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砂糖の海

 自分は、どこへよく足を向けていたのだろうか。
 伏見が考え始めて真っ先に思いついたのは、通っていた学校だった。しかし、それは何となく違う気がするな、と頭の片隅に追いやる。可能性として無いわけではない、とも思うのだが、秋山と共に行くのは何だか嫌だったし、そこまで思い入れのある場所でもないのだ。伏見にとって、学校にいる人間というのは興味の対象にならなかったのだから。無関心な相手に対して願うことなど無いし、そもそも、伏見が通っていた時の生徒は誰もいない上、教師陣も何人かは異動してしまっているはず。学校、という場所がカギになるかもしれないが、それはまた後で考えてみればいい。
 長々と誰かに言い訳するように脳内で学校を排除した理由を考えてみていた伏見だが、結局のところ、面倒なのだ。学校、という教育機関のシステム上、卒業生とはいえ外部の人間が入るためにはそれなりの手続きが必要となってしまう。それが煩わしかった。
 煩わしさに悩まされることなく、吠舞羅の人間とも合わずに行くことのできる場所、として考えた時。
「……ゲーセン」
 吠舞羅の人間が集うとするならば、もう少し遅い時間になってからのはずだった。伏見が八田と二人で行っていた場所と、吠舞羅に入ってから大勢で行った場所、といった風にいくつかの場所があるのだが、この時間から回っていけば、会いたくない人間と遭遇する確率はきっと低い。
 場所を問われるまま、点在するゲームセンターの名を挙げていく。地図を見るまでもなく、何となくは場所が分かっているらしい秋山の様子を見ていると、やはり彼は優秀なのだろうな、と思った。或いは、昔、そういった場所をよく訪れていた人間か。ただ何となく、後者ではないような気がした。
 行き先さえ決まってしまえば、その後の行動は早かった。早々に皿を片付けてしまった秋山は、財布を取ってくるついでに着替えてくると言って伏見の部屋から出ていった。その際、一緒に行くのだからここで待っていてほしい、という旨を添えることを忘れずに。
 正直なところ、秋山と共に巡る必要は無いと感じている伏見である。素直に待っておく義理も無いのに、なぜか一人で出ていってしまおうという気にはなれなかった。それはきっと彼の隣がとても落ち着くからだと思うのだけれど、それを認めてしまうと後戻りができなくなってしまうような気がしていた。後戻りもなにも、今の伏見にはどこへどう進むことが正しいのかが分からないのだが、ただぼんやりと、秋山に任せていたら大丈夫だ、と感じていることも事実だった。
 自分の部屋だと言われても、実感がわかない部屋の中を見渡していると、やはり不思議な感覚がする。ここは、本当に伏見の部屋なのだろうか。いや、まったく身に覚えのない配置だというわけでもないので、きっと伏見の部屋なのだろうけれど。
 確認するため、というのもおかしな話だが、部屋の中を歩き回って目についた引き出しを開けていってみる。そうやって時間を潰していると躊躇いがちに扉が開かれ、秋山が顔をのぞかせた。そして伏見の顔を見るとあからさまにホッとした表情を見せるものだから、信用されていなかったのかと思ってしまう。が、自分の言動を振り返ってみるとそれも仕方がないのかもしれない、と、胸の中で表現しきれない感情が渦巻いていた。

 ゲームセンターは確かにそこにあったのだけれど、中に入っているものが少しずつ変わってしまっていた。伏見の記憶では一昨日に訪れた場所でもがらりと変わってしまっていたものだから、あらためて「ここは未来なのだ」と実感させられた。正確に言うと未来ではないのだろうけれど、今の伏見にとっては、そう表現する以外に良いものが見つからなかった。
「あ」
 八田と来るたびに遊んでいた、シューティングゲーム。人気のゲームらしいそれは、舞台設定を変えてシリーズ化されていた。伏見の記憶では密林が舞台となっていてアクション要素が強かったのだけれど、目前で誰かに遊ばれているそれは、廃病院が舞台となっていてホラー要素が強くなっているらしい。そういえば、八田はホラー要素が強いと画面を直視できず、すぐにゲームオーバーを迎えていた。
 何気なくゲーム画面を眺めていると、足を止めた伏見に気付いたらしい秋山が声を掛けた。やってみませんか、と。伏見はともかく、傍から見ればいい歳をした大人である秋山がやる、というのもなんだか変な感じだと思ったのだが、キラキラとした眼に押されて頷いてしまう。ゲームオーバーを迎えてしまったらしい前のプレイヤーが立ち退くと同時に、所定の位置へ。財布を出そうとした伏見を制する秋山の手には、既に必要な枚数分のコインが握られていて。
