花人
及川はその時期になると、どこか遠くへと逃げ出してしまいたくなるらしかった。どこへ、という明確な目的地の無い旅は、太陽の昇る前、まだ大多数が寝静まっているうちに始められるのだ。
日によっては朝早くにロードワークへと出ることもあるお蔭で、家を出る時に家族の誰かに見つかったとしても行くなとは言われないだろうという確信があったし、過去の経験がそれを証明してくれていた。
とはいえ、眠っている家族を起こしてしまうことを良しとしているわけではなく、悪いことをしているわけでもないのに岩泉の行動は「とにかく音を立てないように」という一点に集中して密やかに行われていた。起きた両親が心配しないよう、机の上に「昼までには帰る予定」とだけ書置きを残す。眠る前に荷物を詰めておいた鞄を持って外へ出た岩泉を、及川はどこか眠そうな目を擦りながら出迎えた。
冷え込む空気の中で待たせてしまったことを軽く詫び、岩泉は薄暗い住宅街を歩き始める。まだ眠りの中にあるその道は、慣れた場所である筈なのにどこか見慣れないものに見えた。
いつから及川がそれを口にし始めたのかということは忘れてしまったが、今回の旅で及川の望む逃避行は六回目になる。小遣いを貰い始めた中学一年生の夏休み、記念すべき第一回目の逃避行では持っているすべての金をつぎ込んで、行くことのできる最も遠い駅へと逃げ出した。帰りのことなど考えておらず、降りた見知らぬその場所から泣きながら家へと歩いて帰ろうとしたことは消し去ってしまいたい記憶である。泣きじゃくる岩泉の様子を不審に思った住人が声を掛けてくれていなかったら、きっと岩泉は右も左も分からぬその場所でただひたすら泣きながら歩き続けていたに違いない。
迷子とも家出とも違うその状況は、確かに岩泉に不安を与えていたのだろう。しかし、岩泉はそれが理由で泣いていたわけではないのだ。照れ隠しに誤魔化しているだけだろうと言われるかもしれないが、岩泉はその時の感情を強く覚えているのだから仕方がない。
不安以上に当時の岩泉を満たしていたのは、ただひたすらに強い悲しみだった。電車を降りてしまったその瞬間に、よく分からないまま「逃げ切れなかったのだ」と感じた記憶。何から逃げ出そうとしていたのか、どうして逃げなければならなかったのかも分からないままに唐突に訪れたその思いを整理することも出来ないまま、どうしようもない悲しみを涙として吐き出す以外に岩泉は何もできなかったのだ。
二回目以降は帰りの切符も買うようになった。計画的に貯金をし、より遠くにまで逃げるようになった。けれど、いつだって旅の終わりは辛いものだった。電車を降りてしまったその瞬間に、逃避行は終わってしまう。ゲームオーバー。コンティニューなどできないまま、また逃げられなかったと岩泉は悔しさを抱いて帰らなければならない。逃げ出してきた筈の、その場所に。
スタート地点となる駅で、運賃表を見上げてゴール地点を決めるのは及川の役目である。岩泉は及川の望むその場所まで、一人はさみしいからと言う幼馴染について行ってやるだけなのだ。気になるのはどこまで行けるのかということだけ。年々、及川が選ぶゴールは遠くなっている。今年はどこまで岩泉を連れて行く気なのか。
「岩ちゃん、ここ」
「……遂に四桁か」
千円という大台を超えたその場所は、この駅の運賃表における西端であった。これより先へは行かせない、と言われているかのような終着点。その駅の向こう側にも駅は存在していて線路は続き、電車は走っていくのだろうにそこが世界の果てであるかのような気すらした。そんな場所への切符を買ってホームで待つ。
午前五時三十六分。
年に一度だけ、岩泉は及川とその時間の電車に乗る。切符に記されている数字から四則計算によって十を導き出せないか、と考え始めた及川に落とすなよと声を掛け、岩泉は自身の切符を財布に入れて鞄の中へとしまい込んだ。こうすれば、絶対に失くさない。朝食代わりにと買ってきたスティックパンを頬張りながら、岩泉と及川は久しぶりの「算数」に頭を悩ませることになる。
暗闇を切り裂いて到着した電車の車内に人の姿は疎らで、誰もが眠いのか目を閉じていた。その中で声を出すことは躊躇われてしまい、隣に座っていても岩泉と及川の間に会話は無かった。車内が外よりも明るい生で、窓が鏡のように光を反射している。偽鏡、という呼び名を教えてくれたのは誰であったのだろうか。
