花人
その桜は、随分と赤い色をしていた。風に散らされたその花弁を拾い上げたとしても「赤」と評する人間はいないに違いない。しかし、少し離れた場所からその桜並木を見たとなれば話は別だ。
桜は薄紅、なんて誰が言い出したことであるのかは分からないけれど、それが文学上の表現でしかないことは誰もが知っていて己の目に写るその色のことは「白」であると口にするに違いない。そんな「白い」桜並木に一本だけ生えた「赤い」桜。成長するにつれ見慣れてしまい気にも留めなくなる人間が多いそれを、金田一は毎年、気にしていた。ああ、今年もあの桜が咲いている。
金田一の所属するバレー部は、市内どころか県内でも有数の強豪校である。それ故に練習が長引くことは多々あることで、金田一が帰路につく頃には日が暮れてしまっている、ということも日常茶飯事であった。
一年生という運動部における上下関係では最下層に位置していることもまた、その一つの要因であろう。上級生の使った用具の片付けをすることは一年生の仕事であったから最後まで残らなければならなかったし、鍵当番に当たっている上級生たちは自分たちの自主練が終わってから鍵を閉めるまでの短い時間だけ、一年生のためにその場所を開放してくれている。それは強豪校故の所属部員数の多さから下級生であればあるほど自主練の場所が奪われてしまっていることに由来する。
上級生の自主練がほんの少しだけ早めに切り上げられたその後は、下級生が好きなように体育館を使うことを許されるご褒美の時間。最後まで残って片付けを行う人間に許されたその特権は、代々受け継がれている物であるらしかった。金田一もまた、その特権にあやかる人間の一人である。
「あー、ついこの間までは真っ暗だったのにな」
「金田一の言うこの間って、いつのことだよ」
「結構前?」
「世間一般ではね」
同じ中学に通っているからと言っても、家の方向が同じかと問われるとそうではない。桜並木を金田一と共に歩むのは国見だけである。
僅かに太陽の残滓を残した薄暗い空と白い花。そして、突然現れる、赤。幼稚園、小学校、そして中学校が密集して立地しているせいで金田一がこの道を通学路とするのは今年で十年目にもなる。だから毎年のように、季節になれば毎日のように赤い桜を目にしているというのに未だ慣れない。
花吹雪、とはよく言ったもので強い風に煽られて舞い散る花弁は確かに雪のように見えた。季節外れの雪。けれど、どうしてもそこに交じる赤色に目が留まる。どうしてこれほどまでに気になってしまうのかは金田一自身にも分からなかった。
「なぁ、この桜って」
「赤いやつ? 下に誰か埋まってるんじゃない?」
「は!?」
「綺麗な桜の下にはさ、誰かの死体が埋まってるんだって」
これだけ花が赤いんだから惨殺死体かもよ、なんて冗談めかした国見の発言が衝撃的すぎて、金田一の頭は一時的に思考を停止する。惨殺死体が埋まっている、だなんて。通報しなくても良いのかだとか、きっと性質の悪い冗談だとか、そんなことを一通り考えてしまってからある一点のみが金田一の胸の内にすとんと落ちた。綺麗な、桜。
「……そっか、綺麗、なんだよな」
「何だよ急に。お前らしくもないな」
「うるせ」
他の桜よりも美しく咲き誇ったその赤色は、いつだって金田一の心を惹きつけてやまなかった。国見の言うようにその下には殺されてしまった誰かがいるのかもしれないのだけれど、そのおかげでこんなにも美しく咲いているのかと思えば不思議と怖くはなかった。
こんなにも心を揺さぶる美しい花を咲かせているというのに、どうして誰も気にしないのか。無い頭を捻りながら金田一は歩く。国見は元々口数の多い方ではないものだから、金田一が口を閉ざしてしまえばそこに横たわるのは沈黙のみ。しかし、それは不快ではない。
やがて、風が全ての花弁を散らしてしまった頃。葉桜の隙間から見える空は以前よりも明るくなった。同じ中学に通っているからと言っても、家の方向が同じかと問われるとそうではない。熱心な部活動のせいで他の生徒よりも帰宅時間の遅い金田一は今日もまた、一人で桜並木を歩く。
あれほど心を揺さぶった赤い桜も、花を散らしてしまえば他の木々に紛れてしまってどれがそうであったのかなんて分からない。金田一の心を占めているのは不思議な美しいあの花ではなくて、つい先ほどまで触れていたバレーボールのことばかりである。
そう、それはいつかの帰り道だった。幼稚園で、仲の良い友達と喧嘩をしてしまったその日の帰り。我慢できていたのに迎えに来た母親の顔を見るともう駄目で、大声を上げながら泣いた記憶。泣きながら歩く金田一の言葉を聞いてくれていた母親の姿は、小学校へと上がると別の誰かに切り替わる。桜吹雪の中、血染め桜の。
明らかに他とは異なる色をしたその桜のことを、いつの頃からか「血染め桜」と呼ぶようになった。誰が呼び始めたのかは分からないけれど、小学生の噂話というレベルで維持されてきた、一種の都市伝説。
あの桜の木の下には、ずっと昔に殺された人が埋められている。酷い殺され方をしたらしいその血を啜り、あの桜は咲いている。
土の下から死体が出てくるわけでも、桜が生者の血を啜るために襲い掛かってくるわけでもない。どこにでもある「桜の木の下には死体が埋まっている」という噂話が、真っ赤に花開くその姿によって強烈に装飾されているだけだ。
母親が趣味で管理している家の花壇でも、稀にではあるが異なる色の花が咲く。突然変異、という言葉を聞いたのはいつであったか。金田一の家の小さな花壇ですら、同じ品種でありながら異なる色を持つ花が咲く。きっとあの桜も花壇の花と同じなのだと思うのに心に引っかかってしまうのは、きっとつい最近の生物の授業で遺伝の性質について学んだからだ。そこで再び耳にした、突然変異。
様々な環境の変化に対応するべく、ある日ある瞬間に発生してしまう命の連鎖でのシステムエラー。環境に馴染むことができなければ時の流れに埋もれてしまうそれ。
幼稚園で喧嘩をしたのだと泣いていた金田一は、もう高校一年生になっている。幼稚園、小学校、中学校、そして高校。多少の通学路の変化はあるものの、どこへ通っていてもあの桜並木を通ってきた。慣れる人間も多い中で血染め桜に毎年目をとめる金田一に対し、あの桜に魅入られたのか、なんて茶化した声は誰のものであったのだろう。
ガリガリと意味も分からないままに黒板の数式を写しながら、金田一はそっと教室に目を走らせる。入学してまだ間もない今、座席は名前の順で並べられている。当初、金田一は前から二列目に座っていた。しかし、すぐ後ろに座った生徒が小柄であったことや、最後列に座った生徒の目が悪かったことなどから交代に交代を重ね、窓際の最後列という素晴らしい場所を手に入れたのである。
