ゆめうつつに、こい。
まだ明かりの灯る部屋はあるものの、夜になると本丸は徐々に静かになっていく。短刀や脇差、打刀の半数は夜戦へと出陣していくし、幼い身体を器とするためか十分な休養を必要とする短刀たちに気を遣い、彼らの眠る時間になると宴会のような騒がしい集まりは自然と解散の流れへ進む。静かに夜を過ごすのであれば、あとは大人の自己責任だ。
褥で待つとは言ったものの、鶴丸にはそれを実行に移すつもりなど毛頭なかった。鶴丸が部屋で待つことになっていたからか一期一振の部屋には布団が敷かれていなかったし、仮に実行したとして、果たしてそれがどのような結果をもたらすか。色めいた方向へは流れない自信があるが、それにしたって話す前から相手の好感度を下げる行為は良くないだろう。元からその好感度が底辺に近いとはいえど。
鶴丸が一期一振の部屋に入ったのは、これが初めてだった。彼もよく許したものだ。確実に部屋へと戻る時間を指定され、それに合わせて来るようにと、或いは一期一振が鶴丸の部屋を訪れるものだとばかり思っていたものだから、驚かされてしまった。確かに、付き合いの長さだけを考えるならばそれも自然であるのかもしれないけれど、そのやり取りをしたのが鶴丸と一期一振であるというだけで不可解になる。少なくとも鶴丸はそう感じていた。
主人の居ない部屋でどう過ごせば良いのかも分からず、何となく隅へと寄って室内をぐるりと見渡してみる。性分なのか綺麗に整理されているようで、目につく調度品は品の良い華やかさ。しかしどこか生活感もあって、妙なところで剛胆な彼の日常を覗き見ている気になってくる。実際、そうであるのだろうが。
机の上には、折り鶴が並べられていた。不格好なものも混ざっているそれは、きっと弟たちの作品だ。折り目正しくお手本のようなものは、一期一振の作品か。彼は「鶴」を折りながら、何を思ったのだろう。不快感でも良いから己を思い浮かべてくれていたとしたら、と考えてしまうのは、鶴丸の内に生まれてしまった厄介な心のせいだ。
廊下の軋む音がする。どうやら、鶴丸の心を波立たせてやまないお兄様が戻ってこられたようである。
淡い光に照らされた陰が、部屋の前で止まる。
ゆるり、と光が差して。
「おや、褥でお待ちになるはずでは」
「待っていてほしかったのか」
「ぞっとしますな」
くすくすと笑いながら戻ってきた一期一振は、室内の薄暗さもあってか「兄」としての表情などどこにも見出せなかった。あの蔵の中で共に在った頃のような空気が好ましく、そして同時に虚しさを覚える。
向かい合って座ろうとした一期一振に、鶴丸は己の隣を指先で軽く叩く。
「隣へ座れ、と」
「顔を突き合わせて話すよりは、互いに慣れているだろう」
人の器を持たぬまま、ふわりと意識だけで話していた時間の方がずっと長い。一瞬だけ動きを止めたものの、その言葉に納得したのだろう。鶴丸の隣へと腰を下ろした一期一振であったが、次の瞬間に抱いた感想は同じであったようだ。
「……生温い」
「弟たちで分かっていたとはいえ、その対象が鶴丸殿だと思うと」
思った以上に近くなってしまった距離に、戸惑いが生まれた。冷たく物言わぬ武具でしかなかった時代は長い。振るう人の熱、刃を受ける人の熱は知っていたけれど、それと同様のものが隣に座る存在から伝わってくるということには違和感があった。
拳一つ分だけ距離を取り直し、ほっと息を吐く。顔も見えず、熱も伝わらず、そんな距離感こそ、鶴丸にとっては慣れ親しんだ一期一振とのものだ。
「それで、目覚めには何をご所望で」
囁く声にはからかいの、否、どこか嘲るような色。自分だけに向けられた懐かしいそれに、鶴丸の口は自然と緩む。穏やかで柔らかなものなど不要だった。あの場所にあったのは、譲れぬ矜持の塊。己こそが最も優れているのだと争う醜い塊。凛々しく在らんとするその在り方こそ、鶴丸の認めた一期一振の「姿」であった。
「そうだな。君は俺の話を聞いているだけでいい」
