砂糖の海
――彼が、全てを忘れたいと望んだんですよ。
やっと捕まえたストレインがそう言ったのを聞いて、取調べ資料を作るためにその言葉を記録して、そして、新しく紡がれた言葉をまた聞いて、記録して。
単調な作業になっているとは自分でも思ったけれど、ただぼんやりと「やっぱりそうか」と考えてしまうと涙腺が緩みそうになってしまうのだから、何も考えないように、機械のように職務を果たすことしか、秋山には出来なかった。
ここ最近多発していた、記憶喪失事件。被害者数があまりにも多かったことから、ストレイン絡みの事件ではないかということでセプター4へと回されたもの。その予想は正しかったようで、監視カメラ等のデータから被害者の行動を探っていくと、全員が同じ人間に会った後から記憶喪失状態へと陥ってしまっていることが分かった。
そこまで掴むことが出来たなら、あとは簡単だった。画像データから犯人を特定し、捕縛するだけ。ストレインだからと、いつものように気を付けて対応していた筈だったのに。
逃げた犯人を追った先で遭遇してしまった、別のストレイン。
記憶に関係する何らかの能力を持つらしい捕縛対象も危険だが、それ以上に、土を操ることが出来るという新たに遭遇してしまったストレインの方が、目に見える傷を一般人に与えてしまうかもしれない、場合によっては死に至らしめてしまうかもしれない、という点で危険だった。
これまでにも能力を使って悪事を働いてきたらしいその新たなストレインは、セプター4の姿を見て自分を捕まえに来たものだと勘違いしたらしかった。能力を思う存分発揮してくれた彼のお蔭で、追っていたストレインを捕縛するための陣形はガタガタに崩れてしまったし、何より、建物に逃げ込んだ捕縛対象を追った伏見が、その対象と共に建物内に閉じ込められてしまった。そこら中で地割れを起こしてくれたストレインのお蔭で、建物が崩れてしまったのだ。ちょうど捕縛対象を部屋に追い詰めたところだったらしい伏見が青の力で壁を作ったおかげで、二人は倒壊に巻き込まれて怪我をすることなんて無く、すぐに助け出された。
けれど、そのほんの数分。二人きりになってしまったその時間が、大きかった。
力の使い過ぎでバテてしまった不運なストレインを捕縛し、慌てて埋まってしまった伏見と捕縛対象ストレインの救助にあたったセプター4。青の王の力が放つ光を見た瞬間、安心した声が上がって瓦礫を動かす作業スピードは格段に上がった。
徐々に見えてきた二人の姿を、秋山はよく覚えている。
どこか誇らしげなストレインと、どこか戸惑ったような伏見。
上部に瓦礫が無くなったことを確認したからか、パリンと音を立てて壊れた青の力の壁の欠片を、ぼんやりと眺めている伏見の様子に、嫌な予感がした。
――なんで、俺、青服を?
本当に小さなその呟きを拾ったのは、真っ先に駆け付けた秋山だけで。
近くにいた弁財に捕縛を任せ、秋山は戸惑う伏見を少し離れた場所へと連れ出した。何か言いたそうにしている隊員もいたが、秋山の表情と、捕縛対象であるストレインの能力から考えて察したらしく、無言で道をあけてくれた。
自分自身がなぜ「青服」を着ているのかが分からない、ということは、彼の記憶は吠舞羅所属時代のものか、或いはそれ以前のものか。
けれど、それを確かめるよりも先に、まずは伏見に状況を理解させなければならないと思った。記憶喪失になって一番恐ろしいのは、状況が分からない本人だから。
――貴方は今、セプター4の特務隊に所属しています。
――記憶に関係する能力をもったストレインに、能力を使われたようです。
――俺は、貴方の部下である秋山氷杜です。
他人事のようにずっと聞いていた伏見は、ただポツリと漏らした。
――美咲は?
詳しく聞いたことは無いけれど、八田美咲とは中学時代からの付き合いらしい。彼の名前が出てくるということは、その頃の記憶は無事だということ。
――彼は、吠舞羅に所属しています。今回の事件とは、関係していません。
伏見の問いかけは短すぎて、あとに続くのが「何をしているのか」なのか「無事なのか」なのかが分からない。とりあえず両方を答えてやると、伏見の口の中で小さく反復された言葉は噛み砕かれ、ゆっくりと飲み込まれていく。
――俺は、吠舞羅を抜けたんですね。
消化することが出来たのか出来ていないのか、伏見が俯いてしまったせいで秋山には分からない。だから、というわけではないけれど、秋山には何と返せばいいのかが分からなかった。分からないまま言葉を探し、見つけたものを否定する。
秋山が相応しい言葉を見つける前に、伏見は顔を上げた。その顔が今にも泣きそうで、それなのに、今の伏見にとっては見ず知らずの人間である秋山の前では無く事が出来ないと必死に堪えているようで、思わず秋山は手を伸ばしてしまった。
――誰も見てません。
ぎゅっと抱きしめた身体はいつの間にか馴染んでしまったものなのに、腕の内で彼が見せる反応はまだお互いに緊張していたころのものでちぐはぐな気がした。
目を赤く腫らしてしまった伏見は、とりあえず屯所内の救護室で休ませることにした。寮でも良かったのだが、予想外の大捕り物となってしまった今回の事件のお蔭で、大半の人間が出払っている。そんな場所よりは、まだ救護室の方がすぐに誰かが駆け付けられる距離だった。
内容が内容なだけに、伏見の状況については特務隊の人間にしか知らせていない。他の人間には、先ほどの建物の倒壊によって怪我をしてしまったのだとだけ伝えた。勿論、トップに近い地位にいる伏見だから、彼にしかできない仕事だってある。そのことを考えると、全体に状況を伝えて援助を求めた方がいいのかもしれないが、状況を伏せるというのが王の判断なのだから仕方がない。理由を問うと、トップに近い人間だからこそ、状況が外部に漏れてしまうのは困る、と。
伏見がいないだけで、セプター4におけるセキュリティ体制は大きく揺らぐだろう。ハッキングされた時、最も戦力になるのは彼なのだ。つまりは、そういうこと。
箝口令はしくまでもない。何も言われなくても、現場に出ていた人間ならばきっと気付いてしまうだろうし、そこから広がってしまうかもしれない。けれど、それでいい。外部へ漏れてしまうのが問題なのであって、少しずつ内部で広がっていくだけであればそれは構わない。彼の抜けてしまう穴を埋めるためにも、それは必要なこと。いずれは漏れ出てしまうのだとしても、それが少しでも先延ばしにできるのであれば。
記憶喪失になってしまう人間は、犯人と出会ってすぐにその症状が出ることもあれば、しばらく経ってから出ることもある。そして、症状がふとした瞬間に治ってしまった人間もいれば、未だに治っていない人間もいる。
伏見がどの状態なのかが分からず、とりあえず、一人にしてほしいと言った彼に救護室から出るなとだけ伝え、秋山は取調べにおける発言内容の記述を行っていた。伏見の記憶を取り戻すための方法を、自分の耳で聞きたかったのだ。念のため、日高には救護室の近くで待機していてもらっていて、何かあれば秋山に連絡が来るようになっている。
取調べで尋ねられたのは、やはり「どのような能力なのか」「なぜ事件を起こしたのか」「治す方法は無いのか」ということ。答えることを渋るかと思っていたのに、犯人はあっさりと答えた。
――記憶を奪うのではなく、記憶に蓋をする能力だ。
――忘れたい過去に蓋をすれば、皆が楽しく暮らせる世界になると思った。
――蓋をあけるためのカギを見つければいい。
犯人曰く、記憶喪失となってしまった時間と自分に会った時間が必ずしも一致するわけではなかった理由は、蓋をするのにもカギが必要らしい。そのカギというのが自分の行動なのか誰かの行動なのか、自分の言葉なのか誰かの言葉なのか、それはその人次第なのだという。そして、蓋を閉じるためのカギと開けるためのカギは、必ずしも一致するわけではない、と。
――彼が、全てを忘れたいと望んだんですよ。
――蓋を閉じるカギは、壊れた建物から誰かに助けられること。
――だって、そうしないと彼は王の力を上手く使えなくなるかもしれない。
――僕だって彼だって、死ぬのは嫌ですから。
――蓋を開ける為のカギは、その人自身が決めるんです。
――無意識のうちの願いが、カギになるんです。
――無意識のうちに決めるのだから、僕にもそれが何なのかは分かりませんね。
一字一句聞き逃すことなく、間違えることなく記していく。どこかに、彼を助けるための手掛かりがあるのではないか、と思って。やっぱり彼は、自分との関係を無かったことにしたかったのだと、思ってしまって。機械的な作業に徹することしか、秋山には出来なかった。
秋山と伏見が付き合いだしたのは、特務隊が発足して2か月ほど経った頃。お互いに前の立場が立場なだけに、顔と名前だけは分かっていたし、仕事における必要最低限のやりとりくらいはあった。そこから先に一歩踏み出したのは秋山の方で、伏見は、初めこそ戸惑っていたものの、やがて受け入れてくれるようになったのだ。
――俺は伏見さんのこと、好きです。
するりと自分の口から飛び出してしまったその言葉が秋山には信じられなくて、目の前で動きを止めてしまった伏見には申し訳ないものの、秋山だって動けそうになかった。
