?」
「初めは確かに自己満足、自己献身かもしれないですけど、だんだん、相手が自分から離れていってしまうのが嫌になって、だから、自己満足だ、なんて言いながら相手をドロドロに溶かして逃げられなくしちゃいたくなるんです」
ああ、だから伏見が逃げられなくなるように、ここ一週間は甘やかしていたのかもしれないな、なんてぼんやり思う。記憶を失う前の伏見も、失ってからの伏見も全部ドロドロに溶けて混ざり合ってしまって、そして、秋山がいなければ生きられないくらいになってしまえば幸せなのに、と。秋山は伏見を失わないし、伏見も秋山を失わない。本当にそうだったら、嬉しいなんて。
それでも、それを口にしてしまうことは憚られた。秋山が求めているのは記憶を失う前の伏見で、今の伏見がそんな思いを伝えたって困ってしまうだろうから。記憶が戻ってしまえば、どうせ今の自分なんて消えてしまうのに。
「……いっそ、会わない方が良かったのかもしれない」
伏見の心なんて全てお見通しだとでも言うように、タイミングよく呟かれたその言葉。思わず、肩が揺れる。
「そうすれば、きっと二人とも後悔なんてしなかったのに」
秋山は、後悔していたのだろうか。続きを聞きたいような、聞きたくないような。それに、彼は「二人とも」と言った。伏見も、後悔していたのだろうか。後悔していたから、記憶に蓋をしてしまったのだろうか。伏見だけ、というのは不公平な気もするのだけれど。
「……俺も、その真っ白な世界へ連れて行ってくれたら良かったのに」
その続きを、聞きたくなかった。
「猿比古さん、幸せですか?」
それをお前が訊くのかと、詰ってやりたかった。それなのに、言葉は胸の奥で停滞する。
「猿比古さん?」
どうして涙が出てくるのだろう。あの、長いようで短かった幸せな時間が終わってしまったからだろうか。
「俺は、幸せだったよ」
それだけを言うのが精一杯で、泣き顔を見られたくないが故に秋山に抱きついたまま顔を押し付ける。じわじわと彼の服が濡れていくことに対して少し申し訳なく思うのだけれど、今だけはこのままで。
八田と決別してから、どんなに近しい人とでも別れの瞬間があるのだということを知った。伏見の思いとは関係なく、離れなければならなくなってしまう瞬間が来てしまうことがあるのだということを知ってしまった。秋山と過ごす時間は優しくて、幸せで、けれど、別離の瞬間への恐怖も同時に付きまとっていて。
だから、別れの瞬間への恐怖を知らない時にまで戻って、幸せな時間を味わいたかっただけなのだ。
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