暗いとはいえ、周囲の様子が分からないわけではない。偽鏡の向こう側、車内の様子と重なるようにして見える外の世界はまだ眠っている。何をするわけでもなく窓の外を眺める岩泉の肩に、及川は凭れ掛かる。
「おい」
「いいじゃん、別に」
ガタイの良い男子高校生が仲よくくっついている姿なんてむさ苦しいだろうし、何より、岩泉自身が気恥ずかしい。しかし及川に気にした様子はなく、岩泉に何を言われたって離れるつもりはないらしかった。まだ先は長く、他の乗客も自らの世界に閉じこもっている。ならば良いか、と岩泉が考えたのはこれが逃避行であるからだ。全て、及川の願うとおりにしてやろうと岩泉が決めている日。それくらいしか、岩泉にはできない。
何駅か通り過ぎると、少しずつではあるが車内の人の姿が増えてきた。そうなると流石の及川にも恥じらう感情が芽生えたらしく、全体重を預けるかのように岩泉の肩へと凭れ掛かるということは無くなった。それでも相変わらず、二人の間に隙間なんて存在しないように、決して離れるものかとでも言うように、及川は岩泉に身を寄せていたのだけれど。
それほど長く電車に乗っているつもりはないのに、外の景色は見たことのないものになっていた。広がる田園。ぽつり、ぽつりと点在する住居。細い道を歩いている人は、どこからどこへと向かっているのか。
「岩ちゃん、岩ちゃん」
「んだよ」
「何だろうね、あれ」
対向車の通過待ちのため、他よりも少しだけ長く停車している駅の前。何が書いてあるのかは分からないのだが、そこには大きな石碑があった。偉人の伝承か、受け継がれてきた伝承か、はたまた猛威を振るった災禍の記憶か。
岩泉と及川が二人で好き勝手に想像を広げている間に石碑との間には電車が滑り込んできてしまい、軽い音を立てて扉を閉めた電車が動き始める。ネタは尽きてしまっていたけれど、それまで話すことができていなかった分を取り戻そうとするかのように、二人は取り留めのない話を続けていた。学生服を着た集団が目立つようになり、車内にはざわめきが満ちている。向かいの席の集団は、テスト前の追い込みを行っているらしい。
話をしながらも見慣れない景色を目に焼き付けておきたくて、岩泉の視線は窓の外へと向けられている。薄暗い中でも目立つ赤色が、不意に目についた。駅が近付いて減速すると、それが何なのか判別できるようになる。線路に沿って咲いている、彼岸花。岩泉に倣って窓の外を眺めながら、及川の口はひたすらに動き続けていた。
(……何か、変な感じだな)
不思議な感覚である。岩泉は、まさか今、このような時期に及川と一緒に電車に揺られ、あの花を目にしているとは思ってもみなかった。
平日の朝。この時ばかりは平均よりも良く育った自分たちの身体に感謝する。私服であれば大学生に間違えられることも少なくはなく、こうして高校生が二人でどこかへ逃げようとしているのに誰一人として不審には思わないのだ。
彼岸花を見ていると、岩泉はいつだって祖母を思い出す。その花にまつわる伝承を教えてくれた祖母は、ありとあらゆる花を愛していたと言っても良い。タイミングよく及川の話も一区切りを迎えたようであったから、岩泉は彼が次の何かを話し始める前に口を挟んだ。
「そういや、うちの婆ちゃんが言ってたんだけどな」
「藤ばあちゃん?」
「そうそう、藤ばあ」
近所の公園にある藤の木を熱心に世話していた岩泉の祖母は、周囲の人々から「藤ばあ」と呼ばれていた。誰からも愛されていた祖母は岩泉の自慢で、祖父の後を追うようにして亡くなった彼女から教わったことは全て、岩泉の中では忘れることのない大切な記憶となっている。
彼岸花を切っ掛けとして開かれた宝箱の中から、及川に見せてやるべきものを選ぶ。どれにしようかと悩んだのはほんの数秒ほどで、すぐに岩泉は話し始めた。
「花ってさ、愛した分だけ綺麗に長く咲くらしいよな」
「あ、それってよく聞くよね」
笑顔で話し掛ける、クラシックを聞かせてやる。眉唾物だろうと突っ込みたくなる内容のものもあるのだけれど、特にここ近年、テレビや雑誌などでもそう言われるようになった。事実、祖母が愛情を注いで育てた花たちは身内の贔屓目なしに見ても美しかったのだから全てが間違っているというわけではないのだろう。
