ぼくのかぞく
がちゃり、と鍵を回す音がやけに大きく響いてしまったような気がした。
大晦日。午後七時の少し前。ごく一般的な日本人であれば、国民的な歌番組を思う存分満喫するために着実に準備を進めているであろう時間。そんな時間に、国見は通い慣れてしまった家へと足を運んでしまっていた。何故、と問われると明確な理由を提示できそうになかったが、国見にはとある大義名分があった。
鍵の回る音によって来客者とそれが誰であるのかを即座に察したらしい家主は、わざわざ出迎えに出てきてくれたらしかった。
「国見、お前、何で」
「コーチが一人で年を越すだなんて、かわいそうで」
「余計なお世話だ」
言いつつも、溝口に国見を追い返すつもりはないらしかった。何も言わずに背を向けて部屋へと戻られてしまったということは、そういうことなのだ。家中が暖かな匂いに満ちていて、それだけでほっと息をつく。自分の家は、随分と寒々しい。
こたつの上には土鍋が用意されていて、すぐ手の届く範囲に日本酒の瓶が置いてある。テレビの前に居心地の良い城を作り上げ、自堕落な年越しを行う算段であったようだ。だが、そうは国見が許さない。
部屋の隅へと追いやられていたタオルケットを素早く回収すると、テレビの正面、特等席に陣取った。こたつの悪いところは背中が寒いところだが、その点についてはタオルケットがカバーしてくれるから問題ない。この薄っぺらい防護服はいつだって国見を守ってくれているのだ。
溝口はため息こそ漏らしたものの、国見を無理に追い出そうとはしなかった。食器棚から国見の分の食器を運んでくると、溝口は少し悩んでから国見の肩をとんとん、と叩く。そうして国見の注意を引きつけておいて、不意打ちで国見の横にあった隙間に滑り込んだ。強引に押し進めてしまえば何とか二人が入れないこともない。しかし、それは下半身の暖かさだけを考えた結果である。食事、となると話は違う。
「コーチ」
「先に侵入してきたのはお前だろうが」
「ここは俺に座って欲しいって」
「俺が整えたのにか」
「俺のために、ですよね」
舌戦とともに肉弾戦も始まってはいるが、こたつにおける居場所をかけた戦いである。大きな動きができるわけでもなく、傍から見た人間がいたとすれば何と可愛らしい戦いであるかと笑うだろう。しかし、当事者である二人にとっては必死のものだった。居心地良い場所を相手に明け渡してなるものか、と。
それから更にしばらくの間は継続して行われるかに見えた戦いは、二人にとって思いもよらぬ形で幕を閉じた。その理由は簡単で、二人が楽しみにしていた番組が始まってしまったからだった。司会による挨拶や登場歌手の紹介を眺めていると、大晦日の夜に自分たちは何をしているのか、という気分になってしまった。一度毒気を抜かれてしまうと再戦の余地は無く、二人は譲り合いながら、狭い「特等席」を分かち合うことにしたのである。
画面に気を取られてしまった国見のために鍋から具材を取り分けてやった溝口は、見慣れない顔触れの並ぶ画面に注意を向ける。分からないわけではない。ただ、このアーティストはこんな歌を出していたんだったか、だとか、まだ残っていたのか、だとか、そんな感想を抱いてしまったのは溝口にそういった方面へと割く余力がないほどに、青城バレー部の育成へ力を注いでいたからだ。だから、溝口が音楽に触れるのは適当につけたテレビ番組やラジオから流れてくるものでだけ。自分でも疎いという自覚はあった。
器を自然に受け取った国見もまた、疎い人間であったらしい。それでも高校生という年齢故なのか溝口よりは若干ではあるが知識量で勝っているようで、部員の誰々が好きなアーティストだ、なんて溝口に小声で教えてくれていた。それが何の役に立つかは重要ではなく、ただ、会話のきっかけが欲しいだけだった。
