あいのはなたば。
まだ薄暗い部屋で、ふと意識が浮上する。身体は未だ眠りの中にあって、気を抜くとすぐにでも意識を引きずり込もうとする。抗うことなく二度寝をしても良いのだけれど、時間によってはそれをしてしまうと余計に身体が重くなってしまう。
(今、何時だ)
普段の起床時間まで三十分あれば、もう一度寝よう。そうでなければ、仕方がない。今では携帯端末のアプリで目覚ましを掛けているのだけれど、どうしてだか「目覚まし時計」も枕元に置いてしまう。普段は隅に追いやられているそれも、ただ単にその瞬間の時間を確認しようとする時には活躍する。
瞼を下ろしたまま、右手だけがのろのろと蠢いている。かつり、と爪先が音を立てた。
「……あと十五分は寝れるけど」
小さな声が、耳に届く。誰の声だったかと記憶をたどり、つい最近になって転がり込んできた同居人の存在を思い出した。しばらく泊めてね、と強引に部屋へ上がり込んできた彼の声が、想像よりもずっと遠い。
普段の起床時間まであと十五分ということは起きなければならないと、先程決めてしまった。穏やかな微睡みを名残惜しく思いながら、薄らと瞼を上げる。薄暗い部屋、そのカーテンの向こう側に人影がひとつ。目覚まし時計の捉えられた音に反応して顔を覗かせたものの、すぐに興味は外へと戻されてしまったらしい。
九月も半ばになると、朝夕の冷え込みが増してくる。そろそろ衣替えをとは思っているのだが、時間が取れずに夏物を着回しているのが現状だ。さすがに何か一枚を羽織るということはしているのだが、それで対応できてしまっていることが腰を重くさせている一因だろう。薄っぺらいタオルケットでも、しっかりと保温の役割を果たしている。覚悟を決め、起こした身体から数ミリの防具をはぎ取った瞬間に深呼吸。すうっと通り抜けていく冷めた空気は、この時期独特のものだろう。
すぐ隣に敷いていた布団は、使用されたにしては随分と綺麗な状態のままだ。またか、とは思うが口にはしない。堂々巡りになってしまうことは分かりきっていて、比較的良い目覚めの瞬間を迎えたばかりの今は余計な諍いを避けたかった。
「おはよう」
本当に言いたい言葉は胸の奥底に沈めてしまって、ただ挨拶だけを投げかけてやる。おはよう、という言葉だけは返ってきたものの意識は相変わらずカーテンの向こう側、窓の向こう側にあるらしい。
彼が何を気にしているのかは知っている。それでも、それについて議論を交わすとなるとこれまた平行線になってしまうので、お互いに気がついていないふりを続けているのだということも知っている。
「綺麗な子、摘んできて」
「えー、この時間、寒いんだけど」
「だからお願いしてる」
「酷い人」
ベランダに出している鉢植えの中から、綺麗に咲き誇っている子を摘みとっておいで。
寝起きの身体を外気に晒すことが嫌で押し付けた、ということも嘘ではない。それは伝わっているのだろう。けれどもそれだけではないのだということも伝わっているから、彼が口にした「酷い」という言葉は、随分と言葉が削ぎ落された結果として残ったシンプルなものであるということも事実なのだろう。
――俺を食べてくれないくせに、酷い人。
花を愛し、花に愛され、花を主食とする男に食べられたいと願った花。違いは人の姿をとることができるかできないか、ということで、ただ言葉を交わしたいという思いを形にしてしまったせいで「同居人」として転がり込むこととなった竜胆の彼。苛立ちと悔しさを抱えたままにベランダへと出た彼は、自らに許されなかった願いを叶える花々に嫉妬しつつも役目を果たしてくれるのだろう。彼が選び取ってくる花々は、いつだって美味しかった。最高の、最良の状態で食べられる瞬間を迎えた花を連れてきてくれた。
本性は人間ではないのだから、人間らしいことは必要ない。光と水と程よい温度、それから優しさと愛さえあればそれで良いと。人間らしい暮らしを楽しむ仲間がいることを知っていながら、彼はことあるごとに口にする。全ては己を食べてほしいから。人間ではないのだから、遠慮をしなくて良いのだと。だから、布団を敷いても横にはならず、窓の外を見て夜を過ごす。残された時間を数えながら、夜明けの空を目に焼き付けるのだと。
狭いベランダで花を選び摘み取るだけなのに、随分と時間がかかっている。彼が己を手折ろうかと悩み、そして諦めるのに必要な時間だ。食べられたいという欲と、触れて言葉を交わしたいという欲と。
何年か前までは、一夜か二夜を過ごしただけで満足をしてしまい前者に天秤が傾いていた。勿論、食べてやることをせずに花を埋め直して次の年を迎えるものだから、どうして食べてくれなかったのか、という怒りを挨拶として同居生活が始まることとなる。それが少しずつ共に過ごす時間が長くなり、こうして手折るか手折らないかを悩む時間がうまれるようになった。ここまで、長かったような短かったような。
(あともう少し)
理想は、迷わずに他の花を差し出してくれること。彼が食べられることを至高とはせず、人としての生き方を楽しんでくれること。折角、人としての器を手に入れたのだから楽しまなければ勿体ない。
ガラガラ、という音に思考を中断する。いらない、と言うのだろうけれど、冷え切った身体を温めるために白湯を作ろう。答えは分かり切っているのだけれど、今日一日をどう過ごすのかを尋ねてみよう。寝惚けていた頭も、ようやく動き始めてきた。
