ぼくのかぞく
【午前一時 及川】
雨音が煩い、なんてものはただの言い訳だ。いつもならば気にも留めないそれが耳につくのは、感覚が研ぎ澄まされてしまっているから。すぐ隣にある存在は熱すぎて、聞こえてくる寝息に胸がざわつく。気を逸らさなければ今にも叫びだしてしまいそうで、国見は朝から降り続いている雨に耳を傾けていた。それ以外に気を紛らわせてくれるものが無いのだから仕方ない。
午前一時を少し過ぎた頃。国見が布団に引きずり込まれてから既に一時間。一睡もできないまま熱に耐え、音の中で眠ろうと戦ってきた時間でもある。頭の奥の辺りからは「もう眠ろう」「眠りたい」という声が聞こえてくるのに、騒ぐ胸がそれを許してはくれなかった。
今日は家においで、と及川が口にしたのは自主練の合間、休憩をしている時だった。あまりにもさらりと言われてしまって、断りの言葉が口から出てこないうちにどんどん話は進んでいってしまった。そして、気が付くと国見は及川の家に泊まることになってしまっていたのだ。
呼ばれたのは国見だけで、何故、という思いが強くある。だから理由を問うたというのに、及川は曖昧に誤魔化したまま休憩を早々に切り上げてしまったのだから話にならない。そのまま流されてしまった国見にも問題が無いわけではないが、夕飯を食べ、風呂へと押し込まれ、頭を抱えながら宿題を終えて就寝。折角だから、と同じ布団に連れ込まれてしまった時にはさすがに抵抗したのだが、体格差であったり、運動部特有の上下関係のノリであったり、そういった諸々の事情から国見は及川と同じ布団で眠ることを余儀なくされてしまったのである。
抱き枕のように抱えられているわけではないのだが、それでも国見にとって今の状況とはただひたすら逃げ出すことのできない熱と共に在る苦行であると言っても良い。誰かと一緒に眠るなんて、いつぶりだろうか。
合宿ではいつだって隅の布団を確保して、すぐ隣にいたのは金田一。寝相の悪い彼から逃げるため、なんて言い訳をして布団を少し、皆から離していた。そうやって距離をおき、タオルケットを被って小さくまるくなってしまってからようやく眠ることができていたような気がするというのに、及川と同じ布団で眠るなんて国見にはまだまだハードルが高すぎた。合宿でさえ、いくら国見が工夫しても眠りにつくことができなかったり、途中で目覚めてしまったりと上手く眠ることなんてできずにいたのに。
背中合わせになって既に夢の国へと旅立ってしまっている及川が何を国見に求めていたのか、今となっては分からない。何か特別なことがあったわけでもなく、ただの先輩と後輩として、いつもよりも長く時間を共にしたにすぎない。そんな感覚。
国見の胸に細波を立てたその時間は、きっと及川にとって日常の一端にすぎなかった。こうやって国見が上手く眠れていないことも、二人きりで過ごした時間が国見にもたらしたものも、及川は何も知らないままに幸せな夢を見続けるのだろう。実際のところ、及川が感付いていたのだとしても、国見は彼に何も知らないままでいてほしいと思った。何も知らないままにそっと、幸せな夢の一部を分け与えてくれる人。そうであるからこそ、及川は国見の世界を壊すことなく彩ってくれているに違いない。
今はまだ雨の音がうるさいのだけれど、いつか、この熱が心地良い温もりとなって国見を包み込んでくれる日が来ると良い。それを小さく祈りながら、国見は目を閉じる。眠れなくとも、そうすれば胸に残った細波に幸せな夢の欠片を求めることができそうだったものだから。朝は、まだ遠い。
【午前二時 岩泉】
周囲が静かであるとこんなにも音が響くのか、なんて国見はぼんやりと考える。それは普段よりも広々とした場所だからなのか、自分以外の人間が眠っているのだということを知っているからなのか。