「つまらなければ」
「いつもの如く、容赦なく邪魔してくれて構わんさ」
かしこまりました、と恭しく口にはしてくれるけれど、一期一振の容赦のなさは何度も味わってきたものだ。燃えたこと、再刃されたことが理由なのか、過去の記憶には欠けた部分がある。それでも、少なくとも蔵へ来てからの出来事は全て覚えているようで、鶴丸が以前に話した内容を繰り返そうとした途端に、容赦なく「耄碌しましたかな」などと言い放つ。
とはいえ、今回ばかりは耄碌したかと問われぬ自信があった。一期一振に対してどころか、他の誰にも話したことのない内容である。鶴丸自身も見て見ぬふりをしてきた、鶴丸国永という刀剣男士についての話なのだから。
「そうだな、どこから語り始めようか」
「長くなるのならば眠っていても」
「よろしくないからな」
人の身体を得てしまい、感じるようになってしまった欲求の一つが睡眠欲。逢瀬の約束を取り付けてから翌日の予定を確認することとなってしまったのだが、ありがたいことに明日は鶴丸も一期一振も出陣は割り当てられていない。だから多少は寝過ごしたところで問題ないのだが、粟田口の「長兄」であることを誇りとする一期一振にとっては許せぬ事態であるのかもしれない。何より、出陣している弟たちを出迎えないだなんて、そんなことを彼は自身に許しはしないだろう。
横目で窺った様子ではしゃん背筋を伸ばしているものの、もしかしたら眠いのかもしれなかった。そうであるならば、少し申し訳ないとも思う。話をやめる、という選択肢はないのだけれど。
手短に終わらせてやろう、というのはせめてもの情けだ。とりとめのない話になってしまいそうになれば、きっと一期一振はためらうことなく聞く価値のない話であると判断し、眠りについてしまう。その緊張感は不快ではなく、むしろ、どう楽しませてやろうかと胸が躍る。
「そうだな、君はどうだか知らないが、この本丸に顕現されて最初に抱いたのは『気持ち悪いな』という感想だった」
「まあ……分かるような気はします」
思わず首をそちらへと回してしまい、ぐい、と向きを正されてしまう。同意されるとは思っていなかったために驚いたが、これはもしかしたら、顕現したばかりの刀剣男士全員が抱く共通の認識なのかもしれなかった。
長い時間をただの武器として過ごし、そして突然に人間の器を与えられる。そのことで生じる差異は大きなものであるのだから当然のことだろう。違和感を許容できるものが大半である中、鶴丸はそこで躓いてしまった。
続きを、と静かに促される。本丸に流れている時間は有限だ。朝が来る前に、終わりが来る前に、しっかりと向き合わなければならなかった。
「気持ち悪い、と初めに拒絶してしまったものと向き合う勇気が持てずにいてな。このままずるずるとここまで来てしまったんだが」
「いい加減、目を醒ませと怒られてしまったわけですか。情けないですな」
「おいおい、同じ穴の狢が何を言っているんだ」
「失礼な。私はとうの昔に目を醒ましているというのに」
一期一振の言葉には釈然としないものの、ここで噛み付いてやり合うだけではこれまでと何も変わらない。それに、今宵の逢瀬は鶴丸が己と向き合うためにある。ぐっと堪え、続けるための言葉を探す。
「とにかくだ。俺が最も認めたくなかったものが、一期一振吉光、という存在だったことに気が付いてしまった。だから、こうして君の貴重な時間を貰い受けることにしたわけなんだが、質問はあるか」
「当事者に対して『認めたくなかった』などとのたまうその神経を疑うくらいで、特に質問事項はありませんな」
「俺と君との関係だ。今更、言葉を取り繕うこともないだろう」
それに、鶴丸が認めたくなかったのは刀剣男士として人の身体を手に入れた一期一振吉光という存在であって、単なる付喪神としての彼の魂を否定しているわけではない。両者は同一の存在であると断じるものが大半であったとしても、少なくとも鶴丸の中では似て非なるものである。改めてその点についての注釈を付け加えると、面倒な御方、などという感想が返ってきた。それで留まったのであれば、どうやら臍を曲げるには至らなかったらしい。そのことに安堵する。
