槻倉荘
大家利久という字面だけを見るとどうしても男であると勘違いされてしまうのだが、読みは「としひさ」ではなく「りく」であり、とある女性に付けられた名前である。どうしてそのようなややこしい名前が彼女に与えられたのかというと、それは彼女が生まれる前にまで遡って説明をしなければならない。
利久には五歳年上の兄がいる。兄の名前は利生 。利発な人間に育つようにという願いを込められた名前の通り、利生は幼い頃より聡明な子どもであった。加えて近所でも評判になるほどの愛くるしい顔立ちをしていたものだから、時折、厄介な出来事に巻き込まれることもあったほどである。親が少し目を離した隙に誘拐されそうになったことは両手の指では足りないほどであるし、親戚が勝手に芸能事務所へ写真を送ったこともある。このように説明をしていくと、利生という少年がいかに恵まれた人生を歩んできたかという自慢話になってしまいそうだ。しかし、世の中は上手く釣り合いが取れるようにできている。
いつ頃、誰が言い出したのかは分からないが利生少年にはついて回る噂話があった。それはシンプルに「大家利生に関わると不幸になる」というもので、心無い人々が適当なことを口にしているだけのこと――と言い切ることができればよかった。その噂話がある程度は事実であることを、利生自身は物心ついたころからはっきりと自覚していたものだから厄介だった。この噂話にまつわる諸々の事情については別の機会に話すとして、論点を妹、利久の命名へと戻すこととする。
利生に関わると不幸になる、という表現は言い過ぎたものであるものの、大なり小なり、良からぬことが起こるという点において間違いはない。そして、その影響を最も受けた人間こそ母親であった。共に過ごす時間が長いのだから仕方のないことではあるのだが、当時、身重であった母親にとってそれは看過できない問題である。もたらされる「不幸」の程度はさほど大きくない。しかし、何もない場所で躓くことが一日の内に何度もあるというだけで、新たな命を抱えた母親にとっては大きなストレスとなっていた。それこそ、手当たり次第に近所の神社仏閣へとお参りを行い、神にも縋りながら出産予定日を迎えるほどに。その道中にも石階段が崩れたり、事故現場に遭遇したり、ひったくりに遭いかけたり、大小様々な「不幸」に見舞われていたことをここに記しておく。
こうした「不幸」を乗り越え、何とか無事に産声を上げた娘を前にして母親は考えた。この子の兄は、不幸をまき散らしてしまう厄介な体質を持っている。いつの日か、それに巻き込まれて命の危険に晒されてしまうことがあるかもしれない。或いは、本人がその体質を持って生まれてくるかもしれない。そうならないことが理想だけれど、万が一、ということもある。万が一、億が一に不幸の連鎖へと巻き込まれてしまうことのないように、少しでも彼女を守ってくれる「何か」が欲しい。そう考えた母親が辿り着いたのが、名前だった。常にその人に寄り添うそれに、願いを込めて。かつては異性の名を付けることで長寿を願ったこともあるという。それに倣い、久しく生きてくれるように、と。故に、彼女の名前は利久 となったのだ。
さて、母親は娘が息子のような「不幸体質」であったとしても、巻き込まれたとしても守ってくれる「何か」の存在を欲していた。母親が考え抜いて自ら与えたのは名前という一つの「呪」であったのだけれど、その願いに応えた存在が他にもあったことは嬉しい誤算であった。手当たり次第に廻った神社仏閣。その中には、もう他に参拝する人間のいそうにない朽ちかけた祠も含まれていた。人々に忘れ去られ、深い眠りの中にいた蛟が、母親の願いに反応して鎌首を上げたのである。
蛟、という存在のことを説明するならば、龍になる目前の蛇である、ということが最も簡潔だろうか。水神として崇め奉られたかつての神は、人々の信仰心の薄れによって弱り果てていた。娘を守る存在が欲しい、という熱心な母親の願いによって呼び起こされた蛟は、人知れず、その願いを叶えることを決めた。このままでは、どうせ力も尽き消滅してしまうのも時間の問題。なれば、ようやく届いたその願いを叶えてやろうではないか、と。母親には娘の守護に小さな神が手を貸してくれたことなど知る由もなかったのだけれど、時折、肌に浮かび上がる蛇腹模様から何らかの存在を感じ取っているようだった。
「本日もありがとうございます。明日もよろしくお願いいたします」