「どんだけやりたいんすか」
「こうやって、お金を握りしめて待つ程度には」
 どこか恥ずかしそうに笑う秋山に、自然と伏見の表情も和らいでしまう。けれど、すぐにそんな自分が恥ずかしくなってしまい、誤魔化すようにゲーム画面の方へと顔を向けた。

 あんなに楽しみにしていた秋山だったが、伏見が手助けをしなければもっと早い段階でゲームオーバーになってしまっていただろう、という程度の腕前だった。特に初めは、見ていられなかった。やっていく中で少しずつやり方を覚えていったような印象を受けた伏見が素直にそれをぶつけてみると、返ってきたのは「こういうゲームは殆どしたことがない」だ。そもそも、ゲームセンターに来ることが数えるほどしかなかった、とのこと。そういえば、ゲームセンターへ入ったときからやけに興味深そうに機器を見ていたな、なんて。
 それを伝えるのは、伏見がずっと秋山を見ていたように聞こえてしまうような気がする。決して、そういうつもりではないのだ。ただ、伏見自身がどこか変わってしまった風景を確かめていると、一緒に歩いている秋山が視界の端に入り込んでしまうのだから。
 伏見の反応に何を思ったのか、誤魔化すように「伏見さんはどうなんですか」と問いかけてくる。そんなもの、カギを探すための場所としてあげるほどなのだから、聞くまでもないだろうに。秋山自身も、口にしてから思い至ってしまったのか、どこか恥ずかしそうにしていて。
「……美咲と、よく来てました」
 分かりきっていた答えではあるけれど、伏見がただそれだけを口にしてやるだけで、秋山はほっとしたように息を吐くのだ。単純な男、とは思うのだが嫌いではない。伏見の一挙一動を気にして動いている様子が伝わってきていて、それがどこかむず痒い。
 話しながらも移動していると、やはり伏見以上に周囲を気にして歩いているようだった。そんなに気になるのなら遊べばいいのに、と思いつつ、きっと彼は言い出せないのだろう。あくまでも、伏見の付き添いなのだ。加えて、年齢のこともある。先程は伏見が足を止めて注視していたから言い出せたのだろうが。
「秋山さんって」
「伏見さんって」
 昨日も声が重なったな、ということを思い出しながら互いに相手の出方を窺ってみるのだが、そういえば、前回は伏見が譲られた側だった。ならば今回は、と先を促した。
「伏見さんって、どれが得意なんですか?」
 躊躇いながらもぶつけられたのは、ある意味、予想通りの質問で。きっと、これには何と答えても「じゃあやりましょう」と返ってくるのだろうな、と予想しながらも伏見はちょうど目の前にあったそれを示す。
「やりましょう」
 敢えて伏見の側から持ちかけてみれば、目に見えて嬉しそうにする。伏見までなんだか楽しくなってきてしまって、ふと思った。そういえば、伏見の記憶では一昨日にきたばかり。あの時は、楽しかったのだろうか、と。

 ただ見て回るだけのはずだったのに、いや、秋山はどうかはしらないが、少なくとも伏見はそう思って来ていたのに、ここまで白熱してしまったのは予想外だった。記憶が無いだけで伏見だって社会人だし、秋山は伏見の部下だ、と言っていたから、きっと給料も伏見の方が多くもらっているはずだった。それなのに、秋山は決して伏見に金を出させようとはしないのだ。子供扱いをされているようでいい気はしないが、遊びたいのは自分なのだ、と開き直って宣言してみせた秋山に流されてしまった。
 この場所にあるものは一通り制覇してしまった、というところになってようやく休憩が入ったのだが、今、伏見が飲んでいるコーラだって秋山が買ってきたものだ。少し待っていてください、と消えてから戻ってきた彼の手に、彼自身の飲み物は無かった。全体を通して子供扱いをされている気がしてしまって嫌だと感じる部分もあるのだが、しかし、そうやって構うことを秋山が楽しんでいるような素振りを見せられてしまうと、強くは出られなかった。
 ただ、彼のお金で遊び、彼のお金で休憩時の飲み物を買い、自分だけがそれを飲んでいるというのは可笑しいのではないかと思うのだ。同じようにはしゃいでおきながら。
「秋山さん」
 楽しそうに遊ぶ周囲の人々に目を向けていた彼の注意を、名を呼ぶことで自分に向けた伏見。そのまま、手に持っているペットボトルを彼に投げつけてやる。予想外の行動だったからか少々危うい体勢ではあるものの、何とか秋山はペットボトルを受け止める。衝撃で軽く振られてしまったようで、中に残っていたコーラは少し泡立ってしまっていた。
「あの、伏見、さん?」
「アンタも飲んでください」