「国見の好きなアーティストは出てないのか」
「んー、正直、子ども向けコーナーの着ぐるみが気になるくらいで」
「着ぐるみ?」
「ちびっ子の夢を壊さないよう、あの動き辛い着ぐるみで必死に踊る様子、見てて楽しいじゃないですか」
「……なんつーか、捻くれてんな」
確かに、言われてみれば国見のような楽しみ方もアリだ。だがそれが大多数に受け入れられるかと問われると微妙なところである。口に入れた白菜がまだ熱かったのか、はふはふとしながら必死に咀嚼する姿は年相応の男子高校生。しかしその感性は、となると疑問を投げかけたいと感じてしまうのは溝口だけではないはずだ。
二人で鍋をつつきながら取り留めのない話をして新年を待つ。いつものようにただ日付を跨ぐだけの筈なのに、何故かこの日だけは特別扱い。それに便乗して、朝早くから二人で朝日を眺めて、そして初詣にでも行くのだろうか。そこで願うのが部の勝利なのか勉学への助けなのか、或いは健康長寿か世界平和か。きっとその時にならなければ分からないのだけれど、国見が漠然と考えているのはたった一つである。
来年もまた、誰かの隣に在りたい。
当たり前にあると信じて疑わなかった温もりが失われることもあるのだということを知っているからこそ、それを願ってしまうのかもしれないし願っても無駄だと考えてしまうのかもしれない。
どちらにせよ、取り敢えずは隣の男にはしがみついておこうか、なんて考えて新年を待つ国見の横で、そんなことを考えられているだなんて思いもしない溝口もまた、隣の少年とはしっかりと手を繋いでいてやらなければと考えていた。両親の不在を何ともないことのように振舞ってはいるけれど、こうして溝口の傍で子どもに戻ることを無意識に求めている少年を、どうしても見捨てることなんてできなかった。気を抜けばふらりと自身もまた消えてしまいそうな国見のことを、自分がしっかりとこの場所に繋いでおいてやらなければ、と。
大晦日。午後七時の少し前。ごく一般的な日本人であれば、国民的な歌番組を思う存分満喫するために着実に準備を進めているであろう時間。そんな時間に、国見は通い慣れてしまった家へと足を運んでしまっていた。何故、と問われると明確な理由を提示できそうになかったが、国見にはとある大義名分があった。
鍵の回る音によって来客者とそれが誰であるのかを即座に察したらしい家主は、わざわざ出迎えに出てきてくれたらしかった。
「国見、お前、何で」
「コーチが一人で年を越すだなんて、かわいそうで」
「余計なお世話だ」
言いつつも、溝口に国見を追い返すつもりはないらしかった。何も言わずに背を向けて部屋へと戻られてしまったということは、そういうことなのだ。家中が暖かな匂いに満ちていて、それだけでほっと息をつく。自分の家は、随分と寒々しい。
こたつの上には土鍋が用意されていて、すぐ手の届く範囲に日本酒の瓶が置いてある。テレビの前に居心地の良い城を作り上げ、自堕落な年越しを行う算段であったようだ。だが、そうは国見が許さない。
部屋の隅へと追いやられていたタオルケットを素早く回収すると、テレビの正面、特等席に陣取った。こたつの悪いところは背中が寒いところだが、その点についてはタオルケットがカバーしてくれるから問題ない。この薄っぺらい防護服はいつだって国見を守ってくれているのだ。
溝口はため息こそ漏らしたものの、国見を無理に追い出そうとはしなかった。食器棚から国見の分の食器を運んでくると、溝口は少し悩んでから国見の肩をとんとん、と叩く。そうして国見の注意を引きつけておいて、不意打ちで国見の横にあった隙間に滑り込んだ。強引に押し進めてしまえば何とか二人が入れないこともない。しかし、それは下半身の暖かさだけを考えた結果である。食事、となると話は違う。
「コーチ」