しかし、岩泉が言いたかったのはそんな世間の噂話ではない。祖母の言葉には続きがある。
「だから、道端の花だったり他とは変わった色の花だったり、誰も気に掛けないような花や避けているような花こそ自分が愛してやるんだって心持でいるようにってさ」
やたらと目につく赤色は、誰かに愛されているからこそこれほどまでに目を引くのかと。そこまで言うことは恥ずかしかったので、件の花に目を向けるだけに留める。
阿吽の呼吸を豪語するだけあって及川もまた窓の外へと目を向けていて、あの花も誰かに愛されているんだろうね、と口にした。そして続けて何かを言いたそうにしている姿が随分と薄くなってしまった偽鏡に映っていたのだが、岩泉は指摘しないでおいてやった。だって、岩泉と及川は阿吽なのだ。隣の男が何を躊躇っているのかということくらい、言われなくても分かっていた。本当は口にしたくない内容なのだが、今日だけだから、とそっと吐き出す。
「公園の紫陽花」
「……そっか。一緒だね」
「秘密基地として世話になったんだから、これくらいはな」
きっかけは祖母がその花を気にしていたからなのだけれど、それは黙っておく。
周囲は蒼い花を咲かせるのに、その一株だけが薄紅色をしていた。それが「特別」の証のようで、及川と二人、本当にお世話になったものだ。根元に潜り込んで遊ぶことのできた時間は短かったのだけれど、大切なものを隠してくれる秘密基地として、いつだって二人の傍で咲いていてくれた。故に、岩泉が特に気に掛けるのは今でも薄紅色を咲かせているその花なのだ。
瞼を下ろすと、目前に広がるのは水滴を纏ったその美しい姿である。紫陽花が何色の花を咲かせるのかということには土の成分が関わっているらしく、だからこそ、周囲の他の花とは異なった色を咲かせたその一株だけが、異彩を放っていた。その場所だけが、特別だった。
人が花を愛したならば、それと同じだけ花も人を愛してくれる。愛の大きさだけ、美しく咲き誇る。そんな祖母の言葉を信じるならば、きっとあの紫陽花は誰かに強く愛されていて、そしてその誰かを強く愛しているのだろう。それほどあの花は岩泉少年の心に焼き付いて、そして今でも根を張っている。
「あの」
声を掛けられ、岩泉はそっと瞼を開けた。太陽が昇ってきたせいで、光が真っ直ぐ目に刺さる。眩しさのあまり眉を寄せてしまった岩泉の様子を見て、強すぎる光から庇うようにして岩泉の前に立ってくれたその人は、すっと手を差し出した。
「これ、落とされていませんか」
記された駅の名は岩泉にも見覚えのあるもので、料金は千六百六十円。学生には痛い出費であるその切符は、確かに岩泉がこの逃避行のために購入したものだった。
日光が眩しすぎると感じたのは岩泉だけではないらしく、窓は少しずつ覆われていく。その隙間、運よく垣間見ることのできた駅の看板は、次の駅で岩泉の逃避行が終わるのだということを告げていた。
親切などこかの誰が拾ってくれたその切符を今度は落とさないようにと、岩泉は握り締める。逃避行は終わってしまった。今回もまた、逃げられなかった。
電車を降りてホームから空を眺めてみると、思った以上に太陽の光は眩しくなかった。突き刺すようなものではなく、温かく、包み込んでくれるような。太陽を隠すように切符を翳してみる。一、六、六、〇。零なら簡単に作れるのに、とどこかで誰かが口にしていたような気がする。
逃避行は終わり。降車駅でそのまま切符を買って帰りの電車に乗った岩泉は、財布の中から一枚の切符を取り出す。一、六、六、〇。同じ金額が記されているのに使えない切符。確かに改札を通して消えてしまった筈の切符が財布の中から出てくるという不思議な体験も、六回目ともなればもう慣れた。落としてしまわないようにと気を付けていても落としてしまうし、使ったはずの切符は手元に残っている。不思議だとは思うのだけれど、怖いとは思わなかった。鞄の中からノートをひっぱり出し、パラパラとページを捲る。文字の羅列を読み飛ばし、最後に書かれたその場所へ。
――明日こそ、逃避行の後に秘密基地。
――及川徹をぶん殴る。
