Re;Birth
とあるサーカスに、一人の道化師がいた。いつも笑顔の仮面を被っているせいで、他の表情を忘れてしまった。それでも、仕事はやってくる。笑顔だけは作れるから、求められている役割は、常に笑顔でいることだから。
何の問題もなくこなしていったけれど、自分が嫌いだった。感情を表現出来なくなったというのに、皆の前に立ち、笑顔を与えようなどと。薄っぺらい。ああ、薄っぺらい。それなのに、他の生き方なんて知らないから、求められるままに笑い続けていた。。
だから、感情を取り戻そうと思った。
最初に浮かんだのは、痛みを与えることだった。痛みで涙を流せるだろうか。痛みで顔を歪ませることが出来るだろうか。そればかりを思い、ナイフを手に取った。
左腕に先端を当て、横へと引く。シャッと軽い音がして、それ同様に軽い痛み。ジワジワと血が染み出してくるが、自分の欲しい痛みからは程遠い。もう一度、とナイフを構えて横へ。けれど、結果は殆ど変わらない。
自分の覚悟が足りないのではないか。
だから、中途半端な痛みしか与えられないのではないか。
こんな中途半端な人間は嫌だ。
もっと深く、もっと深く傷つけなければ。
何度も何度も、自分の腕を切り続ける。ナイフを持つ右手、切られる左手の掌が徐々に汗ばんでくる。けれど、うっすらと赤い線が浮かぶだけで終わり。自分の望む痛みには、到底届かない。
そして、これほどやっているにもかかわらず、自分の表情は笑顔のままだった。
それからというもの、道化師として舞台に立ちながら、自室では感情を取り戻そうと必死だった。いくら切り続けても、笑顔以外の表情が作れない。一度こだわりだすと不思議なもので、痛み以外で感情を取り戻そうなどとは考えられなかった。
別に、死にたい訳じゃない。
ただ、失ったものを取り返したいだけ。
それなのに、覚悟が弱い。
だから、そんな自分に痛みを与えるのだ。
自らの手で、罰を与えるのだ。
仕事で嫌なことがあっても、自分の顔は笑顔のまま。それが許せなくて、腕を切った。
親が病で死んだという知らせにも、笑顔が崩れない。それが許せなくて、腕を切った。
幸い、衣装は長袖だ。自分の醜い傷を見られる心配はない。左腕に切るところが無くなっても、右腕に。それでも無くなれば、治りきっていない傷の上からもう一度。縦に、横に、斜めに。
けれど、やはり笑ったままだった。
いつものように腕を切っていると、珍しく来客があった。ナイフをしまい、長袖の上着を羽織る。扉を開けても、予想した場所に人影はない。視線をおろすと、そこには少女が一人、泣きながら立っていた。何も言わずに部屋へ入ってくる少女を、何故だか拒むことが出来なかった。
「血の匂いがするわ」
少女はぽつりと呟いた。
「一体、君は誰だ」
その言葉に、少女は泣きながら、小さく笑った。
「私の昔話をしましょう」
「なぜ?」
「そうすれば、思い出すかもしれない」
それもそうだ、と思った。だから、少女の話を聞くことになった。昔話、といってもほんの少し前のお話。
ある所に、両親と暮らす一人の少女がいました。彼女の家はとても貧しく、家族三人で生きていくにはとても苦しい状況でした。
そんな中、少女の親はある決断をします。
『あの子をどこかへ売ろう。売ってできたお金で自分達は生きていこう。大丈夫、仕事のできる間は世話をしてもらえるから。自分たちが死んだ後でも、面倒を見てもらえるから』
そして、少女は売られます。自分のおかれた状況を知り、涙を流す毎日。けれど、仕事をしなければなりません。笑わなくてはなりません。そうしなければ、両親にお金は渡されません。少しでも助けになればいい、と、少女は懸命に笑いました。幸せだった日々を思い浮かべて。