眠る前には神棚へ手を合わせることが母親の習慣となって二十数年。名付けが功を奏したのか、はたまた蛟による助力の賜物なのか、利久自身は目立った不幸に見舞われることなく無事に成長することができた。離れた地で一人暮らしをする娘の為に母親が祈り続けていることは、娘に憑いて回っている蛟自身も薄らと感じ取ることができている。そもそも、母親の願いによって揺り起こされたのだ。きっかけとなった女性の声を、どうして聞き逃すことができようか。
柔らかな祈りの温もりを感じ取りながら、蛟はゆるりと利久の首元で蜷局を巻く。いつの日にか訪れる最期の日には、必ずや、この娘と共に天へと駆け上がり龍となるのだと夢を見ながら。
利久には五歳年上の兄がいる。兄の名前は
いつ頃、誰が言い出したのかは分からないが利生少年にはついて回る噂話があった。それはシンプルに「大家利生に関わると不幸になる」というもので、心無い人々が適当なことを口にしているだけのこと――と言い切ることができればよかった。その噂話がある程度は事実であることを、利生自身は物心ついたころからはっきりと自覚していたものだから厄介だった。この噂話にまつわる諸々の事情については別の機会に話すとして、論点を妹、利久の命名へと戻すこととする。
利生に関わると不幸になる、という表現は言い過ぎたものであるものの、大なり小なり、良からぬことが起こるという点において間違いはない。そして、その影響を最も受けた人間こそ母親であった。共に過ごす時間が長いのだから仕方のないことではあるのだが、当時、身重であった母親にとってそれは看過できない問題である。もたらされる「不幸」の程度はさほど大きくない。しかし、何もない場所で躓くことが一日の内に何度もあるというだけで、新たな命を抱えた母親にとっては大きなストレスとなっていた。それこそ、手当たり次第に近所の神社仏閣へとお参りを行い、神にも縋りながら出産予定日を迎えるほどに。その道中にも石階段が崩れたり、事故現場に遭遇したり、ひったくりに遭いかけたり、大小様々な「不幸」に見舞われていたことをここに記しておく。
こうした「不幸」を乗り越え、何とか無事に産声を上げた娘を前にして母親は考えた。この子の兄は、不幸をまき散らしてしまう厄介な体質を持っている。いつの日か、それに巻き込まれて命の危険に晒されてしまうことがあるかもしれない。或いは、本人がその体質を持って生まれてくるかもしれない。そうならないことが理想だけれど、万が一、ということもある。万が一、億が一に不幸の連鎖へと巻き込まれてしまうことのないように、少しでも彼女を守ってくれる「何か」が欲しい。そう考えた母親が辿り着いたのが、名前だった。常にその人に寄り添うそれに、願いを込めて。かつては異性の名を付けることで長寿を願ったこともあるという。それに倣い、久しく生きてくれるように、と。故に、彼女の名前は
さて、母親は娘が息子のような「不幸体質」であったとしても、巻き込まれたとしても守ってくれる「何か」の存在を欲していた。母親が考え抜いて自ら与えたのは名前という一つの「呪」であったのだけれど、その願いに応えた存在が他にもあったことは嬉しい誤算であった。手当たり次第に廻った神社仏閣。その中には、もう他に参拝する人間のいそうにない朽ちかけた祠も含まれていた。人々に忘れ去られ、深い眠りの中にいた蛟が、母親の願いに反応して鎌首を上げたのである。
蛟、という存在のことを説明するならば、龍になる目前の蛇である、ということが最も簡潔だろうか。水神として崇め奉られたかつての神は、人々の信仰心の薄れによって弱り果てていた。娘を守る存在が欲しい、という熱心な母親の願いによって呼び起こされた蛟は、人知れず、その願いを叶えることを決めた。このままでは、どうせ力も尽き消滅してしまうのも時間の問題。なれば、ようやく届いたその願いを叶えてやろうではないか、と。母親には娘の守護に小さな神が手を貸してくれたことなど知る由もなかったのだけれど、時折、肌に浮かび上がる蛇腹模様から何らかの存在を感じ取っているようだった。
「本日もありがとうございます。明日もよろしくお願いいたします」
眠る前には神棚へ手を合わせることが母親の習慣となって二十数年。名付けが功を奏したのか、はたまた蛟による助力の賜物なのか、利久自身は目立った不幸に見舞われることなく無事に成長することができた。離れた地で一人暮らしをする娘の為に母親が祈り続けていることは、娘に憑いて回っている蛟自身も薄らと感じ取ることができている。そもそも、母親の願いによって揺り起こされたのだ。きっかけとなった女性の声を、どうして聞き逃すことができようか。
柔らかな祈りの温もりを感じ取りながら、蛟はゆるりと利久の首元で蜷局を巻く。いつの日にか訪れる最期の日には、必ずや、この娘と共に天へと駆け上がり龍となるのだと夢を見ながら。