兄としての姿を見せない一期一振は、鶴丸の記憶に残るそのままの様子を今でも見せてくれている。それが嬉しく、幸せで、同時に悔しく、憎たらしい。人間らしくなってしまった彼が不快なのだと全てを一括りにしてしまっていたのだけれど、もっと丁寧に感情を紐解く。そうして見えてきたのは、これまた人間らしい鶴丸の感情であった。
「なんだか恥ずかしいからさくっといくぜ。俺はどうやら嫉妬していたらしい」
「私の弟たちに対して嫉妬だなんて、随分と大人げない」
「そもそも嫉妬していると認められなかったんだから、単なる餓鬼だっただけさ」
どうだ、驚いたか。茶化した言葉には適当にはいはいと返され、それで、と続きを促される。
「それで、鶴丸殿はどうして嫉妬なんて子どもらしい真似を」
「……言わせるのか、それを」
「生憎、私も子どもですからな」
言われねば分からぬのです、などとどの口が嘯くのか。太刀と短刀。外見では年齢の開きがあるように見えても、同じ作り手によってこの世に生み出された存在である。確かに、鶴丸から見れば纏めて「子ども」と呼んでも差し支えはなかった。が、今回の場合はどちらかというと単なる戯れとしての意味合いが強いに違いない。
捨ててきた感情を拾い集めた中に、答えとなるものは確かにあった。それが何であるのかということくらい、隣に座る聡い彼であれば察することも容易いだろう。それなのに鶴丸へ言葉にすることを求めるのは、戯れなのだろうか。嫌がらせなのだろうか。早いところ自覚しろと、人間らしくなってしまえというのだろうか。
「ええい、絶対にこちらを見るなよ」
「貴方様の間抜け面など私も見たくはありませんので、ご安心を」
嫌な言い方をすると思う。けれど、そうであったからこそ鶴丸は一期一振のことを気に入って、いや、好ましく思っていた。顕現したことで己の愛した「姿」が消え、ただ無条件に「弟」を愛するその「姿」に不快感を抱いた。それは鶴丸が長い年月をかけても見ることのできなかったものであり、きっとこれからも己に向けてもらうことがないのだということを分かっていたからだ。認めることができず、随分と遠回りをしてしまった。
「一期一振吉光」
「はい」
「俺は、どうやら君の一番近くに在りたいようだ」
これが、鶴丸国永の精一杯だった。そして。
「それで、私にどうしろと」
一期一振吉光もまた、素直ではない。
「今も昔も、そして許されるのであればこれからも、鶴丸殿は私の一番ですのに。これ以上、何を求めるというのでしょうな」
鶴丸は一期一振の方へと勢いよく顔を向ける。今度は邪魔をされなかった。むしろ、一期一振もまた鶴丸に目を向けていた。
「おい、一体いつから」
「誇り高き貴方様への憧れが、いつしかそれだけでは済まなくなっておりました」
けれど、鶴丸が己に求めているのは「誇り高き太刀」としての姿であることを、一期一振はよく分かっていた。興味を失われることのないように、誇り高くあれと、凛々しくあれと自らに課した。
本丸にて顕現してからも、思いは変わらなかった。人間らしい心というものに鶴丸が戸惑っているのだと、受け入れがたく感じているのだと理解してからは、意識してかつてのように在ろうとした。己の心にも、蓋をして。
「私がそうすれば貴方様の空気が和らぐことが、幸せでした」
御存知ないでしょう、とどこか誇らしげに言う一期一振に、鶴丸は頷くことしかできなかった。
「弟を慈しむ、人間臭くなってしまった太刀ではありますが、御側に置いていただけますでしょうか」
ああ、人間らしくなってしまった彼を否定した過去を消し去ってしまいたい。いつだって誇り高くあろうとした一期一振が言葉を僅かに震わせるのは、鶴丸が変わってしまった姿を否定したせいだ。変わったのは鶴丸自身もまた、同じであったというのに。