日差しの心地良い昼食後にもなると睡魔が真っ先に訪れてくれるのであるが、残念なことに、今の金田一は一度その誘いに乗って夢の国へと旅立った後である。目覚めてしまうと再びそちらへ足を踏み入れることは難しく、かといって意味も分からない授業をずっと聞いていられるかと問われると正直なところ飽きてくる。ともなれば、立地条件を活かしてクラスメートの観察をして時間を潰す以外に何もできないのだ。
――あいつ、そろそろ寝そうだな。
――あのマンガ、続き出てたんだ。
――早く部活行きてぇなぁ。
授業を聞いている生徒のうち、何人がその内容を理解しているのか。何もわからないままに書き写しているだけの人間はきっと大勢いるはずだ、と考えながら金田一はノートを取り続けている。
慣れなのか偶然なのか、授業内容のきりが良いところでチャイムが鳴った。今日の授業はここまで、なんて先生の宣言を待つことなくガチャガチャと片付けを始めた様子にはいつも疑問ばかりが浮かぶ。その態度は先生に対して失礼なのではないだろうか。小学校の頃に一度だけこの件に関してクラス全体が怒られたことがあったのだが、それが金田一の中には残っているのかもしれなかった。
次の授業は何だったか、と時間割表を机の中から引っ張り出した金田一の肩に、ぐっと重みが掛けられる。回された腕、体重の掛け方、そういったものから犯人を推測することは容易い。
「……今度は何だよ国見」
「数学のノート、見せて」
国見とは幼稚園の頃の付き合いである。金田一とはクラスが違うのだが、こうして休み時間の度に何らかのノートを回収して去っていく。授業中は睡魔に抗うことなく身を委ね、眠っている間のノートについては金田一に借りて補完する、というのが国見のスタイルであるらしかった。
教室の角で行われているスキンシップであるからなのか、はたまた高校生活が始まってから毎日、ほぼ毎時間のように行われていることであるからなのか、クラスにおいて二人の言動は当たり前の事柄であるかのように受け入れられてしまっていた。変に囃し立てられるよりはマシであるのだが、今日もお熱いことで、なんて茶化す声が偶にあるだけで密着したままの二人がクラスに溶け込んでしまっている状況は、どこかおかしいのではなかろうか。女同士ならばともかく男同士。他の誰も、金田一と国見のような言動を取ってはいないのに。
仕舞ったばかりの数学のノートを取り出す金田一に対し、早く出せと言わんばかりに国見は回した腕に力を込め始める。息苦しさを感じるほどではないが圧迫感のあるそれに、金田一は取り出したノートを軽くたたきつけることで制止を求めた。力が緩んだことを感じ取ると、空いている手で国見の腕を掴んで引き剥がす。
「うわ、ほっそ」
思わず漏れてしまった声に、金田一の後頭部へ鈍い痛みとして返答があった。恐らくは、国見による頭突き。細いと言われて喜ぶ男はいないだろう。ストレートに「いてえ」と零した金田一に対し、自らも痛みを感じたであろう国見は鼻でふんと笑っただけである。それが強がりなのか痛みなど些末なことだと流してしまっているのかは分からないが、とにかく、この攻撃で金田一をダメージを喰らったことに満足しているらしいということだけは理解した。
ほれ、とノートを差し出してやれば軽い礼の言葉と共にそれが抜き取られていく。ちらりと時計を見遣ると、もうタイムアップ。あと二、三分でチャイムが鳴って授業が始まってしまう。気の早い先生ならば既に教室で準備を始めてしまっている時間だった。
「国見、早く戻れよ」
「うわ酷いな金田一、そんなに俺と離れたいわけ?」
「ちげーけどさ」
違うのかよ、なんて笑いながら背後の熱が離れていく。あまりにも馴染んでしまっていたそれの喪失感に、思った以上の寒気が金田一を襲う。ぶるり、と身体を一瞬だけ震わせたその姿を見られてしまったのか、国見はまた笑う。
金田一が振り返って国見の顔を確認した時にはその欠片を見ることすら叶わなかったのだが、国見が笑うと空気が揺れるのだ。似合いもしない文学的表現を、なんて誰かに言われるのかもしれないのだけれど、金田一はいつだったかどこかで目にしたその表現こそが国見の笑みには相応しいと思っている。彼が笑うと空気が揺れて、花が綻び、そして、落ちる。
授業が始まり、睡魔と格闘するその傍らで金田一はふと思う。そういえば、国見は何組だっただろうか。一度は聞いたような気がするのだけれど、いつも国見が金田一のところへと先に着いてしまうから、彼の教室へは行ったことがなかった。
金田一のクラスではそれなりに馴染んでしまっているのだけれど、休み時間の度にこちらへ来ているようでは自分のクラスで浮いてしまってはいないだろうか。気になるのだが、肝心のクラスがどこであるのかが記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっている。また訊かなければと思いながら、金田一はノートにシャーペンを走らせた。
人為突然変異。
薬品処理や放射線照射などの人為的な操作によって生じる突然変異。桜の木の下に死体が埋まり、そして美しい花を咲かせるというのなら、それは人為突然変異だと言えるのか。
強豪に名を連ねる部活動に所属している金田一にとって、勉学に割くことのできる時間は皆無に等しい。少しでも時間があればボールに触れているか、或いは疲れきった身体を休ませるか。その二択しか存在していない金田一が机に向かい教科書を開いてノートに何かを書き込もうとしている、という状況は異質なものであると言えた。
彼らしくもないその行動の理由は簡単なことで、明日の授業では前に出て黒板に答えを書かなければならないからだ。名簿の順番に従って解答者が選ばれる授業であるため、自分の当てられるであろう課題は授業終了時に誰が当てられていたかという情報から逆算できる。当日になって休む人間が出ること、先生の勘違いで少しずれたところからスタートするかもしれないことを考えるならば、当てられるであろう問題とその前後一つずつの計三問をどうにかしておけば良い。真面目な優等生のように全ての問題を解くだけの余力もやる気もないけれど、黒板の前で恥をかかない程度に努力をするつもりはあったのだ。
科目は、英語。日本人だし外国に行かないし身近に外国人が来る予定もないし、どうして英語を学ばなければならないのか。そんな鬱憤であったり疑問であったりはきっとクラスどころか学校の生徒大半が思っていることであるに違いない。空欄補充や並べ替えであったならばまだマシだったのに、運の悪いことに金田一が当てられそうなのは長文の英訳だった。
単語については辞書に頼るとして、文法が分からない。サンゴや他の海洋生物全てに言えることは、クジラにも当てはまる。何の事だかさっぱりだ。海の中で生きているということだろうか。
「……国見なら分かる、よな」