一度目が覚めてしまってから、国見も少しの間は再び眠ろうと粘ってみたのだ。しかし、それが難しそうであると判断してしまえばあとは早い。気分転換になんてものは建前で、自分に苛立ちばかりを与える音の空間から早々に逃げ出した。自分が眠れないというのに他の人間は爆睡、だなんて嫌がらせだとしか思えない。
荒れた胸中を落ち着かせる意味合いもあり、国見は休憩スペースに設置された自動販売機でカフェオレを買った。思った以上に大きな音を立てて吐き出されたそれに対して抱いた感想が、冒頭のものである。誰かを起こしてしまったのではないか、と皆の眠る方へと目を向けてしまうくらいには、大きな音が響いてしまった。
ほんの少し息を詰めて様子を伺っていた国見の耳に、足音が届く。しかし、それは部員の雑魚寝している部屋とは反対側、つまり、国見の背後から。ゆっくりと振り返った国見が、その姿を捉える。
「いわ、いずみさん」
「なんだ、お前も眠れなかったのか」
岩泉の眠っていた布団が無人であったかどうかなんて、元の居場所がどこであったかも不明なほどの素晴らしい寝相を披露してくれている面々に埋もれてしまっていて記憶にない。ただ、こうやって国見の目の前に立っているということは彼もまた、眠れぬ一人であったということだ。
気分転換にと建物内を歩いてきたらしい岩泉のその行動力には恐れ入る。慣れた合宿所であるとはいっても、月明かりが足元を照らすばかりの薄暗い廊下である。そのような場所を歩こうだなんて、国見には考えもつかないことであったから。
なし崩しに同じソファへ座り、一言、二言。まさか国見がこのまま夜を明かす覚悟を決めただなんて思いもしないからなのか、手中には開けてすらいないカフェオレがあるからなのか、岩泉は「早く戻ってこいよ」なんて言葉を残して戻ってしまう。国見が馴染むことのできない、あの眠りの空間へ。そうして国見は、また一人。それを望んでこの場所へと逃げてきたはずだった。
「……つめた」
握りしめていたとはいえ、カフェオレはまだ冷たい。これを飲み切ってしまったら、岩泉の後を追ってみるのも悪くはないと思えた。彼の辿った月明かりの道をなぞり、そうして、国見が逃げ出してきてしまったあの場所へ。そう。だって、この場所は月が眩しすぎるものだから。
【午前三時 松川、花巻】
今は何時なのか。時間を確認しようとしたその動きを、二人掛かりで止められた。松川が国見の目を塞ぎ、花巻が国見の頭を固定する。どちらも思わず取ってしまった行動らしく、暗闇に閉ざされて身動きの取れなくなった国見の耳には二人の漏らした笑い声が届く。
「……首、痛めたらどうしてくれるんですか」
「そん時は甲斐甲斐しく看病してやるよ」
「サボる口実ができるだろ?」
茶化しながらそっと手が離される。国見が布団を抜け出してきたのが午前三時。他の部員よりも早く布団に入っていたから、六時間ほどは眠れていたことになる。
ただ、一度目覚めてしまうと二度寝をすることのできない自分のことをよく分かっていた国見の中には布団の中で時間を潰すか、或いは建物内の散策をするかという二択が存在していて、今日は後者を選んだのだというだけの話。以前、同じく夜中に目覚めてしまった岩泉を真似て行ってみた月夜の散策は、思っていた以上に心地良いものであったものだから。
誰かを道連れにしてしまうような物音を立てたつもりはない。ただ、今夜は新月なのか雲に隠されてしまっているのか、廊下は国見の望むレベルで照らされておらず、かといってあの部屋へと戻ることは何となく嫌で、ソファに腰掛けて時間を潰すことにしたのである。だからきっと、松川と花巻がソファでぼんやりとしていた国見に驚いてあげてしまった声こそがこの夜最大の「騒音」であったに違いない。
