砂糖の海
キラキラと光る青色が、綺麗だと思った。
それが、伏見の記憶の始まりだった。いや、そう表現するのは少し違うかもしれない。伏見には物心ついた頃の記憶から吠舞羅へ八田と共に入り、活動している記憶が存在していた。そしてそれは突然プツリと途切れ――キラキラと光る青色に染まる。
そう、いつものようにbarへ行って、いつものように仲間と楽しそうに笑う八田を眺め、いつものようにカウンター席で何かを飲む。そんな毎日が記憶の中でずっと続いていたのに、突然、目の前に広がったのは青い空と青い欠片と、慌てている青服と――視界の端、自らが身に付けている青服と。本来ならば敵対する組織である青服の男が、あまりにも真っ直ぐ、伏見へ心配そうな表情をぶつけてくるものだから。
――なんで、俺、青服を?
無意識のうちに零れ落ちてしまった疑問なのだけれど、不安げに揺れていた彼の瞳がその色を濃くしたような気がした。伏見はその段になってようやく、目の前に男がいるということに気が付いたのだが、その男の浮かべる笑みが何となく、気持ち悪いと思った。
けれど、そんな嫌悪感は状況を整理しようとする脳内ですぐに消されてしまう。ここはどこなのか、美咲はどこにいるのか、吠舞羅にいるはずの自分がどうして青服を着ているのか、どうして青服に心配されているのか、どうして記憶がプツリと途切れてしまっているのか、どうして、どうして、どうして。
何もわからないまま、とりあえず動かなければならないと思った。けれど、どこへ行けばいいのかが分からずに足が動かない。そんな伏見を思考の泥沼から掬い上げてくれたのは、先ほど、瞳を不安の色に染め上げたばかりの青服だった。無言で伏見の腕を引く彼の瞳は相変わらず不安の色が濃かったのだけれど、掴まれた腕から伝わってくる温もりが、彼は敵ではないのだと伏見に訴えかけてきていた。八田にしか許していない距離。他の人間が触れてきたのならば、すぐに振り払っているその近さ。どうして自分が許容しているのか、伏見には分からない。
纏まらない思考のまま、歩きながら周囲を確認して少しだけ状況は理解した。どうやら、先ほど伏見の目の前で気味の悪い笑みを浮かべていた男こそ、ストレインらしい。そしてその男を捕まえるために青服が出動してきていた、といったところだろうか。まさか、自分の前で無防備に背を向けているのが青服だなんて、と伏見は思う。最近は八田の背しか見ていないが、自分を引いている青服の背は、八田のような危うさを孕んでいない気がした。どこが、と言われてもしっかりと説明できる自信はないけれど、安心できる。そんな印象。
未だに喧騒冷めやらぬ場所から少し離れ、青服が伏見を連れてきたのはやや薄暗い路地裏だった。何から話したものか、と口を開いたまま動きを止めた青服だったが、直ぐに大きく息を吐き出して、流れるように状況を説明し始める。
――貴方は今、セプター4の特務隊に所属しています。
――記憶に関係する能力をもったストレインに、能力を使われたようです。
――俺は、貴方の部下である秋山氷杜です。
まるで、機械のような対応だと思った。整備のされていない、ぎこちない機械。そうでもしなければ感情のままに叫んでしまいそうなのだ、と全身で訴えているようなそれ。隠し切れない感情が節々に見えているのだけれど、全て見ないふりをした。そうでもしないと、敵であるはずの彼に引き摺られてしまいそうで。
けれど、そういえば自分も青服を身にまとっていたな、と伏見はぼんやり考えた。考えつつも、口から出るのはそれと関係のないこと。
――美咲は?
伏見が常に傍にいて、その背を守っているのだと信じてやまない彼のこと。伏見がいないという状況が、どのように作用するのか分からない。背を向けてばかりで、その癖に伏見のことを無条件に信頼している八田のことが気に入らないのに、離れているというこの状況は何となく、嫌だった。
機械的に話していた秋山も、この問いにはほんの少しだけ言葉を詰まらせた。悪い予感が胸を過ぎり、すぐにそれは違うだろうと振り払う。言葉が足りない、と周囲によく注意されていたから、きっと今回もそのせいだろう、と。
――彼は、吠舞羅に所属しています。今回の事件とは、関係していません。
数拍の間の後に秋山が返してきたのは、そんな言葉。ほらやっぱり、言葉が足りなかったからだ。そう思いながら、ゆっくりと伏見は秋山の言葉を咀嚼する。口の中で噛み砕いて、噛み砕いて、飲み込んで。そして。
――俺は、吠舞羅を抜けたんですね。
伏見は、視線を己の纏う青服へと移す。八田が吠舞羅に所属していて、今回の事件とは無関係で、伏見は青服を身に纏っていて。となると、つまりはそういうことなのだろう、と。状況だけで見るならばそうなのだけれど、それを素直に「はい、そうですか」なんて受け入れることなんて出来るはずも無い。
下を向いたままだと、何か零れ落ちてはいけないものがするりと飛び出してきてしまいそうだった。それはまずい、と顔を上げた伏見が見たのは、今にも泣きだしてしまいそうな秋山の顔だ。泣きたいのは、こちらだというのに。記憶を失ってしまったらしい今では、見ず知らずの他人に等しい秋山。そんな彼の前で無様な姿を見せることは出来ない、と堪えているというのに。秋山だってそれには気が付いているはずなのに、伏見が築いた防御壁をいとも簡単に破って手を伸ばしてくるのだ。
――誰も見てません。
そう言って抱きしめてきた秋山に対し、お前がいるじゃないか、と文句を言うのは簡単だったのだけれど、初めて感じるはずの彼の腕の中で伝えられてくる温もりが優しすぎて、言葉が封じられてしまう。誰にも邪魔されないように、とでも言うかのように強く力を込めてくる秋山のせいで、せっかくの壁が壊されてしまったのが伏見にも分かった。
零れ落ちてしまうものは、全て秋山が受け止めてくれる。そんな安心感がどこかにあって、けれどそれは伏見にとって馴染のないもので、どうしたらいいのかが分からない。それでも秋山が安心してもいいのだとでも言うように包み込んでくるせいで、伏見は逃げ出すこともできず、ただ、彼に身を委ねるしかなかったのだ。
もう何も出てこないと思える程度には落ち着いた頃、伏見は秋山の腕の中から身を捩って抜け出そうとした。伏見を拘束していた腕は、思っていたよりも簡単に解かれる。秋山にも、伏見が落ち着いたからそのような行動をとったのだということは伝わっているようだった。
自分が顔を押し付けさせられていた部分だけ色が濃くなってしまった制服を視界にとらえながら、伏見はどこへ行くべきかと考える。ここまでみっともなく泣いてしまったのはいつぶりなのかが思いだせないのだけれど、ただ、このようにして泣いてしまった後は、目が赤くなってしまっているということだけは覚えていた。そのような顔を誰かに見られてしまうというのは耐えられないのだが、かといって、どこへ向かえばいいのかが分からない。
伏見が苦手にしていたあの場所は、青服を身に纏って踏み入ったとするならばどのような反応を見せるのだろうか。
記憶を失ってしまったのだ、とさえ言えば受け入れてくれるような気はしたけれど、彼らと顔を合わせるのは何となく不安だし、何より、ストレインの被害を受けたのだということを伝えるのは恥ずかしいと思った。ならば適当にぶらつくのもアリか、それにしても青服は目立って仕方がない、ああ、適当に店で服を買ってしまえばいいのか。一応は公務員なのだから財布は潤っているはずだし、と結論付けた伏見の腕を、再び秋山は掴む。
――とりあえず、セプター4に帰りましょう。
その言葉を聞いて、ああそういえば青服はストレイン絡みの事案を担当するのだから任せてしまえばいいじゃないか、なんて考えも浮かんだのだけれど、何よりも伏見の胸にすとんと落ちてきたのは、自分は本当に吠舞羅を抜けて青服に所属しているのだ、という感覚だった。実感はわかないけれど、秋山の言った「帰ろう」という言葉はすっと伏見に馴染んだから。脳内で八田に「吠舞羅に帰ろう」と言われている自分を想像してみたのだけれど、何となく、違う気がした。彼の言う「吠舞羅」は、場所なのだろうか。チームなのだろうか。ああ、思考が纏まらない。
記憶を失ってしまったせいだろうか。どうしても伏見の思考は纏まらず、ただ疑問だけを反響させる。疑問が疑問を呼び、共鳴し、新たな疑問を生んで、響く。そろそろ煩くなってきて舌打ちが漏れそうになったとき、すっと秋山の声が耳に届いた。同時に、反響していた疑問は鳴りを潜める。
――伏見さん、帰りましょう。
どこか不安気に揺れる秋山の瞳に、そういえば返事をしていなかったなと思い出す。強引に引いていけばいいのに、八田ならばきっと伏見の考えることなんてすべて無視して強引に引くのに、とまで考えて、やはり自分の傍にいるのは八田ではないのだ、ということが今更ながらに感じられた。八田ではないのに、どうしてこんなに落ち着くのだろう。
躊躇いながらも頷いた伏見を見てあからさまにホッとした表情を見せる秋山に、何となく、伏見も落ち着いた。
連れてこられた場所は救護室で、無人のベッドが並んでいた。あれほどの騒ぎになっていたのだから誰かが使用しているのではないか、と思ったのだがそうでもないらしい。秋山によると、現場に持って行っている応急セットでの手当だけで事足りる怪我の人間ばかりだったらしい。本当にそうなのかと疑わしい気はしたが、彼がそういうのならばそうなのだろうな、と考えることをやめた。
救護室へ来るまでも、そして救護室へ来てからも、秋山から送られてくるのは心配そうな眼差し。心配されている、という状況がむず痒くて、もう戻れないらしいあのバーカウンターを思い出させるようで、一人になりたかった。