彼が掻き分けたカーテンの隙間から、朝日が差し込んできている。
(今、何時だ)
普段の起床時間まで三十分あれば、もう一度寝よう。そうでなければ、仕方がない。今では携帯端末のアプリで目覚ましを掛けているのだけれど、どうしてだか「目覚まし時計」も枕元に置いてしまう。普段は隅に追いやられているそれも、ただ単にその瞬間の時間を確認しようとする時には活躍する。
瞼を下ろしたまま、右手だけがのろのろと蠢いている。かつり、と爪先が音を立てた。
「……あと十五分は寝れるけど」
小さな声が、耳に届く。誰の声だったかと記憶をたどり、つい最近になって転がり込んできた同居人の存在を思い出した。しばらく泊めてね、と強引に部屋へ上がり込んできた彼の声が、想像よりもずっと遠い。
普段の起床時間まであと十五分ということは起きなければならないと、先程決めてしまった。穏やかな微睡みを名残惜しく思いながら、薄らと瞼を上げる。薄暗い部屋、そのカーテンの向こう側に人影がひとつ。目覚まし時計の捉えられた音に反応して顔を覗かせたものの、すぐに興味は外へと戻されてしまったらしい。
九月も半ばになると、朝夕の冷え込みが増してくる。そろそろ衣替えをとは思っているのだが、時間が取れずに夏物を着回しているのが現状だ。さすがに何か一枚を羽織るということはしているのだが、それで対応できてしまっていることが腰を重くさせている一因だろう。薄っぺらいタオルケットでも、しっかりと保温の役割を果たしている。覚悟を決め、起こした身体から数ミリの防具をはぎ取った瞬間に深呼吸。すうっと通り抜けていく冷めた空気は、この時期独特のものだろう。
すぐ隣に敷いていた布団は、使用されたにしては随分と綺麗な状態のままだ。またか、とは思うが口にはしない。堂々巡りになってしまうことは分かりきっていて、比較的良い目覚めの瞬間を迎えたばかりの今は余計な諍いを避けたかった。
「おはよう」
本当に言いたい言葉は胸の奥底に沈めてしまって、ただ挨拶だけを投げかけてやる。おはよう、という言葉だけは返ってきたものの意識は相変わらずカーテンの向こう側、窓の向こう側にあるらしい。
彼が何を気にしているのかは知っている。それでも、それについて議論を交わすとなるとこれまた平行線になってしまうので、お互いに気がついていないふりを続けているのだということも知っている。
「綺麗な子、摘んできて」
「えー、この時間、寒いんだけど」
「だからお願いしてる」
「酷い人」
ベランダに出している鉢植えの中から、綺麗に咲き誇っている子を摘みとっておいで。
寝起きの身体を外気に晒すことが嫌で押し付けた、ということも嘘ではない。それは伝わっているのだろう。けれどもそれだけではないのだということも伝わっているから、彼が口にした「酷い」という言葉は、随分と言葉が削ぎ落された結果として残ったシンプルなものであるということも事実なのだろう。
――俺を食べてくれないくせに、酷い人。
花を愛し、花に愛され、花を主食とする男に食べられたいと願った花。違いは人の姿をとることができるかできないか、ということで、ただ言葉を交わしたいという思いを形にしてしまったせいで「同居人」として転がり込むこととなった竜胆の彼。苛立ちと悔しさを抱えたままにベランダへと出た彼は、自らに許されなかった願いを叶える花々に嫉妬しつつも役目を果たしてくれるのだろう。彼が選び取ってくる花々は、いつだって美味しかった。最高の、最良の状態で食べられる瞬間を迎えた花を連れてきてくれた。
本性は人間ではないのだから、人間らしいことは必要ない。光と水と程よい温度、それから優しさと愛さえあればそれで良いと。人間らしい暮らしを楽しむ仲間がいることを知っていながら、彼はことあるごとに口にする。全ては己を食べてほしいから。人間ではないのだから、遠慮をしなくて良いのだと。だから、布団を敷いても横にはならず、窓の外を見て夜を過ごす。残された時間を数えながら、夜明けの空を目に焼き付けるのだと。
狭いベランダで花を選び摘み取るだけなのに、随分と時間がかかっている。彼が己を手折ろうかと悩み、そして諦めるのに必要な時間だ。食べられたいという欲と、触れて言葉を交わしたいという欲と。
何年か前までは、一夜か二夜を過ごしただけで満足をしてしまい前者に天秤が傾いていた。勿論、食べてやることをせずに花を埋め直して次の年を迎えるものだから、どうして食べてくれなかったのか、という怒りを挨拶として同居生活が始まることとなる。それが少しずつ共に過ごす時間が長くなり、こうして手折るか手折らないかを悩む時間がうまれるようになった。ここまで、長かったような短かったような。
(あともう少し)
理想は、迷わずに他の花を差し出してくれること。彼が食べられることを至高とはせず、人としての生き方を楽しんでくれること。折角、人としての器を手に入れたのだから楽しまなければ勿体ない。
ガラガラ、という音に思考を中断する。いらない、と言うのだろうけれど、冷え切った身体を温めるために白湯を作ろう。答えは分かり切っているのだけれど、今日一日をどう過ごすのかを尋ねてみよう。寝惚けていた頭も、ようやく動き始めてきた。
彼が掻き分けたカーテンの隙間から、朝日が差し込んできている。