槻倉荘
その手紙が初めて花尾の元へと届いたのは、梅雨入り宣言があった日のことだった。可愛らしい便箋に、少し丸みを帯びた癖のある文字。あともう少しで三十歳を迎える花尾がそのような手紙を受け取ることは、傍から見ると少し異様であるように映るかもしれない。送り主は、自己申告が正しければ四月で中学生になったばかりの女の子。花尾は教師でも塾講師でも家庭教師でもない。そんな男がどうして可愛らしい手紙を受け取るようになったのかというと、それは、ほんの少し前、世間がゴールデンウィークという素晴らしい連休を謳歌していた頃に理由があった。
とある大手コンビニエンスストアで店長として働いている花尾にとって、連休というものは一つの稼ぎ時ではあった。遠方にいる子どもが帰省するから、実家へ帰省したいから。休暇申請の理由欄には、帰省という単語が規則正しく並んでいる。数少ない働き手を何とかやり繰りし、どうしても埋めることのできなかった時間帯には自分自身が入る。そうやって店を回してきたご褒美として、ゴールデンウィークの最終日、その一日だけは完全にフリーな休日として確保するに至ったのである。
唯一の休みを家で過ごす一日としても良かった。どうせ、翌日からは再び仕事漬けの日々に舞い戻るのだ。しっかりと身体を休めるのもまた、休日の有意義な過ごし方であっただろう。しかし、花尾はその選択を敢えて思考の外へと追い出した。完全なる休養日。どうせならば普段は行くことのできない、少し遠くにある好きな場所へ向かいたい。身体の休息よりも心の休息を選んだのだ、と花尾は言い続けている。
その自然公園は、多種多様な植物が多く育てられている場所だった。人の手は殆ど入らず、自然そのまま、と言っても良い状態で栽培されている花々の姿は非常に生き生きとしたものであると花尾は思っている。自身の姓に「花」の字があるからというわけではないが、幼い頃から花尾は植物が大好きだった。植物図鑑は愛読書であったし、小学生の頃は花壇係を率先して希望、委員会でも栽培委員を希望して学校生活に文字通り彩りを添えてきた。今でも自宅の窓際には鉢植えが並べられていて、仕事に疲れて帰宅した花尾をあたたかく、そして優しく迎え入れてくれる「同居人」となっている。それにどれだけ救われた日々があったことだろうか。
ゴールデンウィーク最終日であるその日は、天候に恵まれた一日となった。自然公園を遠足がてら訪れる家族連れも多く、芝生広場は大いに賑わっていた。しかし、その喧騒も少し奥まった場所へ移れば届かなくなる。花尾の目当ての場所は、そんな奥まった場所の中でも最奥に位置していると言ってもあながち間違いではないだろう。擦れ違う人も少なく、穏やかな日差しと風を感じながらゆったりと時間を過ごすことができたのは嬉しい誤算だった。広場の様子を見て諦めていたのだが、どうせ心に休息を与えるのならば自分の好む最善の状態で、つまり、静かな空間でゆったりと花々を愛でたかったのだ。
メインとなる散歩道からいくつかの分岐を経て辿り着くその水辺には、杜若が群生している。その他にも数種類の植物が植えられているものの、この時期はやはり杜若だろう。花開き始めたばかりの青みがかった薄紫色が、艶やかな姿で凛と立っている。木陰に設置されているベンチに腰かけた花尾の他に、この場所に人の姿はない。瞼を下ろしていくら耳を澄ませても、芝生広場の騒々しさは届かない。この場所だけ、どこか別の場所へと切り取って置き直されたのではないかという錯覚に陥ってしまうほどに静かだった。
風の音、水の流れ、木々の葉が擦れ合う音、淡く漂う杜若の香。そして、自分を優しく労わってくれる「お疲れさま」という声。
何をするわけでもなく、花尾はベンチに座りながらそれらを満喫していた。接客業をしている反動なのか、時折、誰にも会わずに一人きりで全てをリセットしてしまいたくなる。そんな時にこの場所は最適だった。生活拠点となる家からは電車で一時間ほど。知り合いや常連客に会う心配もなく、大好きな存在に囲まれる。これほどにリラックスできる空間はそうそうない。