反対されるだろうな、と思いながら出した「一人になりたい」という伏見の願いは、予想に反してあっさりと許可された。救護室からは出ないでほしい、何かあったら呼んでほしい、とだけ言って秋山が出ていった。それを見送ってから、どうやって呼べばいいのかという疑問がわく。けれど、そういえば部下だと言っていたから、と自分の端末を弄ってみた伏見は、電話帳の中に「秋山氷杜」という名を見つけて少しだけ安堵した。
そのまま何気なく端末を弄っていた伏見は、登録されている連絡先がどうしても知らない人間の番号ばかりにしか思えなかった。名前を見ても意味のない文字列であるようにしか見えず、端末の電源を落とす。連絡先の中に「八田美咲」があるかなんて、怖くて確認できなかった。
救護室から出るな、と秋山は言った。しかし、怪我人や病人が休むための部屋であるここで、一体、何をして時間を潰せと言うのだろうか。そもそも、彼がこの場所へと帰ってくるかどうかも分からないというのに。
一人になりたいと願ったのは自分である筈なのに、どうして寂しいと、誰かが傍にいてほしいと考えてしまうのだろう。きっと、今の自分にとってのこの場所は、全く馴染みがない場所。だからこそ、いつも以上に孤独感を感じてしまうのだろう。何気なく寝転んでみたベッドは柔らかいのだけれど、それで落ち着くかと問われると疑問が残る。けれど、どこか懐かしい気がして記憶を辿ってみた伏見は、そういえば学校の保健室のベッドがこんな感じだったな、と思った。真っ白な空間に隔離されて、慣れないベッドに寝かされて。いつからか、そんな空間が嫌になって外へ飛び出すようになった。そして、八田と出会って、それから。
ふわふわとした意識のまま、このままいけばきっといつかの夢を視ることが出来るだろう、という微睡の中へと向かいかけた時。救護室の扉の向こうに人の気配があるような気がした。入ってくるのかと思いきや、そのような様子はない。かといって立ち去るのかと思えばそういうわけでもない。
一瞬だけ、どうしようかと悩んだ。伏見がこの場所で知っている人なんて、辛うじて世話を焼いてくれた秋山くらいだ。全く知らない人間相手に、わざわざ声を掛けてやる義理もないとは思うし、何より、面倒だ。けれど、そのまま何をするわけでも居座られている、というのは居心地が悪い。そう、だからこれは自分が居心地の良い空間を作るためだ、と心の中で誰かに言い訳をして。
――何か用ですか。
救護室からは出ない。出ないまま扉を開けて、近くに立ち尽くしていた男に声を掛けた。何がしたいのか、どうしてここへ来たのかという問いに対しては要領を得ない返答をしてくるものの、男の口から「秋山さんが」という言葉が出てきた時点で警戒することはやめた。一瞬だけ、監視のつもりかと考えてしまったが――何となく、彼の性格上、それ以上にただ純粋に、伏見に何かあったら、という保険として男を寄越したのではないか、と思った。勿論、もしかしたら監視の意味合いの方が強いのかもしれないとは分かっているのだけれど、それを考えてしまうと胸の奥が痛むような気がして、すぐに思考を隅の方へと追いやった。
はっきりとしない男だ、と感じたのは初めだけだった。要領の得ない返答ばかりをし、救護室に足を踏み入れることを躊躇い続けたとは思えないほど馴染んでしまった男に、どうして自分は彼を招き入れてしまったのだろうか、と伏見は真面目に考える羽目になった。
――あ、俺は日高暁っていいます。
伏見が先程まで寝転んでいたベッドへと戻り、今度は腰掛けるだけに留めて男に目を向けた時、思い出したように彼は名乗った。そこから聞きもしていないのにベラベラと話し続ける日高に、伏見は本格的に頭が痛くなってくる。一人で時間を潰し続けることに自信が無くて、彼を招き入れたのは伏見だ。しかし、それは間違いだったのだろう。
眉間に皺が寄せられていっていることを自覚しつつ、伏見はそれに舌打ちをプラスした。途端に、日高の演説は止まる。そして、目に見えて焦り始めた。
――すんません! 俺ばっか一方的に。
その反応を見て日高が空気の読める男であったことに安心する一方、年下に対して過剰反応しすぎではないか、という思いが生まれる。生まれるのだが、そういえば日高も伏見の部下であると言っていたことを思い出した。吠舞羅とは違った意味で上下関係に厳しそうなセプター4のこと。上司の不興を買うことは恐ろしいに違いない、と伏見は一人で納得した。その間、伏見の反応を伺う日高のことは放置である。
舌打ちが効いたのか、その後の無言が効いたのか。借りてきた猫のように静かになってしまった日高に再び舌打ちをすると、大袈裟なほどに肩が跳ねる。そんなに居心地が悪いのならば、早く出ていけばいいのにとは思うのだけれど、そういえば招き入れる際に「何もせず扉の前で立ち尽くされていると落ち着かない」と伏見が言ったものだから、もしかしたら、その言葉が日高をこの場所に留めてしまっているのかもしれないな、と思った。
そわそわとしている日高を見ていると、何となく八田を思い出した。彼もまた、単純な思考回路の持ち主だった。だからきっと、同じ状況に陥ったのならば日高と同じ行動をとるだろう。そう考えてから日高を見ると、ほんの少しだけ親近感がわいた。けれど、日高を自分のパーソナルスペースへと入れても良いかと尋ねられたならば、きっと拒否するのだろうな、と伏見は思った。
伏見の眉間から皺は消えていないものの、逃げ出すことを諦めたらしい日高は恐る恐るといったように、少しずつ言葉を紡ぎだす。それに先程までの勢いはなく、ぽつり、ぽつり、と所々に落とされては波紋を広げていくかのような。けれど、不快ではない。
――俺、伏見さんのこと苦手だったんです。
――何とかして、弱点を見つけてやろうって思ってて。
――熱心に粗探ししてる間に、何かほっとけないなって。
――だからこそ、気が付いたこととか色々あるんですけどね。
――記憶が無くて怖いかもしれないっすけど、秋山さんは大丈夫です。
――他の人が怖くても、秋山さんだけは信じてみてください。
――あの人が一番、伏見さんのことを見てきた人なんで。
そう言って笑う日高は、自分の言葉が伏見にとって信用するに値するかどうかなんて気にしていないのだろう。伏見がその言葉を信用するとは限らないのに、純粋に、伏見が秋山を頼る未来を信じているらしい。それが何となく、自分と同じ世界を伏見が見ているのだと信じてやまない八田を思い出させ、舌打ちが一つ。びくり、と肩を揺らした日高は相当伏見を恐れているらしい。それがまた伏見を苛立たせ、眉間の皺は深くなる。
このまま日高を気にしていても苛立つだけだ、と結論付けた伏見はベッドに上体を倒す。途端に広がる白の世界と、ほんの少し身動ぎをした日高の気配。躊躇いがちにかけられた声を無視しようとして、しかし、唐突に浮かんだ言葉が勝手に口から飛び出す。
――俺、何で全部忘れたんだろう。
消えてしまった部分の記憶は、それほどにまで自分を苦しめるものだったのだろうか、と。秋山も、日高も、本当に短い時間しか接していないのに嫌いな人間だとは思えない。あれほど敵対していた青服の人間だというのに、彼らからすれば伏見なんて敵側から裏切ってやってきた人間だというのに、接してくる温度は優しかった。あの、吠舞羅を彷彿とさせるような、温もり。伏見が苦手とするものではあるけれど、それは上手く対応することが出来ないというだけで、嫌いになるなんて、忘れたいと願うほどにまで嫌悪する時間になるなんてありえないと思った。
ああ、もしかしたら自分は吠舞羅を抜けたのだということを忘れたかったのかもしれないな、と伏見は思い至る。吠舞羅の繋がりが煩わしくて抜け出したというのに、セプター4で同じような空間に甘んじていた自分は、もしかしたら吠舞羅に帰りたくなったのかもしれない。しかしそれが叶わず、今回の事件をきっかけに、帰りたいと願ったのかもしれない。記憶を消したところで、帰ることが出来るわけでもないのに。
伏見の言葉に何かを返そうとする日高の気配だけは伝わってくる。しかし、彼自身も言葉を見つけることが出来ないのか、形にならない母音だけを発し続けていて。
そんな時に、日高の端末が鳴った。
――秋山さんが、すぐに来るそうです。
通話を終えた日高はその言葉だけを残し、どこか名残惜しそうに部屋を出ていった。あれだけ居心地悪そうにしていたから喜んで出ていくと思ったのに。ああ、通話の最後に始末書を書かなければならない、なんて話をしていたからそのせいかもしれないな、と伏見は思う。確かに、八田とどこか似た雰囲気を持つ彼ならば始末書を書くような状況には多くなっていそうだし、その癖に事務作業は苦手であると予想される。あれほど敵対していた組織なのに、案外、自分はこちらでも上手くやっていくことが出来ていたのかもしれない。秩序を司り冷たい印象しか抱いていなかった青服でも、こんなに人間らしく、暖かい。
秋山が来ると分かっていながら横になっているのも何だか変な気がして、伏見はベッドに座り直す。窓の外から差し込む光が眩しくて、何げなく外へと目を向けてみた。やけに青い空が目について、そういえば、いつの間にか自分がセプター4にいることを受け入れてしまっているな、ということに気が付いて、そして。
「伏見さん、大丈夫ですか?」
扉が開いたことに気が付かず、突然かけられた言葉に驚いてしまった。そんな反応をしてしまったことが恥ずかしいものの、秋山は伏見の心情など知らずにゆっくりと近付いてくる。何を言うつもりなのか、と秋山の行動を目で追っていた伏見だったが、秋山が自分の前に立ったことで、ほんの少しだけ身体をずらす。
「……座っても?」
「……どーぞ」