「君の一番近くに在りたい、と言っただろう。俺だって随分と子どもらしい真似をしてしまうと自覚している。それでも構わないのか」
「だって、それが鶴丸殿、鶴丸国永殿でしょうに」
ここまでさらけ出してしまえば、先程は不快に感じてしまった熱も受け入れられるような気がした。鶴丸がそっと腕を伸ばしたことには一期一振も気が付いているだろうに、逃げもせず、止めもしない。恐る恐る、手に触れる。
「……熱い、な」
「人間臭い器ですから」
「いつまで引き摺るんだ。悪かったから、忘れてくれ」
「貴方様からの言葉を、私が忘れてしまうことなどあり得ませんな」
小さく笑う一期一振を見ていると、胸が温かくなるようだった。少し前であれば不快でしかなかったそれも、愛おしくて仕方がない。
ふあ、と欠伸を先に漏らしたのは果たしてどちらであったか。鶴丸が一期一振の部屋を訪れてから、随分と長い時間が経ってしまった。
「こんな時間に悪かった」
「目は」
「ああ。しっかりと醒めた」
心が追いつかず、鶴丸だけがあの墓場を引き摺っていた。いつまでも、いつまでも、微睡みが許されると逃げてばかりで。だが、もう大丈夫だ。夢に縋っている時間はもう終わる。
気持ちを確かめ合ったとて、肌を重ねるにはまだ気恥ずかしい。手と手を触れ合わせるだけで精一杯だ。自室に戻ろうとする鶴丸の背に、一期一振はそっと囁いた。
「全てが終わり、あの場所で目覚めたとしても」
こうして人の身体を手に入れたことが夢であったのだとしても。
「私が貴方様と同じ夢を見ていたのだということを、どうか」
「忘れないさ。むしろ、君が忘れてくれるなよ」
勿論ですとも、と互いに小さな約束を交わす。
廊下に出て見上げた月は、鶴丸が一期一振を待ち始めた頃から大きく居場所を動かしていた。随分と長く話し込んでしまった。眠っている仲間たちを起こさぬよう気をつけながら部屋へと戻り、そして明日に備えて眠らなければならない。鶴丸国永は夜毎に生まれ変わり、新たな驚きへと身をさらす。そのためには身体を休めてやることもまた大切なこと。人の身体は随分と面倒だが、それもまた面白い。
夜明けと共に鶴丸国永は目醒める。幸せな夢を見るために。
褥で待つとは言ったものの、鶴丸にはそれを実行に移すつもりなど毛頭なかった。鶴丸が部屋で待つことになっていたからか一期一振の部屋には布団が敷かれていなかったし、仮に実行したとして、果たしてそれがどのような結果をもたらすか。色めいた方向へは流れない自信があるが、それにしたって話す前から相手の好感度を下げる行為は良くないだろう。元からその好感度が底辺に近いとはいえど。
鶴丸が一期一振の部屋に入ったのは、これが初めてだった。彼もよく許したものだ。確実に部屋へと戻る時間を指定され、それに合わせて来るようにと、或いは一期一振が鶴丸の部屋を訪れるものだとばかり思っていたものだから、驚かされてしまった。確かに、付き合いの長さだけを考えるならばそれも自然であるのかもしれないけれど、そのやり取りをしたのが鶴丸と一期一振であるというだけで不可解になる。少なくとも鶴丸はそう感じていた。
主人の居ない部屋でどう過ごせば良いのかも分からず、何となく隅へと寄って室内をぐるりと見渡してみる。性分なのか綺麗に整理されているようで、目につく調度品は品の良い華やかさ。しかしどこか生活感もあって、妙なところで剛胆な彼の日常を覗き見ている気になってくる。実際、そうであるのだろうが。
机の上には、折り鶴が並べられていた。不格好なものも混ざっているそれは、きっと弟たちの作品だ。折り目正しくお手本のようなものは、一期一振の作品か。彼は「鶴」を折りながら、何を思ったのだろう。不快感でも良いから己を思い浮かべてくれていたとしたら、と考えてしまうのは、鶴丸の内に生まれてしまった厄介な心のせいだ。
廊下の軋む音がする。どうやら、鶴丸の心を波立たせてやまないお兄様が戻ってこられたようである。
淡い光に照らされた陰が、部屋の前で止まる。