授業は睡眠学習だ、なんて豪語するだけあって国見は金田一よりも賢かった。分からないままに意味不明な言葉の羅列を聞いていて理解できるわけがないとは国見の言葉であるのだが、金田一としては睡眠学習に逃げたとしたって授業内容が自分に理解できるとは思えない。あれは国見だから、という感覚だ。
とにかく、国見であれば答えが分かるかもしれないという思いから金田一は鞄の中からスマフォを引っ張り出した。中学時代からお世話になっている岩泉から明日の朝練についての連絡が一時間前に来ていたようだが、マナーモードにしたまま放り込んでいたせいで気が付かなかった。返信速度に煩い先輩ではなくて良かったという思いと申し訳なさを混ぜ込みながら返信を済ませた金田一は、アドレス帳を開く。
「ん?」
影山、工藤、古賀。仲違いをしてしまったかつてのチームメイトの名はあるし、これまでに同じクラスとなってそれなりに仲良くなった友人の名もある。しかし、そこに国見の名前は無い。
頭が真っ白になるとはこのことかと思った。もしかしたら誤って連絡先を消してしまっただけなのかもしれない。入部して参加した青城バレー部のライングループの一覧を確認してみる。国見の名は、ない。通話記録にも、メールの送受信フォルダにも、どこにも。
「なん、で」
ずっと一緒にいた。クラスが同じになって仲良くなった、という友人よりは長い時間を共にしてきた。同じ部活動に所属していて、辛いこと、苦しいこと、楽しさ、喜び、多くの感情を共有してきた。そんな国見の連絡先が金田一のスマフォには入っていなくて、やりとりをした形跡もないだなんて、そんなおかしなことがあるのだろうか。
そして何よりも恐ろしかったのは、今、金田一が国見と連絡を取ろうと考えなければこの事実には気が付かなかったということで、もしかしたら明日以降も昨日までと同じように何の疑問も抱かないまま、国見とはただ学校で顔を合わせるだけで連絡を取り合うことのない生活を受け入れていたのかもしれないということだった。
ふと思い出し、中学の卒業アルバムを手に取った。ページをめくり、懐かしい顔をなぞっていく。その中に、あのいつだって眠そうな表情をした友人はいない。しかし金田一の中には確かに二人で過ごした記憶があった。今日もまた、国見と過ごした時間があった。それならば国見英という存在は、どうして記録から抜け落ちてしまっているのだろうか。
勘違いかもしれないからと何度も見直した卒業アルバムを放り投げ、問題に目を向ける。サンゴや他の海洋生物全てに言えることは、クジラにも当てはまる。金田一や他の一般生徒全てに言えることは、国見に当てはまらないのかもしれない。
夕飯にするから手伝いに来なさい、という母の言葉がありがたい。これ幸いと部屋を飛び出した金田一は、勢いよく台所へと飛び込んだ。いつもならば煩わしさと面倒臭さしか感じない行為であったとしても、今は何も考えたくなかったから。驚く母にはお腹が空いているからと誤魔化して、食器を運んでいく。
「あのさ、国見の写真ってあったっけ」
ただ、一度気になってしまったことはそう簡単に脳裏から離れてはくれなくて、ついつい口から飛び出してしまった。そして、すぐに後悔することとなる。国見の写真など、存在していないのだと。その言葉のせいで随分と間抜けな表情を晒してしまったのかもしれない。変な顔、とひとしきり笑われたその後で理由を聞いた。曰く、国見は写真に写ることが嫌らしい。嫌だ嫌だと泣き逃げ惑う幼子をその場に縛り付けて撮影会を執り行うほど、大人たちは人でなしではなかったのだというだけの話。
なんだ、と安心するその一方で金田一の心の奥底からはそれを壊す声が聞こえてきていた。小さい子どもを愛でることに全力を注ぐ大人たちが、隠し撮りもしていないのか。自分の息子の隠し撮りは大量にあるくせに。金田一の記憶では国見と遊び始めたのは物心がつくよりも前からで、金田一自身の隠し撮りが存在しているのに一緒に遊んでいた筈の国見がそこに写っていないというのは随分とおかしな話だと思ってしまう。
しかし、僅かな可能性にも縋っていたかった金田一は耳を塞いでしまった。国見英は写真に撮られることを異常なほどまでに嫌がっていた。だからきっと、隠し撮りですら大人たちは躊躇ったのだと。
今日のメニューは金田一にとって好物ばかりであったはずなのに、食べる速度はいくらか遅くなってしまっていた。その原因は金田一自身には痛いほど分かっていたのだが、それをそのまま親に説明することが正しい選択であるとは言えないのだということくらい、金田一にだって分かっていた。だから、今日は部活で疲れすぎてしまったのだと強ち嘘でもない言葉で誤魔化して、早々に自室へと引きこもる。そこには国見の存在を不確かな物へと変えてしまったものが転がっているのだが、片付ける気にもなれない。着替えていないがまあ良いかとベッドに寝転がり、考える。国見英とは、何なのか。
(幽霊、じゃないよな)
学校でも部活でも、クラスの人間には見えている。会話だって問題ないし、何より回された腕、密着する背中から感じる温もりは本物だった。ついでに、その状態の国見が繰り出すことの多い頭突き攻撃だって、相当な威力で金田一に襲い掛かってくれている。これほどまでに実体感のある幽霊がいてたまるか、というのが金田一の見解だった。ホラー映画の中ではいつも幽霊とは蒼白い肌をした生気のない存在で、そして主人公や視聴者に恐怖感を与える存在だった。国見からはそんな感覚を受けたことなど一度もないというのに、どうして幽霊だと言うことができるだろう。ならば、彼は何であるのか。
金田一は自分の頭がこういった「難しいこと」を考えることには向いていないことを知っていた。しかしこの一件に関しては何も考えないままで許されるとは思えなかったのだ。国見は国見だと言い切ることができたならばどれほど楽なことか。しかし事態がそれほど単純なものであるとは信じがたく、これまで時間を共に過ごしてきていたからこそ、看過することが許せなかった。国見自身に対する恐怖や疑念というよりはむしろ、金田一自身のプライドによって後押しされた決意であったのかもしれない。
理由はともかく、金田一の中では自らの進むべき道が定まっていた。記録から抜け落ちてしまっている友人の痕跡を見つけ出すこと。国見英という人間は金田一と同じ存在なのだと確かめること。それは全て金田一の自己満足でしかないものであったけれど、そうすればきっと胸の内の不安が解消されるのだとその時の金田一は信じ切っていた。
金田一の知り得る限りで過去の国見に繋がる確かなものは存在しておらず、唯一の手がかりは各々の記憶のみ。そんな不確かな存在である国見をそのまま放置していたとしたら、いつか、金田一の手の届かない遠い場所に消えて行ってしまうような気がした。
方針が決まるとあとは一直線に走り抜けるのが金田一勇太郎という人間だった。国見の痕跡を見つけ出すのだという決意を固めて安心してしまった金田一は、そこがベッドの上であったことも関係してそのまま眠ってしまう。早い時間に眠ったからか中途半端な時間に目覚めてしまった金田一を待っていたのは、手付かずの状態で机に広げられていた英語の課題であった。
