砂糖の海
ふわり、と意識が浮上する。部屋中に満ちている朝日に目が眩み、しかしそれでも、今いる場所が自室ではないことくらいは秋山にも分かる。
「……ああ、猿比古さんの」
泣き疲れてそのまま眠る、という随分と可愛らしいことをしてくれた伏見は、しっかりと秋山の服を握りしめたまま意識を落としていた。引きはがしてしまっては、きっと折角眠った彼が起きてしまうから――というのはただの建前で、ただ秋山が離れたくなかったのだ。目覚めた後の伏見はきっと、記憶が戻らない限りは秋山にここまで近付くことを許しはしないから。
いや、もしかしたら記憶が戻ってからも。
嫌な想像を振り払い、秋山は未だに眠っている伏見の方へと顔を向ける。起こしてしまうかと冷や冷やしながら抱きかかえて運んだベッドの上、そのまま秋山に抱きしめられる形のままで眠っている彼の表情は、やはりあどけない。
この温もりを手放さなければならないことを名残惜しく思いつつ、秋山はそっと、伏見の下敷きになっている腕を引き抜いた。小さな声を漏らしつつ身動ぎをする伏見に、一瞬だけひやりとする。しかし、彼の瞼が開かれる様子は無い。
「……おはようございます、猿比古さん」
ほんの少しだけ迷って、小さく声を掛けてみる。起きる素振りを見せない伏見に、どうしようかと一瞬悩んで。
「起きてください、猿比古さん」
「んー」
「んー、じゃありません。朝ですよ」
軽く身体を揺すってみると、ようやく意識は浮上したらしい。いや、浮上した、というにはまだ足りないかもしれない。夢と現実の境界を未だに彷徨っているらしい彼の言葉は、言葉の形を成していない。
「みさき?」
「俺は氷杜です」
「……ひもり?」
「氷杜です」
「ひもり」
言葉のやり取りは出来る程度にまで覚醒したらしいが、それにしても、朝から自分の名前を連呼されるというのは少々気恥ずかしい。秋山は早々に話題を変えた。
「朝、何食べますか?」
「いらない」
「とりあえず、トースト焼きますね」
「いらない」
「焼けたら、呼びに来ますから」
「……ん」
彼と同じ時間を過ごすようになってから知ったのが、意外と彼は押しに弱いということ。特に朝は、よほど機嫌が悪くない限りは強引に進められた朝食準備に逆らうこともない。ぽんぽん、と頭を軽く撫でつけてやると、嫌だったのか布団の中に潜ってしまった。それに苦笑しつつベッドを抜けた秋山は、朝食の準備をしながら端末を確認する。
「猿比古さんが休み、で……俺も?」
急な交代の連絡。秋山と伏見が有給を取ったことになり、非番だった人間が出勤するという。秋山は少なくとも一週間、伏見についても二週間は休んでもいい、と。つまり、記憶を失ってしまった伏見を秋山がサポートしつつ、一週間で記憶の蓋を開ける為のカギを探せということ。
今日も出勤するつもりで秋山は目覚めたし、極力は共に行動するようにしろ、と言われている伏見をとりあえず起こしてみた。よって、時間だけは大量にある。ただ、伏見の記憶の蓋を開ける為のカギなんて、見当もつかない。
どうしようか、と思考の海に沈んでいた秋山の意識を浮上させたのは、トースターの立てた軽快な音。
「……猿比古さんの後悔って、何なんだろう」
それが分かれば、カギも見つかるような気がした。
朝食をとりながら、秋山は先程メールで送られた内容を伏見に伝えていく。相槌を打つ以外は黙って聞いていた伏見は、秋山が話し終わったことを確認するとようやく問いを投げかける。
「カギを探すって、具体的に何やるんですか」
「そこ、なんですよね。どうしましょうか」
考えていなかったのか、とでも言いたいのか盛大に舌打ちをしてくれる伏見だが、秋山だってこのようなケースは初めてで、どうすれば良いのかが分からない。けれど、きっと今の伏見の記憶の状態というのは、記憶を失う前の伏見が望んだ状態なのだろうから。
「伏見さんがよく行っていた場所、行きたい場所へ行ってみませんか?」
「記憶を失う前の俺が?」
「いえ、今の、記憶を失った伏見さんが」
カギがどこにあるのか分からない以上、どこに行けばいいのか皆目見当がつかない。ならばいっそ、可能性のありそうな場所を虱潰しに回ってみるしかない。記憶を失う前の伏見がどのような場所へ行っていたのかということは秋山にもわかるし、有給が切れてしまった後も何とか共に向かうことが出来る。しかし、吠舞羅時代の彼の向かう先が分からない以上、先に潰しておく方が得策だろう。勿論、吠舞羅の溜まり場であるbar『HOMURA』に入ることは出来ないが。