及川徹。それは母の親友に宿った命の名前だったらしい。らしい、というのは岩泉に会った記憶がないからだ。流産だったそうだ。性別が分からないうちから「とおる」という音だけは決まっていて、男ならば「徹」で女ならば「透」だと定められていた子ども。どうしてだか岩泉の持つノートには、及川徹の痕跡が多く残されていた。
いつ、どこで、何をした。
事細かに「及川徹」が記されたそのノートは、岩泉の記憶が正しければ祖母の勧めに従って書き始めたものだ。いつだって、幼馴染となる筈だった彼は傍で見守ってくれている。だから、もしも奇跡が起こって触れ合うことができたとしたら、その時には忘れてしまわないように書き残しておきなさい。及川徹は確かにそこに居たのだと、忘れてしまったとしても思い出せるようにしてあげなさい。たとえ自分一人だけであったとしても、幼馴染のことを覚えておいてあげなさい。
平仮名を覚え始めた頃の拙い字から、ある程度は読めるものの乱雑に書き殴った今の字に至るまで。岩泉には自分が何を思って「及川徹」について書き綴っているのかが分からないのだけれど、きっと、そこにあるのは理想の幼馴染と過ごす幸せで楽しい時間であったのだろう。それだけは分かるのだ。
片道の切符が一枚、岩泉の手元にある。この切符を使って電車に乗った人間は、ゴールにたどり着くことが出来なかったのかもしれないと思った。降りることが出来ないまま、誰かの逃避行は終わってしまったのかもしれない。その逃避行は終わることが出来なかった。逃げ切ることができなかったのだ。それはとても悲しいことだと思った。
岩泉の手元に切符が残っているということは、ゴールに失敗したのだということなのだと感じた。どうしてそう思ったのかは上手く説明できないのだけれど、岩泉の中にはただ「失敗した」という思いだけが強くある。また、逃げ切ることは出来なかったのだ。
これからまた、岩泉は帰らなければならない。たった一人、訳のわからない悔しさと悲しさを抱えて。きっと、幼い頃に遊んだあの紫陽花の下にはまだ大切なものが埋まったまま眠っている。そのことを知っているのはあの場所に秘密基地を作った自分だけなのだ。その場所へ行けば、今日の自分も及川徹に会えるのだろうか。
日によっては朝早くにロードワークへと出ることもあるお蔭で、家を出る時に家族の誰かに見つかったとしても行くなとは言われないだろうという確信があったし、過去の経験がそれを証明してくれていた。
とはいえ、眠っている家族を起こしてしまうことを良しとしているわけではなく、悪いことをしているわけでもないのに岩泉の行動は「とにかく音を立てないように」という一点に集中して密やかに行われていた。起きた両親が心配しないよう、机の上に「昼までには帰る予定」とだけ書置きを残す。眠る前に荷物を詰めておいた鞄を持って外へ出た岩泉を、及川はどこか眠そうな目を擦りながら出迎えた。
冷え込む空気の中で待たせてしまったことを軽く詫び、岩泉は薄暗い住宅街を歩き始める。まだ眠りの中にあるその道は、慣れた場所である筈なのにどこか見慣れないものに見えた。
いつから及川がそれを口にし始めたのかということは忘れてしまったが、今回の旅で及川の望む逃避行は六回目になる。小遣いを貰い始めた中学一年生の夏休み、記念すべき第一回目の逃避行では持っているすべての金をつぎ込んで、行くことのできる最も遠い駅へと逃げ出した。帰りのことなど考えておらず、降りた見知らぬその場所から泣きながら家へと歩いて帰ろうとしたことは消し去ってしまいたい記憶である。泣きじゃくる岩泉の様子を不審に思った住人が声を掛けてくれていなかったら、きっと岩泉は右も左も分からぬその場所でただひたすら泣きながら歩き続けていたに違いない。
迷子とも家出とも違うその状況は、確かに岩泉に不安を与えていたのだろう。しかし、岩泉はそれが理由で泣いていたわけではないのだ。照れ隠しに誤魔化しているだけだろうと言われるかもしれないが、岩泉はその時の感情を強く覚えているのだから仕方がない。