ゆるり、と光が差して。
「おや、褥でお待ちになるはずでは」
「待っていてほしかったのか」
「ぞっとしますな」
くすくすと笑いながら戻ってきた一期一振は、室内の薄暗さもあってか「兄」としての表情などどこにも見出せなかった。あの蔵の中で共に在った頃のような空気が好ましく、そして同時に虚しさを覚える。
向かい合って座ろうとした一期一振に、鶴丸は己の隣を指先で軽く叩く。
「隣へ座れ、と」
「顔を突き合わせて話すよりは、互いに慣れているだろう」
人の器を持たぬまま、ふわりと意識だけで話していた時間の方がずっと長い。一瞬だけ動きを止めたものの、その言葉に納得したのだろう。鶴丸の隣へと腰を下ろした一期一振であったが、次の瞬間に抱いた感想は同じであったようだ。
「……生温い」
「弟たちで分かっていたとはいえ、その対象が鶴丸殿だと思うと」
思った以上に近くなってしまった距離に、戸惑いが生まれた。冷たく物言わぬ武具でしかなかった時代は長い。振るう人の熱、刃を受ける人の熱は知っていたけれど、それと同様のものが隣に座る存在から伝わってくるということには違和感があった。
拳一つ分だけ距離を取り直し、ほっと息を吐く。顔も見えず、熱も伝わらず、そんな距離感こそ、鶴丸にとっては慣れ親しんだ一期一振とのものだ。
「それで、目覚めには何をご所望で」
囁く声にはからかいの、否、どこか嘲るような色。自分だけに向けられた懐かしいそれに、鶴丸の口は自然と緩む。穏やかで柔らかなものなど不要だった。あの場所にあったのは、譲れぬ矜持の塊。己こそが最も優れているのだと争う醜い塊。凛々しく在らんとするその在り方こそ、鶴丸の認めた一期一振の「姿」であった。
「そうだな。君は俺の話を聞いているだけでいい」
「つまらなければ」
「いつもの如く、容赦なく邪魔してくれて構わんさ」
かしこまりました、と恭しく口にはしてくれるけれど、一期一振の容赦のなさは何度も味わってきたものだ。燃えたこと、再刃されたことが理由なのか、過去の記憶には欠けた部分がある。それでも、少なくとも蔵へ来てからの出来事は全て覚えているようで、鶴丸が以前に話した内容を繰り返そうとした途端に、容赦なく「耄碌しましたかな」などと言い放つ。
とはいえ、今回ばかりは耄碌したかと問われぬ自信があった。一期一振に対してどころか、他の誰にも話したことのない内容である。鶴丸自身も見て見ぬふりをしてきた、鶴丸国永という刀剣男士についての話なのだから。
「そうだな、どこから語り始めようか」
「長くなるのならば眠っていても」
「よろしくないからな」
人の身体を得てしまい、感じるようになってしまった欲求の一つが睡眠欲。逢瀬の約束を取り付けてから翌日の予定を確認することとなってしまったのだが、ありがたいことに明日は鶴丸も一期一振も出陣は割り当てられていない。だから多少は寝過ごしたところで問題ないのだが、粟田口の「長兄」であることを誇りとする一期一振にとっては許せぬ事態であるのかもしれない。何より、出陣している弟たちを出迎えないだなんて、そんなことを彼は自身に許しはしないだろう。
横目で窺った様子ではしゃん背筋を伸ばしているものの、もしかしたら眠いのかもしれなかった。そうであるならば、少し申し訳ないとも思う。話をやめる、という選択肢はないのだけれど。
手短に終わらせてやろう、というのはせめてもの情けだ。とりとめのない話になってしまいそうになれば、きっと一期一振はためらうことなく聞く価値のない話であると判断し、眠りについてしまう。その緊張感は不快ではなく、むしろ、どう楽しませてやろうかと胸が躍る。
「そうだな、君はどうだか知らないが、この本丸に顕現されて最初に抱いたのは『気持ち悪いな』という感想だった」
「まあ……分かるような気はします」
思わず首をそちらへと回してしまい、ぐい、と向きを正されてしまう。同意されるとは思っていなかったために驚いたが、これはもしかしたら、顕現したばかりの刀剣男士全員が抱く共通の認識なのかもしれなかった。