自分の無い頭を捻ったとしても、きっと授業までには終わらない。そう見切りをつけた金田一は教科書とノートをカバンの中へと放り込んだ。休み時間にでも誰かに答えを訊いてしまえばいいのだ。近くに座っているうちの誰か一人くらいは、きっと英語が得意なはずだから。誰にどの教科についての教えを乞うべきであるのかを知るには、まだまだ時間が足りなかった。
しんと静まりかえた家の中で息を潜め、躊躇った末に金田一はスマフォを手に取った。アドレス帳、履歴、画像フォルダ。そのどこかに友人の痕跡が見当たらないかと探していく。昨夜は無い頭を使いすぎて疲れてしまっていたのだ、きっと勘違いだったのだ、と信じたかったのかもしれない。しかしそんな金田一の願いは裏切られ、どこにも国見の姿は無かった。
ロードワークに出て頭を切り替えることも考えたのだが、窓を閉め切っていても聞こえてくる雨音がそれを許してはくれなかった。
雨の日の通学ほど憂鬱なものはない。降り方によっては傘をさしていても濡れることがあるし、濡れてしまった制服はずっしりと重たくて嫌な臭いをさせるから不快でしかない。靴が濡れてしまうと放課後までに乾くはずもなく不快指数は上昇するのみだ。
この狭い部屋で考えているから不安に押し潰されて息ができなくなってしまうのだろうに、気分転換をすることも出来ない。宿題も放り投げてしまえば朝練まで何をしていれば良いのか。
「あ」
そこまで考えて唐突に思い出す。手に持ったままだったスマフォを弄り、昨夜、岩泉から届いた連絡に目を通す。明日――つまり今日の朝練は他の部活が体育館を使うから禁止。
中止ではなく禁止と書かれている辺りがポイントだろう。バレー馬鹿を自認する人間が多いから、邪魔にならない場所でなら、と体育館へと出向く人間がいるかもしれない。それが一人二人であればまだマシだろうが、同じことを考えた人間が大勢いれば邪魔にしかならない。
少人数であったとしても視界の端でバレーボールが行き交っていれば気になってしまうのが人間の性。どちらにせよ、禁じてしまった方が良いと判断されたらしい。もちろん、中止にしても禁止にしても部員は岩泉の言葉に従ったであろうが、選ばれた言葉がそれに更なる力を与えたと言っても過言ではないだろう。
金田一が声を上げたのは、自分が禁じられている朝練へと行こうとしたからではない。勿論、それも漏らしてしまった声の何割かを占めている。しかし大部分を占めていたのは昨夜から金田一の思考を独占してしまっている国見の存在である。ライングループの参加一覧開き、そこに国見の名が無いことは何度も確認した。そう、そこに国見の名は無いのだ。
(あいつ、朝練が無いこと知らないんじゃ)
夜の間に岩泉と他の部活の人間の間で相談された内容であったらしく、昨日の自主練前後には朝練の話など欠片も出ていなかった。だから、ライングループに所属していない国見がこの「朝練禁止」という内容を知っているわけがない。
金田一の頭に浮かぶのは、誰もいない体育館に一人で佇む、友人の姿。バレー部から朝練での使用権を奪ったらしい他の部活の人間がその場所には居るはずだと分かっているのに、どうしてだか金田一の想像上では体育館を独占しているのは国見だった。そこには決して温もりはない。雨に濡れ、冷え切った身体を無防備に晒して誰も来ない体育館で待ち続ける国見だけが、そこにいた。
冷蔵庫の中には、夜の間に作られていた二つの弁当がある。一つは昼食用、もう一つは朝食用であったり間食用であったり、その日の金田一の状態によって用法の異なるものである。母が少しでも楽をしようと考えた結果、夜の間に作った弁当箱を金田一が回収するという今のスタイルに落ち着いた。
普段、朝練のためにと家を出ている時間に比べたらまだ早いのだが、じっとしていることはできそうにない。しかし、国見は遅刻しそうになって慌てるよりはと集合時間よりも早く部室に着いていることが多いのだ。早めに出ます、と机上に書き置きを残して靴を履いた金田一は、大きな音を立てて眠っている家族を起こしてしまわないようにと慎重に扉を閉めた後、全速力で走り始めた。
ぱしゃりぱしゃりと路上の水が跳ねてズボンの裾を濡らし、靴の中にまで浸み込んでくる不快さ、傘を差しているのに風に流されて身体へと叩き付けられる雨。起きてすぐはそういったことが嫌だということばかり考えていた筈なのに、今の金田一の頭にはその欠片も見当たらない。ただただ、一人で部員と到着を待つ友人の元へ、早く向かわなければという思いだけ。
なりふり構わずに走ったことが良かったのか、金田一が部室に飛び込んだ時にはまだ国見は制服のままだった。やはり傘では防ぎきれなかったのか、制服や鞄が少し濡れてしまっている。金田一の想像していた国見の姿ほどには濡れていないけれど、それでもやはり濡れてしまっているその姿を見ることが嫌だった。
「金田一、お前、傘は」
「あー、走ってたらあんま意味なくってさ」
「どんだけ慌てたんだよ、珍しいな」
国見よりもむしろ金田一の方が酷い濡れ方をしている自覚はあった。笑われてしまって少し頬が赤くなってしまった感覚は否めない。金田一自身、国見の立場であったとしたらバカだなと笑っていただろう。気恥ずかしさは残るものの、国見が飛び込んできた金田一に驚いて止めていた着替えを再開させたことをきっかけに、どうしてここまで走って来たのかということを思い出す。
「そうだ、国見。今日、朝練無いんだよ」
「嘘」
「ホント。昨日の夜、岩泉さんから連絡が来てて」
「……道理で、人が来ないなと」
早起きしたのにな、と呟きつつ国見は外していたボタンを留めていく。きっと、国見の肌のようなものを「病的」だと評すのだろう。室内競技だからなのか、雨の降る薄暗い朝だからなのか、肌蹴られていたシャツの合間から覗いていた肌は驚くほど白かった。それは雪のような、或いは幽霊のような。
頬を水滴が伝う感覚で、金田一はようやく自分自身の状態を思い出す。ぐっしょりと水を吸ってしまった靴は諦めるにしても、制服は乾かしておきたい。タオルを取り出して肩にかけた金田一は、少し悩んでからズボンを脱いだ。どうせ、今日の朝練は禁止されていて誰も来ないはずだから、ベンチを物干し竿代わりに借りたとしても咎められまい。代わりに、癖で入れてきてしまった練習着のズボンに足を通す。思わぬところで習慣が役に立った形である。
それなりに身なりは整えたものの、金田一と国見はベンチに座っていた。始業時間まではまだ時間がある。教室のような広い空間に居るよりも、二人で部室程度の狭い場所に閉じこもっている方がずっと落ち着くような気がした。いつだって、見慣れているのは生徒であふれた教室であるからなのかもしれない。しんと静まり返った部室には、エアーサロンパスに交じって雨の湿ったにおいが漂っていた。