不安以上に当時の岩泉を満たしていたのは、ただひたすらに強い悲しみだった。電車を降りてしまったその瞬間に、よく分からないまま「逃げ切れなかったのだ」と感じた記憶。何から逃げ出そうとしていたのか、どうして逃げなければならなかったのかも分からないままに唐突に訪れたその思いを整理することも出来ないまま、どうしようもない悲しみを涙として吐き出す以外に岩泉は何もできなかったのだ。
二回目以降は帰りの切符も買うようになった。計画的に貯金をし、より遠くにまで逃げるようになった。けれど、いつだって旅の終わりは辛いものだった。電車を降りてしまったその瞬間に、逃避行は終わってしまう。ゲームオーバー。コンティニューなどできないまま、また逃げられなかったと岩泉は悔しさを抱いて帰らなければならない。逃げ出してきた筈の、その場所に。
スタート地点となる駅で、運賃表を見上げてゴール地点を決めるのは及川の役目である。岩泉は及川の望むその場所まで、一人はさみしいからと言う幼馴染について行ってやるだけなのだ。気になるのはどこまで行けるのかということだけ。年々、及川が選ぶゴールは遠くなっている。今年はどこまで岩泉を連れて行く気なのか。
「岩ちゃん、ここ」
「……遂に四桁か」
千円という大台を超えたその場所は、この駅の運賃表における西端であった。これより先へは行かせない、と言われているかのような終着点。その駅の向こう側にも駅は存在していて線路は続き、電車は走っていくのだろうにそこが世界の果てであるかのような気すらした。そんな場所への切符を買ってホームで待つ。
午前五時三十六分。
年に一度だけ、岩泉は及川とその時間の電車に乗る。切符に記されている数字から四則計算によって十を導き出せないか、と考え始めた及川に落とすなよと声を掛け、岩泉は自身の切符を財布に入れて鞄の中へとしまい込んだ。こうすれば、絶対に失くさない。朝食代わりにと買ってきたスティックパンを頬張りながら、岩泉と及川は久しぶりの「算数」に頭を悩ませることになる。
暗闇を切り裂いて到着した電車の車内に人の姿は疎らで、誰もが眠いのか目を閉じていた。その中で声を出すことは躊躇われてしまい、隣に座っていても岩泉と及川の間に会話は無かった。車内が外よりも明るい生で、窓が鏡のように光を反射している。偽鏡、という呼び名を教えてくれたのは誰であったのだろうか。
暗いとはいえ、周囲の様子が分からないわけではない。偽鏡の向こう側、車内の様子と重なるようにして見える外の世界はまだ眠っている。何をするわけでもなく窓の外を眺める岩泉の肩に、及川は凭れ掛かる。
「おい」
「いいじゃん、別に」
ガタイの良い男子高校生が仲よくくっついている姿なんてむさ苦しいだろうし、何より、岩泉自身が気恥ずかしい。しかし及川に気にした様子はなく、岩泉に何を言われたって離れるつもりはないらしかった。まだ先は長く、他の乗客も自らの世界に閉じこもっている。ならば良いか、と岩泉が考えたのはこれが逃避行であるからだ。全て、及川の願うとおりにしてやろうと岩泉が決めている日。それくらいしか、岩泉にはできない。
何駅か通り過ぎると、少しずつではあるが車内の人の姿が増えてきた。そうなると流石の及川にも恥じらう感情が芽生えたらしく、全体重を預けるかのように岩泉の肩へと凭れ掛かるということは無くなった。それでも相変わらず、二人の間に隙間なんて存在しないように、決して離れるものかとでも言うように、及川は岩泉に身を寄せていたのだけれど。
それほど長く電車に乗っているつもりはないのに、外の景色は見たことのないものになっていた。広がる田園。ぽつり、ぽつりと点在する住居。細い道を歩いている人は、どこからどこへと向かっているのか。
「岩ちゃん、岩ちゃん」
「んだよ」
「何だろうね、あれ」
対向車の通過待ちのため、他よりも少しだけ長く停車している駅の前。何が書いてあるのかは分からないのだが、そこには大きな石碑があった。偉人の伝承か、受け継がれてきた伝承か、はたまた猛威を振るった災禍の記憶か。
岩泉と及川が二人で好き勝手に想像を広げている間に石碑との間には電車が滑り込んできてしまい、軽い音を立てて扉を閉めた電車が動き始める。ネタは尽きてしまっていたけれど、それまで話すことができていなかった分を取り戻そうとするかのように、二人は取り留めのない話を続けていた。学生服を着た集団が目立つようになり、車内にはざわめきが満ちている。向かいの席の集団は、テスト前の追い込みを行っているらしい。