トイレに起きてきた松川と、そんな松川の隣で眠っていたせいで起きてしまった花巻。用が済めば布団に戻るかと思ったのに、何故か揃って国見の隣に腰を落ち着けてしまったのだから戸惑ってしまう。国見は自分がどれだけの時間この場所にいたのかなんて知らないのだけれど、まだ活動するには早すぎる時間であること、松川と花巻は国見よりも睡眠時間が短いのだろうということを察することくらいは容易い。故に時計を見たかったというのに二人で止めてくるということは、それなりの時間だ、ということなのだろうか。
どのように対応するべきなのかと悩む国見を挟み込むように、松川と花巻は座っている。元が二人用のソファである。座れないわけではないが、かなり狭いと言わざるを得ない。まずはそこを切り口に、なんて考えた国見が口を開く前に花巻は言う。
「国見ってさー、皆で寝んの、苦手?」
「……まあ、はい」
「だよな。いっつも夜中に抜け出して帰ってこないし」
今日もこんなに冷え切っちゃってさー、なんて軽く言いながら花巻はただでさえ密着しているというのに抱きついてくる。しかし、それに対して国見は何も返せずにいた。ばれていない、と思っていた。誰も起きていないはずだ、と。夜中に起き出してしまった人に対しても、上手く誤魔化せていると思っていたのに。気付かれていると、気にされているとは思ってもみなかった。ああ、もしかしたら、二人は。
「俺がトイレに行きたかったのは本当だからな」
ぐるぐると思考が渦巻くばかりの国見の頭を、松川はポンポンと叩く。何も考えるな、とでも言うように。
「眠くなったら寝ても良いからな。俺らも寝るし」
「ま、国見が起きてるなら起きてるつもりだからさ、お話しようぜ。昼間にはできないような、さ」
「……何ですかそれ」
三人の小さな笑い声が、廊下に響く。狭いソファに男三人。密着しなければならないどころか花巻には抱きしめられてすらいるのに不快ではなく、眠ることが惜しい、と国見が感じたのは、もしかしたらこれが初めてだったのかもしれない。いつだって一人、眠れない、眠れないと膝を抱えて夜が過ぎるのを待っていたものだから。
【午前四時 溝口】
帰ったら、きっと怒られてしまう。それが分かっていながらもゆっくりと足を進めてしまう自分はさぞや愚かに見えるだろう。そんなことを考えながら、人影のない道を国見は歩いていた。
月は出ていないものの、人工的な明かりが照らしてくれている道は時間さえ異なればきっと生の躍動に溢れていたことだろう。しかし朝とも夜とも言えないこの時間では、家と家との隙間から何かが飛び出してくるような気がして、電灯の陰には何かが佇んでいるような気がして、そんな緊張感だけが国見の同伴者であった。
どうしても眠ることができず、国見が溝口の家を抜け出してからどれだけの時間が経ったのか。ただ、確認した時計の針が午前四時を少し回ったところだったことは覚えている。何かがあった時にはその時だ、と国見の手持ち品は溝口の家の鍵だけ。そのような状態でどうして国見が外へ出たのかと問われると、それは本当に「ただ眠れなかったから」の一言に尽き得る。強いて言うならば澄んだ空気が世界を覆っていたからだ。この中を歩けば、さぞや気持ちが良いに違いない、なんて思わされる静謐に国見は惑わされたのである。
朝日を綺麗に見ることのできそうなポイントを探して歩くことも、面白そうだとは思った。ただ、不意に溝口の顔を思い出してしまったことが国見にとって良いことであったのか悪いことであったのか。
今も薄暗い部屋に一人、国見が居なくなったことにも気付かず眠り続けているだろうその人を思ったその瞬間、急に風が強くなる。まるで、今すぐ帰れとでも言うように。それに従ったわけではないのだが、国見が澄んだ空気の中で自然の動きを感じるその一方で、目覚めた溝口がそこにあるはずの温もりの喪失に戸惑うのかと思うと可哀想になってしまって、朝日を迎えに行こうという国見の小さな冒険は潰えたのである。