桜は薄紅、なんて誰が言い出したことであるのかは分からないけれど、それが文学上の表現でしかないことは誰もが知っていて己の目に写るその色のことは「白」であると口にするに違いない。そんな「白い」桜並木に一本だけ生えた「赤い」桜。成長するにつれ見慣れてしまい気にも留めなくなる人間が多いそれを、金田一は毎年、気にしていた。ああ、今年もあの桜が咲いている。
金田一の所属するバレー部は、市内どころか県内でも有数の強豪校である。それ故に練習が長引くことは多々あることで、金田一が帰路につく頃には日が暮れてしまっている、ということも日常茶飯事であった。
一年生という運動部における上下関係では最下層に位置していることもまた、その一つの要因であろう。上級生の使った用具の片付けをすることは一年生の仕事であったから最後まで残らなければならなかったし、鍵当番に当たっている上級生たちは自分たちの自主練が終わってから鍵を閉めるまでの短い時間だけ、一年生のためにその場所を開放してくれている。それは強豪校故の所属部員数の多さから下級生であればあるほど自主練の場所が奪われてしまっていることに由来する。
上級生の自主練がほんの少しだけ早めに切り上げられたその後は、下級生が好きなように体育館を使うことを許されるご褒美の時間。最後まで残って片付けを行う人間に許されたその特権は、代々受け継がれている物であるらしかった。金田一もまた、その特権にあやかる人間の一人である。
「あー、ついこの間までは真っ暗だったのにな」
「金田一の言うこの間って、いつのことだよ」
「結構前?」
「世間一般ではね」
同じ中学に通っているからと言っても、家の方向が同じかと問われるとそうではない。桜並木を金田一と共に歩むのは国見だけである。
僅かに太陽の残滓を残した薄暗い空と白い花。そして、突然現れる、赤。幼稚園、小学校、そして中学校が密集して立地しているせいで金田一がこの道を通学路とするのは今年で十年目にもなる。だから毎年のように、季節になれば毎日のように赤い桜を目にしているというのに未だ慣れない。
花吹雪、とはよく言ったもので強い風に煽られて舞い散る花弁は確かに雪のように見えた。季節外れの雪。けれど、どうしてもそこに交じる赤色に目が留まる。どうしてこれほどまでに気になってしまうのかは金田一自身にも分からなかった。
「なぁ、この桜って」
「赤いやつ? 下に誰か埋まってるんじゃない?」
「は!?」
「綺麗な桜の下にはさ、誰かの死体が埋まってるんだって」
これだけ花が赤いんだから惨殺死体かもよ、なんて冗談めかした国見の発言が衝撃的すぎて、金田一の頭は一時的に思考を停止する。惨殺死体が埋まっている、だなんて。通報しなくても良いのかだとか、きっと性質の悪い冗談だとか、そんなことを一通り考えてしまってからある一点のみが金田一の胸の内にすとんと落ちた。綺麗な、桜。
「……そっか、綺麗、なんだよな」
「何だよ急に。お前らしくもないな」
「うるせ」
他の桜よりも美しく咲き誇ったその赤色は、いつだって金田一の心を惹きつけてやまなかった。国見の言うようにその下には殺されてしまった誰かがいるのかもしれないのだけれど、そのおかげでこんなにも美しく咲いているのかと思えば不思議と怖くはなかった。
こんなにも心を揺さぶる美しい花を咲かせているというのに、どうして誰も気にしないのか。無い頭を捻りながら金田一は歩く。国見は元々口数の多い方ではないものだから、金田一が口を閉ざしてしまえばそこに横たわるのは沈黙のみ。しかし、それは不快ではない。
やがて、風が全ての花弁を散らしてしまった頃。葉桜の隙間から見える空は以前よりも明るくなった。同じ中学に通っているからと言っても、家の方向が同じかと問われるとそうではない。熱心な部活動のせいで他の生徒よりも帰宅時間の遅い金田一は今日もまた、一人で桜並木を歩く。
あれほど心を揺さぶった赤い桜も、花を散らしてしまえば他の木々に紛れてしまってどれがそうであったのかなんて分からない。金田一の心を占めているのは不思議な美しいあの花ではなくて、つい先ほどまで触れていたバレーボールのことばかりである。
そう、それはいつかの帰り道だった。幼稚園で、仲の良い友達と喧嘩をしてしまったその日の帰り。我慢できていたのに迎えに来た母親の顔を見るともう駄目で、大声を上げながら泣いた記憶。泣きながら歩く金田一の言葉を聞いてくれていた母親の姿は、小学校へと上がると別の誰かに切り替わる。桜吹雪の中、血染め桜の。
明らかに他とは異なる色をしたその桜のことを、いつの頃からか「血染め桜」と呼ぶようになった。誰が呼び始めたのかは分からないけれど、小学生の噂話というレベルで維持されてきた、一種の都市伝説。
あの桜の木の下には、ずっと昔に殺された人が埋められている。酷い殺され方をしたらしいその血を啜り、あの桜は咲いている。
土の下から死体が出てくるわけでも、桜が生者の血を啜るために襲い掛かってくるわけでもない。どこにでもある「桜の木の下には死体が埋まっている」という噂話が、真っ赤に花開くその姿によって強烈に装飾されているだけだ。
母親が趣味で管理している家の花壇でも、稀にではあるが異なる色の花が咲く。突然変異、という言葉を聞いたのはいつであったか。金田一の家の小さな花壇ですら、同じ品種でありながら異なる色を持つ花が咲く。きっとあの桜も花壇の花と同じなのだと思うのに心に引っかかってしまうのは、きっとつい最近の生物の授業で遺伝の性質について学んだからだ。そこで再び耳にした、突然変異。
様々な環境の変化に対応するべく、ある日ある瞬間に発生してしまう命の連鎖でのシステムエラー。環境に馴染むことができなければ時の流れに埋もれてしまうそれ。
幼稚園で喧嘩をしたのだと泣いていた金田一は、もう高校一年生になっている。幼稚園、小学校、中学校、そして高校。多少の通学路の変化はあるものの、どこへ通っていてもあの桜並木を通ってきた。慣れる人間も多い中で血染め桜に毎年目をとめる金田一に対し、あの桜に魅入られたのか、なんて茶化した声は誰のものであったのだろう。
ガリガリと意味も分からないままに黒板の数式を写しながら、金田一はそっと教室に目を走らせる。入学してまだ間もない今、座席は名前の順で並べられている。当初、金田一は前から二列目に座っていた。しかし、すぐ後ろに座った生徒が小柄であったことや、最後列に座った生徒の目が悪かったことなどから交代に交代を重ね、窓際の最後列という素晴らしい場所を手に入れたのである。
日差しの心地良い昼食後にもなると睡魔が真っ先に訪れてくれるのであるが、残念なことに、今の金田一は一度その誘いに乗って夢の国へと旅立った後である。目覚めてしまうと再びそちらへ足を踏み入れることは難しく、かといって意味も分からない授業をずっと聞いていられるかと問われると正直なところ飽きてくる。ともなれば、立地条件を活かしてクラスメートの観察をして時間を潰す以外に何もできないのだ。