伏見もそれは分かっているのだろう。あのbarではないだろう、という予想を早々に口にした。
「どうして?」
「あの場所で願うことなんて、無い」
伏見には、無意識の願いがカギになると伝えてある。無意識下の願いだから、吠舞羅での何かが願いになっているかもしれないのに、その可能性を切り捨ててしまって本当に良いのだろうか。
戸惑う秋山の様子に気が付いたのだろう。伏見はぼそぼそと付け加える。
「チームの吠舞羅は好きじゃなかったけど、barのHOMURAは嫌いじゃなかった、から」
ああ、だからあの場所へ行っても今さら願うことなんて無い、ということだろう。
もしかしたらその判断が間違っているのかもしれないけれど、それは、この一週間の間にカギが見つからず、他の候補地が潰されてしまった時に考えればいい話。
そういえば、今の伏見が選ぶ場所というのは高い確率で鎮目町、吠舞羅のテリトリーである気がするのだけれど、吠舞羅のメンバーに見つかってしまったら、特に、因縁の相手である八田に出会ってしまったらどうすれば良いのだろうかと秋山が考えていると、伏見も同じことを考えたのか「アイツらのことですけど」と続ける。
「何となく行動パターンは分かるんで、変わってなかったら回避できると思います」
「そう、ですか」
それは頼もしい限りだが、彼自身もそれほど自信があるわけではないのか小さく「多分ですけど」と付け足していた。
少々危うい箇所もあったのだが、何とか無事に伏見の望む場所を巡り切ることが出来た。しかし、伏見の記憶は戻る素振りを見せていない。
「……猿比古さんって、やっぱり子供なんですね」
「バカにしてんすか。氷杜さんも、やっぱり優等生だったんですね」
何だかんだあって、互いの呼称は名前で落ち着いた。一日中、吠舞羅時代の彼が過ごした場所を共に巡る中で分かったことといえば、互いの距離感とどのような人間だったのかということ。そして、秋山は今の伏見からもかなり近くまで寄ることを許されているらしいということ。
やけにその距離に慣れているな、と思いながらも受け入れていると、どうやらそれは伏見と八田が、道を分かつまでの距離感らしかった。伏見と秋山の距離感とは、少し違うそれが新鮮で、同時に、その距離を許されていた八田に嫉妬して、いとも簡単に捨てた八田に対して憤り。
誰かの名を呼ぼうとして振り返った彼は、その音を出すことを一瞬、躊躇う。
美咲。
氷杜。
どちらも同じ母音で始まる名前で、彼がどちらを呼ぼうとしたのかなんて分からない。けれど、躊躇う一瞬の間に少しだけ寂しさが浮かぶことがあったから、全てがそうだとは言い切れなくても、そのうちいくつかは八田を呼ぼうとしたのだろう。
伏見自身、秋山との距離感に戸惑っているようだった。秋山が新鮮だと感じる距離間の一方で、身体に馴染んでいる恋人としての距離感も確かにそこにあった。けれど、それを今の伏見は知らないのだから、身体は程よい距離を取れているのに、心が付いていけていない。そんな印象を受けた。
伏見が忘れてしまっていても、彼の身体は秋山と過ごした時間をしっかりと覚えている。そのことが嬉しくて、伏見の記憶の蓋を探す手がかりが何も見つからなかったというのに、秋山は笑ってしまう。それは目敏く見つけた伏見によって咎められるのだけれど、秋山には零れてしまう笑みをどうすることもできないのだ。
今ではもう慣れてしまった舌打ちと、眉間の皺。伏見の部屋へと帰ってきた、ということが大きいのか、それとも彼の身体が秋山の愛を覚えているというのが分かったということが大きいのか。
「……ちょっと」
「ああ、すみません」
「反省してないでしょ」
「ふふ、分かっちゃいますか」
今の彼が覚えていない約束も、身体が覚えているというのなら。もしかしたら単に驚いているからかもしれないけれど、眉間の皺は口付けとともに消えていく。
伏見が記憶を取り戻してしまえば、もしかしたらこんな距離をもう許されないのかもしれないから。だからもういっそ潔く、最後かもしれないこの距離での時間を一週間だけ。
