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ゆめうつつに、こい。

 戦いの部隊が夜の京都へと移ってしまってから、太刀や大太刀の心配など吹き飛ばすかのように、短刀たちは活き活きと戦場を駆け回っていた。主力となって戦うため、新たな力を得たものもいる。幼い容姿で顕現されたとはいえ刀の付喪神。戦地に己の本質を見出す点については、いつの間にか庇護者として彼らを見守っていた太刀や大太刀と何ら変わりがないのだ。
 苛烈を極める夜の京都市中。戦時の慣れほど恐ろしいものはないが、敵の本陣を退け、一定の安定が確保された時ばかりはその限りではなかった。周囲に目を向け、これこそが自分たちの守らなければならないもの、守り抜いたものであるということを再認識する時間となっていた。
 その一方で、張り詰めた緊張をそっと解し、身体や思考を柔らかくする時間として過ごすものも多かった。一期一振の元へと届けられたシロツメクサによる花冠は、そんな休息の中で作られたものである。
 五虎退が群生した花を街の外れで見つけ、秋田が摘んで帰ろうと提案し、博多が何か作ることができないかと考えた。皆で集めた花を丁寧に編み込んだのは平野で、それを大事に一期一振の元へと抱えてきたのは前田である。作業の間、そして帰路で遭遇した残党狩りは鯰尾の担当だったそうだ。
 折角の贈り物も、時間が経っては萎れてしまう。それでは勿体ないから押し花にしてはどうか、と言い出したのは鶴丸だ。幸いなことに、花は余るほどにあった。暇をしていた短刀や興味を持った本丸の仲間たちも一緒になって作り上げた押し花の栞の一つは、今でも一期一振の手元にある。
 過ごしやすい気候が良いからと、審神者は春か秋の景趣で本丸の季節を固定していることが多かった。本丸の内部は審神者が自由に模様替えをすることのできる「部屋」であると言っても良い。だからこそ本丸の外側、本当の自然に触れたならば、やはりどこかが違うと感じてしまうのだ。
 大切な弟たちが持ち帰ってくれた自然の欠片は、一期一振が顕現して以来増え続けている宝物の一つに数えられている。本が無くとも、その栞だけは持ち歩いているほどに。
「なんだか、妬けるな」
「おや、鶴丸殿にしては随分と素直な」
「取り繕ったところで今更、だろう」
 現在、主力を注ぎ込むべき戦場において太刀は足手まといにしかならない。それ故に仕方のないことであるとはいえ、暇を持て余していることもまた事実だった。出陣は勿論のこと、遠征どころか内番にも割り当てられていない時でなければ、縁側でゆったりと過ごすことも許されない。だからこそありがたく休息を楽しむことができていたのは、随分と前のことであるように感じてしまう。やりたいことなど、やり尽くしてしまった。
 物足りないかもしれないが、と審神者は太刀や大太刀を中心とした部隊を演練へと連れて行ってくれている。一期一振と鶴丸は先日、大暴れしてきたばかりであるが故に留守を任されていた。とはいえ、本当にやることがない。安全地帯として在るのが本丸であるのだから仕方がないのだが、穏やかなままの空間に身体の奥底が疼いてしまうのはやはり刀の付喪神であるからか。
「夜に鳥は飛べぬのでしょう。弟たちが闇を制してしまうまで、羽を休めるのもまた仕事ですよ」
「君なあ……いや、まあいい。そういうことにしておいてやろう」
 だがしかし、鳥ではない君がどうして夜に弟たちと駆けだして行かないのだ、と鶴丸が問えば返ってきたのは簡単な言葉。遊び疲れて帰ってきた弟を迎え入れ、褒めてやるのが兄の仕事であるからだ、と。
 手持ち無沙汰な一期一振が指先でなぞるのは、件の弟たちが持ち帰った花で作った押し花の栞。兄としての表情で愛おしげにそれを弄る一期一振の横顔は、鶴丸から見ても美しいと思う。しかし、面白いか面白くないかの二択で問われたならば後者であると即答するだろう。
