楽曲構想短編
その日、雅子はこの辺りで最も桜が美しいと言われている河原にいた。まだ花が咲いていない今は、人通りも少ない。それに加えて昨日の雨。道の状態は悪く、主人から桜の様子を見てくるように頼まれなかったら、雅子もここへは来なかっただろう。
(これなら、あともう少しで咲きそうね)
主人のことだから、今年も桜を見ながら宴を開くのだろう。準備に追われ、忙しい日々が続くのかと思うと気が重い。普段から仕事のために仕える家に縛られており、外へ出るのは買い物の時くらい。たとえ今だけでも、自由に外を歩いていたかった。
川に沿って歩いていると、少しずつ春が近付いてきているのが分かる。桜の蕾もそうだが、蒲公英が所々に咲いているし、紋白蝶が飛んでいる。菜の花は摘んで帰って、今夜の夕食に使いたい。どれも、少し前まで姿を見せていなかったものばかり。毎年のことだとは分かっていても、心が弾む。雅子は道端に屈み込み、花にとまっている蝶を見つめていた。
そんな様子だから、初めは声をかけられても気付いていなかった。
「大丈夫ですか?」
「え?」
突然の声に驚いて振り向けば、そこには一人の青年。同い年だろうか。まだ珍しい「洋服」を着ているから、裕福な家の跡取り息子、という所だろう。雅子は慌てて立ち上がった。蝶も驚いたのか飛び立ってしまうが、気にしてなんかいられない。
その姿を見て青年は、くすりと笑った。
「屈み込んでいたので体調が悪いのかと思ったんですけど、その様子だと大丈夫なようですね」
季節の変わり目だから体調には気をつけるようにと言い残し、青年は立ち去った。けれど、雅子はそこに立ち尽くしたまま。
―――ああ 見つけた。
心のどこかで、そんな声がした気がした。
◇ ◆ ◇
いくら手を伸ばしても、去っていくその背中に届くことは無い。
いくら叫んでも、去っていくその人の心には届かない。
散っていく花の向こう側は、とても遠かった。
青年の名は相馬。雅子の予想通り、この辺りでは裕福な部類にはいる一族の跡取り息子だった。
雅子がこの事を知ったのは、主人が行った酒宴がきっかけだ。予想通り「花見」と称した酒宴が行われ、様々な方面で有力な人々が招かれた。そして、その中には相馬の父親の姿もあった。相馬は父に連れられて酒宴に初めて参加しており、準備を任されていた雅子と偶然再会。以後、時折会って話すようになった。場所はいつも変わらず、二人が出会った桜の木の下。花を眺めながら、様々な事を話すようになった。とはいえ、互いに自由には出歩けない身。週に一度会えたなら良い方だった。
「相馬様。今日はおにぎりを握ってきたんです。具は梅干しにしています」
「じゃあ、いただきます」
おにぎりを頬張る相馬を見ながら、雅子は再確認する。ああ、やっぱりこの人が好きなのだ、と。
前に会ったときに作ってきてくれたおにぎりの具は、昆布だった。使用人生活が長いせいか、雅子の作るおにぎりは塩加減、形や大きさなども食べやすい。忙しいだろうに毎回作ってきてくれて、相馬は嬉しかった。何か話をしている時は勿論のことながら、何も話しをせずにただ時間が過ぎていくだけの時でさえ、楽しいと感じる。彼女と過ごすこの場所が、愛おしいと感じる。その感情をなんと言うのかは分からないけれど、とても大切だった。脆く、壊れやすいものだとはわかっていても、どこか楽観視していた。
―――きっと もうすぐ終わる。
そんな声は、聞こえないふりをした。
◇ ◆ ◇
その日、屋敷中がざわついていた。
普段はしっかりしているような人がミスをして、いつもは気にしないことにまで神経を尖らせて。雅子だって、何度廊下の掃除をやり直しさせられたか。それなのに、詳しいことは何も知らされていなくて、使用人達の不満は溜まっていくばかりだった。
「そろそろ、何があるのか教えて下さい」
そう言いだしたのは、配膳を任されている少女。それをきっかけにして、皆の不満が溢れ出してくる。静かになった後に、使用人頭は上の空なままに告げた。