ふと、花尾の耳が足音を捉えた。靴裏がざりざりと土と擦れ合う音。誰かが、この静かな空間へと近付いてきている。一瞬だけ景色を見て、それで満足して踵を返すタイプの人間であってほしいと願った。このような場所にまで足を運ぶ人間に、それを求めても仕方のないことであろうとは薄々感じていたのだけれど。そして出会ったのが、花尾と同じように静かな空間を求めてやって来た一人の少女である。彼女は青みがかった紫色のような、不思議な色のワンピースを着ていた。ファッションのことには疎く美的感覚には自身が無いものの、その色を見て花尾は「杜若の精だ」なんてファンタジックな感想を抱いてしまったことを覚えている。
花尾の姿を確認した少女もまた、自分以外にこの場所を訪れる人間がいないと思っていたのだろう。随分と驚いた表情をし、一瞬だけ動きを止めた。そう、一瞬だけ。すぐに少女は動きを取り戻し、そしてどうしてだか花尾のすぐ傍にまで近付いてきたのだ。それほど広くはない場所だけれど、見ず知らずの人間の近くへわざわざ来なければ花々を観賞できないほどに狭いわけではないというのに、である。花尾の方をちらちらと見て、何か言いた気な少女の様子には気がついていた。気がついてはいたけれど、花尾には少女に声を掛けられる心当たりなど全くなかった。容姿だって、飛び抜けて良いものであったならば学生時代がどれだけ華々しかったことか。良く言って「人並み」でしかない自分に初対面の少女が何の用なのか、その場から動かずに待っていたことは花尾なりの優しさである。
結論から言ってしまうと、花尾は少女がおずおずと切り出した「お願い事」を聞きいれることとなった。それが、文通の約束である。便利なツールが各種揃ったこのご時世に文通なんて、という思いが無いわけではなかったが、だからこそ、彼女からの手紙は日常に彩りを添えてくれる良いスパイスとなったのだ。少女が何を思ってそれを切り出したのか、花尾には分からない。分からないけれど、恥ずかしそうに、しかし勇気を振り絞って話かけてくれたその心意気に流されてしまった。
手紙が実際に届くまでは、初対面の少女に住所と名前を伝えてしまったことを不安に思っていた。しかし、届いた手紙の文面や文字の雰囲気から要らぬ心配だったのだということを悟る。どこか緊張した様子で綴られている文字。そして、その文字が紡ぐのは可愛らしい少女の日常だ。私のことを知ってほしい、という思いはそこにない。ただ場所が余ってしまったからその空白を埋めるために選ばれる内容がそれというだけ。彼女の本題はいつだって一つ。――貴方のことが好きです、というシンプルなものだった。
申し訳ないことに、花尾には少女との出会いをゴールデンウィーク最終日のあの瞬間であったと認識している。だが、本当はもっと前に出会っていたらしい。少女はそれがいつのことなのかを曖昧に濁していたものだから、花尾がいくら思いだそうとしても記憶を上手く辿ることができない。もしかしたら本当は出会っていないのかもしれないけれど、彼女はずっと花尾のことを好いていてくれていたらしいのだから悪い気はしない。偶然の再会に、これを逃せばチャンスは無いと勢いで押してくれたらしかった。
あれをしてほしい、これをしてほしい、なんて要求は一切ない。強いて言うなら、返信をください。恋心を否定しないでください。それだけならば、と花尾は少女の願いを叶えてやろうと思う反面、どうすれば良いのかと持て余している部分もある。初めての手紙で熱烈な告白をされ、そして同時に書き添えられていたのは「恋人になってほしいと願うつもりはありません」の文字であった。気が楽になると同時に、本当にこれで良いのかという迷いもある。彼女の想いを早く断ち切ってやった方が良いのではないか。それを実行に移すことができないのは、花尾が状況に甘んじて決断を先延ばしにしているせいだ。
もう一度、少女と直接会う。
その約束が取り付けられたのは、手紙のやり取りが十回を超えた頃のことである。相手が学生であること、花尾自身、仕事の都合で時間が取れなかったこともあり、話だけはしながらもずるずると日程を決めることができずにいた。場所は、二人が初めて出会ったあの場所。もう少しで散ってしまう杜若を、二人で眺めながら話をしようと。
