槻倉荘
「大丈夫ですよ。俺、曰くつきとか幽霊が出るとか、そんなに全然気にしないんで」
昔から見慣れてますからね、という言葉は心の中で付け足すに留めていたが。
昔から、不運に愛された子どもだとは思われていたらしい。
道を歩けばよく転び、頭上から何かが落下してくることは人よりも多い。普通に歩いているだけで事故現場に遭遇する――どころか自分が当事者になりかけること数度。まさかとは思いつつ、霊媒師と名乗る職の人間の元へと連れて行ってみれば「ああ、いわゆるホイホイさんですね」というありがたいお言葉を頂戴したのだという。
とはいえ、このご時世だ。非科学的なそれを信用することのできなかった乙部の親は、北は北海道から南は沖縄まで、無作為に選んだ「自称霊能力者」へと見せて回ったそうだ。独自のネットワークを用いて情報を共有しており、自分たち家族を騙そうとしているのではないか、という考えは早々に捨てたと聞いている。ここで誰かが壺等の怪しげなものを売りつけようとするならば話は別だっただろうが、むしろ、誰もが口を揃えて「そんなものは意味がない」と否定し、笑っていたそうで。
『この子のこれは生まれ持った体質のようなもの。変に歪めてしまうよりも、そのままで在るほうがずっと良いでしょうね。これまでも、大きな怪我はなく過ごすことができているでしょう。悪いものを引き寄せてはいますが、同時に良いものも引き寄せているんですよ』
そう言っていたのは、どこの人であったか。乙部の生まれ持ったその体質は殺されることなく、されど活かされることもなく共に在り続けていた。悪霊と呼ばれるような存在ばかりを引き寄せているのであれば、何が何でも抑え込もうとされていたのだろう。しかし、悪さをするような存在から守ってくれているのもまた、幽霊と呼ばれるような存在であったことが問題を面倒に拗らせていたのだ。
ある程度の年齢にもなると、乙部も「普通」というものを学んでいた。誰が「普通」の人には見えないのかを理解し、そう振る舞うことを覚えていった。良いことばかりではないが、悪いことばかりでもないのだ。両親に心配をかけ続け、また、周囲から奇異の眼差しを向けられ続けることが生き辛さに繋がることは薄々と感じていたので、幽霊と呼ばれる存在との付き合い方も少しずつ上達していったのである。
かつて助けてくれていた存在と同一ではないけれど、それでも、彼らに対して日常生活に支障が出ない範囲で何かできることがないかを考える。大多数から存在を感知されないままに漂っている存在がほとんどであるのだ。この体質である以上、何かできることがあれば、と考えるようになったことも当然の流れであると言えよう。
ただ、それでも厄介ごとを抱え込む気はさらさらなかった。明らかに悪霊と呼ばれるような存在には、知覚したことを気付かれることのないよう細心の注意を払っていた。心霊スポットと呼ばれるような場所には、決して自分から近付こうとはしなかった。それを「単なる怖がりだ」と判断した友人たちに半ば騙される形で突撃する羽目に陥った一件については、不可抗力であったと主張しておく。乙部の体質に引き寄せられる形で目覚めてしまった存在が新たなる心霊スポットを生み出すことになってしまうことも、また。
そんな状態が日常と化してしまっていたために、乙部が大学への進学を決め、部屋を選ぶとなった際に他の人よりもハードルが下がってしまっていたことは否めない。そもそも、眠っている霊すら叩き起こすとまで言われた体質と二十年弱も付き合っているのだ。図太くもなるし、今更、事故物件であるかどうかを気にしたところで何も変わらないのだから。
乙部が選んだ部屋には、これといった問題が無いように思えた。大学との距離も程よく、同じ大学へ通う学生も入居しているという。それでも他より家賃が少し低い。その理由として挙げられたのは「人の出入りが激しいため」であった。長く運営されているアパートではあるが、その一室だけがどうもうまくいかないのだという。その部屋で誰かが死んだ、という話は聞かない。騒音トラブルも聞かない。日照条件が悪いということも聞かない。ただ、退去する際に口にされるのは「どうも落ち着かない」という言葉。建付けが悪く部屋に歪みが生じているのかと確認をしてみても、何の問題もなかった。ともなればもう手詰まりで、明確な理由もなく家賃を下げて様子を見ている、という状態の一室であった。
何かが、確かにそこに居る。
けれど悪意はなく、ただそこに在るだけのものだ。
部屋の確認として一通りを見て回った乙部は、そう判断した。いわゆる「地縛霊」と呼ばれるもの。姿を現していないということは「眠って」いるのだろう。乙部の入居によって叩き起こしてしまうことになってしまうかもしれないが、それはそれ、である。このアパートにまつわる悪い噂は少なくとも乙部の耳には入ってこなかったので、アパートの建つずっと前からこの場所に縛られているのだろう。先住民、とも言える存在が同居人になってくれるのであれば、それは良いことであるように思えた。
乙部の中でオカルト的な要因がマイナスに働いていない以上、大学との距離や家賃のことを考えるならば優良物件と呼んでも良い一室。同居人(予定)との相性がどうしても悪く折り合いがつかないという可能性も無いわけではなかったが、恐らくは大丈夫だろうという予感があった。こういった時の直観はよく当たるのだ。
ざわり、と動いた部屋の空気に小さく息を漏らした乙部が他の住人もまた「訳アリ」なのだと知るのは、もう少し先のことである。