お嬢様が婚約する。
続けて相手の名が告げられる。
それは、愛しいあの人の―――。
何も考えられず、雅子は部屋を飛び出す。途中で腕を掴まれたって、それを振り払う。体裁なんて気にしない。向かうのは、あの桜の木の下。
ただ、あの人に逢いたいだけだった。
「相馬様!」
「ああ、やっぱり。ここに来れば会える気がして」
桜の木の下にはいつものように相馬の姿が。けれど、服装はいつもとは違い、正装。
それだけで、全てが分かってしまった。
「お嬢様が婚約なさるそうです」
「そうだね」
「お相手は相馬様だと」
「花見の席で、父が彼女を気に入ったんだ」
「今日、挨拶に来るそうですね」
「このあと両親とお邪魔するよ」
否定の言葉が聞きたいのに、出てくるのは肯定の言葉ばかり。
何か言わなければと思うのに、何も言うことが出来ない。
泣きそうになるのをぐっと堪えて、相馬を見つめる。
「相馬様。ずっと―――」
けれど、言い切る前に止められた。ただ人差し指を唇に当てて、静かに、という動作をしただけなのに、何も言えなくなってしまう。それがただただ悔しくて、悲しくて、堪えていたものが溢れ出す。それなのに、動かない。
どれだけそうしていたのだろう。長かったのかもしれないし、一瞬だったのかもしれない。相馬が立ち去ろうとする気配に、雅子は俯いていた顔を上げる。無意識のうちに、彼の服の裾を掴んでいた。
「………手を離して」
「行かないで下さい」
「約束の時間があるんだ」
「一緒にいて下さい」
「ねえ」
答えもせず、手も離さない雅子を説得するのは諦め、相馬は乱暴に振り払う。
明確な、拒絶だった。
振り返ることなく立ち去る彼に、雅子は立ち尽くしたまま。
―――待って。
言ったって無駄なことは、ずっと前から知っているから。
◇ ◆ ◇
彼は、どの時代でも身分の高い人でした。
私はいつだって誰かに仕える身でした。
私達の出会いは、いつも桜の木の下。
私達の別れは、いつだって桜の下。
彼は、何度も私を置いていって。
私は、いつまでも彼を待つの。
(これなら、あともう少しで咲きそうね)
主人のことだから、今年も桜を見ながら宴を開くのだろう。準備に追われ、忙しい日々が続くのかと思うと気が重い。普段から仕事のために仕える家に縛られており、外へ出るのは買い物の時くらい。たとえ今だけでも、自由に外を歩いていたかった。
川に沿って歩いていると、少しずつ春が近付いてきているのが分かる。桜の蕾もそうだが、蒲公英が所々に咲いているし、紋白蝶が飛んでいる。菜の花は摘んで帰って、今夜の夕食に使いたい。どれも、少し前まで姿を見せていなかったものばかり。毎年のことだとは分かっていても、心が弾む。雅子は道端に屈み込み、花にとまっている蝶を見つめていた。
そんな様子だから、初めは声をかけられても気付いていなかった。
「大丈夫ですか?」
「え?」
突然の声に驚いて振り向けば、そこには一人の青年。同い年だろうか。まだ珍しい「洋服」を着ているから、裕福な家の跡取り息子、という所だろう。雅子は慌てて立ち上がった。蝶も驚いたのか飛び立ってしまうが、気にしてなんかいられない。
その姿を見て青年は、くすりと笑った。
「屈み込んでいたので体調が悪いのかと思ったんですけど、その様子だと大丈夫なようですね」
季節の変わり目だから体調には気をつけるようにと言い残し、青年は立ち去った。けれど、雅子はそこに立ち尽くしたまま。
―――ああ 見つけた。
心のどこかで、そんな声がした気がした。
◇ ◆ ◇
いくら手を伸ばしても、去っていくその背中に届くことは無い。
いくら叫んでも、去っていくその人の心には届かない。
散っていく花の向こう側は、とても遠かった。
青年の名は相馬。雅子の予想通り、この辺りでは裕福な部類にはいる一族の跡取り息子だった。