 弟に囲まれていない一期一振と語らうことなど、数えるほどにしか機会がないのだ。だというのに、小さな土産を縁として兄として在り、少しの過去と少しの未来に存在する弟たちを愛おしげに見ているようなその姿に嫉妬するなと言うのが無理な話だ。今、隣にいるのは鶴丸国永であって弟ではないぞ、と声を大にして言いたい。それができないのは、鶴丸自身がその表情を好ましく思っているからだった。自身に向けられているわけではないし、今後も向けられる予定がない。それは兄が弟へと向けるものであるからだ。故に、面白くないが嫌いとも言えない。心の機微とは本当に複雑なものである。
 無意識に触れているのであろう栞を一期一振の指先から抜き取ると、一瞬だけ驚いた様子であったが何も言われなかった。取り返そうともしない辺り、宝物に触れても許されるくらいには受け入れられているらしい。栞を光に翳しながら、ふと思い出す。
「そういえば、礼は決まったのか」
 嬉しい土産に対する礼を。しかし、何かを買い与えるのは違う気がする。いつだったか、そう漏らしていたことがあった。鶴丸は弟たちに次いで一期一振の傍で過ごしていると自負しているし、それは事実である。だからこそ、自分が相談を受けていない以上はもう解決した問題であると思っていたのだが、一期一振の顔を見てその認識を改めた。
 どこか気まずそうに、そして苦虫を噛み潰したように。するりと鶴丸から宝物を奪還した彼は、そこに閉じ込めた花に視線を落とす。
「お恥ずかしい話ですが、その」
 最後までは言葉にしなかったが、そういうことらしい。万屋で何か、とは思ってみたものの、実際に気になったものを手に取ってみるとどこか違うのだという。何が違うのかは分からない。ただ、本当にこれで良いのかという言葉が頭から離れてはくれないのだと。
 それを聞いた鶴丸の感想はというと、どこまでも真面目なやつだな、の一言であった。己の直感に従って、早い段階で何かしらを返しておけばここまで悩むことなどなかったのだろう。しかし、生真面目な性格が問題だった。中途半端に引き延ばしてしまったせいで、余計に難しく考えるだけの時間が生まれてしまったに違いない。
 彼の弟たちのことだ。高級なお菓子であったとしても、道ばたの石ころ一つであったとしても、同じように喜んでくれるに違いない。それこそ、兄である一期一振がそうであるように。
「そうだな、俺ならどうするか」
 暇潰しに考えてやるか、と軽く言葉にしてやると、悪戯ならばご遠慮を、と。つまりは鶴丸の案を場合によっては採用しても良いということであると解釈することにする。何事も前向きに。ここ最近の鶴丸が心懸けていることだ。
 ごろりと廊下に身を倒し、瞼を下ろす。行儀が悪いと口うるさく言ううちの何振りかは、確か遠征に出ていたはずだ。残る数振りのうちの一振りは、何も言わずに鶴丸と同じ体勢を取った気配がする。そっと様子を窺ってみると、どこか優しい金色と目が合った。
「……珍しいな」
「たまには同じ目線も悪くないかと」
 いつもは弟たちに合わせておりますので、などという言葉は通り過ぎていく。不意打ちの攻撃により、重傷。戦線崩壊は意地で回避、といったところか。唐突に兄からただの一期一振へと戻ることはやめてほしい。
 熱を持ってしまう頬はどうしようもなく、同じ目線ならばあちらを向け、と強引に一期一振の身体を動かす。くすくすと笑いながらも素直に転がされてくれている時点で手遅れであるような気もするのだが、この辺りについては気分の問題である。僅かに震えている肩については、文字通り目を瞑って誤魔化した。
「ええと、そう、礼の品だったな」
「驚きを期待しておりますので、どうぞそのおつもりで」
 からかい混じりの声色に、どのような方向から攻めてやろうかというところから考えようとしたところで思いとどまる。期待に応えたいとは思うが、求められているのは驚きではないのだ。あくまでも、正攻法で。きっと、それが正しいはずである。