いつだって周囲の大人に舐められないようにと、気を張っている彼がずっと気がかりだった。棘を持った言葉でなければ丸め込まれてしまうのだと、吠舞羅から来た未成年の彼は既に知ってしまっていた。大人に甘えることが普通である年齢である筈なのに、甘える、という行為を自分自身に許さない彼。危なっかしいな、と思って見守っていた筈なのに、いつの間にか、その強さに惹かれ、同時に、支えたくなった。それは事実だ。けれど、秋山は偏見こそ無いものの自分自身がノーマルであると思っていたし、これまでに付き合ったのも女性ばかりであったために、自分の言葉が信じられなかったのだ。
沈黙をどう捕えたのか、戸惑いしか見せていなかった伏見の表情が、歪む。
――同情なら、いらないんで。
初めて巡回中に八田と遭遇して、普段と異なる伏見を見てしまって戸惑う秋山に、彼が彼にとっての特別な存在との決別を教えてくれた。確か、その流れで彼が「仲良しこよしの仲間ごっこなんて、いらない」なんて寂しいことを言ったものだから。ああ、それなら仲間ごっこ以外ならいいのかな、なんてぼんやりと考えた次の瞬間に零れ落ちたのが、告白。
なるほど。確かに、あの子のことを私はこんなにも考えているのに、あの子は私のことを見てくれなくなったのだ、という子供の癇癪に対して大人が「それでも私は見ているよ」と返すような、彼の嫌う「仲良しこよしの仲間ごっこ」を彷彿させるような言葉だったのかもしれない。
けれど、戸惑いながらも自分の中で思考をめぐらせてみると、やはり秋山には自分の言葉が同情から来たものではない、と思えたのだ。だから、それだけは彼に知っておいてほしくなって。
――同情じゃないです。
――そうやって、強がるところ。
――潰されないように、甘えることをやめたところ。
――弱さを見せないようにする貴方に、憧れました。
――俺が貴方くらいの年齢の時には、きっとできないから。
――今の俺にだって、貴方のようにできるかどうか。
――でも、少しずつそれが恐怖に変わりました。
――いつか、あなたが隠してきた弱さに飲み込まれてしまう気がして。
――そのまま、どこかへ消えてしまうような気がして。
――貴方が消えずにすむよう、支えたいと思いました。
――俺の憧れた人に消えてほしくないっていう、これは自己満足です。
――さっきは、好きだと言えば貴方の傷が少しでも癒える気がして。
――勿論、これも自己満足です。同情なんかじゃない。
――どうして貴方の傷が癒えるようにと考えるのか。
――どうしてあなたに消えてほしくないと願うのか。
――それを考えてみると、やっぱり俺は、貴方のことが好きなんです。
言いながら自分でも何が言いたいのかが分からなくなってきて、ただ、さっきの言葉が同情からくるものではないということと、さっきの言葉が嘘ではないということを伝えたくて。
自分のことで精一杯だったせいで、秋山には伏見の様子を確認するゆとりなんて無かった。だから言い切ってからようやく秋山は、自分でも「俺が伏見さんに対して抱いていた好きという感情は、恋愛感情だったのか」と納得した。納得してから伏見を見た秋山は、再び動作を停止する。
真っ赤になって秋山を睨みつけている、伏見の姿。
――何でそんなに、ストレートに好きだって言えるんですか。
絞り出すように吐き出されたのは、嫌悪感や拒絶を表すものではない。それに少しだけ安心して、けれど秋山は不安になった。自分の中では恋愛感情からくる好きだということで納得したけれど、もしかすると伏見の方では違うのではないか、と。
好きだ、と伝えたことを後悔するわけではないけれど、もしも彼がその言葉を気にしてしまって近付けなくなってしまうのならば、それは嫌だと秋山は思った。だから、ここから先は伏見がそんなことを考えないように、言葉を選んでいかなければならないと頭のどこかで考える。
――伏見さんだって、ストレートじゃないですか。
八田に対しての行動を揶揄してみると、赤い顔のまま舌打ちを一つ。そんなものじゃない、なんて否定をする癖に、それならば一体何なのかと尋ねてみると口を閉ざしてしまう。
さすがに、追い詰めすぎるのは本意ではないし、そもそも、彼の口から「八田美咲が好きだ」という言葉を聞きたい訳ではないのだ。自己満足を押しつけることしかできないと自覚している秋山でも、告白した次の瞬間に、別の相手に対する愛の言葉を聞いていられるほどメンタルが強いわけではない。
――伏見さんは、俺を見てくれなくてもいいんです。
――伏見さんを好きな俺が、自分が満たされるために尽くすだけですから。
――だから、もっと俺を頼ってください。
――俺の前から、消えてしまわないでください。
自分勝手な男だな、と伏見は笑う。秋山を馬鹿にしたものであるのに、それですら秋山にとっては愛おしい。
――だったら、俺を消さないように頑張ってみてくださいね。
それはどういう意味なのか、ということを確かめる前にするりと伏見は逃げ出してしまう。後に残されたのは、投げつけられた言葉を咀嚼しきれていない秋山と、彼が確かにそこにいたのだという僅かな残り香だけ。
けれど、それ以降から伏見の秋山に対しての対応は変わった。秋山の恐れていた形ではなく、望んでいた形に。
ふとした瞬間、二人の時に。
彼の言葉からフッと棘が消え去る時間。お前は俺を自由に丸め込んでいいんだよ、とでも言うかのように、伏見は秋山に甘えるようになった。弱みを見せようとしなかった彼が、秋山が側にいるときだけ、少しずつではあるけれども弱い部分を見せてくれるようになった。
だからきっと、彼の言葉はそういうことなのだろうな、と秋山は思ったのだが確証が持てなかった。だから、訊いた。
――伏見さんは、どうして俺に甘いんですか?
一人部屋である伏見の自室は、悲しくなるほどに物がなかった。少しずつ秋山が物を運んだことによって、ほんのりと秋山好みの、けれどそれでもやはり伏見らしいシンプルな室内。
伏見のベッドに凭れてコーヒーを飲む秋山と、ベッドに寝転がって調度良い高さにある秋山の髪を弄っていた伏見。そんな静かでゆったりとした空間を震わせた秋山の問いに、伏見は首をかしげた。
――俺が、秋山さんに甘やかされてるんでしょ?
自覚があったのかと少しだけ驚きながら、秋山はその言葉を否定する。
――だって、伏見さんは俺に甘やかされてくれてるんでしょう?
伏見を甘やかしたいというのは、秋山の自己満足でしかない願いだ。それを受け入れてくれているということは、伏見が秋山を甘やかしてくれている、ということ。伏見が秋山に甘いのだということではないのか、と。
そう問いかけてやれば、心底不思議そうな顔をして伏見は言った。
――恋人に甘いのは、当然じゃないですか?
その言葉を聞いたのは、秋山が告白してから1か月と少しが経った頃。
つまり、秋山が告白してからずっと悩んでた時間を、伏見は恋人と過ごす甘い時間として過ごしてきていたということ。
それが何となく悔しくて、彼を驚かせてみたくなって。
――猿比古、さん。
これまでにも秋山は、付き合ってきた彼女の名を呼ぶようになる瞬間というものを経験してきた。してきたはずなのに、伏見の名を呼んだ後は恥ずかしすぎて、顔に熱が集まりすぎて、このまま自分は蒸発できるかもしれない、なんて馬鹿なことを考えてしまった。照れ隠しで啜ったコーヒーの音に紛れるように、秋山の耳に小さな声が届く。
――氷杜、さん。
慌ててカップから口を離して、伏見の方へと振り返る。しかし、秋山から逃げるようにして壁際の方を向き、伏見は枕を抱えて丸くなってしまった。床にカップをおいてベッドの上へと乗り上げてみると、伏見は枕とベッドの間に顔を埋めるようにしてしまい、決して秋山の方を見ようとはしない。
けれど、僅かに見えている耳が真っ赤になっているのが見えたから。
――風邪、引きますよ。
きっと自分も同じように真っ赤なのだろうな、と思いながら声をかけた。
周囲の目が怖くて、他の人には関係性を伝えることなんて出来なかった。二人とも公私はきっちりと分けるし、そもそも、伏見が恋人らしく秋山に接するのは、他に誰もいない部屋の中だけ。恋人の可愛らしさを自慢したい、という欲求が無いわけではなかったがそれでも、男同士であるというだけで風当りが厳しいであろうことは想像に難くない。
ひっそりと愛し合う、二人だけの秘密。けれど、それは同時に不安でもあった。
――猿比古さんは、後悔していますか?
彼の容姿ならば、黙っていたら女性が放ってはおかないだろうし、実際、彼が告白されている場面には何度も遭遇した。そんな女性を袖に振って、伏見は秋山の傍を選んでいる。まだ未成年である彼にとって、秋山とこういった関係になるということはマイナスでしかないだろうに。
自分を選んで後悔しているか、なんて質問をどうしてしてしまったのかと、秋山は言ってから「やってしまったな」と思った。何の脈絡もなく突然に問いかけられたというのに、伏見は正確にその言葉の指し示すところを汲み取ったらしい。不機嫌そうな顔を作って、けれどどこか泣きそうな顔をした伏見が、逆に問いかけてくる。
――氷杜さんは、後悔してるんですか?