ある程度の予定がたってしまえば後は早い。それぞれが、予定が入らないようにと気を付けながらスケジュール調整をしていけば良いのだ。場所は決まった。日時も決まった。強いて言うならば当日の格好が決まらない。その程度。あと何日で、なんて子どもじみたカウントダウンはしなかったけれど、時折、指を折って数えていたことは秘密である。
花尾なりにその日を楽しみにしていたというのに、その日は生憎の雨模様となってしまった。天候ばかりはどうしようもなく、電話番号やメールアドレスなどを知っているわけでも無いから当日になって変更の連絡をすることもできない。来ないかもしれないな、と思いつつ、花尾は約束の場所へと足を運んだ。いつかの日と比べると、雨天であることもあって人気はかなり少ない。傘を雨粒が叩く音、水溜りを踏みしめる音に耳を傾けながら、花尾は人気のない道を進む。空がくすんだ色合いであるせいか、気分も憂鬱だ。花々は雨水を受けてどこか嬉しそうではあるのだけれど、生憎、花尾は雨水によって水分補給をすることのできる構造をしていないのだ。
ただでさえ人の少ない印象であったというのに、約束の場所に到着してしまうとその思いは強くなる。まるで、一人ぼっちになってしまったかのような。少女の姿はまだなかった。
座る人間もなく、ただひたすら雨に打たれているベンチには座る気になれなかった。待ち合わせの時間まではあともう少し。どこかへ身を任せるには世界が水に濡れてしまっていて、花尾はその中でぽつんと佇む異分子だった。いつかは一面の絨毯のようであった杜若の花は、散って緑色の部分が多くなってしまっていた。まだ咲いている花を数えた方が早いのかもしれないほどに。この雨を乗り越えることができるのは、どれだけの花であるのだろうか。
ぼんやりと立ち尽くしていた花尾は、雨音に紛れた足音に気が付くことができなかった。とん、と背中から抱きつかれ、勢いを殺すことができずによろめいてしまう。大方の予想はできているけれど、確かめるために振り向こうとした動きは犯人の言葉によって止められる。
「そのまま聞いてほしいんです」
その声は確かに件の少女のものだった。聞いたのは、初めて出会ったあの時だけ。特徴的な声であるわけでも無いのに、なぜだかそう確信した。ただ、雨の中を傘も差さずに歩いてきたのか少女の衣服や肌が濡れていること、そして声が記憶よりも少しだけ引くような気がしたことだけが気にかかる。
両腕を花尾の身体に回している以上、少女がその身一つで花尾に抱きついてくれていることは明白だった。本当は隣に並んだ方がやりやすいのだけれど、彼女が濡れないよう、花尾は己の傘を傾ける向きを調節した。どうなっているのかが見えないから本当にこれで良いのかと不安になるけれど、努力しただけ、許してほしい。回された腕が少し震えていることには気が付いていて、それに踏み込むことができるほど花尾は勇敢ではなかった。ただ傘を傾ける事だけが、花尾の精一杯だった。
「えっと、どうしたのかな」
「最後に、直接伝えたくて。でも、顔を見て言う勇気はないから」
だから、こちらを向かないで、と。その声もまた震えていることに気が付いたのに、柔らかな拘束が振り向くことを許してはくれなかった。
「あなたが私を見て『綺麗だね』と言ってくれたあの日から、ずっとあなたに会いたかった」
目前に広がっているのは、雨に打たれる杜若の姿。その殆どが散っているにもかかわらず、鮮やかな色が蘇る。花尾は記憶をたどる。手遅れになる前に、と。
「私を見つけてくれて、ありがとうございました」
記憶の先で揺れる、青みを帯びた薄紫の。
「好き、という感情をくれてありがとうございました」
抱きしめてやらなければ、と思った。緩い拘束など振り払って、自分を追いかけて来てくれた彼女を抱きしめてやらねば、と。花尾の中で全てが繋がった時、拘束は解かれる。しかし、それは決して喜ばしい形では無くて。
「……会いに来てくれて、ありがとう」