 持ち帰られたのは花が一輪。無事を祈り待つ兄へ、美しい景色を少しでも運ぶことができたなら、と。優しい想いはそのままに、ほんの少しだけ形を変えて一期一振の手元に残っている。
「……芸がない、と言われそうだが」
 恐る恐る瞼を上げた先では、鶴丸が動かした格好をそのままに一期一振が背を向けていた。
「君が美しいと感じたもの、では駄目なのか」
「美しさ、ですか」
「喜んでくれるかは二の次だ。君の弟たちだって、喜んでくれるかどうかではなく、それが綺麗だったから君と共有したかったんじゃないのか」
 何を美しいと思うかはそれぞれの感性にかかっている。彼らが美しいと思ったものを贈ってくれたのだから、こちらも美しいと感じたものを贈り返してやればいい。
 春の桜。
 夏の向日葵。
 秋の桔梗。
 冬の椿。
 鶴丸がすぐに思い出せるだけでも、世界は彩りに満ちている。今は主に本丸の中で探すことになってしまうかもしれないが、これというものが見つからなければ納得ができるまで探せば良い。幸いなことに、時間はたっぷりとあるのだから。
 どうだ、と問いかける声は不安に震えてはいなかったか。求められた期待に応えることはできただろうか。今は少しだけ、彼がこちらを向く瞬間が来なければいいと思っている。そこに失望の色が宿っていたとしたら、きっと耐えられはしないから。
 鶴丸の提案を噛み砕くためか、一拍の間。そして、発声のために息を吸い込む音。肩が僅かに動く。
「正直、真っ当すぎて逆に驚きましたな」
「お、おお」
 声には純粋な驚きだけが乗せられていて、知らぬうちに詰めてしまっていたらしい息をほっと吐き出す。一期一振がこちらを向こうと動きだした様子を見ても、もう、止めようとは思わなかった。
「それでは鶴丸殿、お付き合い願えますか」
 投げかけてくるその笑顔こそが美しいと、きっと鶴丸の感性は正しいのだけれど、他の誰にも見せたくないと思う。いや、違う。そうではない。
「おや、逢瀬のお誘いか」
「縁側で置物となっているよりも、よほど有意義でしょう」
 逢瀬の誘いであることを、否定されなかった。それだけで僅かに誉桜を散らしてしまいそうになって、ぐっと内頬を噛む。あからさまに喜びを見せてしまうことについて、特にこの話題に関しては恥ずかしさが先に立つ。
「それに、放し飼いにしておくと何をされるか分からん御方ですから」
 どうやらそれは一期一振も同じであったようで、早口に付け加えられたそれは鶴丸の悪戯を危惧したかのようなもの。しかし、口先を尖らせながらも頬や耳が染まっているものだから隠しきれていない。自分でも分かっているのか、どこか照れた表情が滲み出てくる。
 目前でそのような可愛らしい反応をされていしまえば、それを弄ってやるのが鶴丸国永という存在である。
「なんだ。君が俺を囲ってくれるのかい」
 腕を伸ばし、一期一振の首裏へと回して引き寄せてやる。元より互いの距離は近い。軽く額を付き合わせながら問うてやると、かわいそうな程に赤くなってくれるものだから気分も上がってくるというものだ。
 隠しきれなくなったことで振り切れたのか、一期一振もまた、鶴丸に腕を回し視線を絡めて表情を作る。それは、やはり美しかった。
「決して逃がさずに愛でて差し上げましょう」
「ならばちゃんと見ておいてくれよ。俺はすぐに飛び立っちまうぜ」
 言いつつ、勢いを付けて起き上がる。感覚が正しければ、そろそろ出陣していた部隊が戻ってくるはずだ。一期一振を、弟たちの元へと返してやらねばならない。
 未だ転がったままの彼を見下ろしてみると、僅かに赤味が差したままである。どうやら、すぐには引かない体質であるらしい。
「おやおや、随分と美味しそうに色付いているじゃないか」
「……今日の鶴はよく喚くようで」
 あまりからかいすぎても悪いかと、少々乱雑に転がったままの頭を撫でてやる。普段は撫でる側であるからか、言葉にしないものの彼がそうされることを好んでいることは伝わってくるものだ。