どうなのだろう、と思う。秋山が自分自身のことだけを考えるのなら、後悔をしていないと胸を張って言える。けれど、そこに伏見が絡むとなれば話は別。真っ当な道を進んでいたであろう彼を自分の側へと引きずり込んでしまたことが、時折、とても申し訳なくなってしまう。
秋山の沈黙をどう受け取ったのかは分からないが、伏見は小さく呟いた。
――俺は、ほんの少しだけ後悔してますよ。
ああ、本当にどうして尋ねてしまったのだろう。
その日はお互いに微妙な雰囲気になってしまって、その話題には二度と触れないということが暗黙の了解となった。一晩を超えてしまえば、もう奇妙な質疑応答の時間なんて無かったかのように伏見が接してくるものだから、秋山だって表立って引き摺ることが出来なかった。
それでも、ふとした瞬間に蘇るのは、伏見の「後悔している」という言葉なのだ。それまでずっと脳内を巡っていた、彼によって呼ばれる自分の名前と、勝手に組み合わされて。
――氷杜さん、俺は後悔してますよ。
だからこそ、伏見が記憶に蓋をしたのは彼が望んだからだと言って、その記憶が吠舞羅時代――秋山と出会う前のものにまで遡っているのだと知っても、それほど不思議ではなかった。むしろ、やっぱりそうかと、納得している自分がいた。
勿論、寂しくないわけではない。自己満足だ、とはことあるごとに言っていたが、それでも秋山が伏見を愛していたのだということに変わりは無くて、秋山も人間なのだから、出来るのならば愛した分だけ愛を返してほしいと願っていた。伏見がもしも秋山と出会ったことを無かったことにしたがったのなら、それは自分の思いが少しも届いていなかったということだろう。
弱さを吐き出すための場所が欲しかっただけなのかもしれない。だから、秋山の求めに応じたのかもしれない。それなのに、ただのゴミ捨て場である筈の秋山が伏見に深入りしすぎたから、内心では鬱陶しく思っていたのかもしれない。秋山と付き合ったことを、秋山に近付く許可を与えたことを、後悔していたのかもしれない。だから、全てを無かったことにしたかったのかもしれない。
嫌な想像ばかりが脳裏を過ぎる。取り留めもなく浮かんでは消えるそれに、怒りというよりは寂しさと虚しさばかりが残った。
一通りの作業を終えると、淡島から伏見の元へと向かうように急かされた。この場所で過ごしていたという記憶を失ってしまった伏見にとって、周囲は見知らぬ人間ばかり。しかも、今の彼にあるのは吠舞羅に所属している真っ只中の記憶なのだ。敵陣であるこの場所で安心できるわけもなく、けれどそのような状態の彼を外へ出すわけにも行かず。ならば、初めに今の彼と接した秋山が面倒を見るべきだ、という結論に達したらしい。秋山ならば性格上問題もないだろう、と。
――色々と辛いだろうが、相談には乗るから。
引き継ぎの作業も全てやっておくから、と秋山の元へ来た弁財がこっそりと囁きかける。明確な言葉にして伏見との関係を伝えたことは無いのだけれど、同室で長い間共同生活を送ってきたということもあって、薄々と感付いている様子だった。今回の伏見記憶喪失が、秋山にとっては少し特別な感情を抱くものであることを察しているらしい彼は、気遣うような視線を秋山に向けていて。
それが嬉しいと思う反面、この状況を招いたのが自分の行動だと考えている秋山には自業自得なのだから気にするなと伝えたいという気持ちも確かにあった。弁財ならきっと、と思う節が無いわけではないのだが、その一線を越えてもいいものかと悩んでいるうちに言い出す機会を逃してしまった。弁財にも似た様子は見られるので、いつかは越えることが出来るのかもしれないし、もしかしたら越えられないままズルズルと過ごしてしまうのかもしれない。
だから、秋山は喉元まで出てきてしまいそうになった言葉を全て飲み込んで、別の言葉を引き摺りだす。
――ありがとう。また、頼るかもしれない。
また。かもしれない。
秋山がその言葉を使う時は殆ど可能性がないのだけれど、それに弁財は気が付いていて秋山は気が付いていなかった。だから、秋山は弁財の表情の意味が分からないし、弁財は分かってくれない秋山に苛立つのだ。
お互いに言いたい言葉は飲み込んで、秋山は救護室へ向かって弁財は秋山の残した書類の整理に残る。廊下の途中で秋山が日高に連絡を入れると、相当暇だったのか、すぐに電話を取ってくれた。軽く労い、もう大丈夫だから職務に戻ってもいいと伝えた。淡島には事情を説明しているが、やはり日高にも何枚か仕上げなければならない書類、というか始末書がある。そのことを思いだしたらしく電話口の先から情けない声が上がったが、それを無視して電話を切った。途中で本人と擦れ違い、お礼と激励の言葉を改めて贈ってやるが、力なく返事をする日高の背は、いつもより小さく感じられた。
あと少し、というところにまでくると、無意識のうちに歩くペースは上がる。そして。
「伏見さん、大丈夫ですか?」
意識して優しい声をかけたつもりだったものの、扉に背を向けて座っていた伏見を驚かせてしまったらしい。大きく跳ねてしまった肩に申し訳なく思いながら、ゆっくりと伏見の方へと歩み寄る。瞳は不安げに揺れているものの、拒絶する意思は無いらしい。
動く秋山を目だけで追っていた伏見は、秋山が自分の前に来ると少しだけ体をずらす。
「……座っても?」
「……どーぞ」
促されるままに座ってみたはいいものの、微妙な隙間があいてしまった。詰めてもいいものかと悩む秋山の隣で、伏見は小さく身じろぎをした。それを視界の端で捉え、秋山はどうすれば良いのかと慌ててしまう。そう、不安なのは記憶を失ってしまった伏見の方なのだ。
「あの」
「あの」
意を決して上げた声は、幸か不幸か伏見と重なってしまう。お互いに話を始めようと思って声を掛けたのだから、当然、顔は相手の方を向いている。端的に言うと、無言のまま見つめ合ってしまうこと、数秒。どうしようか、と困ってしまったらしい伏見の表情に、ふっと秋山の表情は緩む。
「伏見さんからどうぞ」
どうせ、自分が声を出したのも、間を持たせようとしたからだ。伏見が何か話したいことがあるというのなら、それを聞く、というだけでも構わない。むしろ「今」の伏見が何を考えているのか、何を思っているのかが知りたい。
中途半端に口を開き、困ったように秋山を見続ける伏見に、目線だけで先を促す。
「秋山さんって」
そこまで言って再び口籠ってしまった伏見に、どう声を掛けたものかと迷う。伏見は伏見なのだけれど、そこにいるのは秋山の知らない伏見だから。
「秋山さんって、俺とよく一緒にいた、んですか?」
まるで、そんな問いをしてしまったことを恥じるかのように、語尾へ向かうに従って小さくなってしまう言葉と、下に向けられていってしまう顔。秋山に向けられていないその顔がどのような表情を浮かべているのか分からないけれど、この、僅かな距離がもどかしい。手を伸ばせば簡単に触れられるのに、この時の彼が触れてほしいと願うのは秋山ではないのだ。
「……どうして、そう思ったんですか?」
確かに、秋山と伏見は同じ時間を多く過ごすようになっていたけれど。それこそが伏見の後悔へと繋がっていたのだから、もう、間違えたくない。
答える気配のない伏見に、やはりダメかと内心で溜息を吐きかけた時、小さな声が届いた。
「……アンタの傍は、安心する、から」
ああ、もしかしたら。自己満足のうちの小さな小さな欠片だけは、彼の心に届いていたのかもしれない。
そんな都合のいい思いが、胸に生まれた。生まれたのだけれど、それは「今」の彼には関係がないことだから蓋をする。
「ありがとうございます」
それでも、否定してしまうのは嫌だったから、誤魔化した。そんな自分が酷い大人だと秋山は思うのだけれど。
記憶を失ってしまったということは、伏見は寮の自分の部屋へも自力では帰ることが出来ないということ。となると、やはり秋山が伏見の部屋まで彼を案内することになる。今の彼にとっては身の回り全ての環境が新鮮らしく、秋山の隣を歩く伏見は、物珍しそうに周囲を眺めていた。
普段の伏見があまりにも大人びて見えるのだから、周囲を興味深そうに眺めて歩く伏見が年相応に見える気がして、可愛らしいと思う。そんなことを考え始めると自然と顔が緩んでしまうのだけれど、不意に伏見が秋山に視線を向けたものだから慌てて表情を引き締めた。
「なんすか、さっきから」
「何がですか?」
「痛いんですけど、その視線」
どこか恥ずかしそうに睨みつけてくる伏見はやはり子供らしくて、そういえば、外見は19歳でも中身はもっと若いのだということに思い至る。それにしたって、外見もまだ未成年なのだけれど。
視線に気づいてもらえたことが嬉しくて、取り繕った真面目な顔も意味がない。
「ちょっと」
「すみません」
笑われたことが癪に障るのか、伏見の眉間に皺が深く刻まれる。ああ、折角年相応の表情をしていたのに。
「……ちょっと!」
「あ、すみません!! つい、いつもの癖で……!!」
思わず二人きりの時にだけ許されていた方法を取ってしまったのだけれど、今の伏見はそれを知らない。知らないのに。
真っ赤になってしまった伏見に、申し訳なくて。
「……こんなこと、いつもやってるんすか」
「いつも、ではなかったですね」
いつもではなかった。恋人同士になって、二人きりの時にだけ。
――これからも、眉間に皺寄せたらやりますからね。
深く刻まれたそこに、柔らかなキスを。
ここにいるのは伏見であって伏見ではないのに、同じ姿をしているから秋山の身体は彼を伏見だと認識して動いてしまうのだ。約束のことなんて知らない今の伏見も、贈られた突然のキスに動揺し、真っ赤になってしまう。けれど、ゆっくりと持ち上げられた右手がゆっくりと眉間に添えられて。
「……伏見さん?」
そのまま動きを止めてしまった伏見に声を掛けると、小さな声で名を呼ばれる。
「秋山さん」
「はい?」
「……氷杜さん」
「……はい」
「氷杜、さん」
「は、い」
何かを確かめるように、呼ばれた名前。聞きなれていたそれも、もう聞くことは無いのだろうな、と思っていただけに、そして躊躇いがちに呼ばれることが新鮮で、返事をしながら秋山の顔に熱が集まる。まるで、それはいつかの晩のように。
「猿比古さん」
すとん、と零れた言葉はもう二度と出てくるものではないと思っていたもので、輪をかけて真っ赤になってしまった伏見が愛おしくて。
もっと見ていたいと思ったのだけれど、タイミングが良いのか悪いのかもう伏見の部屋の前まで来てしまっていて。