――あいつ、そろそろ寝そうだな。
――あのマンガ、続き出てたんだ。
――早く部活行きてぇなぁ。
授業を聞いている生徒のうち、何人がその内容を理解しているのか。何もわからないままに書き写しているだけの人間はきっと大勢いるはずだ、と考えながら金田一はノートを取り続けている。
慣れなのか偶然なのか、授業内容のきりが良いところでチャイムが鳴った。今日の授業はここまで、なんて先生の宣言を待つことなくガチャガチャと片付けを始めた様子にはいつも疑問ばかりが浮かぶ。その態度は先生に対して失礼なのではないだろうか。小学校の頃に一度だけこの件に関してクラス全体が怒られたことがあったのだが、それが金田一の中には残っているのかもしれなかった。
次の授業は何だったか、と時間割表を机の中から引っ張り出した金田一の肩に、ぐっと重みが掛けられる。回された腕、体重の掛け方、そういったものから犯人を推測することは容易い。
「……今度は何だよ国見」
「数学のノート、見せて」
国見とは幼稚園の頃の付き合いである。金田一とはクラスが違うのだが、こうして休み時間の度に何らかのノートを回収して去っていく。授業中は睡魔に抗うことなく身を委ね、眠っている間のノートについては金田一に借りて補完する、というのが国見のスタイルであるらしかった。
教室の角で行われているスキンシップであるからなのか、はたまた高校生活が始まってから毎日、ほぼ毎時間のように行われていることであるからなのか、クラスにおいて二人の言動は当たり前の事柄であるかのように受け入れられてしまっていた。変に囃し立てられるよりはマシであるのだが、今日もお熱いことで、なんて茶化す声が偶にあるだけで密着したままの二人がクラスに溶け込んでしまっている状況は、どこかおかしいのではなかろうか。女同士ならばともかく男同士。他の誰も、金田一と国見のような言動を取ってはいないのに。
仕舞ったばかりの数学のノートを取り出す金田一に対し、早く出せと言わんばかりに国見は回した腕に力を込め始める。息苦しさを感じるほどではないが圧迫感のあるそれに、金田一は取り出したノートを軽くたたきつけることで制止を求めた。力が緩んだことを感じ取ると、空いている手で国見の腕を掴んで引き剥がす。
「うわ、ほっそ」
思わず漏れてしまった声に、金田一の後頭部へ鈍い痛みとして返答があった。恐らくは、国見による頭突き。細いと言われて喜ぶ男はいないだろう。ストレートに「いてえ」と零した金田一に対し、自らも痛みを感じたであろう国見は鼻でふんと笑っただけである。それが強がりなのか痛みなど些末なことだと流してしまっているのかは分からないが、とにかく、この攻撃で金田一をダメージを喰らったことに満足しているらしいということだけは理解した。
ほれ、とノートを差し出してやれば軽い礼の言葉と共にそれが抜き取られていく。ちらりと時計を見遣ると、もうタイムアップ。あと二、三分でチャイムが鳴って授業が始まってしまう。気の早い先生ならば既に教室で準備を始めてしまっている時間だった。
「国見、早く戻れよ」
「うわ酷いな金田一、そんなに俺と離れたいわけ?」
「ちげーけどさ」
違うのかよ、なんて笑いながら背後の熱が離れていく。あまりにも馴染んでしまっていたそれの喪失感に、思った以上の寒気が金田一を襲う。ぶるり、と身体を一瞬だけ震わせたその姿を見られてしまったのか、国見はまた笑う。
金田一が振り返って国見の顔を確認した時にはその欠片を見ることすら叶わなかったのだが、国見が笑うと空気が揺れるのだ。似合いもしない文学的表現を、なんて誰かに言われるのかもしれないのだけれど、金田一はいつだったかどこかで目にしたその表現こそが国見の笑みには相応しいと思っている。彼が笑うと空気が揺れて、花が綻び、そして、落ちる。
授業が始まり、睡魔と格闘するその傍らで金田一はふと思う。そういえば、国見は何組だっただろうか。一度は聞いたような気がするのだけれど、いつも国見が金田一のところへと先に着いてしまうから、彼の教室へは行ったことがなかった。
金田一のクラスではそれなりに馴染んでしまっているのだけれど、休み時間の度にこちらへ来ているようでは自分のクラスで浮いてしまってはいないだろうか。気になるのだが、肝心のクラスがどこであるのかが記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっている。また訊かなければと思いながら、金田一はノートにシャーペンを走らせた。
人為突然変異。
薬品処理や放射線照射などの人為的な操作によって生じる突然変異。桜の木の下に死体が埋まり、そして美しい花を咲かせるというのなら、それは人為突然変異だと言えるのか。
強豪に名を連ねる部活動に所属している金田一にとって、勉学に割くことのできる時間は皆無に等しい。少しでも時間があればボールに触れているか、或いは疲れきった身体を休ませるか。その二択しか存在していない金田一が机に向かい教科書を開いてノートに何かを書き込もうとしている、という状況は異質なものであると言えた。
彼らしくもないその行動の理由は簡単なことで、明日の授業では前に出て黒板に答えを書かなければならないからだ。名簿の順番に従って解答者が選ばれる授業であるため、自分の当てられるであろう課題は授業終了時に誰が当てられていたかという情報から逆算できる。当日になって休む人間が出ること、先生の勘違いで少しずれたところからスタートするかもしれないことを考えるならば、当てられるであろう問題とその前後一つずつの計三問をどうにかしておけば良い。真面目な優等生のように全ての問題を解くだけの余力もやる気もないけれど、黒板の前で恥をかかない程度に努力をするつもりはあったのだ。
科目は、英語。日本人だし外国に行かないし身近に外国人が来る予定もないし、どうして英語を学ばなければならないのか。そんな鬱憤であったり疑問であったりはきっとクラスどころか学校の生徒大半が思っていることであるに違いない。空欄補充や並べ替えであったならばまだマシだったのに、運の悪いことに金田一が当てられそうなのは長文の英訳だった。
単語については辞書に頼るとして、文法が分からない。サンゴや他の海洋生物全てに言えることは、クジラにも当てはまる。何の事だかさっぱりだ。海の中で生きているということだろうか。
「……国見なら分かる、よな」
授業は睡眠学習だ、なんて豪語するだけあって国見は金田一よりも賢かった。分からないままに意味不明な言葉の羅列を聞いていて理解できるわけがないとは国見の言葉であるのだが、金田一としては睡眠学習に逃げたとしたって授業内容が自分に理解できるとは思えない。あれは国見だから、という感覚だ。