話をしながらも見慣れない景色を目に焼き付けておきたくて、岩泉の視線は窓の外へと向けられている。薄暗い中でも目立つ赤色が、不意に目についた。駅が近付いて減速すると、それが何なのか判別できるようになる。線路に沿って咲いている、彼岸花。岩泉に倣って窓の外を眺めながら、及川の口はひたすらに動き続けていた。
(……何か、変な感じだな)
不思議な感覚である。岩泉は、まさか今、このような時期に及川と一緒に電車に揺られ、あの花を目にしているとは思ってもみなかった。
平日の朝。この時ばかりは平均よりも良く育った自分たちの身体に感謝する。私服であれば大学生に間違えられることも少なくはなく、こうして高校生が二人でどこかへ逃げようとしているのに誰一人として不審には思わないのだ。
彼岸花を見ていると、岩泉はいつだって祖母を思い出す。その花にまつわる伝承を教えてくれた祖母は、ありとあらゆる花を愛していたと言っても良い。タイミングよく及川の話も一区切りを迎えたようであったから、岩泉は彼が次の何かを話し始める前に口を挟んだ。
「そういや、うちの婆ちゃんが言ってたんだけどな」
「藤ばあちゃん?」
「そうそう、藤ばあ」
近所の公園にある藤の木を熱心に世話していた岩泉の祖母は、周囲の人々から「藤ばあ」と呼ばれていた。誰からも愛されていた祖母は岩泉の自慢で、祖父の後を追うようにして亡くなった彼女から教わったことは全て、岩泉の中では忘れることのない大切な記憶となっている。
彼岸花を切っ掛けとして開かれた宝箱の中から、及川に見せてやるべきものを選ぶ。どれにしようかと悩んだのはほんの数秒ほどで、すぐに岩泉は話し始めた。
「花ってさ、愛した分だけ綺麗に長く咲くらしいよな」
「あ、それってよく聞くよね」
笑顔で話し掛ける、クラシックを聞かせてやる。眉唾物だろうと突っ込みたくなる内容のものもあるのだけれど、特にここ近年、テレビや雑誌などでもそう言われるようになった。事実、祖母が愛情を注いで育てた花たちは身内の贔屓目なしに見ても美しかったのだから全てが間違っているというわけではないのだろう。
しかし、岩泉が言いたかったのはそんな世間の噂話ではない。祖母の言葉には続きがある。
「だから、道端の花だったり他とは変わった色の花だったり、誰も気に掛けないような花や避けているような花こそ自分が愛してやるんだって心持でいるようにってさ」
やたらと目につく赤色は、誰かに愛されているからこそこれほどまでに目を引くのかと。そこまで言うことは恥ずかしかったので、件の花に目を向けるだけに留める。
阿吽の呼吸を豪語するだけあって及川もまた窓の外へと目を向けていて、あの花も誰かに愛されているんだろうね、と口にした。そして続けて何かを言いたそうにしている姿が随分と薄くなってしまった偽鏡に映っていたのだが、岩泉は指摘しないでおいてやった。だって、岩泉と及川は阿吽なのだ。隣の男が何を躊躇っているのかということくらい、言われなくても分かっていた。本当は口にしたくない内容なのだが、今日だけだから、とそっと吐き出す。
「公園の紫陽花」
「……そっか。一緒だね」
「秘密基地として世話になったんだから、これくらいはな」
きっかけは祖母がその花を気にしていたからなのだけれど、それは黙っておく。
周囲は蒼い花を咲かせるのに、その一株だけが薄紅色をしていた。それが「特別」の証のようで、及川と二人、本当にお世話になったものだ。根元に潜り込んで遊ぶことのできた時間は短かったのだけれど、大切なものを隠してくれる秘密基地として、いつだって二人の傍で咲いていてくれた。故に、岩泉が特に気に掛けるのは今でも薄紅色を咲かせているその花なのだ。
瞼を下ろすと、目前に広がるのは水滴を纏ったその美しい姿である。紫陽花が何色の花を咲かせるのかということには土の成分が関わっているらしく、だからこそ、周囲の他の花とは異なった色を咲かせたその一株だけが、異彩を放っていた。その場所だけが、特別だった。
人が花を愛したならば、それと同じだけ花も人を愛してくれる。愛の大きさだけ、美しく咲き誇る。そんな祖母の言葉を信じるならば、きっとあの紫陽花は誰かに強く愛されていて、そしてその誰かを強く愛しているのだろう。それほどあの花は岩泉少年の心に焼き付いて、そして今でも根を張っている。