「ここが貴方の部屋です」
鍵は伏見自身が持っているし、彼もそれに思い至ったのか隊服についているポケットを手当たり次第に探っている。付き合うようになってから、秋山も伏見の部屋の合鍵を持つようになった。それを使ってもいいのだが、今の伏見は秋山と自分がどのような関係だったのかを知らなくて、それなのに秋山が自分の部屋の合鍵を持っているのだと知ったならばきっと嫌がるだろうから。
自己満足の愛だったとはいえ、彼自身の口から拒絶の言葉を聞きたくなかった。
無意識のうちに手をやってしまったのは、合鍵の入ったポケット。自室の鍵と、伏見の部屋の鍵と。弁財には二つの鍵を持っていると知られたが、その時は実家の鍵なのだと誤魔化した。笑って「俺も同じだ」と笑って二つの鍵をつけたキーホルダーを振って見せてくれたのだけれど、そういえば、あの鍵は本当に彼の実家の鍵だったのだろうか。
もしかしたら、と秋山が捕まえかけた思考は、ガチャリという鍵の開けられる音に驚いている間に、するりと逃げてしまう。
扉を開けた状態のまま見上げてくる伏見に、このままぼんやりしていては彼が部屋へ入り辛いのかということに思い至った。
「ああ、もう大丈夫ですね。今日はゆっくりと休んで」
「秋山さん」
「何ですか?」
乱暴に自分に注意を向けさせたというのに。
「俺の話、聞かせてください」
持ちかけられたのは、躊躇いがちなお願いで。
「いいですよ。上がっても?」
「どーぞ……氷杜さん」
「ありがとうございます、猿比古さん」
秋山と呼んでみたり氷杜と呼んでみたり、何かを迷っているような伏見だが、敢えてそれを指摘することなく、秋山は伏見の呼び方にあわせて彼に対する呼び方を変えていく。何かを考えているらしい伏見がそれに気が付いていないとは思えないのだけれど、彼もまた、何も言わない。
伏見にとって記憶を取り戻すことが果たして本当に良いことなのか、秋山には分からなかった。伏見が望んで蓋をしてしまいたいと願った記憶を、呼び起こすことが正しいことなのか。
自分の部屋だというのに物珍しそうなままの伏見だが、仕方がないだろう。だって、今の彼がこの部屋に入るのは初めてなのだから。
伏見をとりあえず座らせておき、秋山は台所へ。勝手知ったるその場所で、息を整える。大丈夫、もう失敗はしない。
「伏見さん、ココアです」
「……どーも」
何かを言いたそうにした伏見だが、結局は飲み込んでしまうことにしたらしい。それが少し寂しいのだけれど、秋山もまた、その言葉を飲み込む。こくり、こくりと伏見の喉がココアを嚥下するのを横目に見ながら、秋山もまたココアを啜る。伏見用に調節したその味は、少し甘い。
今の伏見にとっては初対面に近い秋山を、ここまで無防備に受け入れてしまっているということは彼の言う「秋山の傍が安心する」という言葉に間違いは無いのだろう。頭が忘れてしまっていても、身体が覚えている記憶がある、と聞いたことがある。もしもそれが秋山に対しても働いているというのなら、それは嬉しいこと。
「俺、何で美咲を捨てたんだろう」
無意識のうちの言葉だったらしく、少し時間を空けてから「しまったな」とでも言うように舌打ちを一つ。けれど、秋山は何かがおかしいと思った。そう、伏見は確かに「美咲を捨てた」と言った。
「えっと、その」
「何で美咲を捨てたって言うかって?」
「……はい」
吠舞羅を抜けたのは、八田に憎まれ、八田の前に立って視界に入るためだったのだろうと、特務隊の人間ならば気が付いている。勿論、今の伏見がその思考に至る以前の伏見ならば理解できなくて当然だが、それにしたって、まさか、伏見が八田を捨てたと考えるとは。まあ、状況だけを見れば確かに「伏見猿比古が八田美咲を捨てた」というものなのだけれど、少なくともセプター4の特務隊は「八田美咲が伏見猿比古を捨てた」のだと知っている。
けれど、それをわざわざ教えてやる義理も無いな、と秋山は思った。
(だって、知らなければ猿比古さんは傷付かない)
八田が伏見を見なくなったということに傷付き、思いつめ、ボロボロになって。その一連の流れを覚えていないというのなら、それで良いではないか。
ぽつりぽつりと語られるのは、これまでに聞いたことのなかった「伏見猿比古と八田美咲の関係」だ。聞いているだけの秋山も胸が痛くなるような、そんな、寂しさの物語。
「俺には美咲しかいなくて」
「はい」
「美咲にも、俺しかいなくて」
「はい」
「でも、吠舞羅に入って『仲間』が出来て」
「はい」
「美咲が見るのは『仲間』になって」
「はい」
「美咲の隣にいるのは、あのデブになって」
「はい」
「美咲は、俺と『仲間』を同じ括りで見てて」
「はい」
「俺は、美咲と『仲間』を同じ括りでは見れなくて」
「はい」
「美咲が『仲間』を捨てるなんてありえないから」
「はい」
「だから、俺が、美咲を捨てたんだ。きっと」
今にも泣きだしそうな顔をしていながら、やっぱり伏見は泣かないのだ。泣けないのだ。自分からその場所を切り捨てたのだと思っているから。今の彼にとっては「未来の自分」が選んだ道だから。
「……貴方にとって、吠舞羅はどんな場所でしたか?」
意地悪な質問だな、と思いながらも秋山は尋ねずにはいられなかった。今の伏見でなければ、きっと答えてはくれないから。
「吠舞羅は居心地の良い場所なんかじゃなかった」
「そう、ですか」
「……でも、嫌い、じゃなかった」
まだ残っていたココアに、ポタリと水滴が落ちる。
ずっと狭い世界で生きてきた伏見にとって、吠舞羅のように大勢の人間がいて、しかも互いの距離が近すぎる広い世界は順応しきれない場所だった。少しずつ近付いていけばいいのに、あの場所では大勢が一挙に押し寄せるから。
そして、対応しきれずに戸惑う伏見に背を向けて、八田は飛び出してしまったのだろう。伏見の葛藤など知りもせずに、知ろうともせずに、伏見の努力を否定してしまったのだろう。少しずつ、自分のペースで馴染もうとしている伏見の思いなんて無視をして。その他大勢の「仲間」に含まれてしまった伏見は、八田に理解されることを諦めてしまったのだろう。
前は、気付いてくれたのに。
前は、分かってくれたのに。
そんな思いも全て飲み込んで、馴染もうとして、否定されて、飲み込んで、馴染もうとして、否定されて。
伏見だって、人間なのだ。いくら人付き合いが苦手だといっても、人の温もりを拒絶しているわけではない。八田美咲という温もりを知っているからこそ、彼は少しずつ他者との距離を詰めていく。それは、確かに他者と関わるのが面倒だという思いが大きく働いているのかもしれないけれど、秋山は、それだけでは無いと思っている。面倒だからこそ、その人に合った距離を正確につかもうとして、臆病になってしまっているだけなのだろう、と。
秩序を司る青の王率いるセプター4とて、吠舞羅同様、多くの人間が所属しているクランだ。それなのに伏見が吠舞羅以上にセプター4で多くの人間と良好な関係を築くことが出来ているのは、近付きすぎず、離れすぎずの距離を保ちながら接し、少しずつ距離を縮めてきたから。彼はただ、人との距離を測るのが苦手で、それを練習する機会が無くて、だから、ああやって棘を纏って身を守る術しか学べなかったのだ。そうすれば、少なくとも自分は傷付かないから。
ぽたり、ぽたりとココアを揺らすそれが綺麗だと思ったのだけれど、秋山は伏見の手からカップを抜き取ると、ゆっくり肩に腕を回してみた。拒絶する様子が無かったから、ゆっくりと自分の方へと引き寄せてみた。それでも拒絶する様子が無かったから、ゆっくりと抱きしめてみた。一瞬だけ身体を強張らせたものの、すぐに弛緩する。
そっと掴まれた服と肩口の濡れていく感覚が、やはり秋山には愛おしくて寂しかった。
やっと捕まえたストレインがそう言ったのを聞いて、取調べ資料を作るためにその言葉を記録して、そして、新しく紡がれた言葉をまた聞いて、記録して。
単調な作業になっているとは自分でも思ったけれど、ただぼんやりと「やっぱりそうか」と考えてしまうと涙腺が緩みそうになってしまうのだから、何も考えないように、機械のように職務を果たすことしか、秋山には出来なかった。
ここ最近多発していた、記憶喪失事件。被害者数があまりにも多かったことから、ストレイン絡みの事件ではないかということでセプター4へと回されたもの。その予想は正しかったようで、監視カメラ等のデータから被害者の行動を探っていくと、全員が同じ人間に会った後から記憶喪失状態へと陥ってしまっていることが分かった。
そこまで掴むことが出来たなら、あとは簡単だった。画像データから犯人を特定し、捕縛するだけ。ストレインだからと、いつものように気を付けて対応していた筈だったのに。
逃げた犯人を追った先で遭遇してしまった、別のストレイン。
記憶に関係する何らかの能力を持つらしい捕縛対象も危険だが、それ以上に、土を操ることが出来るという新たに遭遇してしまったストレインの方が、目に見える傷を一般人に与えてしまうかもしれない、場合によっては死に至らしめてしまうかもしれない、という点で危険だった。
これまでにも能力を使って悪事を働いてきたらしいその新たなストレインは、セプター4の姿を見て自分を捕まえに来たものだと勘違いしたらしかった。能力を思う存分発揮してくれた彼のお蔭で、追っていたストレインを捕縛するための陣形はガタガタに崩れてしまったし、何より、建物に逃げ込んだ捕縛対象を追った伏見が、その対象と共に建物内に閉じ込められてしまった。そこら中で地割れを起こしてくれたストレインのお蔭で、建物が崩れてしまったのだ。ちょうど捕縛対象を部屋に追い詰めたところだったらしい伏見が青の力で壁を作ったおかげで、二人は倒壊に巻き込まれて怪我をすることなんて無く、すぐに助け出された。
けれど、そのほんの数分。二人きりになってしまったその時間が、大きかった。
力の使い過ぎでバテてしまった不運なストレインを捕縛し、慌てて埋まってしまった伏見と捕縛対象ストレインの救助にあたったセプター4。青の王の力が放つ光を見た瞬間、安心した声が上がって瓦礫を動かす作業スピードは格段に上がった。
徐々に見えてきた二人の姿を、秋山はよく覚えている。
どこか誇らしげなストレインと、どこか戸惑ったような伏見。
上部に瓦礫が無くなったことを確認したからか、パリンと音を立てて壊れた青の力の壁の欠片を、ぼんやりと眺めている伏見の様子に、嫌な予感がした。
――なんで、俺、青服を?