 普通に手渡ししたのなら、きっと受け取ろうとはしないだろうから。そんな理由で少々乱暴な渡し方となったのだが、伏見が思った以上に秋山は驚いたらしい。伏見とペットボトルを見比べて目を白黒させていたかと思うと、軽く伏見を窘める。物を投げて渡すな、だとか、炭酸飲料を乱暴に扱うな、だとか。そして。
「すみません。俺、炭酸飲めないんで」
 本当に申し訳無さそうにペットボトルを返してくる秋山から、それならどうして自分の飲めない物を買ってきたのだ、という思いに気をとられた伏見は素直にそれを受け取ってしまう。今度は、伏見が目を白黒させる番だった。
 どこか照れたように笑う秋山に、きっと彼は自分が飲むことなんて微塵も考えることなく、ただ伏見の好みを優先して買ってきたのだろうな、と思った。ただの推測でしかないそれが、正しい物であるという確信は伏見の中にあった。彼のそんな優しさが、むず痒い。
 何となく恥ずかしくなってきて、伏見は話題を変えることにする。けれど、そう簡単に別の話題が降ってくる訳もなく、口から出たのは昨日のうちに気が付いてしまってから、放置しておくつもりだった違和感を解消するための言葉。
「俺のこと、名前で呼んでたんですか?」
 しまった、とは思ったものの、飛び出してしまった言葉が伏見の中へと戻ってくるはずもない。店内の喧噪に溶けてしまえ、と願ったのに、ペットボトルを手渡し出来るほどの距離で、休憩のために中心から少し離れていたことがその願いを打ち砕く。しっかりと伏見の言葉を拾い上げてしまったらしい秋山は、笑みの種類をどこか困ったようなものに変えてしまう。唐突な話題の変化が理由なのか、それとも。
「何で、そう思うんですか?」
 どちらとも取れる切り返しに、腹を括った伏見は慎重に言葉を選ぶ。
「すごく自然に、俺の名前を呼んでた、から」
 呼び慣れていない呼び方は、いくら取り繕ったところで分かってしまう。伏見が気紛れに「氷杜さん」と呼ぶと返ってくる「猿比古さん」という音は、聞き慣れていた音とは違うはずなのに、どこか似ていた。伏見自身、するりと飛び出る三文字プラス敬称がやけに自分に馴染んでいると感じていて、その感覚こそ、ずっと感じている違和感の原因だった。
 隣にいるのは「秋山氷杜」なのに、まるで「八田美咲」と並んでいるかのような錯覚。
 八田の居場所であるはずのそこに収まっている秋山と、記憶や経験から考えるならば許せないはずなのに、受け入れてしまっている自分。まるで、八田という存在がそっくりそのまま秋山に変わってしまったかのような。あり得ない、とは思うのだけれど、伏見の感覚はそれを受け入れてしまっていて、それなのに、自分の記憶との齟齬が違和感となって伏見の中に蟠っていた。
 何と返されても、納得した振りをして違和感を抱え続けるだけであるような気がしてしまっていた。だから違和感には目を向けないようにしていたというのに、軽い混乱状態に陥ってしまったせいで、これだ。伏見にとって秋山からの返答は、きっと受け入れることの出来る代物ではない。記憶を失う前の、きっと秋山が今の距離感に腰を落ち着けるまでの経緯を理解しているだろう自分なら受け入れることが出来たものであったとしても、そこにいるのは八田だけでいいと思っている自分が聞いたところで、何の意味も持たないものなのに。それが分かっているからこそ、秋山には確認するつもりなんて無かったのに。
 伏見の戸惑いも、自己嫌悪も、申し訳なさも、後悔も、すべて秋山には見透かされているような気がした。見透かした上で、彼は気付かない振りをするのだ。彼にとって伏見は、子供、だから。そして、それに対する「子供らしい反発心」も見透かした上で、秋山は伏見を包み込んでしまうのだろう。伏見が嫌なのは、そんな秋山の優しさに甘えてしまう自分なのに。
 伏見の言葉に何と答えようか考えていたらしい秋山は、彼もまた、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「長い間、一緒にいましたから」
 一瞬、彼の言い回しが耳に残る。けれど、すぐに別の言葉によって上書きされてしまう。
「記憶に蓋をしてしまっても、伏見さんの身体がそれを覚えてるって、こんなに幸せなことなんですね」
 言葉通り幸せそうに笑っているのだけれど、その声色は今にも泣いてしまいそうだった。けれど、気の利いた言葉なんて伏見は持っていないから。
「氷杜さんって、俺は呼んでたんですよね?」
「は、い」
「なら、そう呼びます」
 だから、と言葉を続けようとしたのだけれど恥ずかしくなってしまい、伏見の言葉は中途半端なまま、目線は秋山からそらされる。それでも、秋山の声は確かに、伏見の耳へと届いた。
「猿比古さん」
