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ゆめうつつに、こい。

「人」の器を得たのだから。
 そう言って、刀剣男士として顕現したことを肯定的に捉える存在が本丸には大勢いた。その表現すら、人に染まっている証拠であるのかもしれない。
 物言わぬ刀であった時と比べ、自らの意思で自由に動き、また話すことができる今。もう二度と振るわれることなく、いずれ消え去るばかりだと思っていただけに、戦いの中で目覚め、活動することができる現状がどれほど幸せなことか。審神者が思っている以上に、この戦いを幸いだと感じている刀剣は多いことだろう。
 鶴丸が顕現されたこの本丸には、大勢の仲間たちが暮らしていた。かつて同じ主の元で過ごした知己の姿、もう二度と巡り会うことなどないと思っていた存在の姿。回想の中でしか言葉を交わすことのできなかった彼らと共に戦うことができる、というその一点においてのみ、微睡みの中から呼び起こされたことを許してやっても良いと思えた。しかし、それにしたって人間らしい心、というものが非常に厄介であった。
 今の主である審神者は「人間らしい心」を持つことが当たり前であると言う。だが、鶴丸には理解ができない現象であった。戦うための道具でしかない自分たちに人間らしい心を与えて、一体、何がしたいというのだろうか。ただ振るわれるままであった昔のように、命じられるままに動き、敵を屠る道具のままではいけなかったのだろうか、と。
 鶴丸国永という刀剣にとって「父」ともいえる五条国永。彼の師事した三条宗近によって生み出された、いわゆる三条一派からはどうも「親戚」のような感覚を持たれているらしい。未だ五条の刀剣が鶴丸のみであることを気にしてのことかもしれないが、ことあるごとに彼らは鶴丸を構おうとした。遠征先で、或いは万屋で、良いものを見つけたのだと甘味をやたらと渡してくる。その扱いはどう考えても、短刀たちに対するそれと同じであった。
 平安時代に打たれた刀である三条の彼らにとって、他の刀剣もまた「年下」と呼ぶに相応しいものばかりである。爺を自称する三日月や、常日頃から短刀の遊び相手にもなっていた岩融ならばまだ分かる。小狐丸や石切丸に加え、今剣にまで甘味を渡されるものだから堪ったものではない。頬が熱くなって仕方がないのだ。人間らしさを得た刀剣というものは、非常に厄介であると思う。
 伊達で世話になっていた際の知り合いだってそうだ。どうしてだか希少価値の高い部類に括られているらしい鶴丸がこの本丸へと来たのも、他の例に漏れず遅かった。燭台切や大倶利伽羅は早い段階で戦線へと出ており、鶴丸との再会を心待ちにしていたらしい。歓迎の宴を終えた後、与えられた部屋へと向かった鶴丸を追って、二振が揃って挨拶に来たことは記憶に新しい。
 かつて共に在った存在との再会を喜ぶこと自体は、鶴丸自身も抱いた感情であったから悪いとは言わない。しかし、その後も必要以上に気に掛け、構うようになったことに関しては苦言を呈したい。
 確かに、人の器を手に入れたのは三振の中では鶴丸が最も遅かった。だが、鶴丸とて平安時代から人に寄り添ってきた刀剣だ。慣れてしまえば人の真似事くらい容易いというのに、心配だから、便利な口上を述べて燭台切は手を出してくる。他とは一線を引いて過ごしていたらしい大倶利伽羅までもが不安げな眼差しを向けてくるおかげで、毎日が鬱陶しくて堪らない。
 それに対する周囲の反応というのも、旧知の仲だから、二振ともずっと待っていたから、と好意的であることも鶴丸の退路を塞いでしまっている。少なくとも、好意がいきすぎているだけなのだ。己の手足で動けるようになった分、それが顕在化してしまっているだけで。どことなく楽しそうな彼らに不満をぶつけ、雰囲気を悪くしてしまうことを避けた方が良いことくらいは鶴丸にだって分かっていた。空気を読むこと。昔から日本人が大切にしてきた習慣である。
 御物となってから共に過ごすようになった連中とだって、付き合い方が難しい。鶯丸は人の身体を得たことによって「茶」に興味を持ったらしかった。それだけならば勝手にすれば良い。ここで問題となってしまうのは、彼がやたらとそれを鶴丸にも勧めてくるからだ。俺のお気に入りはこれだ、この味は先日のものと少し違うのだがどうだ、この甘味に合う茶はこれだ、なんて。一人で勝手に楽しんでおけば良いものを、どうにかして周囲と、否、鶴丸と共有したいらしいのだ。他にも誘う相手はいるだろうに、声を掛けられてしまうと無下に断ることもできない。人付き合いというものは非常に煩わしい、と鶴丸は感じてしまう。
 平野だってそうだ。御物としての矜持と「兄弟」との馴れ合いとの間で、どう在ればよいのかと悩んでいる様子がひしひしと伝わってくる。外見上も、そして実際にも年上である鶴丸が察して助言らしいことをしてやることもあるのだが、これがまた非常に気を遣い疲れてしまう。
 そんな数々の不平不満も、一期一振に対するそれに比べてしまうと霞んでしまうのだから性質が悪い。勿論、一期一振が、である。
 一期一振の何が気に入らないのかというと、簡単に言ってしまえばその言動の全てである。御物として同じ蔵にしまい込まれた時から、そのツンと澄ました気配だけはひしひしと感じていた。
 粟田口吉光至高の太刀。天下人に愛され、炎の中から蘇った太刀。
 そんな矜持の高さが伺えるそれに、どうしてそこまで存在感を伝えてくるのかと憤慨した記憶がある。