伏見は、後悔していると言った。だから記憶に蓋をしてしまったのだろうし、記憶を取り戻したのならきっと、以前のようには触れられなくなってしまうだろう。
だから秋山は、一週間だけだから、と以前以上に伏見の世話を焼いた。その行為に伏見は毎回、面倒臭そうな素振りを見せるのだけれど、それはあくまでも素振りだけ。実際には嬉しくて、でも恥ずかしくてどうすれば良いのかが分かっていないだけなのだ。彼の時間は、世界がほんの少し広がって、そこから一気に広がってしまって、人の温かさを上手く感じることが出来なくなってしまったところで止まっている。だから、震える彼を包み込むように、秋山は尽くし続けたのだ。相変わらず、これは自分の自己満足でしかないのだと自嘲しながら。
一週間のうちに伏見が記憶を取り戻すカギとなりそうな場所へは手当たり次第に向かったし、吠舞羅の幹部に話を通して何人かのメンバーと接触もしてみた。それでも、どれも彼の記憶の蓋を開ける為のカギではなかった。
あと数時間で伏見を独占することのできる時間が終わってしまうことが、秋山は惜しかった。伏見にはあと一週間の猶予が与えられているが、秋山は今日で終わり。明日の朝を迎えてしまえば、溜まってしまっているであろう仕事をしに向かわなければならない。その間も、伏見は自力で記憶を取り戻そうとするのだろうか。もしも記憶が戻らなければ、彼はその後どうするのだろうか。取り留めのない不安と、もしも記憶が戻らなければこの時間が続くのではないか、という甘い言葉が交互に秋山を攻め立てた。
ここ一週間の間に恒例となった、伏見の部屋で行う語らいの時間。放置していると本当に何も食べない伏見を心配して秋山が夕食を作ったのが始まりで、夕食を食べながら、片付けながら、そして片付けてから眠るまでの間、様々なことを話した。記憶を失う前の伏見がどのような存在だったのかや、彼がどのような仕事をしていたのかということも、請われるままに話して聞かせた。きっと、万が一記憶が戻らなかったとしても、すぐに記憶を失う前の彼同様に働くことが出来るだろう。初めは秋山がいなければ動けなかった彼も、今ではきっと、秋山無しで動けてしまう。
何とも言えない寂しさを抱えたまま、それでも最後の独占できる時間をそのような負の感情に支配されたまま過ごしたくないと、秋山は意識を切り替えた。
「あの」
「氷杜さんって、恋人にはとことん尽くすタイプでしょう」
「まあ、そうですけど……どうしてそう思ったんですか」
その「恋人」が貴方なのだと伝えることが出来るはずも無く、けれど伏見の言葉は秋山の本質を見抜いたものだった。薄々、最後だと割り切って全力で彼を甘やかしたせいだとは理解しているけれど、それでも、尋ねずにはいられない。
伏見も秋山のそんな思いに気が付いているのか、分かっているくせに、と笑いながらも理由を述べる。
「だって、俺が相手でもドロドロに甘やかそうとするから」
「そのまま、ドロドロに溶かされてくれても良かったんですけどね」
秋山がいなければ、形を保てないくらいドロドロに。そうすればきっと、伏見は秋山の元から離れないはずなのに。
自己満足から始まった関係のはずだった。伏見が幸せでいてくれるならそれでいい、と。けれど、いざ実際に伏見が自分の傍から離れてしまうかもしれないという段になって初めてわかる。伏見がいなくなってしまうのは嫌だ。伏見に幸せであってほしいと願う想いは変わらないのに、伏見が彼の隣に立つ権利を秋山から奪ってしまうというのが嫌だった。その権利を他の誰かに渡してしまうのを見るくらいなら、伏見にとって秋山が不要な存在になった時点で、殺してほしかった。もう、自己満足では我慢できない。
ドロドロに溶けてしまえ、という秋山の願いが通じたのか、ぽつりと伏見は呟いた。
「氷杜さんになら、溶かされてもいいかもしれない」
「え?」
「あ、でも氷杜さんって、全部自己満足だからって言いそう」
ぎくり、とした。それは、彼に言ったことのある言葉だから記憶が戻ったのかと思って。一体、何がカギになったのかも分からないのに。
けれど、どうやらそれは杞憂らしかった。伏見の表情はただ純粋にそう思っての言葉だったと伝えてきていたから。そこまで伏見に読まれているのかと思ったり、そこまで読まれやすい性格だったかと思ったり、でも、それだけ濃密な時間をこの一週間は過ごすことが出来たのかもしれないと思ったり、忙しく考えている秋山の隣で伏見は眉間に皺を寄せた。それがあまりにも唐突だったから、秋山にはその理由が分からない。