とにかく、国見であれば答えが分かるかもしれないという思いから金田一は鞄の中からスマフォを引っ張り出した。中学時代からお世話になっている岩泉から明日の朝練についての連絡が一時間前に来ていたようだが、マナーモードにしたまま放り込んでいたせいで気が付かなかった。返信速度に煩い先輩ではなくて良かったという思いと申し訳なさを混ぜ込みながら返信を済ませた金田一は、アドレス帳を開く。
「ん?」
影山、工藤、古賀。仲違いをしてしまったかつてのチームメイトの名はあるし、これまでに同じクラスとなってそれなりに仲良くなった友人の名もある。しかし、そこに国見の名前は無い。
頭が真っ白になるとはこのことかと思った。もしかしたら誤って連絡先を消してしまっただけなのかもしれない。入部して参加した青城バレー部のライングループの一覧を確認してみる。国見の名は、ない。通話記録にも、メールの送受信フォルダにも、どこにも。
「なん、で」
ずっと一緒にいた。クラスが同じになって仲良くなった、という友人よりは長い時間を共にしてきた。同じ部活動に所属していて、辛いこと、苦しいこと、楽しさ、喜び、多くの感情を共有してきた。そんな国見の連絡先が金田一のスマフォには入っていなくて、やりとりをした形跡もないだなんて、そんなおかしなことがあるのだろうか。
そして何よりも恐ろしかったのは、今、金田一が国見と連絡を取ろうと考えなければこの事実には気が付かなかったということで、もしかしたら明日以降も昨日までと同じように何の疑問も抱かないまま、国見とはただ学校で顔を合わせるだけで連絡を取り合うことのない生活を受け入れていたのかもしれないということだった。
ふと思い出し、中学の卒業アルバムを手に取った。ページをめくり、懐かしい顔をなぞっていく。その中に、あのいつだって眠そうな表情をした友人はいない。しかし金田一の中には確かに二人で過ごした記憶があった。今日もまた、国見と過ごした時間があった。それならば国見英という存在は、どうして記録から抜け落ちてしまっているのだろうか。
勘違いかもしれないからと何度も見直した卒業アルバムを放り投げ、問題に目を向ける。サンゴや他の海洋生物全てに言えることは、クジラにも当てはまる。金田一や他の一般生徒全てに言えることは、国見に当てはまらないのかもしれない。
夕飯にするから手伝いに来なさい、という母の言葉がありがたい。これ幸いと部屋を飛び出した金田一は、勢いよく台所へと飛び込んだ。いつもならば煩わしさと面倒臭さしか感じない行為であったとしても、今は何も考えたくなかったから。驚く母にはお腹が空いているからと誤魔化して、食器を運んでいく。
「あのさ、国見の写真ってあったっけ」
ただ、一度気になってしまったことはそう簡単に脳裏から離れてはくれなくて、ついつい口から飛び出してしまった。そして、すぐに後悔することとなる。国見の写真など、存在していないのだと。その言葉のせいで随分と間抜けな表情を晒してしまったのかもしれない。変な顔、とひとしきり笑われたその後で理由を聞いた。曰く、国見は写真に写ることが嫌らしい。嫌だ嫌だと泣き逃げ惑う幼子をその場に縛り付けて撮影会を執り行うほど、大人たちは人でなしではなかったのだというだけの話。
なんだ、と安心するその一方で金田一の心の奥底からはそれを壊す声が聞こえてきていた。小さい子どもを愛でることに全力を注ぐ大人たちが、隠し撮りもしていないのか。自分の息子の隠し撮りは大量にあるくせに。金田一の記憶では国見と遊び始めたのは物心がつくよりも前からで、金田一自身の隠し撮りが存在しているのに一緒に遊んでいた筈の国見がそこに写っていないというのは随分とおかしな話だと思ってしまう。
しかし、僅かな可能性にも縋っていたかった金田一は耳を塞いでしまった。国見英は写真に撮られることを異常なほどまでに嫌がっていた。だからきっと、隠し撮りですら大人たちは躊躇ったのだと。
今日のメニューは金田一にとって好物ばかりであったはずなのに、食べる速度はいくらか遅くなってしまっていた。その原因は金田一自身には痛いほど分かっていたのだが、それをそのまま親に説明することが正しい選択であるとは言えないのだということくらい、金田一にだって分かっていた。だから、今日は部活で疲れすぎてしまったのだと強ち嘘でもない言葉で誤魔化して、早々に自室へと引きこもる。そこには国見の存在を不確かな物へと変えてしまったものが転がっているのだが、片付ける気にもなれない。着替えていないがまあ良いかとベッドに寝転がり、考える。国見英とは、何なのか。
(幽霊、じゃないよな)
学校でも部活でも、クラスの人間には見えている。会話だって問題ないし、何より回された腕、密着する背中から感じる温もりは本物だった。ついでに、その状態の国見が繰り出すことの多い頭突き攻撃だって、相当な威力で金田一に襲い掛かってくれている。これほどまでに実体感のある幽霊がいてたまるか、というのが金田一の見解だった。ホラー映画の中ではいつも幽霊とは蒼白い肌をした生気のない存在で、そして主人公や視聴者に恐怖感を与える存在だった。国見からはそんな感覚を受けたことなど一度もないというのに、どうして幽霊だと言うことができるだろう。ならば、彼は何であるのか。
金田一は自分の頭がこういった「難しいこと」を考えることには向いていないことを知っていた。しかしこの一件に関しては何も考えないままで許されるとは思えなかったのだ。国見は国見だと言い切ることができたならばどれほど楽なことか。しかし事態がそれほど単純なものであるとは信じがたく、これまで時間を共に過ごしてきていたからこそ、看過することが許せなかった。国見自身に対する恐怖や疑念というよりはむしろ、金田一自身のプライドによって後押しされた決意であったのかもしれない。
理由はともかく、金田一の中では自らの進むべき道が定まっていた。記録から抜け落ちてしまっている友人の痕跡を見つけ出すこと。国見英という人間は金田一と同じ存在なのだと確かめること。それは全て金田一の自己満足でしかないものであったけれど、そうすればきっと胸の内の不安が解消されるのだとその時の金田一は信じ切っていた。
金田一の知り得る限りで過去の国見に繋がる確かなものは存在しておらず、唯一の手がかりは各々の記憶のみ。そんな不確かな存在である国見をそのまま放置していたとしたら、いつか、金田一の手の届かない遠い場所に消えて行ってしまうような気がした。
方針が決まるとあとは一直線に走り抜けるのが金田一勇太郎という人間だった。国見の痕跡を見つけ出すのだという決意を固めて安心してしまった金田一は、そこがベッドの上であったことも関係してそのまま眠ってしまう。早い時間に眠ったからか中途半端な時間に目覚めてしまった金田一を待っていたのは、手付かずの状態で机に広げられていた英語の課題であった。