「次の遠征は俺たちだけに任せてもらえないか、主に進言してくるとしようか」
 ここ数日はずっと大人しくしていたから、羽を伸ばしたいという願いを聞き入れてくれるはずだ。鶴丸自身としてはその言葉に偽りなどなかったのだけれど、一期一振はどこか腑に落ちない様子であった。大人しさの基準について、ちょっとした相違があるらしい。
 何か余計な火種が燃え上がる前にと、鶴丸は早々に離脱を決める。一期一振が身を起こしたとほぼ同時に、出陣部隊が帰還したとの声が聞こえた。

 余程のことがない限り、食事は揃って食べること。本丸規則のうち、新入りが真っ先に教えられることの一つである。それぞれに分かれて担当する仕事を行っていると、どうしても顔を合わせないものがでてきてしまいかねない。その辺りは審神者の采配の見せ所でもあるのだが、どうせならば食事時に集まってしまえば良い、ということになったのだ。
 加えてもう一つ。政府からの連絡事項が伝わりやすい、という理由が大きいことも否めなかった。今回もその例に漏れず、新たな戦場への出陣が決まったとの言葉のおかげで部屋は異様な熱気に包まれている。
 政府と歴史遡行軍との情報戦が激化してきたここ最近、戦場が地中に広がることが増えてきている。単に見回りをしているばかりでは容易に見つからない、ということが大きいのだろう。潰しても、潰しても、繰り返し戦場として選ばれてしまうのだ。人々の持つ「地下には誰某の埋蔵金が眠っている」という妄想が影響してか、戦場となる場所には小判が落ちていることも多い。資金不足に苦しむ本丸にとって、それは地下戦場の魅力的な要素の一つだろう。
 地上とは異なる環境に戸惑うのは敵も同じであるようで、多少は弱体化した彼らを屠ることは容易い。ならば、と投入される敵の数が膨大であるために面倒であることに変わりはなくなってしまうのだが。
 そうしてどこか浮き足立つ仲間たちに、鶴丸はどうしても同調できなかった。
 ――眠る場所を暴いて、何になる。
 どうしたって、その思いが腹の奥底に息づいてしまっていた。
 鶴丸には、主と共に埋葬されたという記憶がある。それを憐れむ言葉を聞くこともあるけれど、鶴丸自身にとって、それは決して憐れまれるべき記憶ではなかった。確かに、もう二度と刀として振るわれることがないのだという悲しさや悔しさはあった。それは事実だ。しかし、一振りの刀として、死後もなお冥土で共に在りたいと願われた喜びは、そういった負の感情など霞んでしまうほどに大きなものだったのだ。
 それ故に、墓を暴かれ、そこから持ち出された当時を思い出すと怒りで震えそうになる。
 刀としての鶴丸国永を救い出した。
 傲慢にも程がある。刀としての鶴丸国永は、主と共に黄泉路を歩けることを誇りとしていたというのに。その思いを穢されたという感覚が大きくて、もしもあの時の自分に力があれば、墓を暴いた人間たち全員を斬り殺してやったのに、とすら考えることがある。
 鶴丸にとって、地下という場所は「眠る場所」であった。それぞれに想いを抱き、眠りにつく場所。そこを潜伏場所として暴いた歴史遡行軍に対する怒りは当然あるが、そこへ進軍する仲間たちにもまた、同様の感情をぶつけたくなってしまうことがあった。眠りを暴かれたものにとって、騒ぎ立てる存在の主義主張など無関係。ただ等しく、悪でしかない。
 ただ、それを口にしてはならぬのだという分別も鶴丸にはあった。行き場のない感情を抱いてしまったとき、鶴丸は本丸のずっと奥に設置されている物置小屋へと逃げ込むことにしていた。その場所には様々なものが雑多に放り込まれていて、用がない限りは誰も入ってこない静かな暗闇だ。それは眠り続けるはずだったあの場所に似ていたし、現在、鶴丸国永という刀が安置されている場所にも似ていた。そこでじっと目を閉じ、心に宿ってしまった鬼を鎮めるのだ。お前の出る幕ではない。今は、まだ。