振り返った花尾は、そのまましゃがみ込む。濡れた土に横たわるのは、あの少女が身に纏っていた薄紫色。萎れてしまったその花弁を撫でながら、蘇るのはあの日のことだ。疲れ切った自分を癒してくれた、凛とした色。思わず零した言葉を吸い上げ、花が恋を知った日のこと。
とある大手コンビニエンスストアで店長として働いている花尾にとって、連休というものは一つの稼ぎ時ではあった。遠方にいる子どもが帰省するから、実家へ帰省したいから。休暇申請の理由欄には、帰省という単語が規則正しく並んでいる。数少ない働き手を何とかやり繰りし、どうしても埋めることのできなかった時間帯には自分自身が入る。そうやって店を回してきたご褒美として、ゴールデンウィークの最終日、その一日だけは完全にフリーな休日として確保するに至ったのである。
唯一の休みを家で過ごす一日としても良かった。どうせ、翌日からは再び仕事漬けの日々に舞い戻るのだ。しっかりと身体を休めるのもまた、休日の有意義な過ごし方であっただろう。しかし、花尾はその選択を敢えて思考の外へと追い出した。完全なる休養日。どうせならば普段は行くことのできない、少し遠くにある好きな場所へ向かいたい。身体の休息よりも心の休息を選んだのだ、と花尾は言い続けている。
その自然公園は、多種多様な植物が多く育てられている場所だった。人の手は殆ど入らず、自然そのまま、と言っても良い状態で栽培されている花々の姿は非常に生き生きとしたものであると花尾は思っている。自身の姓に「花」の字があるからというわけではないが、幼い頃から花尾は植物が大好きだった。植物図鑑は愛読書であったし、小学生の頃は花壇係を率先して希望、委員会でも栽培委員を希望して学校生活に文字通り彩りを添えてきた。今でも自宅の窓際には鉢植えが並べられていて、仕事に疲れて帰宅した花尾をあたたかく、そして優しく迎え入れてくれる「同居人」となっている。それにどれだけ救われた日々があったことだろうか。
ゴールデンウィーク最終日であるその日は、天候に恵まれた一日となった。自然公園を遠足がてら訪れる家族連れも多く、芝生広場は大いに賑わっていた。しかし、その喧騒も少し奥まった場所へ移れば届かなくなる。花尾の目当ての場所は、そんな奥まった場所の中でも最奥に位置していると言ってもあながち間違いではないだろう。擦れ違う人も少なく、穏やかな日差しと風を感じながらゆったりと時間を過ごすことができたのは嬉しい誤算だった。広場の様子を見て諦めていたのだが、どうせ心に休息を与えるのならば自分の好む最善の状態で、つまり、静かな空間でゆったりと花々を愛でたかったのだ。
メインとなる散歩道からいくつかの分岐を経て辿り着くその水辺には、杜若が群生している。その他にも数種類の植物が植えられているものの、この時期はやはり杜若だろう。花開き始めたばかりの青みがかった薄紫色が、艶やかな姿で凛と立っている。木陰に設置されているベンチに腰かけた花尾の他に、この場所に人の姿はない。瞼を下ろしていくら耳を澄ませても、芝生広場の騒々しさは届かない。この場所だけ、どこか別の場所へと切り取って置き直されたのではないかという錯覚に陥ってしまうほどに静かだった。
風の音、水の流れ、木々の葉が擦れ合う音、淡く漂う杜若の香。そして、自分を優しく労わってくれる「お疲れさま」という声。
何をするわけでもなく、花尾はベンチに座りながらそれらを満喫していた。接客業をしている反動なのか、時折、誰にも会わずに一人きりで全てをリセットしてしまいたくなる。そんな時にこの場所は最適だった。生活拠点となる家からは電車で一時間ほど。知り合いや常連客に会う心配もなく、大好きな存在に囲まれる。これほどにリラックスできる空間はそうそうない。