「どうしたんですか?」
「自己満足とか、ムカつくからイヤだ」
「……え?」
「うん。やっぱ、氷杜さんに溶かされるのはイヤだ」
だからごめんなさい、なんて冗談めかして笑う伏見だが、秋山は笑えない。だって、今、彼は何と言った。
戸惑う秋山に気が付いていないのか、それとも秋山が戸惑っているからなのか、伏見はぽとりぽとりと言葉を落としていく。彼自身の中でも考えが纏まっていないのだろう。その言葉は全く要領を得ないのだけれど、だからこそ、それこそが本音なのだと思えた。
「自己満足ってことは、結局、こちらの意志や思いなんて無視するわけですよね? 別に、自分が満たされるためなら誰でもいいって感じで、いや、まあもしかしたらその人が相手だから、みたいな感じかもしれないですけど、でも、それにしたって全部自己満足で片付けられるとか、イヤです。満足したら、こっちの都合なんて考えずに捨てていきそうだし、そもそも、自己満足だからってこっちからの行為を全部否定してきそう。うわー、何か、本当に氷杜さんに似合う。怖い。氷杜さん、付き合う時は気を付けた方がいいですよ。相手をドロドロに溶かして逃げられなくしてるのに、自分は気が付かないでさっさと捨てていきそうだから」
体の芯が、指先が、一気に冷えた。ああ、これが彼の後悔か、なんて。
ただ、何か言わなければならないと思った。伏見に誤解されたままでは、いたくなかった。ああ、この思いも自己満足かもしれない、なんて思いながら。
「自己満足で始まっても、俺、我儘なんで我慢できなくなるんです」
「は?」
「初めは確かに自己満足、自己献身かもしれないですけど、だんだん、相手が自分から離れていってしまうのが嫌になって、だから、自己満足だ、なんて言いながら相手をドロドロに溶かして逃げられなくしちゃいたくなるんです」
ああ、だから伏見が逃げられなくなるように、ここ一週間は甘やかしていたのかもしれないな、なんてぼんやり思う。記憶を失う前の伏見も、失ってからの伏見も全部ドロドロに溶けて混ざり合ってしまって、そして、秋山がいなければ生きられないくらいになってしまえば幸せなのに、と。秋山は伏見を失わないし、伏見も秋山を失わない。伏見は捨てられるかもしれないと怯えているのかもしれないが、むしろ、秋山の方が伏見の居ない世界に耐えられないのだから。
それなのに、目の前に座っている伏見はどう返せばいいのかと困ってしまっているようで。秋山には、どうすればこの思いが伝わるのかが分からない。何と表現してもそれは本質を表してはいない気がするのだ。ああ、どうして人間は言葉を介してでなければ思いを伝えられないのだろうか。
「……いっそ、会わない方が良かったのかもしれない」
伏見が肩を揺らしたのが見えた。
「そうすれば、きっと二人とも後悔なんてしなかったのに」
どうして、好きなのに苦しまなければならないのだろう。
ああ、だから。だから、伏見は記憶に蓋をしてしまったのか。後悔して、後悔して、全部忘れてやり直したくて。けれど、それでは不公平ではないか。
「……俺も、その真っ白な世界へ連れて行ってくれたら良かったのに」
今の伏見にそんなことを言っても、何も変わりはしないし彼が困ってしまうだけなのに。頭では分かっていても、秋山は自分の言葉を止めることが出来なくて。
「猿比古さん、幸せですか?」
あのストレインは、嫌な記憶に蓋をすることで人は幸せになれると言った。ならば、記憶に蓋をした伏見は、どうなのだろう。幸せなのだろうか。幸せであればいいと思うのだけれど、秋山と出会ったことを無かったことにしたくて記憶を消したというのなら、秋山と過ごしたこの一週間は幸せとは程遠いものになってしまったのかもしれない。
だから、伏見は泣いているのかもしれない。
「猿比古さん?」
どうして彼は、泣いているのだろう。どうして泣きながら、笑っているのだろう。
「俺は、幸せだったよ」
それっきり伏見は黙ってしまって、そのまま秋山に抱きついてきてしまったものだから、秋山には彼がどんな表情をしているのかが分からないのだけれど。ただ、一つだけ分かったのは「幸せだった」と過去形になってしまったそれによって、伏見の記憶が戻ったのだということだけだった。