長い時間をただの武器として過ごし、そして突然に人間の器を与えられる。そのことで生じる差異は大きなものであるのだから当然のことだろう。違和感を許容できるものが大半である中、鶴丸はそこで躓いてしまった。
続きを、と静かに促される。本丸に流れている時間は有限だ。朝が来る前に、終わりが来る前に、しっかりと向き合わなければならなかった。
「気持ち悪い、と初めに拒絶してしまったものと向き合う勇気が持てずにいてな。このままずるずるとここまで来てしまったんだが」
「いい加減、目を醒ませと怒られてしまったわけですか。情けないですな」
「おいおい、同じ穴の狢が何を言っているんだ」
「失礼な。私はとうの昔に目を醒ましているというのに」
一期一振の言葉には釈然としないものの、ここで噛み付いてやり合うだけではこれまでと何も変わらない。それに、今宵の逢瀬は鶴丸が己と向き合うためにある。ぐっと堪え、続けるための言葉を探す。
「とにかくだ。俺が最も認めたくなかったものが、一期一振吉光、という存在だったことに気が付いてしまった。だから、こうして君の貴重な時間を貰い受けることにしたわけなんだが、質問はあるか」
「当事者に対して『認めたくなかった』などとのたまうその神経を疑うくらいで、特に質問事項はありませんな」
「俺と君との関係だ。今更、言葉を取り繕うこともないだろう」
それに、鶴丸が認めたくなかったのは刀剣男士として人の身体を手に入れた一期一振吉光という存在であって、単なる付喪神としての彼の魂を否定しているわけではない。両者は同一の存在であると断じるものが大半であったとしても、少なくとも鶴丸の中では似て非なるものである。改めてその点についての注釈を付け加えると、面倒な御方、などという感想が返ってきた。それで留まったのであれば、どうやら臍を曲げるには至らなかったらしい。そのことに安堵する。
兄としての姿を見せない一期一振は、鶴丸の記憶に残るそのままの様子を今でも見せてくれている。それが嬉しく、幸せで、同時に悔しく、憎たらしい。人間らしくなってしまった彼が不快なのだと全てを一括りにしてしまっていたのだけれど、もっと丁寧に感情を紐解く。そうして見えてきたのは、これまた人間らしい鶴丸の感情であった。
「なんだか恥ずかしいからさくっといくぜ。俺はどうやら嫉妬していたらしい」
「私の弟たちに対して嫉妬だなんて、随分と大人げない」
「そもそも嫉妬していると認められなかったんだから、単なる餓鬼だっただけさ」
どうだ、驚いたか。茶化した言葉には適当にはいはいと返され、それで、と続きを促される。
「それで、鶴丸殿はどうして嫉妬なんて子どもらしい真似を」
「……言わせるのか、それを」
「生憎、私も子どもですからな」
言われねば分からぬのです、などとどの口が嘯くのか。太刀と短刀。外見では年齢の開きがあるように見えても、同じ作り手によってこの世に生み出された存在である。確かに、鶴丸から見れば纏めて「子ども」と呼んでも差し支えはなかった。が、今回の場合はどちらかというと単なる戯れとしての意味合いが強いに違いない。
捨ててきた感情を拾い集めた中に、答えとなるものは確かにあった。それが何であるのかということくらい、隣に座る聡い彼であれば察することも容易いだろう。それなのに鶴丸へ言葉にすることを求めるのは、戯れなのだろうか。嫌がらせなのだろうか。早いところ自覚しろと、人間らしくなってしまえというのだろうか。
「ええい、絶対にこちらを見るなよ」
「貴方様の間抜け面など私も見たくはありませんので、ご安心を」
嫌な言い方をすると思う。けれど、そうであったからこそ鶴丸は一期一振のことを気に入って、いや、好ましく思っていた。顕現したことで己の愛した「姿」が消え、ただ無条件に「弟」を愛するその「姿」に不快感を抱いた。それは鶴丸が長い年月をかけても見ることのできなかったものであり、きっとこれからも己に向けてもらうことがないのだということを分かっていたからだ。認めることができず、随分と遠回りをしてしまった。