本当に小さなその呟きを拾ったのは、真っ先に駆け付けた秋山だけで。
近くにいた弁財に捕縛を任せ、秋山は戸惑う伏見を少し離れた場所へと連れ出した。何か言いたそうにしている隊員もいたが、秋山の表情と、捕縛対象であるストレインの能力から考えて察したらしく、無言で道をあけてくれた。
自分自身がなぜ「青服」を着ているのかが分からない、ということは、彼の記憶は吠舞羅所属時代のものか、或いはそれ以前のものか。
けれど、それを確かめるよりも先に、まずは伏見に状況を理解させなければならないと思った。記憶喪失になって一番恐ろしいのは、状況が分からない本人だから。
――貴方は今、セプター4の特務隊に所属しています。
――記憶に関係する能力をもったストレインに、能力を使われたようです。
――俺は、貴方の部下である秋山氷杜です。
他人事のようにずっと聞いていた伏見は、ただポツリと漏らした。
――美咲は?
詳しく聞いたことは無いけれど、八田美咲とは中学時代からの付き合いらしい。彼の名前が出てくるということは、その頃の記憶は無事だということ。
――彼は、吠舞羅に所属しています。今回の事件とは、関係していません。
伏見の問いかけは短すぎて、あとに続くのが「何をしているのか」なのか「無事なのか」なのかが分からない。とりあえず両方を答えてやると、伏見の口の中で小さく反復された言葉は噛み砕かれ、ゆっくりと飲み込まれていく。
――俺は、吠舞羅を抜けたんですね。
消化することが出来たのか出来ていないのか、伏見が俯いてしまったせいで秋山には分からない。だから、というわけではないけれど、秋山には何と返せばいいのかが分からなかった。分からないまま言葉を探し、見つけたものを否定する。
秋山が相応しい言葉を見つける前に、伏見は顔を上げた。その顔が今にも泣きそうで、それなのに、今の伏見にとっては見ず知らずの人間である秋山の前では無く事が出来ないと必死に堪えているようで、思わず秋山は手を伸ばしてしまった。
――誰も見てません。
ぎゅっと抱きしめた身体はいつの間にか馴染んでしまったものなのに、腕の内で彼が見せる反応はまだお互いに緊張していたころのものでちぐはぐな気がした。
目を赤く腫らしてしまった伏見は、とりあえず屯所内の救護室で休ませることにした。寮でも良かったのだが、予想外の大捕り物となってしまった今回の事件のお蔭で、大半の人間が出払っている。そんな場所よりは、まだ救護室の方がすぐに誰かが駆け付けられる距離だった。
内容が内容なだけに、伏見の状況については特務隊の人間にしか知らせていない。他の人間には、先ほどの建物の倒壊によって怪我をしてしまったのだとだけ伝えた。勿論、トップに近い地位にいる伏見だから、彼にしかできない仕事だってある。そのことを考えると、全体に状況を伝えて援助を求めた方がいいのかもしれないが、状況を伏せるというのが王の判断なのだから仕方がない。理由を問うと、トップに近い人間だからこそ、状況が外部に漏れてしまうのは困る、と。
伏見がいないだけで、セプター4におけるセキュリティ体制は大きく揺らぐだろう。ハッキングされた時、最も戦力になるのは彼なのだ。つまりは、そういうこと。
箝口令はしくまでもない。何も言われなくても、現場に出ていた人間ならばきっと気付いてしまうだろうし、そこから広がってしまうかもしれない。けれど、それでいい。外部へ漏れてしまうのが問題なのであって、少しずつ内部で広がっていくだけであればそれは構わない。彼の抜けてしまう穴を埋めるためにも、それは必要なこと。いずれは漏れ出てしまうのだとしても、それが少しでも先延ばしにできるのであれば。
記憶喪失になってしまう人間は、犯人と出会ってすぐにその症状が出ることもあれば、しばらく経ってから出ることもある。そして、症状がふとした瞬間に治ってしまった人間もいれば、未だに治っていない人間もいる。
伏見がどの状態なのかが分からず、とりあえず、一人にしてほしいと言った彼に救護室から出るなとだけ伝え、秋山は取調べにおける発言内容の記述を行っていた。伏見の記憶を取り戻すための方法を、自分の耳で聞きたかったのだ。念のため、日高には救護室の近くで待機していてもらっていて、何かあれば秋山に連絡が来るようになっている。
取調べで尋ねられたのは、やはり「どのような能力なのか」「なぜ事件を起こしたのか」「治す方法は無いのか」ということ。答えることを渋るかと思っていたのに、犯人はあっさりと答えた。
――記憶を奪うのではなく、記憶に蓋をする能力だ。
――忘れたい過去に蓋をすれば、皆が楽しく暮らせる世界になると思った。
――蓋をあけるためのカギを見つければいい。
犯人曰く、記憶喪失となってしまった時間と自分に会った時間が必ずしも一致するわけではなかった理由は、蓋をするのにもカギが必要らしい。そのカギというのが自分の行動なのか誰かの行動なのか、自分の言葉なのか誰かの言葉なのか、それはその人次第なのだという。そして、蓋を閉じるためのカギと開けるためのカギは、必ずしも一致するわけではない、と。
――彼が、全てを忘れたいと望んだんですよ。
――蓋を閉じるカギは、壊れた建物から誰かに助けられること。
――だって、そうしないと彼は王の力を上手く使えなくなるかもしれない。
――僕だって彼だって、死ぬのは嫌ですから。
――蓋を開ける為のカギは、その人自身が決めるんです。
――無意識のうちの願いが、カギになるんです。
――無意識のうちに決めるのだから、僕にもそれが何なのかは分かりませんね。
一字一句聞き逃すことなく、間違えることなく記していく。どこかに、彼を助けるための手掛かりがあるのではないか、と思って。やっぱり彼は、自分との関係を無かったことにしたかったのだと、思ってしまって。機械的な作業に徹することしか、秋山には出来なかった。
秋山と伏見が付き合いだしたのは、特務隊が発足して2か月ほど経った頃。お互いに前の立場が立場なだけに、顔と名前だけは分かっていたし、仕事における必要最低限のやりとりくらいはあった。そこから先に一歩踏み出したのは秋山の方で、伏見は、初めこそ戸惑っていたものの、やがて受け入れてくれるようになったのだ。
――俺は伏見さんのこと、好きです。
するりと自分の口から飛び出してしまったその言葉が秋山には信じられなくて、目の前で動きを止めてしまった伏見には申し訳ないものの、秋山だって動けそうになかった。
いつだって周囲の大人に舐められないようにと、気を張っている彼がずっと気がかりだった。棘を持った言葉でなければ丸め込まれてしまうのだと、吠舞羅から来た未成年の彼は既に知ってしまっていた。大人に甘えることが普通である年齢である筈なのに、甘える、という行為を自分自身に許さない彼。危なっかしいな、と思って見守っていた筈なのに、いつの間にか、その強さに惹かれ、同時に、支えたくなった。それは事実だ。けれど、秋山は偏見こそ無いものの自分自身がノーマルであると思っていたし、これまでに付き合ったのも女性ばかりであったために、自分の言葉が信じられなかったのだ。
沈黙をどう捕えたのか、戸惑いしか見せていなかった伏見の表情が、歪む。
――同情なら、いらないんで。
初めて巡回中に八田と遭遇して、普段と異なる伏見を見てしまって戸惑う秋山に、彼が彼にとっての特別な存在との決別を教えてくれた。確か、その流れで彼が「仲良しこよしの仲間ごっこなんて、いらない」なんて寂しいことを言ったものだから。ああ、それなら仲間ごっこ以外ならいいのかな、なんてぼんやりと考えた次の瞬間に零れ落ちたのが、告白。
なるほど。確かに、あの子のことを私はこんなにも考えているのに、あの子は私のことを見てくれなくなったのだ、という子供の癇癪に対して大人が「それでも私は見ているよ」と返すような、彼の嫌う「仲良しこよしの仲間ごっこ」を彷彿させるような言葉だったのかもしれない。