 その憤りがある程度にまで落ち着くと、今度は己の負けず嫌いが出てくるのだ。鶴丸だって、優れた刀匠である五条国永の傑作だ。人に愛され、墓から暴かれるほどの魅力。お前だけが優れているわけではないぞ、という思いはあったのだけれど、悔しいかな、その矜持に裏付けを与えるかの如く、一期一振には教養もあった。
 同じ「刀剣」として一括りに集められたその場所において、意志の疎通を図ることができるほどにしっかりとした自我を持ち、そして鶴丸の欲を満たす程度の会話術を持った存在は非常に数が少なかった。故に、あの蔵の中で会話を繰り返す相手として、一期一振を選ばざるを得なかったことは仕方のないことであったと言える。そして、彼との会話で満足感を味わっていたことも、仕方のないことなのだ。だって、他の教養ある存在の多くは眠りについてしまっていたものだから。
 そんな澄ました一期一振と数百年を過ごしたというのに、ある程度はまあ認めてやってもいいか、なんて思っていたというのに、だ。本丸にて器を得て顕現した時、そこには澄ました一期一振なんてどこにもいなかった。
 ――随分と甘い表情で笑うのだな、粟田口吉光至高の太刀よ。
 何度それを口にしかけたことだろうか。鶴丸が数百年をかけてようやく「認めてやってもいい」と思った男は、彼の彼たる所以である矜持を、あの蔵の中へと忘れてきてしまったらしいとさえ思った。
 刀剣に宿る意識でしかなく、人の器を得ていたわけではない。だから仕方のないことではあるのだけれど、鶴丸が数百年かけても見ることの叶わなかった「表情」というものを、一期一振は「兄弟」と呼ばれる存在であるというだけで脇差や短刀たちに振りまいている。共に過ごした時間は鶴丸の方が長いというのに、だ。もしも人の姿となれたなら、どんな容貌なのか、今はどのような表情をしているのか、そんなことを考えていた鶴丸には見向きもしてくれない。
 顕現してから己の「弟」にばかり構う一期一振が面白くない。彼の姿を見ると胸が痛くなるわ、不可解な苛立ちはやってくるわ、他への注意が疎かになるわで碌なことがない。その存在全てが気に入らないと鶴丸が言い放つ理由はそこにあった。やたらと口出しをしてくる三条一派によってそれを聞き出されたときには、随分と面白そうに笑われてしまったものだ。鶴丸自身はその三条の反応も含め、全てが面白くないというのに。全ては何も知らずに笑顔を振りまいている一期一振が悪いのだ。
 鶴丸が一期一振に対して不快感を抱いていたとしても、本丸で共同生活を送る中ではそれらを綺麗に覆い隠してしまわなければならない。不和があることは戦場において他の面々にもいらぬ不安を与えてしまうし、この件に関しては鶴丸がぐっと堪えておけば万事解決である。鶴丸が編み出した行き場のない悶々とした感情の発散法法こそ、本丸で散見されるようになった「悪戯」であった。
 鶴丸の悪癖に目くじらを立てるのは、真面目な性格をした面々である。まあ、具体的に言うとへし切、そして一期一振であることが多い。へし切に悪戯が見つかってしまい彼の機動力から全力で逃げ出すことも、一期一振に悪戯が見つかってしまいそのお綺麗な顔を歪めてネチネチネチネチと説教をされることも、楽しいと思えてしまうのだから人の心とは不可解なものである。
 この日もまた、一期一振に悪戯が見つかってしまい叱られている真っ最中だった。だというのに頬の筋肉が緩んでしまって仕方がなく、それを見逃す程に彼は甘い男ではなかった。
「鶴丸殿、反省の色が見えませんが」
「失礼だな。これでもちゃんと反省しているんだぜ」
 今回の事の発端は、遊び疲れて喉が渇いたと漏らした粟田口の短刀たちに、鶴丸が飲み物を用意してやったことにある。
 外見故か甘いものを好む彼らに、あいすこおひい、とやらを。大人びた外見のものですら渋面を作ることのある苦いそれに、液体砂糖と牛乳をたっぷりと混ぜ込んでやった辺りは鶴丸の優しさだ。ほのかに苦みは残っていたが、それでも鶴丸にとっては許容範囲内であった。そう、ちゃんと味見をしてやったのだ。平坦な日常に、僅かな驚きを。嫌がらせをしてやりたいわけではなかったから。
 香り付けにばにらえっせんすとやらも大量に混ぜ込んでみたおかげで、短刀たちはそれを甘い飲み物であると判断したらしい。常であれば匂いで気付くものもいたのだろうが、遊び疲れていたことが彼らの敗因だろう。何の疑いもなく口に含み、予想外の苦みに五虎退が思わず涙を浮かべた瞬間、一期一振が現れた。彼は「弟」たちが絡むと探索能力が爆発的に跳ね上がるらしい。
 苦みに顔をしかめる短刀たちに今度こそ甘い飲み物を用意してやった一期一振は、鶴丸の腕を掴んで自室へと連行する。彼が飲み物を用意している間に逃げ出していてもよかったし、素直に連行されず抵抗したってよかった。しかし、それはそれで後々が面倒であることを鶴丸は知っている。だからこそ、素直に叱られてやることを決めていた。
 そして何よりも、これから待っているのはあの苛つく甘ったるい表情を削ぎ落とし、冷え冷えとした空気をぶつけてくれる懐かしい彼との逢瀬である。その時間をどうして手放すことができようか。鶴丸が締まりのない顔をしてしまうことも、仕方のないことと言えよう。
 部屋を閉め切り、向き合った一期一振が鶴丸の表情に気がつかぬ訳もなく、眉を寄せる。
「まったく、また貴方は情けない顔を」
「弟が目の前にいる時にでも、鏡を見てみるといい。乱ならば手鏡でも持ち歩いてるんじゃないか」