家に向かって歩き始めてから、もしも溝口が目を醒ましてしまっていたとしたら怒鳴られるに違いない、ということに思い至ってしまった。まあ、その時はその時。今はとにかく帰らなければならない。溝口がたった一人で朝を迎えることが無いように。
家に明かりがついていなかったからきっと大丈夫だと国見は思ったが、ふと、不思議な感覚に陥った。だって、溝口は家の中にいる。国見は外にいて、これからこの家に帰るのだ。それなのに明かりがついていない、なんて。
時間を考えればそれは当然のことであるのに、何故だか急に、泣きたくなった。今ならば溝口の言葉の意味が分かる。国見が居るはずのその家が明かりを点していないのだとすれば、それはこの平和な住宅街においてとても異質なものだった。いつだって国見は守られてばかり。国見が明かりを点して待つというだけで、何かを変えることができているのだろうか。
そっと、鍵を差し込む。いくら気を付けても不快な音が響いてしまい、仕方のないこととはいえ国見は眉を寄せた。ゆっくりと鍵を回し、抜き取り、扉を開いて、そして、固まった。
「あー、おはようございます」
「早すぎだ」
何をするわけでもなく、ただ玄関の壁に凭れて出迎えた溝口はずっと国見の帰りを待っていたのだろうか。いつからかは分からないけれど、何となく触れたその手が冷え切ってしまっていたことから、それが決して短くは無い時間であったことを理解する。これでは二人で身を寄せ合ったとしても、再び眠ることなど難しいに違いない。それでも、だ。
「朝は冷えるだろ。ちょっと待ってろよ」
溝口が台所へと消え、直ぐに甘い香りの漂い始めたこの家でならば、困難も簡単に乗り越えることができるかもしれない。そんな幻想が、国見の頭には浮かんでくる。
これならばいっそ叱られた方が良かったかもしれない、なんて思いながら国見はこれから朝を迎えるのだろう。ほんの少し薄いココアに文句をつけながら、二人でこの家に朝日を迎える。
雨音が煩い、なんてものはただの言い訳だ。いつもならば気にも留めないそれが耳につくのは、感覚が研ぎ澄まされてしまっているから。すぐ隣にある存在は熱すぎて、聞こえてくる寝息に胸がざわつく。気を逸らさなければ今にも叫びだしてしまいそうで、国見は朝から降り続いている雨に耳を傾けていた。それ以外に気を紛らわせてくれるものが無いのだから仕方ない。
午前一時を少し過ぎた頃。国見が布団に引きずり込まれてから既に一時間。一睡もできないまま熱に耐え、音の中で眠ろうと戦ってきた時間でもある。頭の奥の辺りからは「もう眠ろう」「眠りたい」という声が聞こえてくるのに、騒ぐ胸がそれを許してはくれなかった。
今日は家においで、と及川が口にしたのは自主練の合間、休憩をしている時だった。あまりにもさらりと言われてしまって、断りの言葉が口から出てこないうちにどんどん話は進んでいってしまった。そして、気が付くと国見は及川の家に泊まることになってしまっていたのだ。
呼ばれたのは国見だけで、何故、という思いが強くある。だから理由を問うたというのに、及川は曖昧に誤魔化したまま休憩を早々に切り上げてしまったのだから話にならない。そのまま流されてしまった国見にも問題が無いわけではないが、夕飯を食べ、風呂へと押し込まれ、頭を抱えながら宿題を終えて就寝。折角だから、と同じ布団に連れ込まれてしまった時にはさすがに抵抗したのだが、体格差であったり、運動部特有の上下関係のノリであったり、そういった諸々の事情から国見は及川と同じ布団で眠ることを余儀なくされてしまったのである。
抱き枕のように抱えられているわけではないのだが、それでも国見にとって今の状況とはただひたすら逃げ出すことのできない熱と共に在る苦行であると言っても良い。誰かと一緒に眠るなんて、いつぶりだろうか。