そのつもりで伏見は身体を動かしたのだから。しかし、伏見自身、自分の行動に驚いていた。記憶を失う前ならばともかく、今は初対面と言っても間違いではない程度の付き合いでしかない相手なのだ。それなのに、自分が彼の居場所を作るために動くなんて、と。
微妙な隙間を開けて座った秋山は、しかしどうすれば良いのかと行動を決めかねているようだった。だったらこちらから気になることを問いかけてやる方が良いのか、と思いつつ、思った以上に近かった秋山との距離に驚いて小さく身動ぎをする。不快ではないのだけれど、どうすれば良いのかが分からなくて。
「あの」
「あの」
意を決して上げた声は、幸か不幸か秋山と重なってしまう。お互いに話を始めようと思って声を掛けたのだから、当然、顔は相手の方を向いている。端的に言うと、無言のまま見つめ合ってしまうこと、数秒。さあ、どうしようかと考え始めた伏見とは対照的に、秋山の表情はふっと緩む。
「伏見さんからどうぞ」
発言権を譲られて、そして考える。自分は一体、何を聞きたかったのだろう、と。何も考えていなかったせいですぐには言葉が出てこないのに、普段ならば気まずく感じられるその沈黙が不思議と嫌いではない。そのことに思い至った時、問いかける内容は自然と決まった。
「秋山さんって」
そこまで言って、確認するほどの内容かどうかが分からなくなる。何となく、身体はそうだと訴えてきている。しかし、もしも違ったら? 伏見が忘れてしまった人なのに、もしも問いかける言葉に肯定で返されてしまったら、彼こそが自分の忘れてしまいたかった記憶の鍵かもしれないのに。
記憶に関係するストレイン、ということしか聞いていなくて、伏見には自分の失われた記憶がストレインの気紛れで奪われてしまったのか、それとも自分が望んで差し出したのかが分からない。どちらにせよ、忘れてしまった自分が投げかけて良い問いではないような気がするのだけれど。
「秋山さんって、俺とよく一緒にいた、んですか?」
口にし始めてから、やっぱり止めておけばよかったなんて考えてしまうものだから、自然と語尾へ向かうにしたがって声は小さくなってしまうし、秋山の顔を見ていられなくなって伏見の視線は下げられる。確認していないから秋山がどのような表情を浮かべているのかなんて伏見には分からないけれど、この、僅かな距離が煩わしい。手を伸ばせば簡単に触れられる距離だからこそ、逃げ出せないし、逃げたくない。手放したくない。そんなことを考えてしまうのは、この距離感のせいだ。
「……どうして、そう思ったんですか?」
何となくその言葉が返されるような気はしていたのだけれど、理由となった伏見の感覚を、秋山に伝えても良いものかが分からない。だって、自分はそれを忘れてしまったのに。
けれど、いつまでも黙っているわけにもいかないから。
「……アンタの傍は、安心する、から」
適当に誤魔化すことなんていくらでもできたのに、そうやって誤魔化してしまった先には何もないような気がした。
「ありがとうございます」
肯定も否定もされなかったけれど、秋山のホッとしたらしい雰囲気が伝わってきたものだから、きっと自分の感覚は間違っていなかったのだろうな、と伏見は思った。
記憶を失ってしまったということは、伏見は寮の自分の部屋へも自力では帰ることが出来ないということ。となると、やはり秋山が伏見の部屋まで彼を案内することになる。自分が生活してきていたらしい場所だ、という認識はあるものの、見渡す範囲内で「懐かしい」と感じることができるものなんてどこにもなくて、伏見は急に一人ぼっちになってしまったような感覚に陥ってしまった。
とはいえ、隣には秋山がいるお陰か不安はすぐに霧散して、残るのはただ純粋な興味。目新しい空間に視線を走らせていると――やけに気になる隣からの視線。無視してきたが、いい加減邪魔になってきた。そちらへ目をやると、やけに楽しそうな秋山の表情が見えた。伏見に視線を向けられたことでか慌てて表情を取り繕ったらしい秋山だが、若干、手遅れである。
「なんすか、さっきから」
「何がですか?」
「痛いんですけど、その視線」
今までの行動を全て見られていたのみならず、それを楽しまれていたことが恥ずかしくて、照れ隠しのように目つきが鋭くなってしまうのは仕方がなかった。それなのに、何が楽しいのか、秋山が折角取り繕った表情は形を崩し、緩んだものへと逆戻り。
「ちょっと」
「すみません」
謝っているくせに、その表情から笑みが消えることがない。それを見ていると本当に恥ずかしくて、自然と眉間に皺が寄せられていってしまうのだけれど。
「……ちょっと!」
「あ、すみません!! つい、いつもの癖で……!!」
唐突な、接触。
頬に熱が集まってくるのに、それを止める方法を伏見は知らない。こんなこと、伏見は知らないのに。知らないのに、どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。
「……こんなこと、いつもやってるんすか」
「いつも、ではなかったですね」
いつも、ではなかった。けれど、何も覚えていないはずの自分の身体が反応してしまう程度には、繰り返されていたらしいそれ。
無意識のうちに、伏見の右手は口付けを贈られた自らの眉間へ。
「……伏見さん?」
ああ、泣きたいのは伏見の方なのに、どうして秋山も泣きそうな顔をしているのだろう。
「秋山さん」
「はい?」
「……氷杜さん」
「……はい」
「氷杜、さん」
「は、い」
何気なく呼んでみた「秋山」という響きはなんだか違うような気がして、確かめるように伏見は「氷杜」と名を呼んだ。伏見の行動の理由が分からないからだろう。戸惑いながらも返事をしてくれる秋山の顔が、少しずつ赤くなっていっていて、ほんの少しだけ優越感に浸っていると。
「猿比古さん」
唐突に呼ばれた自分の名前。そんな優しい響きを伏見は知らないのに。知らないのに、どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。どうしてこんなに、胸が締め付けられるのだろう。誰かに、この染まってしまう頬を隠してほしいと願った。伏見はこれ以上、恥ずかしい自分を秋山には見られたくないと思った。
その思いが届いたのか、伏見に固定されていた秋山の視線は移動する。見透かされているようなそれから逃げられたことに安堵しつつも、伏見の胸中には僅かな寂しさが残って。
「ここが貴方の部屋です」
示された扉を見たところで、伏見の胸には何の感慨もわかなかった。ただ、これで秋山と過ごす居心地の良い時間が終わってしまうのだな、とぼんやり考えた。困ったように立ち尽くす秋山を見て、そういえば自分の部屋だということは鍵も自分が持っているはずだと思い至る。手当たり次第にポケットを漁り、見覚えのない、しかしやけに手に馴染む鍵を見つけた。他にそれらしいものが見当たらないのだから正しいのだろうけれど、確信が持てるはずも無い。どことなく緊張しながら鍵穴に差し込み、捻る。ガチャリという音に、小さく息を吐いた。
自分の「家」へは帰ってくることができた。けれど、秋山はこれからどうするのだろう。彼にも彼の家があるだろうし、仕事だってあるはず。帰ってしまうのだろうか。いや、きっと帰ってしまうのだろう。ただ、何となくそれは寂しい。
だから。
「ああ、もう大丈夫ですね。今日はゆっくりと休んで」
「秋山さん」
「何ですか?」
乱暴に自分に注意を向けさせてみたというのに。
「俺の話、聞かせてください」
持ちかけてみた「お願い」があまりにも情けないことに、自然と声は小さくなっていってしまうのだけれど。秋山はそれすらも許容して、優しい声をくれるのだ。
「いいですよ。上がっても?」
「どーぞ……氷杜さん」
「ありがとうございます、猿比古さん」
秋山と呼んでみたり氷杜と呼んでみたり。距離の取り方が未だに分からない伏見の迷いも、秋山は受け入れてしまうのだ。そんな秋山の優しさに甘えながら、伏見は考える。
彼が優しいのは、記憶を失う前の伏見が大切だからなのだろうか、と。
自分の部屋だと言われても、記憶のない伏見にとってそこは「誰かの部屋」でしかなかった。けれど、部屋に置かれている物やその配置を見る限りでは何となく伏見の部屋であるような気もするし、全く知らない人の部屋であるような気もするのだ。部屋の主であるはずの伏見を座らせ、秋山が台所へと消えた時点でその思いは強くなる。
がちゃがちゃと食器を漁る音や、僅かな水音。そして微かに漂ってくる甘い香りと共に、秋山は戻ってくる。その手にはカップが二つ。
「伏見さん、ココアです」
「……どーも」
伏見の部屋であるはずなのに、台所へ消えてから戻ってくるまでの時間がかなり短かった。ここが伏見の部屋である、という言葉に偽りがないというのなら、きっと秋山はよくこの部屋を訪れる程度には伏見と仲が良かったのだろう。そうでなければ、ただココアを入れるだけだとはいえ、これほど早く帰ってくることは出来ないはずだ。しかし、それを確かめるための勇気は、未だ、伏見にはない。
きっとそれなりに親密だったのだろう、という思いは、ココアを口に含むごとに強くなっていく。広がる甘さは、伏見好み。嚥下するごとにじわりと広がる温もりは、強張っていた身体を少しずつ解していく。そして、同時に囁くのだ。秋山氷杜は敵ではない、と。
無音の空間。けれど、不快ではない。ただぼんやりとココアを味わいながら、考えてしまうのは世界を共有している――いや、自分が忘れてしまっただけで、世界を共有していた、と過去形で表さなければならない、友人のこと。
「俺、何で美咲を捨てたんだろう」
