おにごっこ
とある森の奥深くに、村の人々から仲間はずれにされている少年が住んでいました。物心のついた頃にこの森へと連れてこられてから、彼は一人でした。外へ出ようとしても、森の外れまで来たところで足が止まってしまいます。だから、出ることができません。食事は毎日、きまった場所に届けられています。けれど、誰が届けてくれるのか。どうして自分は一人でここにいるのか。それを彼は知りませんでした。
そして、ある日、ふと思ったのです。
食事の届けられる場所で待っていれば、人に会えるのではないか。
そうすれば、どうしてここにいなければならないのかが分かるのではないか。
そう思った彼は、いつもより早い時間に、毎日食事の置かれている森の入口へと向かい、木の上に登って人が来るのを待ちました。葉の茂っている場所なら、下からは姿が見えないでしょうから。
しばらくして、誰かが歩いてくる音がしてきました。葉の間からそちらを見れば、それは、一人の少女でした。いつもと同じ場所に持ってきた食事を置くと、少女は元来た道を帰ろうとしました。少年は、一瞬だけ迷いました。このまま少女に姿を見せてもいいのだろうか、と。
それでも、少女が一歩を踏み出した時に心は決まりました。
「待って」
突然の声に、少女は立ち止まりました。声はどこから聞こえてきたのだろうかと、辺りを見渡しています。もう、後戻りはできませんでした。少年はゆっくりと木から下りて行き、少女の前に姿を現しました。
少女はすぐに顔色を変えて地面に膝と手をつき、そのままじっと下を見据えました。
「ねぇ、どうしたの?」
少年の質問にも、答えようとしません。ただただ震えるばかりの少女に、彼は困ってしまいました。
「何もしないから、顔をあげてよ」
何度も繰り返し言うと、ようやく少女は少しだけ顔をあげました。少年はかがみこんで、目線を近づけます。
「何が怖いのか、教えてよ」
相手が怖がらないようにと、出来るだけ優しい声を意識して問いかけます。少女は答えることをためらっているようでしたが、ポツリと言いました。
「鬼」
「鬼?」
それは一体何なのだろう。
初めて聞く単語に、少年は戸惑います。ただ、少女の怯えている様子から、それはとても怖いものだと思いました。
「それは、どこにいるの?」
少女は少年を見詰めました。
「あなたは、鬼じゃないの?」
それが何なのか、少年には分かりません。素直にそう伝えると、少女は困ってしまったようでした。
「私は、この森には怖い鬼が住んでいるって聞いて育った。鬼が人――私達村人を襲わないように、毎日捧げものをしないとだめだって」
「それが捧げもの?」
少女の持ってきた食事を指差せば、彼女は頷きます。今度は少年が困る番でした。
「それを食べていたのは僕だし、僕以外にこの森にいるのは動物だけだ。でも、僕がその鬼なのかどうかは分からない」
鬼がどんな姿をしているのかが分からない以上、自分が鬼なのか、そうでないのかを判断することは出来ない。
本当に危害を加えるつもりが無いと分かったのか、少女は普通に座りなおしました。少年も、その隣に腰をおろします。
「そういえば、どうして逃げなかったの?」
恐ろしいと言われている鬼。その姿を見たと思ったのなら、どうして逃げなかったのか。
そう問えば、少女は下を向いて静かにその答えを呟きました。
「鬼は強い。だから、もしも見つかって食べられてしまいそうになったのなら、村へ逃げるのではなくその身を捧げなければならない」
「どうして」
「村に逃げると、たくさんの人がいる。たくさんの人を見せることで、鬼が人を食べたくなるかもしれない。そうなると、私達には抵抗するだけの力が無いから」
犠牲になるのは一人で済むように。少女はそう締めくくりました。
その後しばらくの間は二人とも口をつぐんでいましたが、その沈黙を破ったのは少女でした。
「私にもあなたが鬼なのかどうかは分からない。でも、見た感じは私達と変わらないし、あなたは鬼じゃないと思うの」
「でも、ここから出るなと言われたよ。それだけはずっと覚えているんだ。どうしてなのか分からないけれど」
もしかしたら、自分は鬼なのかもしれない。少女らを食べてしまう、恐ろしい鬼なのかもしれない。俯いてしまった少年に、少女は自分がされたように優しく語りかけます。
「本当に鬼だったら、私はもう食べられているじゃない。だから、あなたは人間。他の誰が何と言おうとも、あ なたは私と同じ存在」
言いきった少女には、そう言いきれるだけの確かな証拠があるわけではありませんでした。少年にもそれは分かっていましたが、その言葉を信じることにしました。久しぶりの会話です。久しぶりの対話です。例え間違っていたとしても、今は関係ないと思えました。少女の言葉は、自分の存在を肯定してくれるものだったから。