けれど、戸惑いながらも自分の中で思考をめぐらせてみると、やはり秋山には自分の言葉が同情から来たものではない、と思えたのだ。だから、それだけは彼に知っておいてほしくなって。
――同情じゃないです。
――そうやって、強がるところ。
――潰されないように、甘えることをやめたところ。
――弱さを見せないようにする貴方に、憧れました。
――俺が貴方くらいの年齢の時には、きっとできないから。
――今の俺にだって、貴方のようにできるかどうか。
――でも、少しずつそれが恐怖に変わりました。
――いつか、あなたが隠してきた弱さに飲み込まれてしまう気がして。
――そのまま、どこかへ消えてしまうような気がして。
――貴方が消えずにすむよう、支えたいと思いました。
――俺の憧れた人に消えてほしくないっていう、これは自己満足です。
――さっきは、好きだと言えば貴方の傷が少しでも癒える気がして。
――勿論、これも自己満足です。同情なんかじゃない。
――どうして貴方の傷が癒えるようにと考えるのか。
――どうしてあなたに消えてほしくないと願うのか。
――それを考えてみると、やっぱり俺は、貴方のことが好きなんです。
言いながら自分でも何が言いたいのかが分からなくなってきて、ただ、さっきの言葉が同情からくるものではないということと、さっきの言葉が嘘ではないということを伝えたくて。
自分のことで精一杯だったせいで、秋山には伏見の様子を確認するゆとりなんて無かった。だから言い切ってからようやく秋山は、自分でも「俺が伏見さんに対して抱いていた好きという感情は、恋愛感情だったのか」と納得した。納得してから伏見を見た秋山は、再び動作を停止する。
真っ赤になって秋山を睨みつけている、伏見の姿。
――何でそんなに、ストレートに好きだって言えるんですか。
絞り出すように吐き出されたのは、嫌悪感や拒絶を表すものではない。それに少しだけ安心して、けれど秋山は不安になった。自分の中では恋愛感情からくる好きだということで納得したけれど、もしかすると伏見の方では違うのではないか、と。
好きだ、と伝えたことを後悔するわけではないけれど、もしも彼がその言葉を気にしてしまって近付けなくなってしまうのならば、それは嫌だと秋山は思った。だから、ここから先は伏見がそんなことを考えないように、言葉を選んでいかなければならないと頭のどこかで考える。
――伏見さんだって、ストレートじゃないですか。
八田に対しての行動を揶揄してみると、赤い顔のまま舌打ちを一つ。そんなものじゃない、なんて否定をする癖に、それならば一体何なのかと尋ねてみると口を閉ざしてしまう。
さすがに、追い詰めすぎるのは本意ではないし、そもそも、彼の口から「八田美咲が好きだ」という言葉を聞きたい訳ではないのだ。自己満足を押しつけることしかできないと自覚している秋山でも、告白した次の瞬間に、別の相手に対する愛の言葉を聞いていられるほどメンタルが強いわけではない。
――伏見さんは、俺を見てくれなくてもいいんです。
――伏見さんを好きな俺が、自分が満たされるために尽くすだけですから。
――だから、もっと俺を頼ってください。
――俺の前から、消えてしまわないでください。
自分勝手な男だな、と伏見は笑う。秋山を馬鹿にしたものであるのに、それですら秋山にとっては愛おしい。
――だったら、俺を消さないように頑張ってみてくださいね。
それはどういう意味なのか、ということを確かめる前にするりと伏見は逃げ出してしまう。後に残されたのは、投げつけられた言葉を咀嚼しきれていない秋山と、彼が確かにそこにいたのだという僅かな残り香だけ。
けれど、それ以降から伏見の秋山に対しての対応は変わった。秋山の恐れていた形ではなく、望んでいた形に。
ふとした瞬間、二人の時に。
彼の言葉からフッと棘が消え去る時間。お前は俺を自由に丸め込んでいいんだよ、とでも言うかのように、伏見は秋山に甘えるようになった。弱みを見せようとしなかった彼が、秋山が側にいるときだけ、少しずつではあるけれども弱い部分を見せてくれるようになった。
だからきっと、彼の言葉はそういうことなのだろうな、と秋山は思ったのだが確証が持てなかった。だから、訊いた。
――伏見さんは、どうして俺に甘いんですか?
一人部屋である伏見の自室は、悲しくなるほどに物がなかった。少しずつ秋山が物を運んだことによって、ほんのりと秋山好みの、けれどそれでもやはり伏見らしいシンプルな室内。
伏見のベッドに凭れてコーヒーを飲む秋山と、ベッドに寝転がって調度良い高さにある秋山の髪を弄っていた伏見。そんな静かでゆったりとした空間を震わせた秋山の問いに、伏見は首をかしげた。
――俺が、秋山さんに甘やかされてるんでしょ?
自覚があったのかと少しだけ驚きながら、秋山はその言葉を否定する。
――だって、伏見さんは俺に甘やかされてくれてるんでしょう?
伏見を甘やかしたいというのは、秋山の自己満足でしかない願いだ。それを受け入れてくれているということは、伏見が秋山を甘やかしてくれている、ということ。伏見が秋山に甘いのだということではないのか、と。
そう問いかけてやれば、心底不思議そうな顔をして伏見は言った。
――恋人に甘いのは、当然じゃないですか?
その言葉を聞いたのは、秋山が告白してから1か月と少しが経った頃。
つまり、秋山が告白してからずっと悩んでた時間を、伏見は恋人と過ごす甘い時間として過ごしてきていたということ。
それが何となく悔しくて、彼を驚かせてみたくなって。
――猿比古、さん。
これまでにも秋山は、付き合ってきた彼女の名を呼ぶようになる瞬間というものを経験してきた。してきたはずなのに、伏見の名を呼んだ後は恥ずかしすぎて、顔に熱が集まりすぎて、このまま自分は蒸発できるかもしれない、なんて馬鹿なことを考えてしまった。照れ隠しで啜ったコーヒーの音に紛れるように、秋山の耳に小さな声が届く。
――氷杜、さん。
慌ててカップから口を離して、伏見の方へと振り返る。しかし、秋山から逃げるようにして壁際の方を向き、伏見は枕を抱えて丸くなってしまった。床にカップをおいてベッドの上へと乗り上げてみると、伏見は枕とベッドの間に顔を埋めるようにしてしまい、決して秋山の方を見ようとはしない。
けれど、僅かに見えている耳が真っ赤になっているのが見えたから。
――風邪、引きますよ。
きっと自分も同じように真っ赤なのだろうな、と思いながら声をかけた。
周囲の目が怖くて、他の人には関係性を伝えることなんて出来なかった。二人とも公私はきっちりと分けるし、そもそも、伏見が恋人らしく秋山に接するのは、他に誰もいない部屋の中だけ。恋人の可愛らしさを自慢したい、という欲求が無いわけではなかったがそれでも、男同士であるというだけで風当りが厳しいであろうことは想像に難くない。
ひっそりと愛し合う、二人だけの秘密。けれど、それは同時に不安でもあった。
――猿比古さんは、後悔していますか?
彼の容姿ならば、黙っていたら女性が放ってはおかないだろうし、実際、彼が告白されている場面には何度も遭遇した。そんな女性を袖に振って、伏見は秋山の傍を選んでいる。まだ未成年である彼にとって、秋山とこういった関係になるということはマイナスでしかないだろうに。
自分を選んで後悔しているか、なんて質問をどうしてしてしまったのかと、秋山は言ってから「やってしまったな」と思った。何の脈絡もなく突然に問いかけられたというのに、伏見は正確にその言葉の指し示すところを汲み取ったらしい。不機嫌そうな顔を作って、けれどどこか泣きそうな顔をした伏見が、逆に問いかけてくる。
――氷杜さんは、後悔してるんですか?