初めての少女の仕事は、少女の両親も見ていました。そして、安心したのです。
『ああ、あの子はまだ笑える。今は作り物の笑顔でも、いつか、心から笑える日がきっと来る』
そして浮かべた微笑みを、少女はしっかりと見ていました。だから、思ったのです。両親が笑ってくれるのなら、私もここで笑っていよう、と。
「でもね、私の両親はもう死んじゃったわ」
最後に少女はそう締めくくった。
「だから、もう無理して笑わなくてもいいの」
そう言って手を伸ばす少女。その手は道化師の頬に添えられる。
「私はもう泣いてもいいのよ。怒ったっていいの。無理して笑って、傷つかなくていいんだから」
少女自身も泣きながら、けれどどこか怒ったように、それでも少し微笑んで囁く。その優しい手に、声に我慢できなくなり、少女をそっと抱き締めた。
「お疲れさま。もう、ゆっくり休んでいいの」
その言葉を最後に、少女の姿は消える。それでも、不思議なことに怖いとは感じなかった。
笑顔しか浮かべることのできない自分が嫌で鏡を見なくなった。
たまに見ても、その表情にしか目がいかなかった。
だから、自分がどんな顔をしていたのか忘れてしまっていた。
あの少女は、私自身だ。
切り捨てた、私の感情だ。
やっと帰ってきた。
やっと――――
静かに流れた一滴は肌を伝い、最後に床へと辿り着き、小さな水溜まりを作る。
翌日、とあるサーカスの道化師が自殺しているのが見つかった。少女と呼ばれるべき年齢でありながら、大人達と対等に渡り合う天才道化師として、有名な少女だった。少女の両腕には無数の切り傷があり、また、自殺も手首を切ってのことだったため、何度も自殺未遂を繰り返していたと推定される。
しかし、少女の表情は死の恐怖に怯えているわけでも、痛みに苦しんでいるわけでもない。幸せそうな笑顔だったそうだ。
遺書も見つかっていないことから自殺の理由は不明だが、少し前に死んだ両親の後を追ったのだろう、とサーカス関係者は語っている。
何の問題もなくこなしていったけれど、自分が嫌いだった。感情を表現出来なくなったというのに、皆の前に立ち、笑顔を与えようなどと。薄っぺらい。ああ、薄っぺらい。それなのに、他の生き方なんて知らないから、求められるままに笑い続けていた。。
だから、感情を取り戻そうと思った。
最初に浮かんだのは、痛みを与えることだった。痛みで涙を流せるだろうか。痛みで顔を歪ませることが出来るだろうか。そればかりを思い、ナイフを手に取った。
左腕に先端を当て、横へと引く。シャッと軽い音がして、それ同様に軽い痛み。ジワジワと血が染み出してくるが、自分の欲しい痛みからは程遠い。もう一度、とナイフを構えて横へ。けれど、結果は殆ど変わらない。
自分の覚悟が足りないのではないか。
だから、中途半端な痛みしか与えられないのではないか。
こんな中途半端な人間は嫌だ。
もっと深く、もっと深く傷つけなければ。
何度も何度も、自分の腕を切り続ける。ナイフを持つ右手、切られる左手の掌が徐々に汗ばんでくる。けれど、うっすらと赤い線が浮かぶだけで終わり。自分の望む痛みには、到底届かない。
そして、これほどやっているにもかかわらず、自分の表情は笑顔のままだった。
それからというもの、道化師として舞台に立ちながら、自室では感情を取り戻そうと必死だった。いくら切り続けても、笑顔以外の表情が作れない。一度こだわりだすと不思議なもので、痛み以外で感情を取り戻そうなどとは考えられなかった。
別に、死にたい訳じゃない。
ただ、失ったものを取り返したいだけ。
それなのに、覚悟が弱い。
だから、そんな自分に痛みを与えるのだ。
自らの手で、罰を与えるのだ。
仕事で嫌なことがあっても、自分の顔は笑顔のまま。それが許せなくて、腕を切った。