 彼らが愛おしくて堪らないと、そんな酷い表情をよくもまあ晒せるものだ。自覚があるのかないのか、一期一振はわざとらしく笑顔を取り繕う。
「とにかく、弟たちをからかって遊ぶことは金輪際やめていただきたい」
「さて、確約はできんがなあ。気をつけるようにはしよう」
 鶴丸とて、幼い見目の短刀を泣かせてしまうことは本意ではないのだ。ただ、彼らを標的にしたならば、この優しいお兄様が釣れるものだから。
「おやおや、五条の傑作が随分と子どもらしいものですな」
「そちらも随分と人間臭くなったじゃないか、粟田口至高の太刀殿」
 売り言葉に買い言葉、とでも言うのか。するりとこぼれ落ちた言葉が、鶴丸の胸にすとんと落ちる。人間らしく染まってしまった彼が、受け入れられなかった。自分たちはあくまでも「刀」という道具であって、人間に使われるだけのものでしかなかったはずだったから。
 人間の皮を纏った一期一振に動じた様子はなく、むしろどこか楽しそうに、いっそう美しく笑ってみせた。
「折角、人の器を手に入れたのです。楽しまねば損でしょうに」
「俺だって日々を満喫しているさ」
 鶴丸の返答を鼻で笑う一期一振の姿は、短刀たちに見せている優しい兄の姿からはほど遠い。あの薄暗い蔵の中で人の姿を取ることができていたとしたらきっと、と言えるほどに懐かしい。
 もっと、と鶴丸が考えたところで足音が近付いてくる。軽い、複数のそれ。部屋の前でそれが止まってしまえば、鶴丸の予想は確信に変わる。
「もうすぐ終わるから、先に行って待っておきなさい」
 人影――短刀たちが何かを言う前に、一期一振が先手を打った。はーい、と可愛らしい声を上げてどたばたと走り去っていく様子に耳を傾ける表情は、もう「兄」としてのものとなってしまっていて生温い。あの冷たく鋭い彼はどこにもいない。興が削がれた。
 どこか張り詰めていたはずの空気も解けてしまっていて、鶴丸は腕を上げてぐっと伸ばす。
「いいお兄ちゃんを演じているものだ」
「演じているだなんて心外ですな。同じ親から生まれたのです。慈しむのは当然のこと」
 鶴丸が悪戯を仕掛けた場面に出くわしたのも、元はといえば短刀たちに稽古をつけてやる約束があったから、らしい。太刀を敵と想定してというのが本当であるならば良い。しかし一期一振が選ばれている辺り、どうしても鶴丸の内には蟠りが残る。敵太刀を想定してというのは建前で、ただ兄弟として馴れ合いたいだけではないのかと。
 いつまでも弟たちを待たせてはいられない。話すことは終わったとばかりに一期一振も立ち上がると、鶴丸を追い出しにかかる。その様子を見ていると、どうしても鶴丸の胸はざわつく。面白くない。しかし、それを口にすることは憚られる。
 押し出されるままに部屋を出て、そして再度「度の過ぎた悪戯は決してなさらぬように」と念押しをされ、そして解放される。どこか嬉しそうに鍛錬場へ向かう一期一振を見送り、さてこれからどうするかと考え始めた鶴丸の背後で気配が揺れた。
「なんだ、大倶利伽羅か」
 振り返って確認すると、鶴丸はどこか気まずそうな大倶利伽羅と目が合った。光忠が探していた、と口にする彼の表情にはどこか呆れが見える。燭台切が絡み、そして先程の一期一振の捨て台詞を耳にしていたのだとしたら、諸々を察することは容易い。またやったのか、とでも言いたげだ。
「ああ悪いな。そういや、片付けも疎かに飛び出してきてしまった」
「それだけじゃない、と思うが」
 言い淀み、それでも何か言いたそうな大倶利伽羅に先を促してやる。鶴丸は、誤解されがちな彼のことを特に気に入っていた。馴れ合うつもりはない、と周囲と距離を取りたがる彼。その本音がどこにあるにせよ、ただの道具であった頃と何も変わっていないように見える。そんな愛おしい知己である。
「あんたも、飽きないな」
「平穏だけの日々なんて、心が死んじまうだろう」
「そうじゃなくて」
「じゃあ」
「まあ、何というか、その、面倒だな」
 口下手な大倶利伽羅にしては饒舌に。それほどまでに、言いたいことを溜め込んでいたのだろうか。尤も、彼の言いたいことは欠片も分からないのだけれど。
 少々からかってやろうかと思案した矢先、大倶利伽羅の背後から燭台切が姿を現す。
「ああもう、やっと見つけたよ」
「悪いな。今まで一期一振に捕まってたんだ」
「それは自業自得かな。何が言いたいか、分かってるよね」
「片付け、だろ」
「そう。ほら早く」
 逆らう理由もなく、擦れ違いざまに大倶利伽羅へ「面倒をかけたな」と声を掛けてやると、溜息で返される。鶴丸を探す手伝いをした礼として、燭台切は後で彼に対して甘味を特別に用意してやるらしい。その話のせいなのか、それとも燭台切と大倶利伽羅がどこか楽しそうにしているからなのか、気持ちが悪い。胸の辺りに重石があるようで、面白くない。
 厨へ向かう最中に、鍛錬場へと急ぐ短刀と擦れ違った。先程の一件に関して謝罪を述べることについては何も思わない。事実、彼らに笑えない悪戯を仕掛けたのは鶴丸であったから。
 ただ、走り抜けていく彼らを見送っていると、腹の奥底に何かが蜷局を巻き始めるようで不快だった。全ては人の心なんてものを得たせいだ。複雑怪奇なそれを、鶴丸は持て余している。
 荒らしてしまった厨を片付けるついでだと、夕餉作りの手伝いを名乗り出た。少し心配だけど、という酷い言葉と共に了承されたことに関しては、鶴丸自身も己の常日頃の言動が理由であることが分かっていたので何も言わない。どうせ他にやることもないのだからと、純粋な厚意に基づいた申し出ではあったのだが。