雅子がこの事を知ったのは、主人が行った酒宴がきっかけだ。予想通り「花見」と称した酒宴が行われ、様々な方面で有力な人々が招かれた。そして、その中には相馬の父親の姿もあった。相馬は父に連れられて酒宴に初めて参加しており、準備を任されていた雅子と偶然再会。以後、時折会って話すようになった。場所はいつも変わらず、二人が出会った桜の木の下。花を眺めながら、様々な事を話すようになった。とはいえ、互いに自由には出歩けない身。週に一度会えたなら良い方だった。
「相馬様。今日はおにぎりを握ってきたんです。具は梅干しにしています」
「じゃあ、いただきます」
おにぎりを頬張る相馬を見ながら、雅子は再確認する。ああ、やっぱりこの人が好きなのだ、と。
前に会ったときに作ってきてくれたおにぎりの具は、昆布だった。使用人生活が長いせいか、雅子の作るおにぎりは塩加減、形や大きさなども食べやすい。忙しいだろうに毎回作ってきてくれて、相馬は嬉しかった。何か話をしている時は勿論のことながら、何も話しをせずにただ時間が過ぎていくだけの時でさえ、楽しいと感じる。彼女と過ごすこの場所が、愛おしいと感じる。その感情をなんと言うのかは分からないけれど、とても大切だった。脆く、壊れやすいものだとはわかっていても、どこか楽観視していた。
―――きっと もうすぐ終わる。
そんな声は、聞こえないふりをした。
◇ ◆ ◇
その日、屋敷中がざわついていた。
普段はしっかりしているような人がミスをして、いつもは気にしないことにまで神経を尖らせて。雅子だって、何度廊下の掃除をやり直しさせられたか。それなのに、詳しいことは何も知らされていなくて、使用人達の不満は溜まっていくばかりだった。
「そろそろ、何があるのか教えて下さい」
そう言いだしたのは、配膳を任されている少女。それをきっかけにして、皆の不満が溢れ出してくる。静かになった後に、使用人頭は上の空なままに告げた。
お嬢様が婚約する。
続けて相手の名が告げられる。
それは、愛しいあの人の―――。
何も考えられず、雅子は部屋を飛び出す。途中で腕を掴まれたって、それを振り払う。体裁なんて気にしない。向かうのは、あの桜の木の下。
ただ、あの人に逢いたいだけだった。
「相馬様!」
「ああ、やっぱり。ここに来れば会える気がして」
桜の木の下にはいつものように相馬の姿が。けれど、服装はいつもとは違い、正装。
それだけで、全てが分かってしまった。
「お嬢様が婚約なさるそうです」
「そうだね」
「お相手は相馬様だと」
「花見の席で、父が彼女を気に入ったんだ」
「今日、挨拶に来るそうですね」
「このあと両親とお邪魔するよ」
否定の言葉が聞きたいのに、出てくるのは肯定の言葉ばかり。
何か言わなければと思うのに、何も言うことが出来ない。
泣きそうになるのをぐっと堪えて、相馬を見つめる。
「相馬様。ずっと―――」
けれど、言い切る前に止められた。ただ人差し指を唇に当てて、静かに、という動作をしただけなのに、何も言えなくなってしまう。それがただただ悔しくて、悲しくて、堪えていたものが溢れ出す。それなのに、動かない。
どれだけそうしていたのだろう。長かったのかもしれないし、一瞬だったのかもしれない。相馬が立ち去ろうとする気配に、雅子は俯いていた顔を上げる。無意識のうちに、彼の服の裾を掴んでいた。
「………手を離して」
「行かないで下さい」
「約束の時間があるんだ」
「一緒にいて下さい」
「ねえ」
答えもせず、手も離さない雅子を説得するのは諦め、相馬は乱暴に振り払う。
明確な、拒絶だった。
振り返ることなく立ち去る彼に、雅子は立ち尽くしたまま。
―――待って。
言ったって無駄なことは、ずっと前から知っているから。
◇ ◆ ◇
彼は、どの時代でも身分の高い人でした。
私はいつだって誰かに仕える身でした。
私達の出会いは、いつも桜の木の下。
私達の別れは、いつだって桜の下。
彼は、何度も私を置いていって。
私は、いつまでも彼を待つの。
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