少女は鈴と名乗りました。ところが、少年には名前がありません。昔はあったのでしょうが、呼ばれていたころの記憶は薄れ、もう名前を思い出すことが出来ません。そんな少年に、鈴は名前をくれました。
「よう?」
「そう。あなたの名前は陽」
理由は簡単です。初めて会った時、何故かとても落ち着いて、あたたかい気持ちになれたからでした。
鈴によると、食事は村の神事を司っている彼女の一族が用意をして森へ運ぶというしきたりだとのこと。森に住むのは鬼だということなので、不思議な力があると言われた有力者の末裔である彼女の一族に、その役目が与えられているのでした。
鈴は女ですし、兄が家を継ぎます。だから、一族の伝統も兄は詳しく伝授されますが、鈴自身には大まかな内容だけです。彼女の主な仕事は「森の鬼への捧げもの」なので、二人は多くの時間を共有するようになりました。
木々の葉が色付き、風が少し冷たくなってきた頃。陽はずっと疑問に思っていたことを鈴に尋ねてみることにしました。
「ねぇ鈴。この季節になると、村の方がとても騒がしくなるよね。どうしてなの?」
「祭りがあるからよ」
年に一度、村にある神社で祀っている神様へ、村の安全を祈願して祭りを行っているそうです。
「祭りでは、村で採れた作物を子供に渡して、神様に奉納する儀式があるの。私もその準備を手伝わないといけないから、しばらくここで話すことは出来ないわ」
儀式で子供の持つ作物は、鈴の一族の女が織った布で包むのがしきたりだそうです。鈴も、毎年のように作物を包む作業を手伝うつもりでした。
「僕も手伝うよ」
自分でも驚くくらい、自然にその言葉が出ました。
祭りの準備にどれだけかかるのか分からないけれど、その間、森の奥深くに閉じこもり、また一人で過ごすのは嫌でした。木々の間を通る風に打たれ、その風に舞う落ち葉を眺めるだけのさみしい日々。誰かと一緒にいることの楽しさを知ってしまった今では、もう戻りたくはありませんでした。
鈴は少し悩んでいましたが、静かに首を振りました。
「準備は屋敷でやるの。考えてみたけれど、抜け出すのは無理そうね。だから、ごめんなさい」
それなら仕方ない。陽はそう言いましたが、内心ではさみしくてたまりません。けれど、それを言うと鈴を困らせてしまうので、口に出すことはありませんでした。
陽がさみしいと感じているのと同じで、鈴もさみしさを感じていました。村にいる同年代の子供は、鈴の家系が特別なために、自然に接してはくれません。どこかぎこちなく、互いの間に溝があるようでした。
相手の姿をしっかりと見ることは出来る。それでも、近づくことが出来なくなる、深い溝が。
鈴には飛び越え方がわかりません。だから、鈴にとって村の子供たちは、近くにいながらどこか遠い存在でした。けれど、陽は違います。鈴の家系のことなど何も知らず、初めから普通に接してくれました。互いの間に溝を作ろうとしたのは鈴の方でしたが、その溝を陽はなんなく飛び越えてきました。陽にとっての鈴がそうであるように、鈴にとっても陽は初めてできた「友達」なのです。
それからは二人で他愛もない話をして、鈴がもう帰らなければならなくなった頃。陽はぽつりと言いました。
「僕も、祭りに行けたらいいのに」
そう言わずにはいられませんでした。
騒がしくなる村の方が気になりながら、森から出てはいけないという言葉が体を縛る。村から聞こえてくる楽しそうな音楽は、陽にとっては空しい音楽でしかありません。そんな日は、小屋に閉じこもって音が聞こえないようにじっと縮こまって過ごしていました。毛布として使っている布を頭から被って耳を押さえ、それでもかすかに聞こえてくる音に泣きたくなりながら。
けれど、今祭りの存在を知り、その話を聞いているうちに行きたくてたまらなくなりました。森から出ることが出来ないとわかってはいても。
鈴は再び悩みましたが、今度は笑顔で頷きました。
「だったら来ればいいじゃない。きっとわからないわ」
鬼へ食事を持って来たり、着物を届けたりするのが仕事だとは聞いています。けれど、鬼の監視をしているとは聞いたことがありません。だから、陽が森から出て祭りに来ても、きっと誰にも気付かれないでしょう。
小さな村のことだから、誰が住んでいるのかはお互いに知っています。突然陽が祭りに来ても怪しまれないよう、最近知り合った、隣の村の子供だということにしました。陽の住む森を通った先にある小さな村。森に迷い込んだ末、こちら側に来たところを鈴と知り合った、ということにしたのです。
祭りが始まるまで、まだまだ日数があります。それでも陽は楽しみで仕方がなく、眠れない日が続きました。木の上に登り、祭りの準備をしている村が見えないか、眺めてみる夜もありました。初めての祭りです。話に聞くのと実際に見るのとでは全然様子が違うでしょう。森からは村の様子は見えませんが、胸を躍らせ、早く祭りが来ればいいと願いながら眠りにつくのでした。