 今日の厨担当は石切丸、燭台切、宗三、堀川、平野。そして手伝いを名乗り出た鶴丸だ。皮むき部隊と命名された鶴丸、石切丸、平野は水を溜めた手桶を囲むようにして、各々が野菜と戦うこととなった。
 人参、玉葱、じゃがいも。今夜は肉じゃがであるらしい。味噌汁用にと大根も敵に名を連ねている。少量ならばともかく、この本丸に顕現されている男たちを満足させるだけの量を作ろうと思うと、敵の数も恐ろしい。
「鶴丸さん、後で部屋においで。頂いた羊羹があってね」
「おいおい、別に俺はお礼目的で手伝いを申し出たんじゃないぜ」
「むしろ、僕たちへの罪滅ぼし、ですよね」
 口にした内容は冷たいが、平野の声色は温かい。それだけで、石切丸は鶴丸が粟田口に何かしらやらかしたことを理解したらしい。呆れた様子で「一期一振さんに、あまり迷惑を掛けないように」なんて苦言が飛び出してくる。平野の言葉だけで終われば良かったというのに、面白くない。
「どうしてそこで一期一振が出てくるんだ」
「彼の弟たちに粗相をしたのならば、兄である彼が怒るのも当然だろうに」
「兄弟、なあ」
 力任せに見えて、石切丸の作業は丁寧だ。土汚れを落としながらじゃがいもを討伐していく彼の言葉が、鶴丸には引っかかる。
 自分たちはただの鉄屑だ。かつては、仮に意思を持つことができたとしても自力で動くことなど許されなかった。人間に振るわれるのみの道具でしかなかったのだ。兄弟であると名乗りながらも、本丸で顕現するまでは接したことのなかった相手だっているだろう。それなのに、どうして「兄弟」などと言えるのか。どうして「兄弟」だからと無条件に「愛情」なんてものを抱くことができるのか。鶴丸には不思議でならないのだ。
 そこまで懇切丁寧に説明してやる道理もなく、鶴丸は小さくその単語を呟いたのみ。だというのに、平野にはその戸惑いが伝わったらしい。短刀として幼い容姿で顕現しているとはいえ、彼もまた、刀剣の中では古くから伝わる存在であるからか。
「確かに、兄弟云々についての感情の整理は難しいですね」
 思わず、といった様子で呟かれたそれに、石切丸が興味を示す。
「へえ、平野さんもかい」
「ええ。だって『一期一振吉光』と過ごした時間は僕が最も長いはず。それなのに、あの御方は『兄弟』全員を平等に愛してくださるのです。それがあの御方の素晴らしいところであり、悔しく、羨ましいと他の『弟』に嫉妬する自分がいることを僕は知っています」
 内緒ですよ、と笑う平野は「兄弟」の元へ戻ったその瞬間に、醜い感情は全て飲み込んでしまうのだろう。その点、彼は紛れもなく大人であった。
 負けた、と鶴丸は思った。どこで何の勝負が行われていたわけでもないのだけれど、とにかく、負けた、と。それが表情に出てしまっていたのだろうか。平野は困ったように笑う。
「鶴丸殿も、それから一期一振殿も、知らぬ振りをしているだけですよ。あの蔵の中で微睡んでいる頃から、ずっと」
 彼は、兄とは呼ばなかった。兄弟としてではなく一振りの刀剣として、無知であろうとする二振りを詰っているようでもあった。
 微妙な空気になりそうであることを察したのか、石切丸が鶴丸と平野を追い立てる。人参と大根、玉葱の皮は剥き終わったけれど、じゃがいもがまだまだ残ってしまっている。これは石切丸の機動云々というよりも、単純に数が多いからだろう。早く終わらせなければ間に合わないね、なんて。
 その優しさに甘えて、鶴丸は意識して明るい声を出した。さて、奇怪な形に切ってやれば食卓に驚きが並ぶだろうか。すぐさま燭台切から叱咤が飛んできたけれど、それで良かった。人間らしさなど要らぬ。いつ折れるとも分からない存在であるというのに、人間らしい触れ合いなど要らぬのだ。

 食事における席順というものは、特に定まっているわけではない。しかし、同じ主に所有されていただとか、同じ刀派であるだとか、そんな共通点から各々が共に食べる相手を見つけて座っていく。そのうちにいつの間にやらほぼ固定となっていくのだが、鶴丸の場合は三条一派や鶯丸と共に食べることが常となっていた。
 しかしながら、あくまでも席順については定まっているわけではないのだ。その日の気分で入れ替わりが発生することも多々あるし、鶴丸であれば駆け込み寺となるのは伊達で縁のあった存在の一角である。できることならば今からでもそちらへと逃げ出したい鶴丸であったが、食事が始まってからの移動は認められていない。その規則が今日に限ってこんなにも煩わしいのは、石切丸が厨で知った鶴丸の悪事を、会話の種として提供してしまったからである。
 悪事と表されるそれは悪戯、つまりは悪い戯れだ。己に非があるのだということくらい、鶴丸も理解している。それをわざわざ蒸し返されて、誰が喜ぶというのだろうか。そこかしこから聞こえてくる楽しげな笑い声が、ひどく恨めしい。
 鶯丸、石切丸、小狐丸、三日月、岩融、今剣。なんと恐ろしい顔触れだろうか。幼い言動ばかりが目立つが、今剣だって平安末期の激動を駆け抜けた「爺」である。どうしてこのような時にばかり面倒な顔が揃ってしまうのかと思いつつ、鶴丸はひたすらに全てを受け流しながら食事を進める他に道がない。大包平が遠征で不在であるのは僅かな救いだろうか。彼の声の大きさは、良く言えば明るい、悪く言うならば騒がしいこの時間であっても、部屋の隅から隅へと響き渡る。