「一期一振吉光」
「はい」
「俺は、どうやら君の一番近くに在りたいようだ」
これが、鶴丸国永の精一杯だった。そして。
「それで、私にどうしろと」
一期一振吉光もまた、素直ではない。
「今も昔も、そして許されるのであればこれからも、鶴丸殿は私の一番ですのに。これ以上、何を求めるというのでしょうな」
鶴丸は一期一振の方へと勢いよく顔を向ける。今度は邪魔をされなかった。むしろ、一期一振もまた鶴丸に目を向けていた。
「おい、一体いつから」
「誇り高き貴方様への憧れが、いつしかそれだけでは済まなくなっておりました」
けれど、鶴丸が己に求めているのは「誇り高き太刀」としての姿であることを、一期一振はよく分かっていた。興味を失われることのないように、誇り高くあれと、凛々しくあれと自らに課した。
本丸にて顕現してからも、思いは変わらなかった。人間らしい心というものに鶴丸が戸惑っているのだと、受け入れがたく感じているのだと理解してからは、意識してかつてのように在ろうとした。己の心にも、蓋をして。
「私がそうすれば貴方様の空気が和らぐことが、幸せでした」
御存知ないでしょう、とどこか誇らしげに言う一期一振に、鶴丸は頷くことしかできなかった。
「弟を慈しむ、人間臭くなってしまった太刀ではありますが、御側に置いていただけますでしょうか」
ああ、人間らしくなってしまった彼を否定した過去を消し去ってしまいたい。いつだって誇り高くあろうとした一期一振が言葉を僅かに震わせるのは、鶴丸が変わってしまった姿を否定したせいだ。変わったのは鶴丸自身もまた、同じであったというのに。
「君の一番近くに在りたい、と言っただろう。俺だって随分と子どもらしい真似をしてしまうと自覚している。それでも構わないのか」
「だって、それが鶴丸殿、鶴丸国永殿でしょうに」
ここまでさらけ出してしまえば、先程は不快に感じてしまった熱も受け入れられるような気がした。鶴丸がそっと腕を伸ばしたことには一期一振も気が付いているだろうに、逃げもせず、止めもしない。恐る恐る、手に触れる。
「……熱い、な」
「人間臭い器ですから」
「いつまで引き摺るんだ。悪かったから、忘れてくれ」
「貴方様からの言葉を、私が忘れてしまうことなどあり得ませんな」
小さく笑う一期一振を見ていると、胸が温かくなるようだった。少し前であれば不快でしかなかったそれも、愛おしくて仕方がない。
ふあ、と欠伸を先に漏らしたのは果たしてどちらであったか。鶴丸が一期一振の部屋を訪れてから、随分と長い時間が経ってしまった。
「こんな時間に悪かった」
「目は」
「ああ。しっかりと醒めた」
心が追いつかず、鶴丸だけがあの墓場を引き摺っていた。いつまでも、いつまでも、微睡みが許されると逃げてばかりで。だが、もう大丈夫だ。夢に縋っている時間はもう終わる。
気持ちを確かめ合ったとて、肌を重ねるにはまだ気恥ずかしい。手と手を触れ合わせるだけで精一杯だ。自室に戻ろうとする鶴丸の背に、一期一振はそっと囁いた。
「全てが終わり、あの場所で目覚めたとしても」
こうして人の身体を手に入れたことが夢であったのだとしても。
「私が貴方様と同じ夢を見ていたのだということを、どうか」
「忘れないさ。むしろ、君が忘れてくれるなよ」
勿論ですとも、と互いに小さな約束を交わす。
廊下に出て見上げた月は、鶴丸が一期一振を待ち始めた頃から大きく居場所を動かしていた。随分と長く話し込んでしまった。眠っている仲間たちを起こさぬよう気をつけながら部屋へと戻り、そして明日に備えて眠らなければならない。鶴丸国永は夜毎に生まれ変わり、新たな驚きへと身をさらす。そのためには身体を休めてやることもまた大切なこと。人の身体は随分と面倒だが、それもまた面白い。
夜明けと共に鶴丸国永は目醒める。幸せな夢を見るために。