零れ落ちた言葉を脳内で繰り返し、思い至ってしまった結論に対して舌打ちを一つ。一瞬だけ舌打ちに反応した秋山だったが、しかし、日高のように取り乱すわけでもなかった。言葉の真意を尋ねても良いものかと迷っているのが、はっきりと伝わってくる。
「えっと、その」
「何で美咲を捨てたって言うかって?」
「……はい」
自分でも、どうして「捨てた」という言葉が出たのかが分からなかったのだ。きっと、そこが気になるのだろうな、ということは簡単に予想できていた。けれど、できれば聞いてほしくは無かった。思い至ってしまった結論は、寂しいものだったから。
「俺には美咲しかいなくて」
「はい」
「美咲にも、俺しかいなくて」
「はい」
「でも、吠舞羅に入って『仲間』が出来て」
「はい」
「美咲が見るのは『仲間』になって」
「はい」
「美咲の隣にいるのは、あのデブになって」
「はい」
「美咲は、俺と『仲間』を同じ括りで見てて」
「はい」
「俺は、美咲と『仲間』を同じ括りでは見れなくて」
「はい」
「美咲が『仲間』を捨てるなんてありえないから」
「はい」
「だから、俺が、美咲を捨てたんだ。きっと」
最初は、二人だけで良かった。伏見はそれだけで満足だったのに、八田が求めたのは「仲間」だった。今の伏見ですらそれを感じていたのだから、きっと「未来」の伏見もそれを感じていたのだろう。そして、八田が「仲間」を求めている時点で伏見から本当の意味で離れていくはずもなくて、だからこそ、決別の道を選んだのは、伏見の方なのだ。
ずっと一緒にいると信じていた八田と道を違えてしまったということは、伏見にとって大きな衝撃だった。しかし、それを嘆くことなんて出来ないのだ。これは、伏見が選んだ道の先の風景なのだから。
「……貴方にとって、吠舞羅はどんな場所でしたか?」
意地悪な質問だな、と伏見は思った。今、この流れで訊くのかと。けれど、今なら何を言っても良いような気がして。
「吠舞羅は居心地の良い場所なんかじゃなかった」
「そう、ですか」
「……でも、嫌い、じゃなかった」
視界が揺らめき、ポタリ、とまだ残っていたココアに落ちた水滴。溶けて消えてしまったかのように静かになった水面を見ていると、ポタリ、ポタリと再び水面を揺らす。
伏見だって、吠舞羅のメンバーだったのだ。八田のようにすぐには打ち解けることができなかったけれど、ゆっくり、ゆっくりと距離を詰めていっているつもりだった。大勢の中に紛れることは、ずっと狭い世界で過ごしてきた伏見にとってはまだ難しく、同時に怖いことだった。だから、人の少ない場所を選んで、少ない人数を相手にすることが精一杯で。
それなのに、大人数を相手にしても怖気付くことなく飛び出していってしまった八田には、それが理解できなかったのだろう。
前は、気付いてくれたのに。
前は、分かってくれたのに。
その他大勢と同じ「仲間」というレッテルを貼られてしまってから、伏見は八田と同じ世界に居続けることを諦めてしまったのかもしれない。あのカウンター席の端に座っている時には考えもしなかったのだけれど、不意にそう思った。八田に理解されることを諦めて、自分の居場所をもう一度、あの場所で作ろうと努力しようとしていたのかもしれない。あの時は必死だったのだけれど、八田と絡むわけでもなくあの場所へ行っていたのは、きっと、そういうことだったのだろう。八田は、そんな伏見の努力を知らず、自分のペースに巻き込んでいくだけなのだ。いつの間にか、付いて行くことに疲れてしまっていた。八田の隣にはもう伏見がいなくても大丈夫だったから、歩くことを、やめた。
唐突に至ってしまったその結論に、伏見の足場は崩れ去ってしまう。先ほどまで立っていた場所であるはずなのに、周囲も、足元も、全てが暗闇。だからきっと、秋山の優しさが暖かすぎて、眩しすぎて、目が、頭が、心が痛くて、泣いてしまうのだ。
温もりが離れてしまったことで、意識がそちらへ向けられる。瞼を閉じたままではあるものの、何となく、世界が眩しい気がして嫌になる。世界は眩しいのに、どうして寒いのだろう。
「……おはようございます、猿比古さん」
やけにはっきりと声が聞こえてきて、ふわり、と周囲が暖かくなったような気がした。けれど、まだ微睡んでいたくて。
「起きてください、猿比古さん」
「んー」
「んー、じゃありません。朝ですよ」
軽く身体を揺すられて、無理矢理に意識を浮上させられる。ああ、隣にいるのは誰だろうか。
「みさき?」
「俺は氷杜です」
「……ひもり?」
「氷杜です」
「ひもり」
美咲ではないのか。それにしても、ひもり、とは誰だろう。何となく、懐かしい響きであるような気はするのだけれど。
「朝、何食べますか?」
「いらない」
「とりあえず、トースト焼きますね」
「いらない」
「焼けたら、呼びに来ますから」
「……ん」
考えることが面倒になって、流される。意識は相変わらず微睡みの中に逃げだそうとするのだけれど、この懐かしさがするりとどこかへ行ってしまうような気がして、それは惜しいと思ってしまう。それなのに、伏見を置いて彼も、また。
――また?
何かが掴めそうな気がしたのだけれど、それよりも先に温もりが離れてしまったことへと意識が向けられてしまう。ただ、ぽんぽんと頭を軽く撫でられて、理由は分からないけれど、安心した。折角の暖かさを纏ったまま眠ってしまいたくて、そのまま伏見は布団の中へと潜ってみる。するり、と秋山がベッドから抜け出してしまったのは分かったけれど、彼の残した暖かさは、まだ残っている。
秋山が朝食の準備をしている音をききながら、伏見はゆっくりと考えてみる。どうして、こんなにも彼の傍は落ち着くのだろう。彼は、美咲ではないのに。
トースターの立てた軽快な音が、憎たらしかった。もう少し、あと少しだけでも、この優しさに包まれていたいのに。
朝食をとりながら、伏見は二週間の、秋山は一週間の休みが与えられたということを伝えられる。相槌を打ちながら、そういえば、自分たちはセプター4、東京法務局戸籍課第四分室、なんて堅苦しい名称の組織に所属しているんだった、ということを思い出した。
同時に教えられたのは、伏見の記憶を奪った――いや、正確に言うと「記憶に蓋をした」らしいストレインとその能力について。ストレイン自身にも分からない、記憶の蓋を開けるための鍵を探さなければならないのだ、ということ。
「カギを探すって、具体的に何やるんですか」
「そこ、なんですよね。どうしましょうか」
あまりにもスラスラと説明してくれるものだから、てっきり秋山にも何か考えがあるのだろうと思っていたのだけれど。癖になってしまっている伏見の舌打ちを軽く流した秋山は、とりあえず、と口を開く。
「伏見さんがよく行っていた場所、行きたい場所へ行ってみませんか?」
「記憶を失う前の俺が?」
「いえ、今の、記憶を失った伏見さんが」
記憶を失った、つまり、吠舞羅時代の伏見が行っていた場所、となると、秋山がいなくても問題はなさそうなのに。むしろ、記憶を失う前の伏見が行っていた場所なんて今の伏見には分からないのだから、秋山も休みであるうちに行くべきだとは思うのだけれど。
秋山自身もそれには気がついているはずなので、もしかしたら、休みが終わってからも伏見に付き合ってくれるつもりなのかもしれない。それに、よく行っていた場所、というのは吠舞羅のメンバーとも行ったことがある場所と重なっている部分もあり、そこで運悪く彼らと遭遇して何らかの問題が生じてしまったら、伏見だけでは上手く対処できるとは思えない。もしかしたら、それを見越してのこと、なのかもしれない。いや、秋山のことだから「吠舞羅時代の伏見がどんな場所へ行っていたのかを知りたい」という純粋な興味だけで動いているのかもしれないけれど。
とりあえず、秋山も立ち入ることを躊躇いそうな吠舞羅の溜まり場、bar『HOMURA』にカギは無いだろうという伏見の予想だけは、先に伝えておく。
「どうして?」
「あの場所で願うことなんて、無い」
無意識の願いがカギになる、とは伝えられていたのだけれど、メンバーに対してならばともかく、あの場所そのものにカギとなる要素があるなんて伏見には思えないのだ。
「チームの吠舞羅は好きじゃなかったけど、barのHOMURAは嫌いじゃなかった、から」
まあ、他の場所でカギが見つからなかったら行ってみようとは思う。けれど、今はまだその時では無い。
秋山も、同じ考えに至ったのだろう。もう少し何か言われるような気がしていたのだが、案外、あっさりと流される。拍子抜けしながらも、伏見はもう一つ、秋山が気にしていそうな話題を口にする。
「アイツらのことですけど」
カギ探しをしているときに遭遇してしまっては、困る面々。記憶を失ってしまった伏見にとってはまだ「仲間」なのだけれど、向こうにとってはそうではないのだ。
「何となく行動パターンは分かるんで、変わってなかったら回避できると思います」
「そう、ですか」
ほっとした表情を見せる秋山には申し訳ないのだけれど、伏見にだって自信があるわけではない。だから小さく「多分ですけど」と付け加えておいた。
それが、伏見の記憶の始まりだった。いや、そう表現するのは少し違うかもしれない。伏見には物心ついた頃の記憶から吠舞羅へ八田と共に入り、活動している記憶が存在していた。そしてそれは突然プツリと途切れ――キラキラと光る青色に染まる。
そう、いつものようにbarへ行って、いつものように仲間と楽しそうに笑う八田を眺め、いつものようにカウンター席で何かを飲む。そんな毎日が記憶の中でずっと続いていたのに、突然、目の前に広がったのは青い空と青い欠片と、慌てている青服と――視界の端、自らが身に付けている青服と。本来ならば敵対する組織である青服の男が、あまりにも真っ直ぐ、伏見へ心配そうな表情をぶつけてくるものだから。
――なんで、俺、青服を?