「まったく、鶴丸も懲りぬな」
「美しいとはいえ、鶴も鳥。忘れやすいのも道理でしょう。ほら、三歩でも歩いてしまえば何とやら」
「それは聞き捨てならんな小狐丸」
「これは失礼しました鶯丸殿」
 鳥類全般への詰りにのみ反論した鶯丸に対し、お前も同じ事しか囀らぬ鶯ではないか、そもそも俺たちは鳥ではないと反撃したい気持ちはある。しかし、実行に移すだけの気力が鶴丸にはなかった。鶴丸に聞こえるようにと会話を続けながらも決して輪に入れようとはしない三日月と小狐丸、そして時折合いの手を入れるだけの鶯丸とは異なって、今剣は積極的に鶴丸へと声を掛けてくるものだから。
「まったく、いくらじぶんをみてほしいからといって、いたずらできをひこうだなんて。みぐるしいですよ、鶴丸」
「自分を見てほしいとか、悪戯で気を引こうとか、そんなつもりは」
「ない、といわれてもしんじませんからね」
「信じる信じないは勝手だが、事実なんだから仕方がないだろう」
 こんな時に諌める岩融が傍観を決め込んでいて、石切丸も会話の種を放り込むだけ放り込んでおきながら傍観に徹している。当事者ではないからと、良い御身分だ。恨みがましく睨みつけたところでどこ吹く風。少しも気にした素振りがない。
 周囲を見渡してみると、どこも夕餉を楽しんでいる様子がうかがえた。人の器を手に入れた一番の喜びは、やはり自らの思うように戦場で戦うことができること。次いで溢れてくる喜びこそ、この「食事」という行為である。物言わぬ刀であった時には楽しむことのできなかった「味」というものを堪能したいというのに、昼の悪戯がここまで尾を引いてくると自業自得とはいえ苛立ってくる。楽しげな他の面々が、いっそ妬ましいほどに。何もかもが人間らしさを与えられた弊害であるとしか思えない。楽しさだけを感じたいものである。
 視線を走らせる中で、鶴丸は一期一振と目が合った。にこやかに笑い、そして箸でじゃがいもを口へと運び美味しそうに頬張る。うんざりとした表情の鶴丸を見て、三条による悪戯への吊し上げが行われていることは分かっているに違いない。
 どこか楽しげな表情に、小さく舌打ち。君が今食べているそれは、俺が切り刻んだものなんだぜ、と教えてやったらその美しいだけの表情はどのように動くのだろうか。
 一瞬ではあったが意識がそちらへと向かったことを、今剣は機敏に察知したようだった。
「みつめあうと、すなおにおしゃべりできない」
「急にどうしたんだ」
「そういうものを、つんでれ、とよぶんだそうです」
 聞き慣れぬ言葉は未来のものであることが多い。つんでれ、とやらも新しい言葉の一つであろう。それにしたって、どうして今それが口にされたのかが分からない。言葉にせずとも鶴丸の疑問が伝わったのか、今剣は見た目に似合わず見下したように鶴丸を見遣る。
「つんでれがゆるされるのは、こんじきのかみをもつびしょうじょだけ、らしいですよ」
「何の話だ」
「鶴丸がみぐるしいというはなしです」
「……岩融」
「はっはっは。鶴丸は確かに鬱陶しいな」
 助けを求めたはずが、岩融が行ったのは今剣の援護射撃。これは刃選を間違えてしまったかと石切丸に目を向けるが、彼は困ったように笑う。
「いい加減、素直になれば良いんじゃないかな」
「俺はいつだって素直だろう。楽しく日々を過ごしているというのに」
 このまま食事を続けていても、折角の味を楽しめずに終わってしまう。その予感が現実味を帯びてしまう気がして、鶴丸はそれ以上の反撃を諦めて食事に専念することにした。というのに、ちょっかいを掛けてくるのが三条である。
「悋気を悋気とも認められぬ雛鳥が」
「巻き込まれるこちらの身にもなれ」
 先程までは決して鶴丸の方を見ようとはせず、されど嫌味ばかりはちくちくと刺してきていたくせに、鶴丸が食事に集中しようとした途端に直接攻撃を仕掛けてくるのだ。
 天下の月よ、地に落ちろ。
 自慢の毛並みも絡まり無残になるがいい。
 そう呪いたくなった鶴丸は全く悪くないはずだ。これで終わりかと思いきや、鶯丸までもが鶴丸に目を向けてくる。
「ああもう何だ。言いたいことがあるならいっそはっきりと言ってくれ」
 それによって喉を潰してしまえと呪いたくなるかもしれないが、それはそれである。囀りさえしてくれたならば、それに反応ができるというもの。思わせぶりな姿を見せるだけ見せて、鶴丸の苛立ちを煽ることが目的であるならばそれは十分すぎるほどに果たされている。
 食後の一杯というわけでもないのに茶をゆったりと啜り、鶯丸はようやく口を開く。
「なに、お前たちは蔵の中に在ろうが本丸に居ようが、何も変わらないなと」
「変わらない、とは」
「互いに意識し合っているくせに、矜持が邪魔をしているだろう。似たもの同士と言うと怒るのだろうな。同族嫌悪、とでも言っておいてやろう」
 それはまたちがうものですよ、と今剣は鶯丸の言葉の選択に反論しているが、鶴丸としては全面的に反論してしまいたい。しかし、もう何もかもが面倒であった。この場所に鶴丸の味方などおらず、ただ敵が六振り。単騎で何ができるというのだろうか。無様な姿で地に這いつくばる未来しか見えない。
 反応をするから彼らがつけあがるのだ、と鶴丸は結論付けた。万事に無視を決め込んだところで、ようやく彼らは鶴丸で遊ぶことを止めてくれたらしい。その後は当たり障りのない話題が続き、この場から逃げ出したい一心で食事を続けた鶴丸が真っ先に食べ終わる。
「よし、ごちそうさん」