親が病で死んだという知らせにも、笑顔が崩れない。それが許せなくて、腕を切った。
幸い、衣装は長袖だ。自分の醜い傷を見られる心配はない。左腕に切るところが無くなっても、右腕に。それでも無くなれば、治りきっていない傷の上からもう一度。縦に、横に、斜めに。
けれど、やはり笑ったままだった。
いつものように腕を切っていると、珍しく来客があった。ナイフをしまい、長袖の上着を羽織る。扉を開けても、予想した場所に人影はない。視線をおろすと、そこには少女が一人、泣きながら立っていた。何も言わずに部屋へ入ってくる少女を、何故だか拒むことが出来なかった。
「血の匂いがするわ」
少女はぽつりと呟いた。
「一体、君は誰だ」
その言葉に、少女は泣きながら、小さく笑った。
「私の昔話をしましょう」
「なぜ?」
「そうすれば、思い出すかもしれない」
それもそうだ、と思った。だから、少女の話を聞くことになった。昔話、といってもほんの少し前のお話。
ある所に、両親と暮らす一人の少女がいました。彼女の家はとても貧しく、家族三人で生きていくにはとても苦しい状況でした。
そんな中、少女の親はある決断をします。
『あの子をどこかへ売ろう。売ってできたお金で自分達は生きていこう。大丈夫、仕事のできる間は世話をしてもらえるから。自分たちが死んだ後でも、面倒を見てもらえるから』
そして、少女は売られます。自分のおかれた状況を知り、涙を流す毎日。けれど、仕事をしなければなりません。笑わなくてはなりません。そうしなければ、両親にお金は渡されません。少しでも助けになればいい、と、少女は懸命に笑いました。幸せだった日々を思い浮かべて。
初めての少女の仕事は、少女の両親も見ていました。そして、安心したのです。
『ああ、あの子はまだ笑える。今は作り物の笑顔でも、いつか、心から笑える日がきっと来る』
そして浮かべた微笑みを、少女はしっかりと見ていました。だから、思ったのです。両親が笑ってくれるのなら、私もここで笑っていよう、と。
「でもね、私の両親はもう死んじゃったわ」
最後に少女はそう締めくくった。
「だから、もう無理して笑わなくてもいいの」
そう言って手を伸ばす少女。その手は道化師の頬に添えられる。
「私はもう泣いてもいいのよ。怒ったっていいの。無理して笑って、傷つかなくていいんだから」
少女自身も泣きながら、けれどどこか怒ったように、それでも少し微笑んで囁く。その優しい手に、声に我慢できなくなり、少女をそっと抱き締めた。
「お疲れさま。もう、ゆっくり休んでいいの」
その言葉を最後に、少女の姿は消える。それでも、不思議なことに怖いとは感じなかった。
笑顔しか浮かべることのできない自分が嫌で鏡を見なくなった。
たまに見ても、その表情にしか目がいかなかった。
だから、自分がどんな顔をしていたのか忘れてしまっていた。
あの少女は、私自身だ。
切り捨てた、私の感情だ。
やっと帰ってきた。
やっと――――
静かに流れた一滴は肌を伝い、最後に床へと辿り着き、小さな水溜まりを作る。
翌日、とあるサーカスの道化師が自殺しているのが見つかった。少女と呼ばれるべき年齢でありながら、大人達と対等に渡り合う天才道化師として、有名な少女だった。少女の両腕には無数の切り傷があり、また、自殺も手首を切ってのことだったため、何度も自殺未遂を繰り返していたと推定される。
しかし、少女の表情は死の恐怖に怯えているわけでも、痛みに苦しんでいるわけでもない。幸せそうな笑顔だったそうだ。
遺書も見つかっていないことから自殺の理由は不明だが、少し前に死んだ両親の後を追ったのだろう、とサーカス関係者は語っている。
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