合宿ではいつだって隅の布団を確保して、すぐ隣にいたのは金田一。寝相の悪い彼から逃げるため、なんて言い訳をして布団を少し、皆から離していた。そうやって距離をおき、タオルケットを被って小さくまるくなってしまってからようやく眠ることができていたような気がするというのに、及川と同じ布団で眠るなんて国見にはまだまだハードルが高すぎた。合宿でさえ、いくら国見が工夫しても眠りにつくことができなかったり、途中で目覚めてしまったりと上手く眠ることなんてできずにいたのに。
背中合わせになって既に夢の国へと旅立ってしまっている及川が何を国見に求めていたのか、今となっては分からない。何か特別なことがあったわけでもなく、ただの先輩と後輩として、いつもよりも長く時間を共にしたにすぎない。そんな感覚。
国見の胸に細波を立てたその時間は、きっと及川にとって日常の一端にすぎなかった。こうやって国見が上手く眠れていないことも、二人きりで過ごした時間が国見にもたらしたものも、及川は何も知らないままに幸せな夢を見続けるのだろう。実際のところ、及川が感付いていたのだとしても、国見は彼に何も知らないままでいてほしいと思った。何も知らないままにそっと、幸せな夢の一部を分け与えてくれる人。そうであるからこそ、及川は国見の世界を壊すことなく彩ってくれているに違いない。
今はまだ雨の音がうるさいのだけれど、いつか、この熱が心地良い温もりとなって国見を包み込んでくれる日が来ると良い。それを小さく祈りながら、国見は目を閉じる。眠れなくとも、そうすれば胸に残った細波に幸せな夢の欠片を求めることができそうだったものだから。朝は、まだ遠い。
【午前二時 岩泉】
周囲が静かであるとこんなにも音が響くのか、なんて国見はぼんやりと考える。それは普段よりも広々とした場所だからなのか、自分以外の人間が眠っているのだということを知っているからなのか。
一度目が覚めてしまってから、国見も少しの間は再び眠ろうと粘ってみたのだ。しかし、それが難しそうであると判断してしまえばあとは早い。気分転換になんてものは建前で、自分に苛立ちばかりを与える音の空間から早々に逃げ出した。自分が眠れないというのに他の人間は爆睡、だなんて嫌がらせだとしか思えない。
荒れた胸中を落ち着かせる意味合いもあり、国見は休憩スペースに設置された自動販売機でカフェオレを買った。思った以上に大きな音を立てて吐き出されたそれに対して抱いた感想が、冒頭のものである。誰かを起こしてしまったのではないか、と皆の眠る方へと目を向けてしまうくらいには、大きな音が響いてしまった。
ほんの少し息を詰めて様子を伺っていた国見の耳に、足音が届く。しかし、それは部員の雑魚寝している部屋とは反対側、つまり、国見の背後から。ゆっくりと振り返った国見が、その姿を捉える。
「いわ、いずみさん」
「なんだ、お前も眠れなかったのか」
岩泉の眠っていた布団が無人であったかどうかなんて、元の居場所がどこであったかも不明なほどの素晴らしい寝相を披露してくれている面々に埋もれてしまっていて記憶にない。ただ、こうやって国見の目の前に立っているということは彼もまた、眠れぬ一人であったということだ。
気分転換にと建物内を歩いてきたらしい岩泉のその行動力には恐れ入る。慣れた合宿所であるとはいっても、月明かりが足元を照らすばかりの薄暗い廊下である。そのような場所を歩こうだなんて、国見には考えもつかないことであったから。
なし崩しに同じソファへ座り、一言、二言。まさか国見がこのまま夜を明かす覚悟を決めただなんて思いもしないからなのか、手中には開けてすらいないカフェオレがあるからなのか、岩泉は「早く戻ってこいよ」なんて言葉を残して戻ってしまう。国見が馴染むことのできない、あの眠りの空間へ。そうして国見は、また一人。それを望んでこの場所へと逃げてきたはずだった。
「……つめた」