「先に侵入してきたのはお前だろうが」
「ここは俺に座って欲しいって」
「俺が整えたのにか」
「俺のために、ですよね」
舌戦とともに肉弾戦も始まってはいるが、こたつにおける居場所をかけた戦いである。大きな動きができるわけでもなく、傍から見た人間がいたとすれば何と可愛らしい戦いであるかと笑うだろう。しかし、当事者である二人にとっては必死のものだった。居心地良い場所を相手に明け渡してなるものか、と。
それから更にしばらくの間は継続して行われるかに見えた戦いは、二人にとって思いもよらぬ形で幕を閉じた。その理由は簡単で、二人が楽しみにしていた番組が始まってしまったからだった。司会による挨拶や登場歌手の紹介を眺めていると、大晦日の夜に自分たちは何をしているのか、という気分になってしまった。一度毒気を抜かれてしまうと再戦の余地は無く、二人は譲り合いながら、狭い「特等席」を分かち合うことにしたのである。
画面に気を取られてしまった国見のために鍋から具材を取り分けてやった溝口は、見慣れない顔触れの並ぶ画面に注意を向ける。分からないわけではない。ただ、このアーティストはこんな歌を出していたんだったか、だとか、まだ残っていたのか、だとか、そんな感想を抱いてしまったのは溝口にそういった方面へと割く余力がないほどに、青城バレー部の育成へ力を注いでいたからだ。だから、溝口が音楽に触れるのは適当につけたテレビ番組やラジオから流れてくるものでだけ。自分でも疎いという自覚はあった。
器を自然に受け取った国見もまた、疎い人間であったらしい。それでも高校生という年齢故なのか溝口よりは若干ではあるが知識量で勝っているようで、部員の誰々が好きなアーティストだ、なんて溝口に小声で教えてくれていた。それが何の役に立つかは重要ではなく、ただ、会話のきっかけが欲しいだけだった。
「国見の好きなアーティストは出てないのか」
「んー、正直、子ども向けコーナーの着ぐるみが気になるくらいで」
「着ぐるみ?」
「ちびっ子の夢を壊さないよう、あの動き辛い着ぐるみで必死に踊る様子、見てて楽しいじゃないですか」
「……なんつーか、捻くれてんな」
確かに、言われてみれば国見のような楽しみ方もアリだ。だがそれが大多数に受け入れられるかと問われると微妙なところである。口に入れた白菜がまだ熱かったのか、はふはふとしながら必死に咀嚼する姿は年相応の男子高校生。しかしその感性は、となると疑問を投げかけたいと感じてしまうのは溝口だけではないはずだ。
二人で鍋をつつきながら取り留めのない話をして新年を待つ。いつものようにただ日付を跨ぐだけの筈なのに、何故かこの日だけは特別扱い。それに便乗して、朝早くから二人で朝日を眺めて、そして初詣にでも行くのだろうか。そこで願うのが部の勝利なのか勉学への助けなのか、或いは健康長寿か世界平和か。きっとその時にならなければ分からないのだけれど、国見が漠然と考えているのはたった一つである。
来年もまた、誰かの隣に在りたい。
当たり前にあると信じて疑わなかった温もりが失われることもあるのだということを知っているからこそ、それを願ってしまうのかもしれないし願っても無駄だと考えてしまうのかもしれない。
どちらにせよ、取り敢えずは隣の男にはしがみついておこうか、なんて考えて新年を待つ国見の横で、そんなことを考えられているだなんて思いもしない溝口もまた、隣の少年とはしっかりと手を繋いでいてやらなければと考えていた。両親の不在を何ともないことのように振舞ってはいるけれど、こうして溝口の傍で子どもに戻ることを無意識に求めている少年を、どうしても見捨てることなんてできなかった。気を抜けばふらりと自身もまた消えてしまいそうな国見のことを、自分がしっかりとこの場所に繋いでおいてやらなければ、と。