「……ああ、猿比古さんの」
泣き疲れてそのまま眠る、という随分と可愛らしいことをしてくれた伏見は、しっかりと秋山の服を握りしめたまま意識を落としていた。引きはがしてしまっては、きっと折角眠った彼が起きてしまうから――というのはただの建前で、ただ秋山が離れたくなかったのだ。目覚めた後の伏見はきっと、記憶が戻らない限りは秋山にここまで近付くことを許しはしないから。
いや、もしかしたら記憶が戻ってからも。
嫌な想像を振り払い、秋山は未だに眠っている伏見の方へと顔を向ける。起こしてしまうかと冷や冷やしながら抱きかかえて運んだベッドの上、そのまま秋山に抱きしめられる形のままで眠っている彼の表情は、やはりあどけない。
この温もりを手放さなければならないことを名残惜しく思いつつ、秋山はそっと、伏見の下敷きになっている腕を引き抜いた。小さな声を漏らしつつ身動ぎをする伏見に、一瞬だけひやりとする。しかし、彼の瞼が開かれる様子は無い。
「……おはようございます、猿比古さん」
ほんの少しだけ迷って、小さく声を掛けてみる。起きる素振りを見せない伏見に、どうしようかと一瞬悩んで。
「起きてください、猿比古さん」
「んー」
「んー、じゃありません。朝ですよ」
軽く身体を揺すってみると、ようやく意識は浮上したらしい。いや、浮上した、というにはまだ足りないかもしれない。夢と現実の境界を未だに彷徨っているらしい彼の言葉は、言葉の形を成していない。
「みさき?」
「俺は氷杜です」
「……ひもり?」
「氷杜です」
「ひもり」
言葉のやり取りは出来る程度にまで覚醒したらしいが、それにしても、朝から自分の名前を連呼されるというのは少々気恥ずかしい。秋山は早々に話題を変えた。
「朝、何食べますか?」
「いらない」
「とりあえず、トースト焼きますね」
「いらない」
「焼けたら、呼びに来ますから」
「……ん」
彼と同じ時間を過ごすようになってから知ったのが、意外と彼は押しに弱いということ。特に朝は、よほど機嫌が悪くない限りは強引に進められた朝食準備に逆らうこともない。ぽんぽん、と頭を軽く撫でつけてやると、嫌だったのか布団の中に潜ってしまった。それに苦笑しつつベッドを抜けた秋山は、朝食の準備をしながら端末を確認する。
「猿比古さんが休み、で……俺も?」
急な交代の連絡。秋山と伏見が有給を取ったことになり、非番だった人間が出勤するという。秋山は少なくとも一週間、伏見についても二週間は休んでもいい、と。つまり、記憶を失ってしまった伏見を秋山がサポートしつつ、一週間で記憶の蓋を開ける為のカギを探せということ。
今日も出勤するつもりで秋山は目覚めたし、極力は共に行動するようにしろ、と言われている伏見をとりあえず起こしてみた。よって、時間だけは大量にある。ただ、伏見の記憶の蓋を開ける為のカギなんて、見当もつかない。
どうしようか、と思考の海に沈んでいた秋山の意識を浮上させたのは、トースターの立てた軽快な音。
「……猿比古さんの後悔って、何なんだろう」
それが分かれば、カギも見つかるような気がした。
朝食をとりながら、秋山は先程メールで送られた内容を伏見に伝えていく。相槌を打つ以外は黙って聞いていた伏見は、秋山が話し終わったことを確認するとようやく問いを投げかける。
「カギを探すって、具体的に何やるんですか」
「そこ、なんですよね。どうしましょうか」
考えていなかったのか、とでも言いたいのか盛大に舌打ちをしてくれる伏見だが、秋山だってこのようなケースは初めてで、どうすれば良いのかが分からない。けれど、きっと今の伏見の記憶の状態というのは、記憶を失う前の伏見が望んだ状態なのだろうから。
「伏見さんがよく行っていた場所、行きたい場所へ行ってみませんか?」
「記憶を失う前の俺が?」
「いえ、今の、記憶を失った伏見さんが」
カギがどこにあるのか分からない以上、どこに行けばいいのか皆目見当がつかない。ならばいっそ、可能性のありそうな場所を虱潰しに回ってみるしかない。記憶を失う前の伏見がどのような場所へ行っていたのかということは秋山にもわかるし、有給が切れてしまった後も何とか共に向かうことが出来る。しかし、吠舞羅時代の彼の向かう先が分からない以上、先に潰しておく方が得策だろう。勿論、吠舞羅の溜まり場であるbar『HOMURA』に入ることは出来ないが。