そして、ある日、ふと思ったのです。
食事の届けられる場所で待っていれば、人に会えるのではないか。
そうすれば、どうしてここにいなければならないのかが分かるのではないか。
そう思った彼は、いつもより早い時間に、毎日食事の置かれている森の入口へと向かい、木の上に登って人が来るのを待ちました。葉の茂っている場所なら、下からは姿が見えないでしょうから。
しばらくして、誰かが歩いてくる音がしてきました。葉の間からそちらを見れば、それは、一人の少女でした。いつもと同じ場所に持ってきた食事を置くと、少女は元来た道を帰ろうとしました。少年は、一瞬だけ迷いました。このまま少女に姿を見せてもいいのだろうか、と。
それでも、少女が一歩を踏み出した時に心は決まりました。
「待って」
突然の声に、少女は立ち止まりました。声はどこから聞こえてきたのだろうかと、辺りを見渡しています。もう、後戻りはできませんでした。少年はゆっくりと木から下りて行き、少女の前に姿を現しました。
少女はすぐに顔色を変えて地面に膝と手をつき、そのままじっと下を見据えました。
「ねぇ、どうしたの?」
少年の質問にも、答えようとしません。ただただ震えるばかりの少女に、彼は困ってしまいました。
「何もしないから、顔をあげてよ」
何度も繰り返し言うと、ようやく少女は少しだけ顔をあげました。少年はかがみこんで、目線を近づけます。
「何が怖いのか、教えてよ」
相手が怖がらないようにと、出来るだけ優しい声を意識して問いかけます。少女は答えることをためらっているようでしたが、ポツリと言いました。
「鬼」
「鬼?」
それは一体何なのだろう。
初めて聞く単語に、少年は戸惑います。ただ、少女の怯えている様子から、それはとても怖いものだと思いました。
「それは、どこにいるの?」
少女は少年を見詰めました。
「あなたは、鬼じゃないの?」
それが何なのか、少年には分かりません。素直にそう伝えると、少女は困ってしまったようでした。
「私は、この森には怖い鬼が住んでいるって聞いて育った。鬼が人――私達村人を襲わないように、毎日捧げものをしないとだめだって」
「それが捧げもの?」
少女の持ってきた食事を指差せば、彼女は頷きます。今度は少年が困る番でした。
「それを食べていたのは僕だし、僕以外にこの森にいるのは動物だけだ。でも、僕がその鬼なのかどうかは分からない」
鬼がどんな姿をしているのかが分からない以上、自分が鬼なのか、そうでないのかを判断することは出来ない。
本当に危害を加えるつもりが無いと分かったのか、少女は普通に座りなおしました。少年も、その隣に腰をおろします。
「そういえば、どうして逃げなかったの?」
恐ろしいと言われている鬼。その姿を見たと思ったのなら、どうして逃げなかったのか。
そう問えば、少女は下を向いて静かにその答えを呟きました。
「鬼は強い。だから、もしも見つかって食べられてしまいそうになったのなら、村へ逃げるのではなくその身を捧げなければならない」
「どうして」
「村に逃げると、たくさんの人がいる。たくさんの人を見せることで、鬼が人を食べたくなるかもしれない。そうなると、私達には抵抗するだけの力が無いから」
犠牲になるのは一人で済むように。少女はそう締めくくりました。
その後しばらくの間は二人とも口をつぐんでいましたが、その沈黙を破ったのは少女でした。
「私にもあなたが鬼なのかどうかは分からない。でも、見た感じは私達と変わらないし、あなたは鬼じゃないと思うの」
「でも、ここから出るなと言われたよ。それだけはずっと覚えているんだ。どうしてなのか分からないけれど」
もしかしたら、自分は鬼なのかもしれない。少女らを食べてしまう、恐ろしい鬼なのかもしれない。俯いてしまった少年に、少女は自分がされたように優しく語りかけます。
「本当に鬼だったら、私はもう食べられているじゃない。だから、あなたは人間。他の誰が何と言おうとも、あ なたは私と同じ存在」
言いきった少女には、そう言いきれるだけの確かな証拠があるわけではありませんでした。少年にもそれは分かっていましたが、その言葉を信じることにしました。久しぶりの会話です。久しぶりの対話です。例え間違っていたとしても、今は関係ないと思えました。少女の言葉は、自分の存在を肯定してくれるものだったから。
少女は鈴と名乗りました。ところが、少年には名前がありません。昔はあったのでしょうが、呼ばれていたころの記憶は薄れ、もう名前を思い出すことが出来ません。そんな少年に、鈴は名前をくれました。
「よう?」
「そう。あなたの名前は陽」