自分の無い頭を捻ったとしても、きっと授業までには終わらない。そう見切りをつけた金田一は教科書とノートをカバンの中へと放り込んだ。休み時間にでも誰かに答えを訊いてしまえばいいのだ。近くに座っているうちの誰か一人くらいは、きっと英語が得意なはずだから。誰にどの教科についての教えを乞うべきであるのかを知るには、まだまだ時間が足りなかった。
しんと静まりかえた家の中で息を潜め、躊躇った末に金田一はスマフォを手に取った。アドレス帳、履歴、画像フォルダ。そのどこかに友人の痕跡が見当たらないかと探していく。昨夜は無い頭を使いすぎて疲れてしまっていたのだ、きっと勘違いだったのだ、と信じたかったのかもしれない。しかしそんな金田一の願いは裏切られ、どこにも国見の姿は無かった。
ロードワークに出て頭を切り替えることも考えたのだが、窓を閉め切っていても聞こえてくる雨音がそれを許してはくれなかった。
雨の日の通学ほど憂鬱なものはない。降り方によっては傘をさしていても濡れることがあるし、濡れてしまった制服はずっしりと重たくて嫌な臭いをさせるから不快でしかない。靴が濡れてしまうと放課後までに乾くはずもなく不快指数は上昇するのみだ。
この狭い部屋で考えているから不安に押し潰されて息ができなくなってしまうのだろうに、気分転換をすることも出来ない。宿題も放り投げてしまえば朝練まで何をしていれば良いのか。
「あ」
そこまで考えて唐突に思い出す。手に持ったままだったスマフォを弄り、昨夜、岩泉から届いた連絡に目を通す。明日――つまり今日の朝練は他の部活が体育館を使うから禁止。
中止ではなく禁止と書かれている辺りがポイントだろう。バレー馬鹿を自認する人間が多いから、邪魔にならない場所でなら、と体育館へと出向く人間がいるかもしれない。それが一人二人であればまだマシだろうが、同じことを考えた人間が大勢いれば邪魔にしかならない。
少人数であったとしても視界の端でバレーボールが行き交っていれば気になってしまうのが人間の性。どちらにせよ、禁じてしまった方が良いと判断されたらしい。もちろん、中止にしても禁止にしても部員は岩泉の言葉に従ったであろうが、選ばれた言葉がそれに更なる力を与えたと言っても過言ではないだろう。
金田一が声を上げたのは、自分が禁じられている朝練へと行こうとしたからではない。勿論、それも漏らしてしまった声の何割かを占めている。しかし大部分を占めていたのは昨夜から金田一の思考を独占してしまっている国見の存在である。ライングループの参加一覧開き、そこに国見の名が無いことは何度も確認した。そう、そこに国見の名は無いのだ。
(あいつ、朝練が無いこと知らないんじゃ)
夜の間に岩泉と他の部活の人間の間で相談された内容であったらしく、昨日の自主練前後には朝練の話など欠片も出ていなかった。だから、ライングループに所属していない国見がこの「朝練禁止」という内容を知っているわけがない。
金田一の頭に浮かぶのは、誰もいない体育館に一人で佇む、友人の姿。バレー部から朝練での使用権を奪ったらしい他の部活の人間がその場所には居るはずだと分かっているのに、どうしてだか金田一の想像上では体育館を独占しているのは国見だった。そこには決して温もりはない。雨に濡れ、冷え切った身体を無防備に晒して誰も来ない体育館で待ち続ける国見だけが、そこにいた。
冷蔵庫の中には、夜の間に作られていた二つの弁当がある。一つは昼食用、もう一つは朝食用であったり間食用であったり、その日の金田一の状態によって用法の異なるものである。母が少しでも楽をしようと考えた結果、夜の間に作った弁当箱を金田一が回収するという今のスタイルに落ち着いた。
普段、朝練のためにと家を出ている時間に比べたらまだ早いのだが、じっとしていることはできそうにない。しかし、国見は遅刻しそうになって慌てるよりはと集合時間よりも早く部室に着いていることが多いのだ。早めに出ます、と机上に書き置きを残して靴を履いた金田一は、大きな音を立てて眠っている家族を起こしてしまわないようにと慎重に扉を閉めた後、全速力で走り始めた。
ぱしゃりぱしゃりと路上の水が跳ねてズボンの裾を濡らし、靴の中にまで浸み込んでくる不快さ、傘を差しているのに風に流されて身体へと叩き付けられる雨。起きてすぐはそういったことが嫌だということばかり考えていた筈なのに、今の金田一の頭にはその欠片も見当たらない。ただただ、一人で部員と到着を待つ友人の元へ、早く向かわなければという思いだけ。
なりふり構わずに走ったことが良かったのか、金田一が部室に飛び込んだ時にはまだ国見は制服のままだった。やはり傘では防ぎきれなかったのか、制服や鞄が少し濡れてしまっている。金田一の想像していた国見の姿ほどには濡れていないけれど、それでもやはり濡れてしまっているその姿を見ることが嫌だった。
「金田一、お前、傘は」
「あー、走ってたらあんま意味なくってさ」
「どんだけ慌てたんだよ、珍しいな」
国見よりもむしろ金田一の方が酷い濡れ方をしている自覚はあった。笑われてしまって少し頬が赤くなってしまった感覚は否めない。金田一自身、国見の立場であったとしたらバカだなと笑っていただろう。気恥ずかしさは残るものの、国見が飛び込んできた金田一に驚いて止めていた着替えを再開させたことをきっかけに、どうしてここまで走って来たのかということを思い出す。
「そうだ、国見。今日、朝練無いんだよ」
「嘘」
「ホント。昨日の夜、岩泉さんから連絡が来てて」
「……道理で、人が来ないなと」
早起きしたのにな、と呟きつつ国見は外していたボタンを留めていく。きっと、国見の肌のようなものを「病的」だと評すのだろう。室内競技だからなのか、雨の降る薄暗い朝だからなのか、肌蹴られていたシャツの合間から覗いていた肌は驚くほど白かった。それは雪のような、或いは幽霊のような。
頬を水滴が伝う感覚で、金田一はようやく自分自身の状態を思い出す。ぐっしょりと水を吸ってしまった靴は諦めるにしても、制服は乾かしておきたい。タオルを取り出して肩にかけた金田一は、少し悩んでからズボンを脱いだ。どうせ、今日の朝練は禁止されていて誰も来ないはずだから、ベンチを物干し竿代わりに借りたとしても咎められまい。代わりに、癖で入れてきてしまった練習着のズボンに足を通す。思わぬところで習慣が役に立った形である。
それなりに身なりは整えたものの、金田一と国見はベンチに座っていた。始業時間まではまだ時間がある。教室のような広い空間に居るよりも、二人で部室程度の狭い場所に閉じこもっている方がずっと落ち着くような気がした。いつだって、見慣れているのは生徒であふれた教室であるからなのかもしれない。しんと静まり返った部室には、エアーサロンパスに交じって雨の湿ったにおいが漂っていた。