 こんなに幸せそうに紡がれる自分の名前なんて、伏見は知らない。

 恥ずかしさのせいで意味もなく首を動かした伏見は、壁に取り付けられた時計を見つけた。あんなもの、あっただろうか。何となく無かったような気がするのだけれど、伏見の「蓋をしてしまった記憶」の時期に取り付けられたのかもしれないし、もしかしたら、ずっとそこにあったそれに、伏見が気付いていなかっただけなのかもしれない。
 時計がいつからそこにあったか、という問題はさておき。
「氷杜さん」
「はい、猿比古さん」
 嬉しそうに返事をして、意味もなく名を呼んでくる秋山に調子が狂う。とても楽しそうな秋山の表情も、これから口にする内容を聞けば少しは焦りが見えるのか、なんて考えてみると、無意識のうちに伏見にも笑みが浮かぶ。
「そろそろ、吠舞羅と遭遇しそうなんですけど」
 伏見の予想通り、秋山の表情から笑みは消える。しかしそれは一瞬のこと。種類は変わったものの、やはり、彼が浮かべるのは楽しそうなもの。
「どうしてもっと早く言ってくれないんですか」
 内容は咎めるものなのに、その語調は、目元は、優しい。ああ、やっぱり秋山が相手だと調子が狂うのに、居心地が良くて困る。
 勿論、伏見が胸中を見せるわけもない。何も言わず、まずはゲームセンターの入口へと目を走らせる。軽い口調で言ったものの、実際のところ、彼らがいつ来てもおかしくは無いのだ。運の悪いことに、出入り口は一ヶ所だけ。出るタイミングを間違えてしまうと、入ってくる彼らと鉢合わせ、である。
 勿論、吠舞羅のメンバーがこの場所を遊び場に選ばない可能性だってある。その方がありがたいのだけれど、悲しいことに、伏見には彼らがここへ来ると確信できるものがあった。
「……出るタイミングはともかく、ここ、離れましょう。これ、新台なんで」
 これ、と示すのはすぐ近くにある機種。伏見の目からすれば、悲しいことにこの場所にある大半のものが「新台」なのだが、その中でも、周囲から聞こえてくる話によれば、つい先日、解禁されたばかりのそれ。新しいもの好きの彼らが、遊びに来ないはずがない。一度遊んでも、しばらくは通ってくることなんて目に見えている。必ず、彼らはこの場所へとやってくるし、入ってきたらこの場所まで一直線、だ。
 とりあえず、離れよう。それだけを決めて動き出した二人の目線は、相変わらず、出入り口に注がれている。人波の隙間から見えるそこに、望まぬ人影が入り込まないかどうか。一歩、二歩、三歩。何となく心の中で歩数を数えてしまい、それが二桁に差し掛かった頃。
「あ」
 思わず漏れてしまった声は、きっと重なっていた。やけに騒がしい、一つの集団。もっと少人数だったならば違っただろうに、大人数で騒ぎたてているために、そして、その中には明らかにガラの悪い人間が含まれているために、自然と人々が道を開けてしまっている大所帯。誰かが呟いた。吠舞羅だ、と。
 彼らが入って来てしまってから、こっそり外へ出てしまおうか。そんなやり取りをしながらも、伏見の目は集団の中心を歩く「彼」に釘付けだった。記憶よりも、ほんの少し大人びた彼。ずっと伏見がいた場所に、別の人間を平気で置いてしまえる彼。
「……美咲」
 小さな声は、喧騒を越えることなんて無かった。秋山には届いたその音も、八田の所までは届かない。二人の立つ場所は、こんなにも遠い。
 聞いてしまったらしい秋山が、小さく伏見の名を呼んだ。それだけではなく、そっと手を引かれるのだけれど、振り払うことも面倒だった。こちらには気付かないまま、楽しそうに歩いて離れていく彼の背を、伏見は見送ることしかできないのだ。

 気付かれることなくゲームセンターを出た後、秋山に引かれるままに連れてこられたのは、落ち着いた雰囲気のカフェだった。どこか吠舞羅を彷彿させるような雰囲気が漂っている気がするのだけれど、やはり、こちらの方が静か。煩い面子がいないのだから、当然なのだけれど。
 どこか物足りなく感じてしまう自分に気が付かない振りをしたまま、伏見はメニューを確認する。コーヒーと紅茶。そして豊富な種類のケーキ。大まかな目星をつけてから秋山の方を向くと、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「氷杜さん?」
「え? ああ、決まりました?」
「見ないでいいんですか?」
 席に座ってから、メニュー表を伏見に渡したきりの秋山。注文をするのに、メニューを確認しないままではまずいだろうと声を掛けたのに、首を振られる。頼むものは決まっているから、と。そういえば、随分と迷いなくこの店までたどり着いたな、ということを思い出して。
(……恋人と、か?)