理由は簡単です。初めて会った時、何故かとても落ち着いて、あたたかい気持ちになれたからでした。
鈴によると、食事は村の神事を司っている彼女の一族が用意をして森へ運ぶというしきたりだとのこと。森に住むのは鬼だということなので、不思議な力があると言われた有力者の末裔である彼女の一族に、その役目が与えられているのでした。
鈴は女ですし、兄が家を継ぎます。だから、一族の伝統も兄は詳しく伝授されますが、鈴自身には大まかな内容だけです。彼女の主な仕事は「森の鬼への捧げもの」なので、二人は多くの時間を共有するようになりました。
木々の葉が色付き、風が少し冷たくなってきた頃。陽はずっと疑問に思っていたことを鈴に尋ねてみることにしました。
「ねぇ鈴。この季節になると、村の方がとても騒がしくなるよね。どうしてなの?」
「祭りがあるからよ」
年に一度、村にある神社で祀っている神様へ、村の安全を祈願して祭りを行っているそうです。
「祭りでは、村で採れた作物を子供に渡して、神様に奉納する儀式があるの。私もその準備を手伝わないといけないから、しばらくここで話すことは出来ないわ」
儀式で子供の持つ作物は、鈴の一族の女が織った布で包むのがしきたりだそうです。鈴も、毎年のように作物を包む作業を手伝うつもりでした。
「僕も手伝うよ」
自分でも驚くくらい、自然にその言葉が出ました。
祭りの準備にどれだけかかるのか分からないけれど、その間、森の奥深くに閉じこもり、また一人で過ごすのは嫌でした。木々の間を通る風に打たれ、その風に舞う落ち葉を眺めるだけのさみしい日々。誰かと一緒にいることの楽しさを知ってしまった今では、もう戻りたくはありませんでした。
鈴は少し悩んでいましたが、静かに首を振りました。
「準備は屋敷でやるの。考えてみたけれど、抜け出すのは無理そうね。だから、ごめんなさい」
それなら仕方ない。陽はそう言いましたが、内心ではさみしくてたまりません。けれど、それを言うと鈴を困らせてしまうので、口に出すことはありませんでした。
陽がさみしいと感じているのと同じで、鈴もさみしさを感じていました。村にいる同年代の子供は、鈴の家系が特別なために、自然に接してはくれません。どこかぎこちなく、互いの間に溝があるようでした。
相手の姿をしっかりと見ることは出来る。それでも、近づくことが出来なくなる、深い溝が。
鈴には飛び越え方がわかりません。だから、鈴にとって村の子供たちは、近くにいながらどこか遠い存在でした。けれど、陽は違います。鈴の家系のことなど何も知らず、初めから普通に接してくれました。互いの間に溝を作ろうとしたのは鈴の方でしたが、その溝を陽はなんなく飛び越えてきました。陽にとっての鈴がそうであるように、鈴にとっても陽は初めてできた「友達」なのです。
それからは二人で他愛もない話をして、鈴がもう帰らなければならなくなった頃。陽はぽつりと言いました。
「僕も、祭りに行けたらいいのに」
そう言わずにはいられませんでした。
騒がしくなる村の方が気になりながら、森から出てはいけないという言葉が体を縛る。村から聞こえてくる楽しそうな音楽は、陽にとっては空しい音楽でしかありません。そんな日は、小屋に閉じこもって音が聞こえないようにじっと縮こまって過ごしていました。毛布として使っている布を頭から被って耳を押さえ、それでもかすかに聞こえてくる音に泣きたくなりながら。
けれど、今祭りの存在を知り、その話を聞いているうちに行きたくてたまらなくなりました。森から出ることが出来ないとわかってはいても。
鈴は再び悩みましたが、今度は笑顔で頷きました。
「だったら来ればいいじゃない。きっとわからないわ」
鬼へ食事を持って来たり、着物を届けたりするのが仕事だとは聞いています。けれど、鬼の監視をしているとは聞いたことがありません。だから、陽が森から出て祭りに来ても、きっと誰にも気付かれないでしょう。
小さな村のことだから、誰が住んでいるのかはお互いに知っています。突然陽が祭りに来ても怪しまれないよう、最近知り合った、隣の村の子供だということにしました。陽の住む森を通った先にある小さな村。森に迷い込んだ末、こちら側に来たところを鈴と知り合った、ということにしたのです。
祭りが始まるまで、まだまだ日数があります。それでも陽は楽しみで仕方がなく、眠れない日が続きました。木の上に登り、祭りの準備をしている村が見えないか、眺めてみる夜もありました。初めての祭りです。話に聞くのと実際に見るのとでは全然様子が違うでしょう。森からは村の様子は見えませんが、胸を躍らせ、早く祭りが来ればいいと願いながら眠りにつくのでした。
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