伏見もそれは分かっているのだろう。あのbarではないだろう、という予想を早々に口にした。
「どうして?」
「あの場所で願うことなんて、無い」
伏見には、無意識の願いがカギになると伝えてある。無意識下の願いだから、吠舞羅での何かが願いになっているかもしれないのに、その可能性を切り捨ててしまって本当に良いのだろうか。
戸惑う秋山の様子に気が付いたのだろう。伏見はぼそぼそと付け加える。
「チームの吠舞羅は好きじゃなかったけど、barのHOMURAは嫌いじゃなかった、から」
ああ、だからあの場所へ行っても今さら願うことなんて無い、ということだろう。
もしかしたらその判断が間違っているのかもしれないけれど、それは、この一週間の間にカギが見つからず、他の候補地が潰されてしまった時に考えればいい話。
そういえば、今の伏見が選ぶ場所というのは高い確率で鎮目町、吠舞羅のテリトリーである気がするのだけれど、吠舞羅のメンバーに見つかってしまったら、特に、因縁の相手である八田に出会ってしまったらどうすれば良いのだろうかと秋山が考えていると、伏見も同じことを考えたのか「アイツらのことですけど」と続ける。
「何となく行動パターンは分かるんで、変わってなかったら回避できると思います」
「そう、ですか」
それは頼もしい限りだが、彼自身もそれほど自信があるわけではないのか小さく「多分ですけど」と付け足していた。
少々危うい箇所もあったのだが、何とか無事に伏見の望む場所を巡り切ることが出来た。しかし、伏見の記憶は戻る素振りを見せていない。
「……猿比古さんって、やっぱり子供なんですね」
「バカにしてんすか。氷杜さんも、やっぱり優等生だったんですね」
何だかんだあって、互いの呼称は名前で落ち着いた。一日中、吠舞羅時代の彼が過ごした場所を共に巡る中で分かったことといえば、互いの距離感とどのような人間だったのかということ。そして、秋山は今の伏見からもかなり近くまで寄ることを許されているらしいということ。
やけにその距離に慣れているな、と思いながらも受け入れていると、どうやらそれは伏見と八田が、道を分かつまでの距離感らしかった。伏見と秋山の距離感とは、少し違うそれが新鮮で、同時に、その距離を許されていた八田に嫉妬して、いとも簡単に捨てた八田に対して憤り。
誰かの名を呼ぼうとして振り返った彼は、その音を出すことを一瞬、躊躇う。
美咲。
氷杜。
どちらも同じ母音で始まる名前で、彼がどちらを呼ぼうとしたのかなんて分からない。けれど、躊躇う一瞬の間に少しだけ寂しさが浮かぶことがあったから、全てがそうだとは言い切れなくても、そのうちいくつかは八田を呼ぼうとしたのだろう。
伏見自身、秋山との距離感に戸惑っているようだった。秋山が新鮮だと感じる距離間の一方で、身体に馴染んでいる恋人としての距離感も確かにそこにあった。けれど、それを今の伏見は知らないのだから、身体は程よい距離を取れているのに、心が付いていけていない。そんな印象を受けた。
伏見が忘れてしまっていても、彼の身体は秋山と過ごした時間をしっかりと覚えている。そのことが嬉しくて、伏見の記憶の蓋を探す手がかりが何も見つからなかったというのに、秋山は笑ってしまう。それは目敏く見つけた伏見によって咎められるのだけれど、秋山には零れてしまう笑みをどうすることもできないのだ。
今ではもう慣れてしまった舌打ちと、眉間の皺。伏見の部屋へと帰ってきた、ということが大きいのか、それとも彼の身体が秋山の愛を覚えているというのが分かったということが大きいのか。
「……ちょっと」
「ああ、すみません」
「反省してないでしょ」
「ふふ、分かっちゃいますか」
今の彼が覚えていない約束も、身体が覚えているというのなら。もしかしたら単に驚いているからかもしれないけれど、眉間の皺は口付けとともに消えていく。
伏見が記憶を取り戻してしまえば、もしかしたらこんな距離をもう許されないのかもしれないから。だからもういっそ潔く、最後かもしれないこの距離での時間を一週間だけ。
伏見は、後悔していると言った。だから記憶に蓋をしてしまったのだろうし、記憶を取り戻したのならきっと、以前のようには触れられなくなってしまうだろう。