「あの」
声を掛けられ、岩泉はそっと瞼を開けた。太陽が昇ってきたせいで、光が真っ直ぐ目に刺さる。眩しさのあまり眉を寄せてしまった岩泉の様子を見て、強すぎる光から庇うようにして岩泉の前に立ってくれたその人は、すっと手を差し出した。
「これ、落とされていませんか」
記された駅の名は岩泉にも見覚えのあるもので、料金は千六百六十円。学生には痛い出費であるその切符は、確かに岩泉がこの逃避行のために購入したものだった。
日光が眩しすぎると感じたのは岩泉だけではないらしく、窓は少しずつ覆われていく。その隙間、運よく垣間見ることのできた駅の看板は、次の駅で岩泉の逃避行が終わるのだということを告げていた。
親切などこかの誰が拾ってくれたその切符を今度は落とさないようにと、岩泉は握り締める。逃避行は終わってしまった。今回もまた、逃げられなかった。
電車を降りてホームから空を眺めてみると、思った以上に太陽の光は眩しくなかった。突き刺すようなものではなく、温かく、包み込んでくれるような。太陽を隠すように切符を翳してみる。一、六、六、〇。零なら簡単に作れるのに、とどこかで誰かが口にしていたような気がする。
逃避行は終わり。降車駅でそのまま切符を買って帰りの電車に乗った岩泉は、財布の中から一枚の切符を取り出す。一、六、六、〇。同じ金額が記されているのに使えない切符。確かに改札を通して消えてしまった筈の切符が財布の中から出てくるという不思議な体験も、六回目ともなればもう慣れた。落としてしまわないようにと気を付けていても落としてしまうし、使ったはずの切符は手元に残っている。不思議だとは思うのだけれど、怖いとは思わなかった。鞄の中からノートをひっぱり出し、パラパラとページを捲る。文字の羅列を読み飛ばし、最後に書かれたその場所へ。
――明日こそ、逃避行の後に秘密基地。
――及川徹をぶん殴る。
及川徹。それは母の親友に宿った命の名前だったらしい。らしい、というのは岩泉に会った記憶がないからだ。流産だったそうだ。性別が分からないうちから「とおる」という音だけは決まっていて、男ならば「徹」で女ならば「透」だと定められていた子ども。どうしてだか岩泉の持つノートには、及川徹の痕跡が多く残されていた。
いつ、どこで、何をした。
事細かに「及川徹」が記されたそのノートは、岩泉の記憶が正しければ祖母の勧めに従って書き始めたものだ。いつだって、幼馴染となる筈だった彼は傍で見守ってくれている。だから、もしも奇跡が起こって触れ合うことができたとしたら、その時には忘れてしまわないように書き残しておきなさい。及川徹は確かにそこに居たのだと、忘れてしまったとしても思い出せるようにしてあげなさい。たとえ自分一人だけであったとしても、幼馴染のことを覚えておいてあげなさい。
平仮名を覚え始めた頃の拙い字から、ある程度は読めるものの乱雑に書き殴った今の字に至るまで。岩泉には自分が何を思って「及川徹」について書き綴っているのかが分からないのだけれど、きっと、そこにあるのは理想の幼馴染と過ごす幸せで楽しい時間であったのだろう。それだけは分かるのだ。
片道の切符が一枚、岩泉の手元にある。この切符を使って電車に乗った人間は、ゴールにたどり着くことが出来なかったのかもしれないと思った。降りることが出来ないまま、誰かの逃避行は終わってしまったのかもしれない。その逃避行は終わることが出来なかった。逃げ切ることができなかったのだ。それはとても悲しいことだと思った。
岩泉の手元に切符が残っているということは、ゴールに失敗したのだということなのだと感じた。どうしてそう思ったのかは上手く説明できないのだけれど、岩泉の中にはただ「失敗した」という思いだけが強くある。また、逃げ切ることは出来なかったのだ。
これからまた、岩泉は帰らなければならない。たった一人、訳のわからない悔しさと悲しさを抱えて。きっと、幼い頃に遊んだあの紫陽花の下にはまだ大切なものが埋まったまま眠っている。そのことを知っているのはあの場所に秘密基地を作った自分だけなのだ。その場所へ行けば、今日の自分も及川徹に会えるのだろうか。