 かつては地下戦場に閉じ込められ、そしてそこから救出された博多の参戦は確定している。今回もまた粟田口派の刀剣が地下に捕らえられているらしく、同胞を助けるのだと皆が士気を高めていた。その声を壁越しに聞きながら、鶴丸は目を閉じる。ああ、まだ暴れてくれるな身の内の鬼。
 ふと、鶴丸は足音が近付いてくることに気がついた。その音の主が誰であるのかは知っているけれど、今、彼がこちらへとやってくることには疑問しか抱けない。だって、彼は。
「兄、じゃないのか」
 差し込んだ光に対し、思わずその言葉が漏れてしまった。粟田口派が長兄、一期一振吉光は、扉に手を掛けた状態のままで動きを止めた。しかし、そのままでは他の刀剣に見つかってしまうと気がついたらしく、するりと入り込んで扉を閉める。小屋の中は、再び闇に包まれる。
 鶴丸の隣へと腰を下ろす一期一振の姿にも慣れたものだ。数多くの「兄弟」を抱える粟田口派唯一の太刀として、彼には気を張らねばならない時間が多すぎた。鳴狐もまた粟田口に名を連ねる「親戚」ではあるけれど、己よりも身形の幼い彼に頼ることはどうも気が引けてしまうらしい。
 そんな一期一振が見つけた逃げ込み場所は、鶴丸と同じこの場所だった。彼もまた、現在安置されている場所を思い出すらしい。今にも忘れ去られてしまいそうな不安と緊張の中、それでも静かに微睡むことのできていた揺り籠の中を。
「兄、とは言いますが」
 腰を下ろして真っ先に一期一振が口にしたのは、先の鶴丸がこぼした言葉に対する反論だった。横目で窺ったその表情には小さく笑みが浮かべられていて、彼が怒っているわけではないことが分かる。決して広いとは言えない空間だ。一方の機嫌が悪いときほど、居心地の悪いものはない。
 笑みを孕んだまま、一期一振は言葉を続けた。兄とは言いますが、あまり実感が無いのです。
 決して彼の「弟」たちには聞かせられない言葉だと思った。だからこそ、この場所で吐き出されたのだろう。この場所で垣間見ることのできる側面は、他の仲間たちに知られたくないことなのだということくらいはお互いに分かっている。そうでなければ、誰が隠れ忍ぶようにしてこのような場所にまで足を運ぶというのだろうか。
 酷いオニイサマだな、と言いながらも鶴丸にはそれを咎めるつもりなど全くなかった。太刀よりも打刀、打刀よりも脇差、脇差よりも短刀。刀種によって器の年齢区分がおおまかに定められているというだけで、実際の「年齢」通りであるわけではない。同じ刀匠によって生み出された「兄弟」であったとしても、本丸で初めて共に在ることだって。
 自身の「兄弟」が未だ参戦していないせいか、どうしても違和感を拭えない鶴丸の感覚を一期一振も理解してくれているらしい。むしろ、同じであったと言ってもいい。この場所であったからこそ口に出された、小さな秘密だった。
 ほんの少しの静寂を経て、言葉は再び交わされる。
「今回、鶴丸殿はどうしてこちらに」
「地下は穏やかな寝所であるべきだ、というのが持論でな」
「踏み荒らすのは両陣営とも同じ、と。毎度のことながら、我が刀派のものがご迷惑を」
「先に戦場を定めるのは敵方だろう。仕方のないことだと分かってはいるさ」
 それを上手く飲み込むことができるかどうかについては別問題である、というだけで。
 囚われの身となった仲間を助けなければ、という思いはしっかりとある。それが一期一振の「弟」であるのであれば尚更に。ただ、その戦場となる場所だけは何とかならないものかと思い続けている。鶴丸がこうして物置小屋に引きこもって愚痴を吐き出したところで、何も変わらないのだと分かってはいるのだが。
 尋ねられたために鶴丸は答えたのだが、こちらから尋ね返すかどうかについてはよく見極めなければならない。心の機微とは難しいもので、人の器を得たからこそ、機嫌を損ねてしまった時に何をされるのかという緊張感、そして僅かな興味と期待が胸に生まれる。単なる刀でしかなかった時分には、考慮しなくともよかった部分であるとも言える。