 ここで捕まってしまっては逃げ出す機会を見つけるのに苦労しそうだと、鶴丸は勢いに任せて席を立つ。もう、追撃の声はなかった。
 この本丸において、食器は各々が責任を持って洗うのが決まりである。膳を洗い場へ持って行くと、そこには既に燭台切がいた。どうも世話を焼くことが性分らしい彼は、自らが食べ終わると早々に厨へと引き上げ、身長の足りない短刀たちの食器を洗ってやったり、食材の確認をしていたりと、とにかく働き通しであることが多かった。
 残り物を器に取り分け、鍋の類を洗おうとしていたらしい燭台切の邪魔にならぬようにと鶴丸は洗い場の隅へと身を寄せる。先程まで三条一派と鶯丸による波状攻撃を受けていたために、これでようやく静かになったと鶴丸は一息吐いた。
 その様子を見てくすりと笑った燭台切は、会話の内容が聞こえないなりにも、鶴丸が面倒な絡まれ方をしているようだと遠くから眺めていたらしい。お疲れさま、と今更言われたところで何も変わらない。見ていたのならば助けてほしかったと悪態を吐いてしまうのも、きっと仕方のないことだろう。
「そんな、僕に重傷まで追い込まれろと」
「もう少し残っていたら俺は破壊されていたというのに、酷いな」
 軽口を叩きながらも手を進めていれば、皿洗いなんてすぐに終わってしまう。いつもならば己の分さえ終わってしまえば立ち去る鶴丸だが、今日は少しばかり燭台切と話してみたい気分だった。
 何もしないでいるのも居心地は悪いが、仕事がないかと問うて何もないと言われてしまえばどうしようもない。手持ち無沙汰に洗い場へ身を寄りかからせつつ、鶴丸は機を窺う。
「鶴丸さん、今日は珍しいね」
「俺は毎日生まれ変わっているからな」
「それは、毎日が楽しいだろうね」
 軽口の応酬は気が楽だと思った。一期一振と喉元に刃を突きつけ合うようなやりとりをして、平野に柔らかく詰られて、三条や鶯丸に逃げ場を塞がれて。今日は一日、気の休まらない会話しかできずにいた。楽しく日々を謳歌したいと考える鶴丸にとって、由々しき事態である。
 燭台切との会話によって中和ができれば御の字、と考えなかったと言えば嘘になる。大急ぎで食べた甲斐あってか、出てくる際に確認した限りでは皆が洗い場へとやってくるまでにはまだ少し、時間がありそうだった。つまり、燭台切と二振りだけで話す時間はまだまだありそうだ、ということだ。
 あくまでも軽口の延長線上に。そう自らに言い聞かせながら、鶴丸は己の疑問をそこに混ぜ込むことにする。それは己に不快感を与える膿に対し、優しく刃を潜り込ませるようなものである、と鶴丸は認識していた。傷口を生み出すことで病巣が消え失せるのか、それとも新たな膿を増やすだけに終わるのか、鶴丸には分からない。分からないけれど、いい加減に潮時なのだと突きつけられてしまったのだから仕方がない。
「ずっと、気になっていたんだが」
「うん」
「愛とは一体、何だと思う」
 三条や鶯丸による攻撃は、きっとそういった類のものであった。何より、平野に対して「負けた」と感じてしまったあの瞬間が、鶴丸の闘争心に火を付けてしまったと言える。これまで目を背けてきた感情に、立ち向かわねばならぬ時がやってきてしまった。人の心を得るということは、何と無慈悲な戦を強いるのだろう。
 燭台切光忠という一振りの刀剣が人間の心を手に入れて、そうして振りまく優しさの根底にあるのはきっと「愛」と呼ばれるものだ。鶴丸にとって、愛だの恋だの、好きだの嫌いだの、そういった感情こそ人間らしい心の象徴であって、忌避すべきものであった。
 人に愛され、意思を持つようになった存在は付喪神と呼ばれることとなる。鶴丸のみならず、この本丸に顕現された刀剣は皆がそういった存在であった。意思があるのみで、互いの姿は本体たる刃であったし、言葉を交わすことができるとは言っても、ただそれだけだった。言葉を交わさなければ、己という存在が生きているのか死んでいるのか、分からなかった。
 薄暗い蔵へとしまい込まれてからは、誇り高い他の付喪神と言葉を交わし合った。それだけでももう満足で、人に愛された自分という存在と、人に愛された他の存在と、穏やかな時間を過ごすことができるのならばそれで良かったのだ。
 明日の戦場で折れるかも知れぬ。実体を得た今が奇蹟であるのだから、次の瞬間には物言わぬ刀として床に転がっているかも知れぬ。そのような現状において、どうして「意思」が残されてしまったのか。
 物言わぬ刀剣のままでも良かった鶴丸国永という太刀の付喪神に、人間の器が与えられた。ただの思念体でしかなかったものが、自らの足で自由に動き、触れ合えるようになってしまった。欲が、生まれた。いずれ虚しくなるだけのそれを、鶴丸は人間らしい心であるとした。本来であれば、自分たちが得ることも、知ることもなかったもの。
 想定外の問いであったのだろう。燭台切の手が一瞬止まる。しかし、すぐに「難しい問題だなあ」などと言いながら再び動き出すのだから燭台切はすごい。
「どうしてまた、突然に」
「突然じゃないさ。ずっと考えていた」
 鶴丸を一瞥した燭台切は、なるほど、と呟く。
「鶴丸さんも、やっと」
「おい、俺の話じゃない。あくまでもお前の考える愛という感情の話だ」
「はいはい、ごめんね」