だから秋山は、一週間だけだから、と以前以上に伏見の世話を焼いた。その行為に伏見は毎回、面倒臭そうな素振りを見せるのだけれど、それはあくまでも素振りだけ。実際には嬉しくて、でも恥ずかしくてどうすれば良いのかが分かっていないだけなのだ。彼の時間は、世界がほんの少し広がって、そこから一気に広がってしまって、人の温かさを上手く感じることが出来なくなってしまったところで止まっている。だから、震える彼を包み込むように、秋山は尽くし続けたのだ。相変わらず、これは自分の自己満足でしかないのだと自嘲しながら。
一週間のうちに伏見が記憶を取り戻すカギとなりそうな場所へは手当たり次第に向かったし、吠舞羅の幹部に話を通して何人かのメンバーと接触もしてみた。それでも、どれも彼の記憶の蓋を開ける為のカギではなかった。
あと数時間で伏見を独占することのできる時間が終わってしまうことが、秋山は惜しかった。伏見にはあと一週間の猶予が与えられているが、秋山は今日で終わり。明日の朝を迎えてしまえば、溜まってしまっているであろう仕事をしに向かわなければならない。その間も、伏見は自力で記憶を取り戻そうとするのだろうか。もしも記憶が戻らなければ、彼はその後どうするのだろうか。取り留めのない不安と、もしも記憶が戻らなければこの時間が続くのではないか、という甘い言葉が交互に秋山を攻め立てた。
ここ一週間の間に恒例となった、伏見の部屋で行う語らいの時間。放置していると本当に何も食べない伏見を心配して秋山が夕食を作ったのが始まりで、夕食を食べながら、片付けながら、そして片付けてから眠るまでの間、様々なことを話した。記憶を失う前の伏見がどのような存在だったのかや、彼がどのような仕事をしていたのかということも、請われるままに話して聞かせた。きっと、万が一記憶が戻らなかったとしても、すぐに記憶を失う前の彼同様に働くことが出来るだろう。初めは秋山がいなければ動けなかった彼も、今ではきっと、秋山無しで動けてしまう。
何とも言えない寂しさを抱えたまま、それでも最後の独占できる時間をそのような負の感情に支配されたまま過ごしたくないと、秋山は意識を切り替えた。
「あの」
「氷杜さんって、恋人にはとことん尽くすタイプでしょう」
「まあ、そうですけど……どうしてそう思ったんですか」
その「恋人」が貴方なのだと伝えることが出来るはずも無く、けれど伏見の言葉は秋山の本質を見抜いたものだった。薄々、最後だと割り切って全力で彼を甘やかしたせいだとは理解しているけれど、それでも、尋ねずにはいられない。
伏見も秋山のそんな思いに気が付いているのか、分かっているくせに、と笑いながらも理由を述べる。
「だって、俺が相手でもドロドロに甘やかそうとするから」
「そのまま、ドロドロに溶かされてくれても良かったんですけどね」
秋山がいなければ、形を保てないくらいドロドロに。そうすればきっと、伏見は秋山の元から離れないはずなのに。
自己満足から始まった関係のはずだった。伏見が幸せでいてくれるならそれでいい、と。けれど、いざ実際に伏見が自分の傍から離れてしまうかもしれないという段になって初めてわかる。伏見がいなくなってしまうのは嫌だ。伏見に幸せであってほしいと願う想いは変わらないのに、伏見が彼の隣に立つ権利を秋山から奪ってしまうというのが嫌だった。その権利を他の誰かに渡してしまうのを見るくらいなら、伏見にとって秋山が不要な存在になった時点で、殺してほしかった。もう、自己満足では我慢できない。
ドロドロに溶けてしまえ、という秋山の願いが通じたのか、ぽつりと伏見は呟いた。
「氷杜さんになら、溶かされてもいいかもしれない」
「え?」
「あ、でも氷杜さんって、全部自己満足だからって言いそう」
ぎくり、とした。それは、彼に言ったことのある言葉だから記憶が戻ったのかと思って。一体、何がカギになったのかも分からないのに。
けれど、どうやらそれは杞憂らしかった。伏見の表情はただ純粋にそう思っての言葉だったと伝えてきていたから。そこまで伏見に読まれているのかと思ったり、そこまで読まれやすい性格だったかと思ったり、でも、それだけ濃密な時間をこの一週間は過ごすことが出来たのかもしれないと思ったり、忙しく考えている秋山の隣で伏見は眉間に皺を寄せた。それがあまりにも唐突だったから、秋山にはその理由が分からない。