 ひとりでに動く妖刀だ、と呼ばれたものならばともかくとして、鶴丸や一期一振のようなごく一般的な存在にとっては思念による会話だけで精一杯。相手を損ねることも、相手に損ねられることもなかった。ただ不快感を抱くばかりで、しかしそれもすぐに忘れることが可能であった。人の器を得た影響からか、体感する時間の長さが随分と変わってしまったように思うのは鶴丸だけであろうか。
 隙間から入り込んでくる僅かな光だけを頼りにし、一期一振の様子を窺う。彼は、一体何を望んでいるのだろうか。胸の内でぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまった感情を吐き出すことなのか、紐解くことなのか、それとも黙って静かに時間を過ごしたいのか。
 互いに無言のまま、視線が絡み合う。闇の中に浮かぶ瞳は、随分と複雑な色をしている。
「……どうか、したのか」
 沈黙に耐えることができなかった。無造作に放り投げられていた指に己のそれを絡め、緩く握る。ひんやりと冷気を吸い取ってしまっていたらしいそれは、まるで鶴丸を拒絶するような。
 熱を分け与えるように握り込まれた自身の指を一瞥し、一期一振は瞼を下ろしてほっと息を吐いた。息を詰めるばかりでは言葉まで閉じ込めたままになってしまう。だから、その様子を見た鶴丸もまた、胸を撫で下ろした。少なくとも、心の一端くらいはさらけ出してくれるらしいから。
 息を吐き出した形のまま開かれて止まっている唇が、再び震えるその瞬間を待つ。そこから漏れ出てくるものは、果たして鶴丸にも受け止めることのできるものなのだろうか。無意識のうちに、力が籠もる。
「少々、疲れてしまいまして」
 困ったように微笑んだ一期一振の手は、鶴丸が絡め取っていてもなお、震えているように思えた。それは寒さのせいであると誤魔化しながら、指を一度解き、包み込むような形へと変化させる。未だに冷たいその場所へ少しでも熱を分け与えてやりたくて。
 相変わらず彼の瞳は閉ざされたままであるけれど、ただ、鶴丸に全てを委ねてくれているのだということは伝わってきた。全てを取りこぼさないように、受け止められるようにと、意識して優しく握り込む。
「仲間となる刀剣が地下深くに囚われているのであれば、それは助けに行くことが当然のことであるとは分かっています」
 それが「兄弟」と呼ばれる関係性の刀剣であるのならば尚更のこと。それでも、上手く噛み砕くことのできない思いがある。
「あの場所が……大阪城が戦場となることは好かんのです」
 小さく零された言葉には、これまでずっと飲み込んできていたのであろう感情がぐっと詰め込まれていた。言葉と同時に、閉じられた瞳の隙間から流れ落ちるものがある。緩く縋られたことに、胸の奥底で仄暗い光が灯ったような気がした。
「良い記憶も、悪い記憶もあの場所には眠っているというのに、どうして」
 相変わらず、一期一振の指先は凍りついたままだった。静かに、押し出されるようにして流れ出ている奔流は、弟と呼ばれる彼らの前では決して見せることのできなかったものだ。薄暗い物置小屋の中いっぱいに仄暗い感情が渦巻き、暴れようとする。けれど、それを外へと逃がしてはならないことを知っていた。
 行き場のない怒りや悲しみ、苦しみ、やるせなさを抱えたまま、この場所を一歩でも出たのならば一期一振は「兄」の仮面でそれらを再び覆い隠してしまうのだろう。鶴丸にはそれが耐えがたかった。今は戦時。個々の細やかな感情に気を配りながら勝ち進めることができるほど、現実は甘くない。平安生まれの太刀鶴丸国永、一派至高の太刀と呼ばれる一期一振吉光は、それを嫌というほどに知っていた。
 震え、白くなった指先を柔らかく包み込んだ鶴丸は、ゆっくりと持ち上げ、そして優しく唇を落とす。
「ここは、あの場所よりも寒いな」
「ええ、あの場所よりもずっと寒い」
 いつ忘れ去られてしまうかと恐れるばかりであった、暗闇の揺り籠。きっと、ずっと寒かったのだ。人の器を得てしまったものだから、今の方がずっと寒いだけで。だって、己の肌はこんなにも熱い。