握りしめていたとはいえ、カフェオレはまだ冷たい。これを飲み切ってしまったら、岩泉の後を追ってみるのも悪くはないと思えた。彼の辿った月明かりの道をなぞり、そうして、国見が逃げ出してきてしまったあの場所へ。そう。だって、この場所は月が眩しすぎるものだから。
【午前三時 松川、花巻】
今は何時なのか。時間を確認しようとしたその動きを、二人掛かりで止められた。松川が国見の目を塞ぎ、花巻が国見の頭を固定する。どちらも思わず取ってしまった行動らしく、暗闇に閉ざされて身動きの取れなくなった国見の耳には二人の漏らした笑い声が届く。
「……首、痛めたらどうしてくれるんですか」
「そん時は甲斐甲斐しく看病してやるよ」
「サボる口実ができるだろ?」
茶化しながらそっと手が離される。国見が布団を抜け出してきたのが午前三時。他の部員よりも早く布団に入っていたから、六時間ほどは眠れていたことになる。
ただ、一度目覚めてしまうと二度寝をすることのできない自分のことをよく分かっていた国見の中には布団の中で時間を潰すか、或いは建物内の散策をするかという二択が存在していて、今日は後者を選んだのだというだけの話。以前、同じく夜中に目覚めてしまった岩泉を真似て行ってみた月夜の散策は、思っていた以上に心地良いものであったものだから。
誰かを道連れにしてしまうような物音を立てたつもりはない。ただ、今夜は新月なのか雲に隠されてしまっているのか、廊下は国見の望むレベルで照らされておらず、かといってあの部屋へと戻ることは何となく嫌で、ソファに腰掛けて時間を潰すことにしたのである。だからきっと、松川と花巻がソファでぼんやりとしていた国見に驚いてあげてしまった声こそがこの夜最大の「騒音」であったに違いない。
トイレに起きてきた松川と、そんな松川の隣で眠っていたせいで起きてしまった花巻。用が済めば布団に戻るかと思ったのに、何故か揃って国見の隣に腰を落ち着けてしまったのだから戸惑ってしまう。国見は自分がどれだけの時間この場所にいたのかなんて知らないのだけれど、まだ活動するには早すぎる時間であること、松川と花巻は国見よりも睡眠時間が短いのだろうということを察することくらいは容易い。故に時計を見たかったというのに二人で止めてくるということは、それなりの時間だ、ということなのだろうか。
どのように対応するべきなのかと悩む国見を挟み込むように、松川と花巻は座っている。元が二人用のソファである。座れないわけではないが、かなり狭いと言わざるを得ない。まずはそこを切り口に、なんて考えた国見が口を開く前に花巻は言う。
「国見ってさー、皆で寝んの、苦手?」
「……まあ、はい」
「だよな。いっつも夜中に抜け出して帰ってこないし」
今日もこんなに冷え切っちゃってさー、なんて軽く言いながら花巻はただでさえ密着しているというのに抱きついてくる。しかし、それに対して国見は何も返せずにいた。ばれていない、と思っていた。誰も起きていないはずだ、と。夜中に起き出してしまった人に対しても、上手く誤魔化せていると思っていたのに。気付かれていると、気にされているとは思ってもみなかった。ああ、もしかしたら、二人は。
「俺がトイレに行きたかったのは本当だからな」
ぐるぐると思考が渦巻くばかりの国見の頭を、松川はポンポンと叩く。何も考えるな、とでも言うように。
「眠くなったら寝ても良いからな。俺らも寝るし」
「ま、国見が起きてるなら起きてるつもりだからさ、お話しようぜ。昼間にはできないような、さ」
「……何ですかそれ」
三人の小さな笑い声が、廊下に響く。狭いソファに男三人。密着しなければならないどころか花巻には抱きしめられてすらいるのに不快ではなく、眠ることが惜しい、と国見が感じたのは、もしかしたらこれが初めてだったのかもしれない。いつだって一人、眠れない、眠れないと膝を抱えて夜が過ぎるのを待っていたものだから。