 優しい物腰の彼ならば、きっと素敵な恋人がいるのだろう。きっと、その「彼女」と一緒に来たことが何度もあって、彼の中では頼むものが決まってしまっているのだろうな、と。
 何となく、胸の奥で言葉が渦巻いているのだけれど、形にすることができないせいで、吐き出せない。尤も、形になったところで、こんな意味の分からない思いをぶつけることなんて恥ずかしくてできそうに無い。
 伏見がそんなことを考えている間にも、秋山は店員を呼びつけて注文を伝えている。そういえば、自分の頼むものは、と伏見がメニューに目を走らせると同時に、秋山の口から店員へと伝えられたそれ。驚いて思わず秋山の方を見てしまった伏見に、注文を伝え終えた秋山は慌てた様子を見せる。
「え? あれ? 違いました? なら、今すぐ訂正して……」
「いや、合ってる、けども」
 伏見が頼もうと思ったものを、確認することなく自然に注文して見せた秋山。果たして、そんなに自分は分かりやすく欲しいものを見つめていただろうか、と考え始めた伏見に、秋山は眼差しの理由に気が付いたのだろう。悪戯の成功した子供のように、笑う。
「実はここ、猿比古さんともよく来てたんです」
「そう、ですか」
「で、頼むものって大体決まってて、メニューのそのページを開いてるんだったら、これかな、みたいな勘です」
 ね、凄いでしょう。
 そう言外にアピールをして褒めてほしそうな秋山を、素直に褒めてやるのは癪だと思う。だから、小さく舌打ちをしてやったというのに、目の前の男は嬉しそうに笑うのだ。ああ、本当に調子が狂って仕方がない。
(そういえば、美咲も読めないよな)
 自分の思いもよらないポイントで、予想外の反応を返してくれる友人。何気なく考えて、すぐに思い出す。そういえば、記憶の中ではまだ「吠舞羅」のカテゴリーに入って彼の隣に立つ権利を持っている自分だけれど、実際には、蓋をしてしまった記憶の中で自分はその権利を放棄してしまっているのだ。だから、現在系ではなく「読めなかった」と過去形にするのが、今の関係性からすれば正しいのだろう。
 八田との関係性は、正直なところ考えたくない。今はとりあえず、目の前の男とこれからどう過ごすかについて考えるべきだ、と思考を切り替えた伏見は、ひとまず秋山という男について知っている情報を並べてみることにする。
 秋山氷杜。男。セプター4に所属していて、部下。
 これだけのことしか知らない。年齢も、血液型も、誕生日も、好きな物も、嫌いなものも知らない。伏見にとっては大切な、八田にしか許していなかった場所へ入り込んでいる男だというのに、たったこれだけのことしか知らないのだ。
 あまりにも少ない情報量に、思わず舌打ちが漏れる。記憶に蓋をしてしまって以降、まだ一日しか行動を共にしていないのだ。伏見にはよく分からないが、上司から、そして周囲からも、こうやって「記憶を失ってしまった伏見猿比古の世話」を任される程度には、面倒見も良く関係性も良好だったのだろうと思う。秋山が見せる言動からも、彼は記憶を失う前の伏見をよく知っているのだということが伝わってきた。それほどの時間を、共に過ごしてきたのだ、と。
 それほどまでに近くにいたのだから、伏見が記憶に蓋をして、秋山のことも忘れ去ってしまったというのに、それに対する悲しみを伏見に見せようとはしないのだ。キラキラと輝く青い光の中から連れ出されたその瞬間から、ずっと。時折泣きそうな顔を見せる癖に、すぐに「大人の仮面」で覆い隠してしまうから。

 何となく、寂しいと思った。
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