無意識のうちに零れ落ちてしまった疑問なのだけれど、不安げに揺れていた彼の瞳がその色を濃くしたような気がした。伏見はその段になってようやく、目の前に男がいるということに気が付いたのだが、その男の浮かべる笑みが何となく、気持ち悪いと思った。
けれど、そんな嫌悪感は状況を整理しようとする脳内ですぐに消されてしまう。ここはどこなのか、美咲はどこにいるのか、吠舞羅にいるはずの自分がどうして青服を着ているのか、どうして青服に心配されているのか、どうして記憶がプツリと途切れてしまっているのか、どうして、どうして、どうして。
何もわからないまま、とりあえず動かなければならないと思った。けれど、どこへ行けばいいのかが分からずに足が動かない。そんな伏見を思考の泥沼から掬い上げてくれたのは、先ほど、瞳を不安の色に染め上げたばかりの青服だった。無言で伏見の腕を引く彼の瞳は相変わらず不安の色が濃かったのだけれど、掴まれた腕から伝わってくる温もりが、彼は敵ではないのだと伏見に訴えかけてきていた。八田にしか許していない距離。他の人間が触れてきたのならば、すぐに振り払っているその近さ。どうして自分が許容しているのか、伏見には分からない。
纏まらない思考のまま、歩きながら周囲を確認して少しだけ状況は理解した。どうやら、先ほど伏見の目の前で気味の悪い笑みを浮かべていた男こそ、ストレインらしい。そしてその男を捕まえるために青服が出動してきていた、といったところだろうか。まさか、自分の前で無防備に背を向けているのが青服だなんて、と伏見は思う。最近は八田の背しか見ていないが、自分を引いている青服の背は、八田のような危うさを孕んでいない気がした。どこが、と言われてもしっかりと説明できる自信はないけれど、安心できる。そんな印象。
未だに喧騒冷めやらぬ場所から少し離れ、青服が伏見を連れてきたのはやや薄暗い路地裏だった。何から話したものか、と口を開いたまま動きを止めた青服だったが、直ぐに大きく息を吐き出して、流れるように状況を説明し始める。
――貴方は今、セプター4の特務隊に所属しています。
――記憶に関係する能力をもったストレインに、能力を使われたようです。
――俺は、貴方の部下である秋山氷杜です。
まるで、機械のような対応だと思った。整備のされていない、ぎこちない機械。そうでもしなければ感情のままに叫んでしまいそうなのだ、と全身で訴えているようなそれ。隠し切れない感情が節々に見えているのだけれど、全て見ないふりをした。そうでもしないと、敵であるはずの彼に引き摺られてしまいそうで。
けれど、そういえば自分も青服を身にまとっていたな、と伏見はぼんやり考えた。考えつつも、口から出るのはそれと関係のないこと。
――美咲は?
伏見が常に傍にいて、その背を守っているのだと信じてやまない彼のこと。伏見がいないという状況が、どのように作用するのか分からない。背を向けてばかりで、その癖に伏見のことを無条件に信頼している八田のことが気に入らないのに、離れているというこの状況は何となく、嫌だった。
機械的に話していた秋山も、この問いにはほんの少しだけ言葉を詰まらせた。悪い予感が胸を過ぎり、すぐにそれは違うだろうと振り払う。言葉が足りない、と周囲によく注意されていたから、きっと今回もそのせいだろう、と。
――彼は、吠舞羅に所属しています。今回の事件とは、関係していません。
数拍の間の後に秋山が返してきたのは、そんな言葉。ほらやっぱり、言葉が足りなかったからだ。そう思いながら、ゆっくりと伏見は秋山の言葉を咀嚼する。口の中で噛み砕いて、噛み砕いて、飲み込んで。そして。
――俺は、吠舞羅を抜けたんですね。
伏見は、視線を己の纏う青服へと移す。八田が吠舞羅に所属していて、今回の事件とは無関係で、伏見は青服を身に纏っていて。となると、つまりはそういうことなのだろう、と。状況だけで見るならばそうなのだけれど、それを素直に「はい、そうですか」なんて受け入れることなんて出来るはずも無い。
下を向いたままだと、何か零れ落ちてはいけないものがするりと飛び出してきてしまいそうだった。それはまずい、と顔を上げた伏見が見たのは、今にも泣きだしてしまいそうな秋山の顔だ。泣きたいのは、こちらだというのに。記憶を失ってしまったらしい今では、見ず知らずの他人に等しい秋山。そんな彼の前で無様な姿を見せることは出来ない、と堪えているというのに。秋山だってそれには気が付いているはずなのに、伏見が築いた防御壁をいとも簡単に破って手を伸ばしてくるのだ。
――誰も見てません。
そう言って抱きしめてきた秋山に対し、お前がいるじゃないか、と文句を言うのは簡単だったのだけれど、初めて感じるはずの彼の腕の中で伝えられてくる温もりが優しすぎて、言葉が封じられてしまう。誰にも邪魔されないように、とでも言うかのように強く力を込めてくる秋山のせいで、せっかくの壁が壊されてしまったのが伏見にも分かった。
零れ落ちてしまうものは、全て秋山が受け止めてくれる。そんな安心感がどこかにあって、けれどそれは伏見にとって馴染のないもので、どうしたらいいのかが分からない。それでも秋山が安心してもいいのだとでも言うように包み込んでくるせいで、伏見は逃げ出すこともできず、ただ、彼に身を委ねるしかなかったのだ。
もう何も出てこないと思える程度には落ち着いた頃、伏見は秋山の腕の中から身を捩って抜け出そうとした。伏見を拘束していた腕は、思っていたよりも簡単に解かれる。秋山にも、伏見が落ち着いたからそのような行動をとったのだということは伝わっているようだった。
自分が顔を押し付けさせられていた部分だけ色が濃くなってしまった制服を視界にとらえながら、伏見はどこへ行くべきかと考える。ここまでみっともなく泣いてしまったのはいつぶりなのかが思いだせないのだけれど、ただ、このようにして泣いてしまった後は、目が赤くなってしまっているということだけは覚えていた。そのような顔を誰かに見られてしまうというのは耐えられないのだが、かといって、どこへ向かえばいいのかが分からない。
伏見が苦手にしていたあの場所は、青服を身に纏って踏み入ったとするならばどのような反応を見せるのだろうか。
記憶を失ってしまったのだ、とさえ言えば受け入れてくれるような気はしたけれど、彼らと顔を合わせるのは何となく不安だし、何より、ストレインの被害を受けたのだということを伝えるのは恥ずかしいと思った。ならば適当にぶらつくのもアリか、それにしても青服は目立って仕方がない、ああ、適当に店で服を買ってしまえばいいのか。一応は公務員なのだから財布は潤っているはずだし、と結論付けた伏見の腕を、再び秋山は掴む。
――とりあえず、セプター4に帰りましょう。
その言葉を聞いて、ああそういえば青服はストレイン絡みの事案を担当するのだから任せてしまえばいいじゃないか、なんて考えも浮かんだのだけれど、何よりも伏見の胸にすとんと落ちてきたのは、自分は本当に吠舞羅を抜けて青服に所属しているのだ、という感覚だった。実感はわかないけれど、秋山の言った「帰ろう」という言葉はすっと伏見に馴染んだから。脳内で八田に「吠舞羅に帰ろう」と言われている自分を想像してみたのだけれど、何となく、違う気がした。彼の言う「吠舞羅」は、場所なのだろうか。チームなのだろうか。ああ、思考が纏まらない。
記憶を失ってしまったせいだろうか。どうしても伏見の思考は纏まらず、ただ疑問だけを反響させる。疑問が疑問を呼び、共鳴し、新たな疑問を生んで、響く。そろそろ煩くなってきて舌打ちが漏れそうになったとき、すっと秋山の声が耳に届いた。同時に、反響していた疑問は鳴りを潜める。
――伏見さん、帰りましょう。
どこか不安気に揺れる秋山の瞳に、そういえば返事をしていなかったなと思い出す。強引に引いていけばいいのに、八田ならばきっと伏見の考えることなんてすべて無視して強引に引くのに、とまで考えて、やはり自分の傍にいるのは八田ではないのだ、ということが今更ながらに感じられた。八田ではないのに、どうしてこんなに落ち着くのだろう。
躊躇いながらも頷いた伏見を見てあからさまにホッとした表情を見せる秋山に、何となく、伏見も落ち着いた。
連れてこられた場所は救護室で、無人のベッドが並んでいた。あれほどの騒ぎになっていたのだから誰かが使用しているのではないか、と思ったのだがそうでもないらしい。秋山によると、現場に持って行っている応急セットでの手当だけで事足りる怪我の人間ばかりだったらしい。本当にそうなのかと疑わしい気はしたが、彼がそういうのならばそうなのだろうな、と考えることをやめた。
救護室へ来るまでも、そして救護室へ来てからも、秋山から送られてくるのは心配そうな眼差し。心配されている、という状況がむず痒くて、もう戻れないらしいあのバーカウンターを思い出させるようで、一人になりたかった。
反対されるだろうな、と思いながら出した「一人になりたい」という伏見の願いは、予想に反してあっさりと許可された。救護室からは出ないでほしい、何かあったら呼んでほしい、とだけ言って秋山が出ていった。それを見送ってから、どうやって呼べばいいのかという疑問がわく。けれど、そういえば部下だと言っていたから、と自分の端末を弄ってみた伏見は、電話帳の中に「秋山氷杜」という名を見つけて少しだけ安堵した。