 零れ落ちた雫はほんの僅かで、微量な光を反射した時にだけ、その存在を露わにする。取り繕ってしまえば、そこに水の痕跡を見出すことは不可能に近いだろう。それが分かっているからこそ、鶴丸はそっと手を離す。どうしたって冷たいままだったその指先に、熱を灯してやりたかったと名残惜しく思いながら。
 弟たちのために早く戻ってやらなければならない、とでも考えているのだろう。一期一振は手早く感情の整理を終えてしまったらしい。弟たちに見せることのできぬものは、全てをこの小屋の中へ置き去りに。何かを捨てていかなければ、この器に収まりきらないことを知っている。
「この調子だと、遠征はお預けか」
 手入れのための資材を集めるためにと、組まれることはあるかもしれない。しかし、それは鶴丸と一期一振が望む形ではないだろう。縁側で交わした言葉が実現する未来が先延ばしになったことは確実だった。思っていた以上に楽しみにしていたのか、立ち去ろうとした背に投げた言葉に落胆の色が混ざってしまう。だが、それでよかった。鶴丸は仄暗い闇の中に座り込んでいるし、一期一振もまた、光の中へは歩き出していない。
 戸に掛けていた手はそのままに、一期一振は振り返った。そこに、同じ色を見る。
「……早いところ、制圧してしまいましょう」
「制圧って、君なあ」
「何も間違っていないでしょう。敵を制し、戦場を制し」
「そして弟を救い出す、か」
 確かに、一期一振の言葉は正しいのだろう。いくら感情が叫んだところで、それは変わらない。そうであるならば、鶴丸の歩むべき道も一つだった。身の内に巣喰う鬼を飼い慣らし、戦地の鬼を斬り捨てる。なんと難しいことだろう。
「あまり、侮ってやるなよ」
「随分と気弱な発言ですな」
「無様を晒したら存分に笑ってやるから覚悟しておけ」
 敵とて愚かではない。これまでの敗北から、何かしらの新しい一手を用意している可能性もある。実際に赴かなければ詳細は分からないが、それでも、やるべきことは変わらない。敵に合わせて戦略を練り、敵を屠るのみ。であるならば、ひたすらに強気で攻めることもまた、一手。
 言葉を交わしている間に、少しずつではあるがいつもの調子が戻ってくる。
「臆病風に羽ばたく鶴を嘲笑ってさしあげましょう」
 艶やかな表情と共にそう言い残し、今度こそ一期一振は歩き出す。振り返ることはない。そこには、彼が隠してしまいたいものがしまい込まれているのだから。
 差し込んできた光は一筋のみ、すぐ薄暗さに包まれたその場所で、鶴丸はゆっくりと息を吸い込む。灯ってしまった仄暗い熱を、彼の残した仄暗い奔流で消してしまわなければ、と。そうでもしなければ、眠らせたはずの鬼が叫びだしてしまうような気さえした。

 ふと浮かんだ慣れた闇の色を、目前の敵と共に切り捨てる。
 初めの頃こそ「れべりんぐだ」などと言いながら顕現したばかりのものを投入していた審神者も、階層を下る毎に力を増す敵の多さに辟易したらしい。効率を重視だとでも言うように、大太刀や薙刀を太刀で固める部隊へと変更した。区切りは地下の五十階。自分たちが今どこにいるのかについては、早々に考えることをやめた。その辺りの管理は采配者の仕事であって、前線で戦う鶴丸たちの成すべきことはただひたすらに目前の敵を屠って下層へ向かうこと。ここだ、という場所できっと連絡があるだろう。
 一部隊を倒し、束の間の休息。警戒を怠ることはないが、経験として敵の部隊は一定の間隔で配置されている。少しであれば力を抜いても問題はない。周囲に何か落ちていないか確認をする鶴丸の横に、鶯丸が並んだ。遠戦による細かなものはあるものの、大きな傷はないようだ。彼もまた、ここ最近は本丸で待機を強いられていた存在である。久しぶりの戦場に、どこか楽しげな様子であった。