どうなのだろう、と思う。秋山が自分自身のことだけを考えるのなら、後悔をしていないと胸を張って言える。けれど、そこに伏見が絡むとなれば話は別。真っ当な道を進んでいたであろう彼を自分の側へと引きずり込んでしまたことが、時折、とても申し訳なくなってしまう。
秋山の沈黙をどう受け取ったのかは分からないが、伏見は小さく呟いた。
――俺は、ほんの少しだけ後悔してますよ。
ああ、本当にどうして尋ねてしまったのだろう。
その日はお互いに微妙な雰囲気になってしまって、その話題には二度と触れないということが暗黙の了解となった。一晩を超えてしまえば、もう奇妙な質疑応答の時間なんて無かったかのように伏見が接してくるものだから、秋山だって表立って引き摺ることが出来なかった。
それでも、ふとした瞬間に蘇るのは、伏見の「後悔している」という言葉なのだ。それまでずっと脳内を巡っていた、彼によって呼ばれる自分の名前と、勝手に組み合わされて。
――氷杜さん、俺は後悔してますよ。
だからこそ、伏見が記憶に蓋をしたのは彼が望んだからだと言って、その記憶が吠舞羅時代――秋山と出会う前のものにまで遡っているのだと知っても、それほど不思議ではなかった。むしろ、やっぱりそうかと、納得している自分がいた。
勿論、寂しくないわけではない。自己満足だ、とはことあるごとに言っていたが、それでも秋山が伏見を愛していたのだということに変わりは無くて、秋山も人間なのだから、出来るのならば愛した分だけ愛を返してほしいと願っていた。伏見がもしも秋山と出会ったことを無かったことにしたがったのなら、それは自分の思いが少しも届いていなかったということだろう。
弱さを吐き出すための場所が欲しかっただけなのかもしれない。だから、秋山の求めに応じたのかもしれない。それなのに、ただのゴミ捨て場である筈の秋山が伏見に深入りしすぎたから、内心では鬱陶しく思っていたのかもしれない。秋山と付き合ったことを、秋山に近付く許可を与えたことを、後悔していたのかもしれない。だから、全てを無かったことにしたかったのかもしれない。
嫌な想像ばかりが脳裏を過ぎる。取り留めもなく浮かんでは消えるそれに、怒りというよりは寂しさと虚しさばかりが残った。
一通りの作業を終えると、淡島から伏見の元へと向かうように急かされた。この場所で過ごしていたという記憶を失ってしまった伏見にとって、周囲は見知らぬ人間ばかり。しかも、今の彼にあるのは吠舞羅に所属している真っ只中の記憶なのだ。敵陣であるこの場所で安心できるわけもなく、けれどそのような状態の彼を外へ出すわけにも行かず。ならば、初めに今の彼と接した秋山が面倒を見るべきだ、という結論に達したらしい。秋山ならば性格上問題もないだろう、と。
――色々と辛いだろうが、相談には乗るから。
引き継ぎの作業も全てやっておくから、と秋山の元へ来た弁財がこっそりと囁きかける。明確な言葉にして伏見との関係を伝えたことは無いのだけれど、同室で長い間共同生活を送ってきたということもあって、薄々と感付いている様子だった。今回の伏見記憶喪失が、秋山にとっては少し特別な感情を抱くものであることを察しているらしい彼は、気遣うような視線を秋山に向けていて。
それが嬉しいと思う反面、この状況を招いたのが自分の行動だと考えている秋山には自業自得なのだから気にするなと伝えたいという気持ちも確かにあった。弁財ならきっと、と思う節が無いわけではないのだが、その一線を越えてもいいものかと悩んでいるうちに言い出す機会を逃してしまった。弁財にも似た様子は見られるので、いつかは越えることが出来るのかもしれないし、もしかしたら越えられないままズルズルと過ごしてしまうのかもしれない。
だから、秋山は喉元まで出てきてしまいそうになった言葉を全て飲み込んで、別の言葉を引き摺りだす。
――ありがとう。また、頼るかもしれない。
また。かもしれない。
秋山がその言葉を使う時は殆ど可能性がないのだけれど、それに弁財は気が付いていて秋山は気が付いていなかった。だから、秋山は弁財の表情の意味が分からないし、弁財は分かってくれない秋山に苛立つのだ。
お互いに言いたい言葉は飲み込んで、秋山は救護室へ向かって弁財は秋山の残した書類の整理に残る。廊下の途中で秋山が日高に連絡を入れると、相当暇だったのか、すぐに電話を取ってくれた。軽く労い、もう大丈夫だから職務に戻ってもいいと伝えた。淡島には事情を説明しているが、やはり日高にも何枚か仕上げなければならない書類、というか始末書がある。そのことを思いだしたらしく電話口の先から情けない声が上がったが、それを無視して電話を切った。途中で本人と擦れ違い、お礼と激励の言葉を改めて贈ってやるが、力なく返事をする日高の背は、いつもより小さく感じられた。
あと少し、というところにまでくると、無意識のうちに歩くペースは上がる。そして。
「伏見さん、大丈夫ですか?」
意識して優しい声をかけたつもりだったものの、扉に背を向けて座っていた伏見を驚かせてしまったらしい。大きく跳ねてしまった肩に申し訳なく思いながら、ゆっくりと伏見の方へと歩み寄る。瞳は不安げに揺れているものの、拒絶する意思は無いらしい。
動く秋山を目だけで追っていた伏見は、秋山が自分の前に来ると少しだけ体をずらす。
「……座っても?」
「……どーぞ」
促されるままに座ってみたはいいものの、微妙な隙間があいてしまった。詰めてもいいものかと悩む秋山の隣で、伏見は小さく身じろぎをした。それを視界の端で捉え、秋山はどうすれば良いのかと慌ててしまう。そう、不安なのは記憶を失ってしまった伏見の方なのだ。
「あの」
「あの」
意を決して上げた声は、幸か不幸か伏見と重なってしまう。お互いに話を始めようと思って声を掛けたのだから、当然、顔は相手の方を向いている。端的に言うと、無言のまま見つめ合ってしまうこと、数秒。どうしようか、と困ってしまったらしい伏見の表情に、ふっと秋山の表情は緩む。
「伏見さんからどうぞ」
どうせ、自分が声を出したのも、間を持たせようとしたからだ。伏見が何か話したいことがあるというのなら、それを聞く、というだけでも構わない。むしろ「今」の伏見が何を考えているのか、何を思っているのかが知りたい。
中途半端に口を開き、困ったように秋山を見続ける伏見に、目線だけで先を促す。
「秋山さんって」
そこまで言って再び口籠ってしまった伏見に、どう声を掛けたものかと迷う。伏見は伏見なのだけれど、そこにいるのは秋山の知らない伏見だから。
「秋山さんって、俺とよく一緒にいた、んですか?」
まるで、そんな問いをしてしまったことを恥じるかのように、語尾へ向かうに従って小さくなってしまう言葉と、下に向けられていってしまう顔。秋山に向けられていないその顔がどのような表情を浮かべているのか分からないけれど、この、僅かな距離がもどかしい。手を伸ばせば簡単に触れられるのに、この時の彼が触れてほしいと願うのは秋山ではないのだ。
「……どうして、そう思ったんですか?」
確かに、秋山と伏見は同じ時間を多く過ごすようになっていたけれど。それこそが伏見の後悔へと繋がっていたのだから、もう、間違えたくない。
答える気配のない伏見に、やはりダメかと内心で溜息を吐きかけた時、小さな声が届いた。
「……アンタの傍は、安心する、から」
ああ、もしかしたら。自己満足のうちの小さな小さな欠片だけは、彼の心に届いていたのかもしれない。
そんな都合のいい思いが、胸に生まれた。生まれたのだけれど、それは「今」の彼には関係がないことだから蓋をする。
「ありがとうございます」
それでも、否定してしまうのは嫌だったから、誤魔化した。そんな自分が酷い大人だと秋山は思うのだけれど。
記憶を失ってしまったということは、伏見は寮の自分の部屋へも自力では帰ることが出来ないということ。となると、やはり秋山が伏見の部屋まで彼を案内することになる。今の彼にとっては身の回り全ての環境が新鮮らしく、秋山の隣を歩く伏見は、物珍しそうに周囲を眺めていた。
普段の伏見があまりにも大人びて見えるのだから、周囲を興味深そうに眺めて歩く伏見が年相応に見える気がして、可愛らしいと思う。そんなことを考え始めると自然と顔が緩んでしまうのだけれど、不意に伏見が秋山に視線を向けたものだから慌てて表情を引き締めた。
「なんすか、さっきから」
「何がですか?」
「痛いんですけど、その視線」
どこか恥ずかしそうに睨みつけてくる伏見はやはり子供らしくて、そういえば、外見は19歳でも中身はもっと若いのだということに思い至る。それにしたって、外見もまだ未成年なのだけれど。
視線に気づいてもらえたことが嬉しくて、取り繕った真面目な顔も意味がない。
「ちょっと」
「すみません」
笑われたことが癪に障るのか、伏見の眉間に皺が深く刻まれる。ああ、折角年相応の表情をしていたのに。
「……ちょっと!」
「あ、すみません!! つい、いつもの癖で……!!」
思わず二人きりの時にだけ許されていた方法を取ってしまったのだけれど、今の伏見はそれを知らない。知らないのに。
真っ赤になってしまった伏見に、申し訳なくて。
「……こんなこと、いつもやってるんすか」