「どうしたんですか?」
「自己満足とか、ムカつくからイヤだ」
「……え?」
「うん。やっぱ、氷杜さんに溶かされるのはイヤだ」
だからごめんなさい、なんて冗談めかして笑う伏見だが、秋山は笑えない。だって、今、彼は何と言った。
戸惑う秋山に気が付いていないのか、それとも秋山が戸惑っているからなのか、伏見はぽとりぽとりと言葉を落としていく。彼自身の中でも考えが纏まっていないのだろう。その言葉は全く要領を得ないのだけれど、だからこそ、それこそが本音なのだと思えた。
「自己満足ってことは、結局、こちらの意志や思いなんて無視するわけですよね? 別に、自分が満たされるためなら誰でもいいって感じで、いや、まあもしかしたらその人が相手だから、みたいな感じかもしれないですけど、でも、それにしたって全部自己満足で片付けられるとか、イヤです。満足したら、こっちの都合なんて考えずに捨てていきそうだし、そもそも、自己満足だからってこっちからの行為を全部否定してきそう。うわー、何か、本当に氷杜さんに似合う。怖い。氷杜さん、付き合う時は気を付けた方がいいですよ。相手をドロドロに溶かして逃げられなくしてるのに、自分は気が付かないでさっさと捨てていきそうだから」
体の芯が、指先が、一気に冷えた。ああ、これが彼の後悔か、なんて。
ただ、何か言わなければならないと思った。伏見に誤解されたままでは、いたくなかった。ああ、この思いも自己満足かもしれない、なんて思いながら。
「自己満足で始まっても、俺、我儘なんで我慢できなくなるんです」
「は?」
「初めは確かに自己満足、自己献身かもしれないですけど、だんだん、相手が自分から離れていってしまうのが嫌になって、だから、自己満足だ、なんて言いながら相手をドロドロに溶かして逃げられなくしちゃいたくなるんです」
ああ、だから伏見が逃げられなくなるように、ここ一週間は甘やかしていたのかもしれないな、なんてぼんやり思う。記憶を失う前の伏見も、失ってからの伏見も全部ドロドロに溶けて混ざり合ってしまって、そして、秋山がいなければ生きられないくらいになってしまえば幸せなのに、と。秋山は伏見を失わないし、伏見も秋山を失わない。伏見は捨てられるかもしれないと怯えているのかもしれないが、むしろ、秋山の方が伏見の居ない世界に耐えられないのだから。
それなのに、目の前に座っている伏見はどう返せばいいのかと困ってしまっているようで。秋山には、どうすればこの思いが伝わるのかが分からない。何と表現してもそれは本質を表してはいない気がするのだ。ああ、どうして人間は言葉を介してでなければ思いを伝えられないのだろうか。
「……いっそ、会わない方が良かったのかもしれない」
伏見が肩を揺らしたのが見えた。
「そうすれば、きっと二人とも後悔なんてしなかったのに」
どうして、好きなのに苦しまなければならないのだろう。
ああ、だから。だから、伏見は記憶に蓋をしてしまったのか。後悔して、後悔して、全部忘れてやり直したくて。けれど、それでは不公平ではないか。
「……俺も、その真っ白な世界へ連れて行ってくれたら良かったのに」
今の伏見にそんなことを言っても、何も変わりはしないし彼が困ってしまうだけなのに。頭では分かっていても、秋山は自分の言葉を止めることが出来なくて。
「猿比古さん、幸せですか?」
あのストレインは、嫌な記憶に蓋をすることで人は幸せになれると言った。ならば、記憶に蓋をした伏見は、どうなのだろう。幸せなのだろうか。幸せであればいいと思うのだけれど、秋山と出会ったことを無かったことにしたくて記憶を消したというのなら、秋山と過ごしたこの一週間は幸せとは程遠いものになってしまったのかもしれない。
だから、伏見は泣いているのかもしれない。
「猿比古さん?」
どうして彼は、泣いているのだろう。どうして泣きながら、笑っているのだろう。
「俺は、幸せだったよ」
それっきり伏見は黙ってしまって、そのまま秋山に抱きついてきてしまったものだから、秋山には彼がどんな表情をしているのかが分からないのだけれど。ただ、一つだけ分かったのは「幸せだった」と過去形になってしまったそれによって、伏見の記憶が戻ったのだということだけだった。