そのまま何気なく端末を弄っていた伏見は、登録されている連絡先がどうしても知らない人間の番号ばかりにしか思えなかった。名前を見ても意味のない文字列であるようにしか見えず、端末の電源を落とす。連絡先の中に「八田美咲」があるかなんて、怖くて確認できなかった。
救護室から出るな、と秋山は言った。しかし、怪我人や病人が休むための部屋であるここで、一体、何をして時間を潰せと言うのだろうか。そもそも、彼がこの場所へと帰ってくるかどうかも分からないというのに。
一人になりたいと願ったのは自分である筈なのに、どうして寂しいと、誰かが傍にいてほしいと考えてしまうのだろう。きっと、今の自分にとってのこの場所は、全く馴染みがない場所。だからこそ、いつも以上に孤独感を感じてしまうのだろう。何気なく寝転んでみたベッドは柔らかいのだけれど、それで落ち着くかと問われると疑問が残る。けれど、どこか懐かしい気がして記憶を辿ってみた伏見は、そういえば学校の保健室のベッドがこんな感じだったな、と思った。真っ白な空間に隔離されて、慣れないベッドに寝かされて。いつからか、そんな空間が嫌になって外へ飛び出すようになった。そして、八田と出会って、それから。
ふわふわとした意識のまま、このままいけばきっといつかの夢を視ることが出来るだろう、という微睡の中へと向かいかけた時。救護室の扉の向こうに人の気配があるような気がした。入ってくるのかと思いきや、そのような様子はない。かといって立ち去るのかと思えばそういうわけでもない。
一瞬だけ、どうしようかと悩んだ。伏見がこの場所で知っている人なんて、辛うじて世話を焼いてくれた秋山くらいだ。全く知らない人間相手に、わざわざ声を掛けてやる義理もないとは思うし、何より、面倒だ。けれど、そのまま何をするわけでも居座られている、というのは居心地が悪い。そう、だからこれは自分が居心地の良い空間を作るためだ、と心の中で誰かに言い訳をして。
――何か用ですか。
救護室からは出ない。出ないまま扉を開けて、近くに立ち尽くしていた男に声を掛けた。何がしたいのか、どうしてここへ来たのかという問いに対しては要領を得ない返答をしてくるものの、男の口から「秋山さんが」という言葉が出てきた時点で警戒することはやめた。一瞬だけ、監視のつもりかと考えてしまったが――何となく、彼の性格上、それ以上にただ純粋に、伏見に何かあったら、という保険として男を寄越したのではないか、と思った。勿論、もしかしたら監視の意味合いの方が強いのかもしれないとは分かっているのだけれど、それを考えてしまうと胸の奥が痛むような気がして、すぐに思考を隅の方へと追いやった。
はっきりとしない男だ、と感じたのは初めだけだった。要領の得ない返答ばかりをし、救護室に足を踏み入れることを躊躇い続けたとは思えないほど馴染んでしまった男に、どうして自分は彼を招き入れてしまったのだろうか、と伏見は真面目に考える羽目になった。
――あ、俺は日高暁っていいます。
伏見が先程まで寝転んでいたベッドへと戻り、今度は腰掛けるだけに留めて男に目を向けた時、思い出したように彼は名乗った。そこから聞きもしていないのにベラベラと話し続ける日高に、伏見は本格的に頭が痛くなってくる。一人で時間を潰し続けることに自信が無くて、彼を招き入れたのは伏見だ。しかし、それは間違いだったのだろう。
眉間に皺が寄せられていっていることを自覚しつつ、伏見はそれに舌打ちをプラスした。途端に、日高の演説は止まる。そして、目に見えて焦り始めた。
――すんません! 俺ばっか一方的に。
その反応を見て日高が空気の読める男であったことに安心する一方、年下に対して過剰反応しすぎではないか、という思いが生まれる。生まれるのだが、そういえば日高も伏見の部下であると言っていたことを思い出した。吠舞羅とは違った意味で上下関係に厳しそうなセプター4のこと。上司の不興を買うことは恐ろしいに違いない、と伏見は一人で納得した。その間、伏見の反応を伺う日高のことは放置である。
舌打ちが効いたのか、その後の無言が効いたのか。借りてきた猫のように静かになってしまった日高に再び舌打ちをすると、大袈裟なほどに肩が跳ねる。そんなに居心地が悪いのならば、早く出ていけばいいのにとは思うのだけれど、そういえば招き入れる際に「何もせず扉の前で立ち尽くされていると落ち着かない」と伏見が言ったものだから、もしかしたら、その言葉が日高をこの場所に留めてしまっているのかもしれないな、と思った。
そわそわとしている日高を見ていると、何となく八田を思い出した。彼もまた、単純な思考回路の持ち主だった。だからきっと、同じ状況に陥ったのならば日高と同じ行動をとるだろう。そう考えてから日高を見ると、ほんの少しだけ親近感がわいた。けれど、日高を自分のパーソナルスペースへと入れても良いかと尋ねられたならば、きっと拒否するのだろうな、と伏見は思った。
伏見の眉間から皺は消えていないものの、逃げ出すことを諦めたらしい日高は恐る恐るといったように、少しずつ言葉を紡ぎだす。それに先程までの勢いはなく、ぽつり、ぽつり、と所々に落とされては波紋を広げていくかのような。けれど、不快ではない。
――俺、伏見さんのこと苦手だったんです。
――何とかして、弱点を見つけてやろうって思ってて。
――熱心に粗探ししてる間に、何かほっとけないなって。
――だからこそ、気が付いたこととか色々あるんですけどね。
――記憶が無くて怖いかもしれないっすけど、秋山さんは大丈夫です。
――他の人が怖くても、秋山さんだけは信じてみてください。
――あの人が一番、伏見さんのことを見てきた人なんで。
そう言って笑う日高は、自分の言葉が伏見にとって信用するに値するかどうかなんて気にしていないのだろう。伏見がその言葉を信用するとは限らないのに、純粋に、伏見が秋山を頼る未来を信じているらしい。それが何となく、自分と同じ世界を伏見が見ているのだと信じてやまない八田を思い出させ、舌打ちが一つ。びくり、と肩を揺らした日高は相当伏見を恐れているらしい。それがまた伏見を苛立たせ、眉間の皺は深くなる。
このまま日高を気にしていても苛立つだけだ、と結論付けた伏見はベッドに上体を倒す。途端に広がる白の世界と、ほんの少し身動ぎをした日高の気配。躊躇いがちにかけられた声を無視しようとして、しかし、唐突に浮かんだ言葉が勝手に口から飛び出す。
――俺、何で全部忘れたんだろう。
消えてしまった部分の記憶は、それほどにまで自分を苦しめるものだったのだろうか、と。秋山も、日高も、本当に短い時間しか接していないのに嫌いな人間だとは思えない。あれほど敵対していた青服の人間だというのに、彼らからすれば伏見なんて敵側から裏切ってやってきた人間だというのに、接してくる温度は優しかった。あの、吠舞羅を彷彿とさせるような、温もり。伏見が苦手とするものではあるけれど、それは上手く対応することが出来ないというだけで、嫌いになるなんて、忘れたいと願うほどにまで嫌悪する時間になるなんてありえないと思った。
ああ、もしかしたら自分は吠舞羅を抜けたのだということを忘れたかったのかもしれないな、と伏見は思い至る。吠舞羅の繋がりが煩わしくて抜け出したというのに、セプター4で同じような空間に甘んじていた自分は、もしかしたら吠舞羅に帰りたくなったのかもしれない。しかしそれが叶わず、今回の事件をきっかけに、帰りたいと願ったのかもしれない。記憶を消したところで、帰ることが出来るわけでもないのに。
伏見の言葉に何かを返そうとする日高の気配だけは伝わってくる。しかし、彼自身も言葉を見つけることが出来ないのか、形にならない母音だけを発し続けていて。
そんな時に、日高の端末が鳴った。
――秋山さんが、すぐに来るそうです。
通話を終えた日高はその言葉だけを残し、どこか名残惜しそうに部屋を出ていった。あれだけ居心地悪そうにしていたから喜んで出ていくと思ったのに。ああ、通話の最後に始末書を書かなければならない、なんて話をしていたからそのせいかもしれないな、と伏見は思う。確かに、八田とどこか似た雰囲気を持つ彼ならば始末書を書くような状況には多くなっていそうだし、その癖に事務作業は苦手であると予想される。あれほど敵対していた組織なのに、案外、自分はこちらでも上手くやっていくことが出来ていたのかもしれない。秩序を司り冷たい印象しか抱いていなかった青服でも、こんなに人間らしく、暖かい。
秋山が来ると分かっていながら横になっているのも何だか変な気がして、伏見はベッドに座り直す。窓の外から差し込む光が眩しくて、何げなく外へと目を向けてみた。やけに青い空が目について、そういえば、いつの間にか自分がセプター4にいることを受け入れてしまっているな、ということに気が付いて、そして。
「伏見さん、大丈夫ですか?」
扉が開いたことに気が付かず、突然かけられた言葉に驚いてしまった。そんな反応をしてしまったことが恥ずかしいものの、秋山は伏見の心情など知らずにゆっくりと近付いてくる。何を言うつもりなのか、と秋山の行動を目で追っていた伏見だったが、秋山が自分の前に立ったことで、ほんの少しだけ身体をずらす。
「……座っても?」
「……どーぞ」