 出陣の部隊構成を入れ替える。そう言って集められたのは、蛍丸、石切丸、膝丸、小狐丸、鶯丸、そして鶴丸。いい加減に疲れてきたらしい審神者曰く、何となく「丸」で固めてみたかっただけではあるが後悔はしていない。部隊長を拝命することになってしまった鶴丸としては頭の痛くなる発言ではあったが、それでも、単調な戦場に飽き始めていたのはこちらとて同じ。程よい笑いに、良い意味で力が抜けたことは事実だ。
「なんだ、また空振りか」
「出陣を繰り返してきたんだ、粗方を狩り尽くしてしまったんだろうさ」
 この調子ならば予想よりも早く任務が終わるかもしれない。一部の戦闘を好む面々が残念がるだろうが、構うものか。鶴丸にとって、そして一期一振にとってこの場所は静けさに包まれているべき場所だった。仲間を助け出すためであるとはいえ、己が踏み荒らす一員として名を連ねている状況は快さからほど遠い。
 茶をこよなく愛し、本丸で穏やかに過ごす時間を好んでいる鶯丸ではあるが、決して戦いを厭うているわけではない。むしろ、好戦的な部類に入るだろうか。戦場を羽ばたき、敵へと喰らい付くその鮮やかさ。此度の任務を喜んだ一振りであると言っても良いだろう。もっとも、彼の場合は地下で手に入る小判が目的であるのかもしれないが。羽振りが良くなれば良い茶葉が手に入る、とは少し前の出陣での言葉であったか。
「しかし、粟田口も災難だな。何振りが地下に閉じ込められたんだ」
「あまり言ってやるなよ」
 短刀はどうしたって見目が幼くなる。人の器を得て自力で戦うということにも慣れていなければ、大型の歴史遡行軍に囲まれて打破することは難しいだろう。顕現された当初は、最も難易度の低い戦場であっても傷を負わされ、相手に致命傷を与えることができずにいたのだから。仲間の存在にどれほど助けられたことか。
 周囲に敵がいないかと走らせた視線が、暗がりに止まる。懐かしい色。あの、揺り籠の。
「……ここは、どうも眠くなって仕方がない」
 同じ場所に目を止めたらしい鶯丸の言葉に、やはりそうなのかと思った。静かで、退屈で、緩やかな死に向かっていた揺り籠の中。眠りに抗おうと、戦った記憶。
「おいおい、寝首を掻かれても文句は言わないでくれよ」
「ちゃんと毎日、耳元で囀ってやろう」
 それこそ、あの頃のお前のように。
 くすくすと笑いながら告げられた言葉に、鶴丸はぐっと言葉に詰まった。あの頃は、ただただ必死だったのだ。共に在ることのできる貴重な刀剣仲間、それも矜持に加えて教養もある。眠らせてしまうには惜しく、それこそ騒々しいと言われるほどに囀り続けていたように思う。今にして思えば、恥ずかしさしかない。
「鶯の囀りか。よく眠れそうだ」
「あの子守歌にもならん囀りに比べたらな」
 立派な安眠妨害だったぞ、とは果たして褒めているのか貶しているのか。適当に礼を述べて流しつつ、そろそろ休憩も終わりにするかと気持ちを切り替えていく。早く、目的地にまで辿り着かなければならない。このような場所で眠らされ続けるなど、死へ向かっていることと同じだ。
「さて、行くか。皆は大丈夫か」
 声を掛けつつ、怪我や刀装の状態に目を配る。進軍しても良いのか、撤退をするのか。決定権が審神者にあるとはいえ、戦場で実際に見て判断をするのは部隊長の仕事である。極度に疲労が溜まっているものもおらず、これならば進軍しても構わないと審神者へ連絡をしようとした矢先、闇が動いた。暗がりから、鬼が。

 帰還した部隊は、あれは何だと問うた。
 あれは、暗がりから現れた。真っ先に気がついた鶴丸が刃を向け、助太刀をする前に決着がついた。敵は闇に紛れて姿を消し、鶴丸は意識を失った。致命傷ではないはずなのに、まるで生気を吸い取られたかのような。帰還し、手入れをしても一向に目覚める様子がない。審神者が何に襲われたのかと問えば、誰にも分からないのだという。気がついたらそこにいて、気がついたら消えていた。あれは何なのか、と。
 鶴丸国永は、未だ眠っている。
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