ふと、花尾の耳が足音を捉えた。靴裏がざりざりと土と擦れ合う音。誰かが、この静かな空間へと近付いてきている。一瞬だけ景色を見て、それで満足して踵を返すタイプの人間であってほしいと願った。このような場所にまで足を運ぶ人間に、それを求めても仕方のないことであろうとは薄々感じていたのだけれど。そして出会ったのが、花尾と同じように静かな空間を求めてやって来た一人の少女である。彼女は青みがかった紫色のような、不思議な色のワンピースを着ていた。ファッションのことには疎く美的感覚には自身が無いものの、その色を見て花尾は「杜若の精だ」なんてファンタジックな感想を抱いてしまったことを覚えている。
花尾の姿を確認した少女もまた、自分以外にこの場所を訪れる人間がいないと思っていたのだろう。随分と驚いた表情をし、一瞬だけ動きを止めた。そう、一瞬だけ。すぐに少女は動きを取り戻し、そしてどうしてだか花尾のすぐ傍にまで近付いてきたのだ。それほど広くはない場所だけれど、見ず知らずの人間の近くへわざわざ来なければ花々を観賞できないほどに狭いわけではないというのに、である。花尾の方をちらちらと見て、何か言いた気な少女の様子には気がついていた。気がついてはいたけれど、花尾には少女に声を掛けられる心当たりなど全くなかった。容姿だって、飛び抜けて良いものであったならば学生時代がどれだけ華々しかったことか。良く言って「人並み」でしかない自分に初対面の少女が何の用なのか、その場から動かずに待っていたことは花尾なりの優しさである。
結論から言ってしまうと、花尾は少女がおずおずと切り出した「お願い事」を聞きいれることとなった。それが、文通の約束である。便利なツールが各種揃ったこのご時世に文通なんて、という思いが無いわけではなかったが、だからこそ、彼女からの手紙は日常に彩りを添えてくれる良いスパイスとなったのだ。少女が何を思ってそれを切り出したのか、花尾には分からない。分からないけれど、恥ずかしそうに、しかし勇気を振り絞って話かけてくれたその心意気に流されてしまった。
手紙が実際に届くまでは、初対面の少女に住所と名前を伝えてしまったことを不安に思っていた。しかし、届いた手紙の文面や文字の雰囲気から要らぬ心配だったのだということを悟る。どこか緊張した様子で綴られている文字。そして、その文字が紡ぐのは可愛らしい少女の日常だ。私のことを知ってほしい、という思いはそこにない。ただ場所が余ってしまったからその空白を埋めるために選ばれる内容がそれというだけ。彼女の本題はいつだって一つ。――貴方のことが好きです、というシンプルなものだった。
申し訳ないことに、花尾には少女との出会いをゴールデンウィーク最終日のあの瞬間であったと認識している。だが、本当はもっと前に出会っていたらしい。少女はそれがいつのことなのかを曖昧に濁していたものだから、花尾がいくら思いだそうとしても記憶を上手く辿ることができない。もしかしたら本当は出会っていないのかもしれないけれど、彼女はずっと花尾のことを好いていてくれていたらしいのだから悪い気はしない。偶然の再会に、これを逃せばチャンスは無いと勢いで押してくれたらしかった。
あれをしてほしい、これをしてほしい、なんて要求は一切ない。強いて言うなら、返信をください。恋心を否定しないでください。それだけならば、と花尾は少女の願いを叶えてやろうと思う反面、どうすれば良いのかと持て余している部分もある。初めての手紙で熱烈な告白をされ、そして同時に書き添えられていたのは「恋人になってほしいと願うつもりはありません」の文字であった。気が楽になると同時に、本当にこれで良いのかという迷いもある。彼女の想いを早く断ち切ってやった方が良いのではないか。それを実行に移すことができないのは、花尾が状況に甘んじて決断を先延ばしにしているせいだ。
もう一度、少女と直接会う。
その約束が取り付けられたのは、手紙のやり取りが十回を超えた頃のことである。相手が学生であること、花尾自身、仕事の都合で時間が取れなかったこともあり、話だけはしながらもずるずると日程を決めることができずにいた。場所は、二人が初めて出会ったあの場所。もう少しで散ってしまう杜若を、二人で眺めながら話をしようと。