そのつもりで伏見は身体を動かしたのだから。しかし、伏見自身、自分の行動に驚いていた。記憶を失う前ならばともかく、今は初対面と言っても間違いではない程度の付き合いでしかない相手なのだ。それなのに、自分が彼の居場所を作るために動くなんて、と。
微妙な隙間を開けて座った秋山は、しかしどうすれば良いのかと行動を決めかねているようだった。だったらこちらから気になることを問いかけてやる方が良いのか、と思いつつ、思った以上に近かった秋山との距離に驚いて小さく身動ぎをする。不快ではないのだけれど、どうすれば良いのかが分からなくて。
「あの」
「あの」
意を決して上げた声は、幸か不幸か秋山と重なってしまう。お互いに話を始めようと思って声を掛けたのだから、当然、顔は相手の方を向いている。端的に言うと、無言のまま見つめ合ってしまうこと、数秒。さあ、どうしようかと考え始めた伏見とは対照的に、秋山の表情はふっと緩む。
「伏見さんからどうぞ」
発言権を譲られて、そして考える。自分は一体、何を聞きたかったのだろう、と。何も考えていなかったせいですぐには言葉が出てこないのに、普段ならば気まずく感じられるその沈黙が不思議と嫌いではない。そのことに思い至った時、問いかける内容は自然と決まった。
「秋山さんって」
そこまで言って、確認するほどの内容かどうかが分からなくなる。何となく、身体はそうだと訴えてきている。しかし、もしも違ったら? 伏見が忘れてしまった人なのに、もしも問いかける言葉に肯定で返されてしまったら、彼こそが自分の忘れてしまいたかった記憶の鍵かもしれないのに。
記憶に関係するストレイン、ということしか聞いていなくて、伏見には自分の失われた記憶がストレインの気紛れで奪われてしまったのか、それとも自分が望んで差し出したのかが分からない。どちらにせよ、忘れてしまった自分が投げかけて良い問いではないような気がするのだけれど。
「秋山さんって、俺とよく一緒にいた、んですか?」
口にし始めてから、やっぱり止めておけばよかったなんて考えてしまうものだから、自然と語尾へ向かうにしたがって声は小さくなってしまうし、秋山の顔を見ていられなくなって伏見の視線は下げられる。確認していないから秋山がどのような表情を浮かべているのかなんて伏見には分からないけれど、この、僅かな距離が煩わしい。手を伸ばせば簡単に触れられる距離だからこそ、逃げ出せないし、逃げたくない。手放したくない。そんなことを考えてしまうのは、この距離感のせいだ。
「……どうして、そう思ったんですか?」
何となくその言葉が返されるような気はしていたのだけれど、理由となった伏見の感覚を、秋山に伝えても良いものかが分からない。だって、自分はそれを忘れてしまったのに。
けれど、いつまでも黙っているわけにもいかないから。
「……アンタの傍は、安心する、から」
適当に誤魔化すことなんていくらでもできたのに、そうやって誤魔化してしまった先には何もないような気がした。
「ありがとうございます」
肯定も否定もされなかったけれど、秋山のホッとしたらしい雰囲気が伝わってきたものだから、きっと自分の感覚は間違っていなかったのだろうな、と伏見は思った。
記憶を失ってしまったということは、伏見は寮の自分の部屋へも自力では帰ることが出来ないということ。となると、やはり秋山が伏見の部屋まで彼を案内することになる。自分が生活してきていたらしい場所だ、という認識はあるものの、見渡す範囲内で「懐かしい」と感じることができるものなんてどこにもなくて、伏見は急に一人ぼっちになってしまったような感覚に陥ってしまった。
とはいえ、隣には秋山がいるお陰か不安はすぐに霧散して、残るのはただ純粋な興味。目新しい空間に視線を走らせていると――やけに気になる隣からの視線。無視してきたが、いい加減邪魔になってきた。そちらへ目をやると、やけに楽しそうな秋山の表情が見えた。伏見に視線を向けられたことでか慌てて表情を取り繕ったらしい秋山だが、若干、手遅れである。
「なんすか、さっきから」
「何がですか?」
「痛いんですけど、その視線」
今までの行動を全て見られていたのみならず、それを楽しまれていたことが恥ずかしくて、照れ隠しのように目つきが鋭くなってしまうのは仕方がなかった。それなのに、何が楽しいのか、秋山が折角取り繕った表情は形を崩し、緩んだものへと逆戻り。
「ちょっと」
「すみません」
謝っているくせに、その表情から笑みが消えることがない。それを見ていると本当に恥ずかしくて、自然と眉間に皺が寄せられていってしまうのだけれど。
「……ちょっと!」
「あ、すみません!! つい、いつもの癖で……!!」
唐突な、接触。
頬に熱が集まってくるのに、それを止める方法を伏見は知らない。こんなこと、伏見は知らないのに。知らないのに、どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。
「……こんなこと、いつもやってるんすか」
「いつも、ではなかったですね」
いつも、ではなかった。けれど、何も覚えていないはずの自分の身体が反応してしまう程度には、繰り返されていたらしいそれ。
無意識のうちに、伏見の右手は口付けを贈られた自らの眉間へ。
「……伏見さん?」
ああ、泣きたいのは伏見の方なのに、どうして秋山も泣きそうな顔をしているのだろう。
「秋山さん」
「はい?」
「……氷杜さん」
「……はい」
「氷杜、さん」
「は、い」
何気なく呼んでみた「秋山」という響きはなんだか違うような気がして、確かめるように伏見は「氷杜」と名を呼んだ。伏見の行動の理由が分からないからだろう。戸惑いながらも返事をしてくれる秋山の顔が、少しずつ赤くなっていっていて、ほんの少しだけ優越感に浸っていると。
「猿比古さん」
唐突に呼ばれた自分の名前。そんな優しい響きを伏見は知らないのに。知らないのに、どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。どうしてこんなに、胸が締め付けられるのだろう。誰かに、この染まってしまう頬を隠してほしいと願った。伏見はこれ以上、恥ずかしい自分を秋山には見られたくないと思った。
その思いが届いたのか、伏見に固定されていた秋山の視線は移動する。見透かされているようなそれから逃げられたことに安堵しつつも、伏見の胸中には僅かな寂しさが残って。
「ここが貴方の部屋です」
示された扉を見たところで、伏見の胸には何の感慨もわかなかった。ただ、これで秋山と過ごす居心地の良い時間が終わってしまうのだな、とぼんやり考えた。困ったように立ち尽くす秋山を見て、そういえば自分の部屋だということは鍵も自分が持っているはずだと思い至る。手当たり次第にポケットを漁り、見覚えのない、しかしやけに手に馴染む鍵を見つけた。他にそれらしいものが見当たらないのだから正しいのだろうけれど、確信が持てるはずも無い。どことなく緊張しながら鍵穴に差し込み、捻る。ガチャリという音に、小さく息を吐いた。
自分の「家」へは帰ってくることができた。けれど、秋山はこれからどうするのだろう。彼にも彼の家があるだろうし、仕事だってあるはず。帰ってしまうのだろうか。いや、きっと帰ってしまうのだろう。ただ、何となくそれは寂しい。
だから。
「ああ、もう大丈夫ですね。今日はゆっくりと休んで」
「秋山さん」
「何ですか?」
乱暴に自分に注意を向けさせてみたというのに。
「俺の話、聞かせてください」
持ちかけてみた「お願い」があまりにも情けないことに、自然と声は小さくなっていってしまうのだけれど。秋山はそれすらも許容して、優しい声をくれるのだ。
「いいですよ。上がっても?」
「どーぞ……氷杜さん」
「ありがとうございます、猿比古さん」
秋山と呼んでみたり氷杜と呼んでみたり。距離の取り方が未だに分からない伏見の迷いも、秋山は受け入れてしまうのだ。そんな秋山の優しさに甘えながら、伏見は考える。
彼が優しいのは、記憶を失う前の伏見が大切だからなのだろうか、と。
自分の部屋だと言われても、記憶のない伏見にとってそこは「誰かの部屋」でしかなかった。けれど、部屋に置かれている物やその配置を見る限りでは何となく伏見の部屋であるような気もするし、全く知らない人の部屋であるような気もするのだ。部屋の主であるはずの伏見を座らせ、秋山が台所へと消えた時点でその思いは強くなる。
がちゃがちゃと食器を漁る音や、僅かな水音。そして微かに漂ってくる甘い香りと共に、秋山は戻ってくる。その手にはカップが二つ。
「伏見さん、ココアです」
「……どーも」
伏見の部屋であるはずなのに、台所へ消えてから戻ってくるまでの時間がかなり短かった。ここが伏見の部屋である、という言葉に偽りがないというのなら、きっと秋山はよくこの部屋を訪れる程度には伏見と仲が良かったのだろう。そうでなければ、ただココアを入れるだけだとはいえ、これほど早く帰ってくることは出来ないはずだ。しかし、それを確かめるための勇気は、未だ、伏見にはない。
きっとそれなりに親密だったのだろう、という思いは、ココアを口に含むごとに強くなっていく。広がる甘さは、伏見好み。嚥下するごとにじわりと広がる温もりは、強張っていた身体を少しずつ解していく。そして、同時に囁くのだ。秋山氷杜は敵ではない、と。