【午前四時 溝口】
帰ったら、きっと怒られてしまう。それが分かっていながらもゆっくりと足を進めてしまう自分はさぞや愚かに見えるだろう。そんなことを考えながら、人影のない道を国見は歩いていた。
月は出ていないものの、人工的な明かりが照らしてくれている道は時間さえ異なればきっと生の躍動に溢れていたことだろう。しかし朝とも夜とも言えないこの時間では、家と家との隙間から何かが飛び出してくるような気がして、電灯の陰には何かが佇んでいるような気がして、そんな緊張感だけが国見の同伴者であった。
どうしても眠ることができず、国見が溝口の家を抜け出してからどれだけの時間が経ったのか。ただ、確認した時計の針が午前四時を少し回ったところだったことは覚えている。何かがあった時にはその時だ、と国見の手持ち品は溝口の家の鍵だけ。そのような状態でどうして国見が外へ出たのかと問われると、それは本当に「ただ眠れなかったから」の一言に尽き得る。強いて言うならば澄んだ空気が世界を覆っていたからだ。この中を歩けば、さぞや気持ちが良いに違いない、なんて思わされる静謐に国見は惑わされたのである。
朝日を綺麗に見ることのできそうなポイントを探して歩くことも、面白そうだとは思った。ただ、不意に溝口の顔を思い出してしまったことが国見にとって良いことであったのか悪いことであったのか。
今も薄暗い部屋に一人、国見が居なくなったことにも気付かず眠り続けているだろうその人を思ったその瞬間、急に風が強くなる。まるで、今すぐ帰れとでも言うように。それに従ったわけではないのだが、国見が澄んだ空気の中で自然の動きを感じるその一方で、目覚めた溝口がそこにあるはずの温もりの喪失に戸惑うのかと思うと可哀想になってしまって、朝日を迎えに行こうという国見の小さな冒険は潰えたのである。
家に向かって歩き始めてから、もしも溝口が目を醒ましてしまっていたとしたら怒鳴られるに違いない、ということに思い至ってしまった。まあ、その時はその時。今はとにかく帰らなければならない。溝口がたった一人で朝を迎えることが無いように。
家に明かりがついていなかったからきっと大丈夫だと国見は思ったが、ふと、不思議な感覚に陥った。だって、溝口は家の中にいる。国見は外にいて、これからこの家に帰るのだ。それなのに明かりがついていない、なんて。
時間を考えればそれは当然のことであるのに、何故だか急に、泣きたくなった。今ならば溝口の言葉の意味が分かる。国見が居るはずのその家が明かりを点していないのだとすれば、それはこの平和な住宅街においてとても異質なものだった。いつだって国見は守られてばかり。国見が明かりを点して待つというだけで、何かを変えることができているのだろうか。
そっと、鍵を差し込む。いくら気を付けても不快な音が響いてしまい、仕方のないこととはいえ国見は眉を寄せた。ゆっくりと鍵を回し、抜き取り、扉を開いて、そして、固まった。
「あー、おはようございます」
「早すぎだ」
何をするわけでもなく、ただ玄関の壁に凭れて出迎えた溝口はずっと国見の帰りを待っていたのだろうか。いつからかは分からないけれど、何となく触れたその手が冷え切ってしまっていたことから、それが決して短くは無い時間であったことを理解する。これでは二人で身を寄せ合ったとしても、再び眠ることなど難しいに違いない。それでも、だ。
「朝は冷えるだろ。ちょっと待ってろよ」
溝口が台所へと消え、直ぐに甘い香りの漂い始めたこの家でならば、困難も簡単に乗り越えることができるかもしれない。そんな幻想が、国見の頭には浮かんでくる。
これならばいっそ叱られた方が良かったかもしれない、なんて思いながら国見はこれから朝を迎えるのだろう。ほんの少し薄いココアに文句をつけながら、二人でこの家に朝日を迎える。
6/6ページ