 どこか楽しそうに笑う燭台切は、きっと鶴丸が変わろうとしていることに気がついてしまった。頬が熱い。やはり人の心なんて面倒なものでしかない。燭台切の素晴らしいところは、こちらの踏み込んできてほしくない部分へは決して足を踏み入れないところだ。これが三条の奴らであれば、無遠慮に踏み荒らし、暴き、そこからどう立ち直ってみせるのか、などと娯楽であるかのようにして眺めていることだろう。
 ちらほらと食器を洗いに来た面々からそれらを全て回収し、鶴丸と燭台切とで分担して洗うことにする。今日は何となくそんな気分なんだと押し切れば、誰も強くは出ずに洗い場を立ち去ってくれた。余計な仕事を増やしてやるなだとか、何をやらかしたんだとか、そんな言葉が付随していることについては目を瞑っておいてやることにする。
「ううん、そうだな。例えば、鶴丸さんは伽羅ちゃんのことをどう思ってるのかな」
「俺が大倶利伽羅と出会ったのは、お前が伊達から出てからだろう。あいつの強がる言葉ばかり聞いていたからな、いつ折れるかと冷や冷やしたもんだ」
 強がるばかりで、決して鶴丸に心を開こうとはしなかった。いや、その表現は不適切かもしれない。鶴丸国永という五条の太刀の存在は受け入れてくれたように思う。しかし、そこに宿った「鶴丸」という意思と寄り添おうとはしてくれなかった。燭台切光忠との別離が、ずっと彼を苛んでいたのだろう。
 それが分かっていながら、鶴丸は何もしてやらなかった。優しさを与えたところで何になる。鶴丸もまた、人間の都合で大倶利伽羅と引き離される運命がどこに転がっているかも分からない存在であったから。まだまだ幼い彼が己のみで立てるようにと望んでいるのならば、それを支えてやることこそが年長者の務めであると。その思いは今でも変わっていない。全ては、見守ってきた幼子の望みのままに。
 水音に紛れ込ませながら、鶴丸はずっと隠してきた「己」というものをさらけ出していく。その行為はとにかく恐ろしいものであった。
 自らの足場がぐらつき、揺れている感覚。本音を漏らしたが故に命を奪われた人間がいることを知っている。鶴丸には、そんな彼らを屠ってきた過去がある。人間というものは本音と建前とを上手く使い分ける存在であるのだと、間近で見てそう学んできた。顕現してからは建前ばかりを優先してきた結果、鶴丸自身が自らの本音からは目を背け続けてきた。見つめ直し、暴くことは、本当に恐ろしい。
「僕は、燃えてしまったから。おかげで人の関心も薄れてしまって、付喪神としての意識を保つことも危うくなった時期もあったね」
 平和な時代へと突入し、武器としてよりも美術品としての意義を見出されるようになった刀剣たち。昔とほぼ変わらぬ姿を残す鶴丸や大倶利伽羅とは異なって、燭台切は消滅の危機にあった。人に愛されたものに宿った意識こそが付喪神。忘れ去られた器に、果たして付喪神はどれだけの間しがみつくことができるのか。
 災禍の混乱から識別されず、世間には「焼失」とまで広まってしまった燭台切光忠という付喪神の意識は、醒めぬ眠りに落ちようとする自我を繋ぎ止める標として、倶利伽羅龍を望んだのだと言う。
「もう一度、伊達に残してしまった彼と話をしたいと、そう考え続けて。何が好きなのか、何が嫌いなのか、離れている間に何があったのか、沢山の話をしたくて。もっと、彼と、ずっと」
 愛だとか、恋だとか、そんな細やかな機微のことは分からない。分からないけれど、離れがたいと、傍に居たいと願う相手のことを人間は伴侶とするのだ、ということをどこかで聞いたような気がした。だから燭台切光忠が向けていたそれは、紛れもない「愛」であったのだ。
 今ではこの本丸に顕現した全ての存在が愛おしいのだと、どこか恥ずかしそうに口にする燭台切の言葉を噛み砕きながら、鶴丸は顕現してから初めて、人の感情を美しいと思えた。複雑怪奇なその詳細など全く分からない。きっと、人間自身にすら解明できてはいないのだ。ただ、己の行き場のない感情をどうにか処理してやるために、相応しいと思われる名を探し、授けた。ただそれだけ、なのだろう。
 それは、消失の危機にあった付喪神が、かつて共に在った付喪神と再び言葉を交わしたいと願った感情に名前を与えたように。鶴丸がこれまでに目を背けてきた、鬱陶しい、厄介な、面白くないと一括りに纏められた感情の名は、果たして。
 何か言わなければとは思うものの、相応しい言葉が見つけられない。己の話すべき事は、問いに対する答えは終わったとでも言うのか、それとも鶴丸の中に生まれた混乱や感情を理解してくれているのか、燭台切は静かに手を動かすばかり。ようやく絞り出すことのできた「幸せそうだな」というありきたりな言葉に、小さく笑う。
「だって、沢山の話ができるから。鶴丸さんも、きっと幸せになれるよ」
「だと、いいんだが」
 燭台切の言葉が真実であれば良い。しかし、それを望むには鶴丸がこれまでに切り捨ててきた感情は多すぎた。そして何より、未だ混乱の渦中にある思考が果たしてどの方向へと定まるのか、鶴丸には分からない。燭台切の説明した「心」の在り方を受け入れることはできた。だが、それを自らの内でも受け入れることができるのか。
 洗い場も粗方が片付いたところで、賑やかな声が近付いてくる。雰囲気から察するに、それは粟田口部隊。脇差と打刀は既に洗い場へと姿を見せている。残るは短刀、そして太刀。救いを求めて燭台切に目を向けるも、諦めてしまえと首を振られる。当然だろう。出入り口は一つしかなく、隠れる場所もない。顔を合わせ辛くとも、それは鶴丸の自業自得である。
「燭台切さん、ごちそうさまでした」
「今日も美味しかったです」