無音の空間。けれど、不快ではない。ただぼんやりとココアを味わいながら、考えてしまうのは世界を共有している――いや、自分が忘れてしまっただけで、世界を共有していた、と過去形で表さなければならない、友人のこと。
「俺、何で美咲を捨てたんだろう」
零れ落ちた言葉を脳内で繰り返し、思い至ってしまった結論に対して舌打ちを一つ。一瞬だけ舌打ちに反応した秋山だったが、しかし、日高のように取り乱すわけでもなかった。言葉の真意を尋ねても良いものかと迷っているのが、はっきりと伝わってくる。
「えっと、その」
「何で美咲を捨てたって言うかって?」
「……はい」
自分でも、どうして「捨てた」という言葉が出たのかが分からなかったのだ。きっと、そこが気になるのだろうな、ということは簡単に予想できていた。けれど、できれば聞いてほしくは無かった。思い至ってしまった結論は、寂しいものだったから。
「俺には美咲しかいなくて」
「はい」
「美咲にも、俺しかいなくて」
「はい」
「でも、吠舞羅に入って『仲間』が出来て」
「はい」
「美咲が見るのは『仲間』になって」
「はい」
「美咲の隣にいるのは、あのデブになって」
「はい」
「美咲は、俺と『仲間』を同じ括りで見てて」
「はい」
「俺は、美咲と『仲間』を同じ括りでは見れなくて」
「はい」
「美咲が『仲間』を捨てるなんてありえないから」
「はい」
「だから、俺が、美咲を捨てたんだ。きっと」
最初は、二人だけで良かった。伏見はそれだけで満足だったのに、八田が求めたのは「仲間」だった。今の伏見ですらそれを感じていたのだから、きっと「未来」の伏見もそれを感じていたのだろう。そして、八田が「仲間」を求めている時点で伏見から本当の意味で離れていくはずもなくて、だからこそ、決別の道を選んだのは、伏見の方なのだ。
ずっと一緒にいると信じていた八田と道を違えてしまったということは、伏見にとって大きな衝撃だった。しかし、それを嘆くことなんて出来ないのだ。これは、伏見が選んだ道の先の風景なのだから。
「……貴方にとって、吠舞羅はどんな場所でしたか?」
意地悪な質問だな、と伏見は思った。今、この流れで訊くのかと。けれど、今なら何を言っても良いような気がして。
「吠舞羅は居心地の良い場所なんかじゃなかった」
「そう、ですか」
「……でも、嫌い、じゃなかった」
視界が揺らめき、ポタリ、とまだ残っていたココアに落ちた水滴。溶けて消えてしまったかのように静かになった水面を見ていると、ポタリ、ポタリと再び水面を揺らす。
伏見だって、吠舞羅のメンバーだったのだ。八田のようにすぐには打ち解けることができなかったけれど、ゆっくり、ゆっくりと距離を詰めていっているつもりだった。大勢の中に紛れることは、ずっと狭い世界で過ごしてきた伏見にとってはまだ難しく、同時に怖いことだった。だから、人の少ない場所を選んで、少ない人数を相手にすることが精一杯で。
それなのに、大人数を相手にしても怖気付くことなく飛び出していってしまった八田には、それが理解できなかったのだろう。
前は、気付いてくれたのに。
前は、分かってくれたのに。
その他大勢と同じ「仲間」というレッテルを貼られてしまってから、伏見は八田と同じ世界に居続けることを諦めてしまったのかもしれない。あのカウンター席の端に座っている時には考えもしなかったのだけれど、不意にそう思った。八田に理解されることを諦めて、自分の居場所をもう一度、あの場所で作ろうと努力しようとしていたのかもしれない。あの時は必死だったのだけれど、八田と絡むわけでもなくあの場所へ行っていたのは、きっと、そういうことだったのだろう。八田は、そんな伏見の努力を知らず、自分のペースに巻き込んでいくだけなのだ。いつの間にか、付いて行くことに疲れてしまっていた。八田の隣にはもう伏見がいなくても大丈夫だったから、歩くことを、やめた。
唐突に至ってしまったその結論に、伏見の足場は崩れ去ってしまう。先ほどまで立っていた場所であるはずなのに、周囲も、足元も、全てが暗闇。だからきっと、秋山の優しさが暖かすぎて、眩しすぎて、目が、頭が、心が痛くて、泣いてしまうのだ。
温もりが離れてしまったことで、意識がそちらへ向けられる。瞼を閉じたままではあるものの、何となく、世界が眩しい気がして嫌になる。世界は眩しいのに、どうして寒いのだろう。
「……おはようございます、猿比古さん」
やけにはっきりと声が聞こえてきて、ふわり、と周囲が暖かくなったような気がした。けれど、まだ微睡んでいたくて。
「起きてください、猿比古さん」
「んー」
「んー、じゃありません。朝ですよ」
軽く身体を揺すられて、無理矢理に意識を浮上させられる。ああ、隣にいるのは誰だろうか。
「みさき?」
「俺は氷杜です」
「……ひもり?」
「氷杜です」
「ひもり」
美咲ではないのか。それにしても、ひもり、とは誰だろう。何となく、懐かしい響きであるような気はするのだけれど。
「朝、何食べますか?」
「いらない」
「とりあえず、トースト焼きますね」
「いらない」
「焼けたら、呼びに来ますから」
「……ん」
考えることが面倒になって、流される。意識は相変わらず微睡みの中に逃げだそうとするのだけれど、この懐かしさがするりとどこかへ行ってしまうような気がして、それは惜しいと思ってしまう。それなのに、伏見を置いて彼も、また。
――また?
何かが掴めそうな気がしたのだけれど、それよりも先に温もりが離れてしまったことへと意識が向けられてしまう。ただ、ぽんぽんと頭を軽く撫でられて、理由は分からないけれど、安心した。折角の暖かさを纏ったまま眠ってしまいたくて、そのまま伏見は布団の中へと潜ってみる。するり、と秋山がベッドから抜け出してしまったのは分かったけれど、彼の残した暖かさは、まだ残っている。
秋山が朝食の準備をしている音をききながら、伏見はゆっくりと考えてみる。どうして、こんなにも彼の傍は落ち着くのだろう。彼は、美咲ではないのに。
トースターの立てた軽快な音が、憎たらしかった。もう少し、あと少しだけでも、この優しさに包まれていたいのに。
朝食をとりながら、伏見は二週間の、秋山は一週間の休みが与えられたということを伝えられる。相槌を打ちながら、そういえば、自分たちはセプター4、東京法務局戸籍課第四分室、なんて堅苦しい名称の組織に所属しているんだった、ということを思い出した。
同時に教えられたのは、伏見の記憶を奪った――いや、正確に言うと「記憶に蓋をした」らしいストレインとその能力について。ストレイン自身にも分からない、記憶の蓋を開けるための鍵を探さなければならないのだ、ということ。
「カギを探すって、具体的に何やるんですか」
「そこ、なんですよね。どうしましょうか」
あまりにもスラスラと説明してくれるものだから、てっきり秋山にも何か考えがあるのだろうと思っていたのだけれど。癖になってしまっている伏見の舌打ちを軽く流した秋山は、とりあえず、と口を開く。
「伏見さんがよく行っていた場所、行きたい場所へ行ってみませんか?」
「記憶を失う前の俺が?」
「いえ、今の、記憶を失った伏見さんが」
記憶を失った、つまり、吠舞羅時代の伏見が行っていた場所、となると、秋山がいなくても問題はなさそうなのに。むしろ、記憶を失う前の伏見が行っていた場所なんて今の伏見には分からないのだから、秋山も休みであるうちに行くべきだとは思うのだけれど。
秋山自身もそれには気がついているはずなので、もしかしたら、休みが終わってからも伏見に付き合ってくれるつもりなのかもしれない。それに、よく行っていた場所、というのは吠舞羅のメンバーとも行ったことがある場所と重なっている部分もあり、そこで運悪く彼らと遭遇して何らかの問題が生じてしまったら、伏見だけでは上手く対処できるとは思えない。もしかしたら、それを見越してのこと、なのかもしれない。いや、秋山のことだから「吠舞羅時代の伏見がどんな場所へ行っていたのかを知りたい」という純粋な興味だけで動いているのかもしれないけれど。
とりあえず、秋山も立ち入ることを躊躇いそうな吠舞羅の溜まり場、bar『HOMURA』にカギは無いだろうという伏見の予想だけは、先に伝えておく。
「どうして?」
「あの場所で願うことなんて、無い」
無意識の願いがカギになる、とは伝えられていたのだけれど、メンバーに対してならばともかく、あの場所そのものにカギとなる要素があるなんて伏見には思えないのだ。
「チームの吠舞羅は好きじゃなかったけど、barのHOMURAは嫌いじゃなかった、から」
まあ、他の場所でカギが見つからなかったら行ってみようとは思う。けれど、今はまだその時では無い。
秋山も、同じ考えに至ったのだろう。もう少し何か言われるような気がしていたのだが、案外、あっさりと流される。拍子抜けしながらも、伏見はもう一つ、秋山が気にしていそうな話題を口にする。
「アイツらのことですけど」
カギ探しをしているときに遭遇してしまっては、困る面々。記憶を失ってしまった伏見にとってはまだ「仲間」なのだけれど、向こうにとってはそうではないのだ。
「何となく行動パターンは分かるんで、変わってなかったら回避できると思います」
「そう、ですか」
ほっとした表情を見せる秋山には申し訳ないのだけれど、伏見にだって自信があるわけではない。だから小さく「多分ですけど」と付け加えておいた。