ある程度の予定がたってしまえば後は早い。それぞれが、予定が入らないようにと気を付けながらスケジュール調整をしていけば良いのだ。場所は決まった。日時も決まった。強いて言うならば当日の格好が決まらない。その程度。あと何日で、なんて子どもじみたカウントダウンはしなかったけれど、時折、指を折って数えていたことは秘密である。
花尾なりにその日を楽しみにしていたというのに、その日は生憎の雨模様となってしまった。天候ばかりはどうしようもなく、電話番号やメールアドレスなどを知っているわけでも無いから当日になって変更の連絡をすることもできない。来ないかもしれないな、と思いつつ、花尾は約束の場所へと足を運んだ。いつかの日と比べると、雨天であることもあって人気はかなり少ない。傘を雨粒が叩く音、水溜りを踏みしめる音に耳を傾けながら、花尾は人気のない道を進む。空がくすんだ色合いであるせいか、気分も憂鬱だ。花々は雨水を受けてどこか嬉しそうではあるのだけれど、生憎、花尾は雨水によって水分補給をすることのできる構造をしていないのだ。
ただでさえ人の少ない印象であったというのに、約束の場所に到着してしまうとその思いは強くなる。まるで、一人ぼっちになってしまったかのような。少女の姿はまだなかった。
座る人間もなく、ただひたすら雨に打たれているベンチには座る気になれなかった。待ち合わせの時間まではあともう少し。どこかへ身を任せるには世界が水に濡れてしまっていて、花尾はその中でぽつんと佇む異分子だった。いつかは一面の絨毯のようであった杜若の花は、散って緑色の部分が多くなってしまっていた。まだ咲いている花を数えた方が早いのかもしれないほどに。この雨を乗り越えることができるのは、どれだけの花であるのだろうか。
ぼんやりと立ち尽くしていた花尾は、雨音に紛れた足音に気が付くことができなかった。とん、と背中から抱きつかれ、勢いを殺すことができずによろめいてしまう。大方の予想はできているけれど、確かめるために振り向こうとした動きは犯人の言葉によって止められる。
「そのまま聞いてほしいんです」
その声は確かに件の少女のものだった。聞いたのは、初めて出会ったあの時だけ。特徴的な声であるわけでも無いのに、なぜだかそう確信した。ただ、雨の中を傘も差さずに歩いてきたのか少女の衣服や肌が濡れていること、そして声が記憶よりも少しだけ引くような気がしたことだけが気にかかる。
両腕を花尾の身体に回している以上、少女がその身一つで花尾に抱きついてくれていることは明白だった。本当は隣に並んだ方がやりやすいのだけれど、彼女が濡れないよう、花尾は己の傘を傾ける向きを調節した。どうなっているのかが見えないから本当にこれで良いのかと不安になるけれど、努力しただけ、許してほしい。回された腕が少し震えていることには気が付いていて、それに踏み込むことができるほど花尾は勇敢ではなかった。ただ傘を傾ける事だけが、花尾の精一杯だった。
「えっと、どうしたのかな」
「最後に、直接伝えたくて。でも、顔を見て言う勇気はないから」
だから、こちらを向かないで、と。その声もまた震えていることに気が付いたのに、柔らかな拘束が振り向くことを許してはくれなかった。
「あなたが私を見て『綺麗だね』と言ってくれたあの日から、ずっとあなたに会いたかった」
目前に広がっているのは、雨に打たれる杜若の姿。その殆どが散っているにもかかわらず、鮮やかな色が蘇る。花尾は記憶をたどる。手遅れになる前に、と。
「私を見つけてくれて、ありがとうございました」
記憶の先で揺れる、青みを帯びた薄紫の。
「好き、という感情をくれてありがとうございました」
抱きしめてやらなければ、と思った。緩い拘束など振り払って、自分を追いかけて来てくれた彼女を抱きしめてやらねば、と。花尾の中で全てが繋がった時、拘束は解かれる。しかし、それは決して喜ばしい形では無くて。
「……会いに来てくれて、ありがとう」
振り返った花尾は、そのまましゃがみ込む。濡れた土に横たわるのは、あの少女が身に纏っていた薄紫色。萎れてしまったその花弁を撫でながら、蘇るのはあの日のことだ。疲れ切った自分を癒してくれた、凛とした色。思わず零した言葉を吸い上げ、花が恋を知った日のこと。