 思い思いに感想を述べながら、洗い場へと姿を現した短刀たち。その最後尾を歩むのが、今の鶴丸にとって最も顔を合わせたくない存在たる太刀である。弟たち、がいるためか兄としての表情を崩さない一期一振に、鶴丸の感情は不快へと傾く。
 ああ、違う。そうではないのだ。
 まずは謝らなければならない。鶴丸が日中に行った悪戯の一件について詫びの言葉を口にすると、短刀たちは快く受け入れてくれる。最終関門たる太刀殿は、ただ微笑んでいるばかり。鶴丸の謝罪には触れず、会話に興じ始めた短刀たちを優しく諭す。
「ほら、早く洗いなさい。いつまでも占領していては迷惑でしょう」
「大丈夫だよ。貸してごらん。僕が洗って」
 おくから、と続けようとした燭台切の言葉を、一期一振は遮る。
「甘やかさずとも結構です。この子たちも自分のことは自分でできますから」
 言葉は冷たくとも、眼差しは温かい。それは鶴丸が手に入れることのできなかったものだった。同じ刀匠によって生み出されたのだというだけで、短刀たちにのみ許されたもの。鶴丸は、それが嫌いだった。
「厳しいことをいうなあ君も。子どもは元気に駆け回っているのが一番じゃないか」
「鶴丸殿は弟たちを何もできない赤子だとでも」
「そうは言っていないだろう。大体、君はいつも」
「鶴丸殿」
 止まらなければ。そうは思っても、長い時間をかけて作り上げられてしまった感覚というものは、そう簡単には変わらない。変わらなければ、と思ったところで行動が伴わなければ何も変わらないのと同じこと。こんなはずでは、なかった。
 分かっていながら慣れた勢いに身を任せようとした鶴丸を留めたのは、平野の一声であった。
「鶴丸殿、御心遣い感謝いたします。けれど、これは僕らの仕事ですから」
 平野は、鶴丸が自分たちを侮って手伝いを申し出たのではないということをよく分かっているようだった。じっと見つめてくる瞳の中には心配の色が見え、むしろ気を遣わせてしまったのはこちらかと鶴丸は恥じる。外見が幼い故に、どうしても人間の童であるかのように接してしまいがちだ。今だって、思わず頭を撫でてやりそうになる腕をぐっと抑え込んでいる。
「決して侮っているわけではないんだが、どうも爺は若いやつらを可愛がりたくなるのが性分らしくてな。許してくれるか」
「勿論ですとも」
 傍らでは燭台切が自身も爺の括りに入れられてしまったことを嘆いているが、そこについては諦めてもらわねばなるまい。人間であれば、彼と粟田口の面々には親と子ほどの開きがあるのだ。刀剣である自分たちにとっては、本来であれば些末な差異であるけれど。
 追い立てられるままに自身の食器を洗い始める弟たちの後ろで、一期一振は穏やかにその様子を見つめている。既に鶴丸がこの場所に留まっている理由などなくなっているのだけれど、どこかぎこちなく、一期一振の隣に立った。ちらりと隣に立つ男を一瞥した一期一振は、しかし、何も言わなかった。
「その、一期一振」
「何でしょうか」
 答える声には弟たちへと向けているような優しさがなく、面白くない。いや、悔しい。だが、それも仕方のないことだと分かっていた。
 自分たちに、心など必要なかった。ただ、傍に居たからという理由だけで言葉を交わし続けた日々。そこに感情など必要ではなく、互いに己が孤独ではないのだと確かめるための相手として選び、選ばれていたにすぎない。自分こそが至高であるという矜持こそが、あの場所には必要だった。それに縋らなければ、きっと醒めぬ眠りへと身を委ねてしまっていた。あの蔵は、穏やかな墓場であった。
 一期一振は、少なくとも弟たちが傍に居る間は兄としての顔を残してくれているらしい。片鱗を見せこそすれ、鋭い言葉のやり取りを短刀たちの前で行うことはなかった。
 しかし、それでは駄目なのだ。鶴丸も、一期一振も、変わらなければならない。それは平野が先に変わっていたのだということに鶴丸が気付いたことも大きく関わっている。しかし何よりも、戦場で戦うための道具でしかない自分たちが「心」を手に入れた理由と、向き合わねばならない。揃いも揃って目を逸らし続けているままであるのならば、それはあの墓場で微睡む日々と何ら変わりはないのだ。
「眠る前に、君の部屋へ行っても良いだろうか」
「理由を」
「あの墓場から、目を醒ますために」
 聡い彼には、それだけで伝わったらしい。一瞬だけ視線をさまよわせ、しかし鶴丸に退く気配がないと見て溜息を一つ。
「鶴丸殿の身勝手に振り回される、こちらの身にもなっていただきたいものですな」
「すまん」
 弟たちを寝かしつけてから自室へと戻る。一期一振が顕現して以来続けているその習慣のため、鶴丸が先に部屋で待っておくことに話が纏まる。
「私が戻るまで、決して眠りなさらぬよう」
「熱烈な言葉、しかと受け取った」
 わざと茶化してやると、分かりやすく眉間に皺が寄る。だが、それも弟たちに声を掛けられたならばすぐに取り繕われてしまう。不快、いや、寂しい。
「じゃあな、今宵は褥で待たせてもらうぜ」
 言い残した言葉が短刀たちの興味関心を擽るのだと分かっていながら、敢えてそれを口にした。案の定、するりと洗い場を抜け出た鶴丸の背中には、一体何なのだと兄に詰め寄る弟たちの声が届いている。困ったお兄様は、優しい表情の裏で鶴丸への文句をじっくりと温めてくださることだろう。それを思うだけで、鶴丸の心は大いに満たされた。
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