「いつも、ではなかったですね」
いつもではなかった。恋人同士になって、二人きりの時にだけ。
――これからも、眉間に皺寄せたらやりますからね。
深く刻まれたそこに、柔らかなキスを。
ここにいるのは伏見であって伏見ではないのに、同じ姿をしているから秋山の身体は彼を伏見だと認識して動いてしまうのだ。約束のことなんて知らない今の伏見も、贈られた突然のキスに動揺し、真っ赤になってしまう。けれど、ゆっくりと持ち上げられた右手がゆっくりと眉間に添えられて。
「……伏見さん?」
そのまま動きを止めてしまった伏見に声を掛けると、小さな声で名を呼ばれる。
「秋山さん」
「はい?」
「……氷杜さん」
「……はい」
「氷杜、さん」
「は、い」
何かを確かめるように、呼ばれた名前。聞きなれていたそれも、もう聞くことは無いのだろうな、と思っていただけに、そして躊躇いがちに呼ばれることが新鮮で、返事をしながら秋山の顔に熱が集まる。まるで、それはいつかの晩のように。
「猿比古さん」
すとん、と零れた言葉はもう二度と出てくるものではないと思っていたもので、輪をかけて真っ赤になってしまった伏見が愛おしくて。
もっと見ていたいと思ったのだけれど、タイミングが良いのか悪いのかもう伏見の部屋の前まで来てしまっていて。
「ここが貴方の部屋です」
鍵は伏見自身が持っているし、彼もそれに思い至ったのか隊服についているポケットを手当たり次第に探っている。付き合うようになってから、秋山も伏見の部屋の合鍵を持つようになった。それを使ってもいいのだが、今の伏見は秋山と自分がどのような関係だったのかを知らなくて、それなのに秋山が自分の部屋の合鍵を持っているのだと知ったならばきっと嫌がるだろうから。
自己満足の愛だったとはいえ、彼自身の口から拒絶の言葉を聞きたくなかった。
無意識のうちに手をやってしまったのは、合鍵の入ったポケット。自室の鍵と、伏見の部屋の鍵と。弁財には二つの鍵を持っていると知られたが、その時は実家の鍵なのだと誤魔化した。笑って「俺も同じだ」と笑って二つの鍵をつけたキーホルダーを振って見せてくれたのだけれど、そういえば、あの鍵は本当に彼の実家の鍵だったのだろうか。
もしかしたら、と秋山が捕まえかけた思考は、ガチャリという鍵の開けられる音に驚いている間に、するりと逃げてしまう。
扉を開けた状態のまま見上げてくる伏見に、このままぼんやりしていては彼が部屋へ入り辛いのかということに思い至った。
「ああ、もう大丈夫ですね。今日はゆっくりと休んで」
「秋山さん」
「何ですか?」
乱暴に自分に注意を向けさせたというのに。
「俺の話、聞かせてください」
持ちかけられたのは、躊躇いがちなお願いで。
「いいですよ。上がっても?」
「どーぞ……氷杜さん」
「ありがとうございます、猿比古さん」
秋山と呼んでみたり氷杜と呼んでみたり、何かを迷っているような伏見だが、敢えてそれを指摘することなく、秋山は伏見の呼び方にあわせて彼に対する呼び方を変えていく。何かを考えているらしい伏見がそれに気が付いていないとは思えないのだけれど、彼もまた、何も言わない。
伏見にとって記憶を取り戻すことが果たして本当に良いことなのか、秋山には分からなかった。伏見が望んで蓋をしてしまいたいと願った記憶を、呼び起こすことが正しいことなのか。
自分の部屋だというのに物珍しそうなままの伏見だが、仕方がないだろう。だって、今の彼がこの部屋に入るのは初めてなのだから。
伏見をとりあえず座らせておき、秋山は台所へ。勝手知ったるその場所で、息を整える。大丈夫、もう失敗はしない。
「伏見さん、ココアです」
「……どーも」
何かを言いたそうにした伏見だが、結局は飲み込んでしまうことにしたらしい。それが少し寂しいのだけれど、秋山もまた、その言葉を飲み込む。こくり、こくりと伏見の喉がココアを嚥下するのを横目に見ながら、秋山もまたココアを啜る。伏見用に調節したその味は、少し甘い。
今の伏見にとっては初対面に近い秋山を、ここまで無防備に受け入れてしまっているということは彼の言う「秋山の傍が安心する」という言葉に間違いは無いのだろう。頭が忘れてしまっていても、身体が覚えている記憶がある、と聞いたことがある。もしもそれが秋山に対しても働いているというのなら、それは嬉しいこと。
「俺、何で美咲を捨てたんだろう」
無意識のうちの言葉だったらしく、少し時間を空けてから「しまったな」とでも言うように舌打ちを一つ。けれど、秋山は何かがおかしいと思った。そう、伏見は確かに「美咲を捨てた」と言った。
「えっと、その」
「何で美咲を捨てたって言うかって?」
「……はい」
吠舞羅を抜けたのは、八田に憎まれ、八田の前に立って視界に入るためだったのだろうと、特務隊の人間ならば気が付いている。勿論、今の伏見がその思考に至る以前の伏見ならば理解できなくて当然だが、それにしたって、まさか、伏見が八田を捨てたと考えるとは。まあ、状況だけを見れば確かに「伏見猿比古が八田美咲を捨てた」というものなのだけれど、少なくともセプター4の特務隊は「八田美咲が伏見猿比古を捨てた」のだと知っている。
けれど、それをわざわざ教えてやる義理も無いな、と秋山は思った。
(だって、知らなければ猿比古さんは傷付かない)
八田が伏見を見なくなったということに傷付き、思いつめ、ボロボロになって。その一連の流れを覚えていないというのなら、それで良いではないか。
ぽつりぽつりと語られるのは、これまでに聞いたことのなかった「伏見猿比古と八田美咲の関係」だ。聞いているだけの秋山も胸が痛くなるような、そんな、寂しさの物語。
「俺には美咲しかいなくて」
「はい」
「美咲にも、俺しかいなくて」
「はい」
「でも、吠舞羅に入って『仲間』が出来て」
「はい」
「美咲が見るのは『仲間』になって」
「はい」
「美咲の隣にいるのは、あのデブになって」
「はい」
「美咲は、俺と『仲間』を同じ括りで見てて」
「はい」
「俺は、美咲と『仲間』を同じ括りでは見れなくて」
「はい」
「美咲が『仲間』を捨てるなんてありえないから」
「はい」
「だから、俺が、美咲を捨てたんだ。きっと」
今にも泣きだしそうな顔をしていながら、やっぱり伏見は泣かないのだ。泣けないのだ。自分からその場所を切り捨てたのだと思っているから。今の彼にとっては「未来の自分」が選んだ道だから。
「……貴方にとって、吠舞羅はどんな場所でしたか?」
意地悪な質問だな、と思いながらも秋山は尋ねずにはいられなかった。今の伏見でなければ、きっと答えてはくれないから。
「吠舞羅は居心地の良い場所なんかじゃなかった」
「そう、ですか」
「……でも、嫌い、じゃなかった」
まだ残っていたココアに、ポタリと水滴が落ちる。
ずっと狭い世界で生きてきた伏見にとって、吠舞羅のように大勢の人間がいて、しかも互いの距離が近すぎる広い世界は順応しきれない場所だった。少しずつ近付いていけばいいのに、あの場所では大勢が一挙に押し寄せるから。
そして、対応しきれずに戸惑う伏見に背を向けて、八田は飛び出してしまったのだろう。伏見の葛藤など知りもせずに、知ろうともせずに、伏見の努力を否定してしまったのだろう。少しずつ、自分のペースで馴染もうとしている伏見の思いなんて無視をして。その他大勢の「仲間」に含まれてしまった伏見は、八田に理解されることを諦めてしまったのだろう。
前は、気付いてくれたのに。
前は、分かってくれたのに。
そんな思いも全て飲み込んで、馴染もうとして、否定されて、飲み込んで、馴染もうとして、否定されて。
伏見だって、人間なのだ。いくら人付き合いが苦手だといっても、人の温もりを拒絶しているわけではない。八田美咲という温もりを知っているからこそ、彼は少しずつ他者との距離を詰めていく。それは、確かに他者と関わるのが面倒だという思いが大きく働いているのかもしれないけれど、秋山は、それだけでは無いと思っている。面倒だからこそ、その人に合った距離を正確につかもうとして、臆病になってしまっているだけなのだろう、と。
秩序を司る青の王率いるセプター4とて、吠舞羅同様、多くの人間が所属しているクランだ。それなのに伏見が吠舞羅以上にセプター4で多くの人間と良好な関係を築くことが出来ているのは、近付きすぎず、離れすぎずの距離を保ちながら接し、少しずつ距離を縮めてきたから。彼はただ、人との距離を測るのが苦手で、それを練習する機会が無くて、だから、ああやって棘を纏って身を守る術しか学べなかったのだ。そうすれば、少なくとも自分は傷付かないから。
ぽたり、ぽたりとココアを揺らすそれが綺麗だと思ったのだけれど、秋山は伏見の手からカップを抜き取ると、ゆっくり肩に腕を回してみた。拒絶する様子が無かったから、ゆっくりと自分の方へと引き寄せてみた。それでも拒絶する様子が無かったから、ゆっくりと抱きしめてみた。一瞬だけ身体を強張らせたものの、すぐに弛緩する。
そっと掴まれた服と肩口の濡れていく感覚が、やはり秋山には愛おしくて寂しかった。
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