楽曲構想短編
ある日、新しい召使いがやってきた。
その日、私は生まれて初めての恋をした。
◇ ◆ ◇
「レイ!ほら見て、新しいドレスが届いたの」
ヴィオレット国の中でも由緒正しき貴族、イヴェール家のお嬢様であるノエルは、息を切らせながらそう言った。
「よく似合ってますね」
レイはノエルの方をちらりと見て、それだけを伝えると目の前の鍋に視線を戻した。レイの作る料理はとても美味しく、屋敷の中でも評判の味。当然、ノエルだって好きだ。好きなのだが、それとこれとは話が別。
(一番最初に見せたくて走ってきたのに、それだけ?しかも、似合ってる、なんて社交辞令でしかないじゃないの)
むーっと膨れる‘お嬢様’を視界の端に捉えながら、レイは鍋に目を向けたまま。
(いつもより大人びて見えて綺麗だ、とか驚いた、とかいえる訳ないよなぁ。恥ずかしいし)
彼女を直視し続けると、動悸が止まりそうにない。だから、直ぐに目を逸らしたし簡単な感想しか述べられなかったのだが、流石にそのまま放置、というのは悪い気がする。
脳内でぐるぐると回っている言葉の中から、自分でも口に出来そうな単語を探した。
「なんだか、いつもより……」
「いつもより?」
続く言葉に期待して、ノエルの顔がぱぁっと輝く。それが見なくても伝わってきて、レイは焦った。
「おしとやかに見えます」
焦るあまり、言葉の選択を間違えた。
勿論、ほめ言葉には聞こえない。これだと普段は‘おしとやか’では無いと言っているようなものだ。まあ、普段のノエルがおしとやかなのかと訊かれると、素直に肯定できないのだが。
ノエルが落胆したのが伝わり、レイは焦る。
「ま、間違えました。いつもよりお嬢様らしいです」
あまり変わらない。
大事な場面で失敗してしまう男だ、というのが屋敷での共通認識になって随分たつ。それはノエルも分かっている。そういう男だとは分かっているのだが、切ない。
「もう無理して褒めないでいいわ。チーズケーキをあとで持ってきなさい。そしたら許してあげるから」
「かしこまりました」
「失敗なんてしたら駄目よ? そしたら直ぐにクビなんだから」
「わかってます」
「じゃあ、三分後に持ってきて」
「かしこま……はい?」
思わず了承の言葉を口にしかけ、慌てて飲み込む。三分でチーズケーキを作って持って来いだなんて、不可能だ。
どうしよう、と目を白黒させるレイに、ノエルは微笑む。
「ほら、今朝買ってきてたじゃない。誰も‘レイが作ったチーズケーキ’を持ってこいだなんて言ってないわ」
確かにそうだ。早とちりした自分を恥じ、今度は素直に了承する。今日の休憩時間に食べるおやつの予定だったが、チーズケーキを食べようという計画は延期だ。お願いね、と調理室を出て行くノエルに気付かれないように微笑んだ。
―――よし、今日もお嬢様は元気だ。
他者から見れば‘我が儘なお嬢様’でも、レイからすれば大切なお嬢様。毎日このようにコミュニケーションをとるので、もう慣れたものだ。
それに、絶対に誰にも邪魔されない、二人だけの空間となる先程のようなやりとりは、大好きだった。
部屋に戻ったノエルは、そのままベッドに飛び込む。
(なんで素直に言えないのかなぁ)
チーズケーキを要求したのだって、朝買ってきているのを見て食べたくなった、というのもあるが、何より一緒に食べたいと思ったから。それなのに、どこをどう間違えたらあんな事になるのか自分でも分からない。
唸っていても仕方がない、と部屋の片付けでもしようかと考える。片付け、とは言っても部屋は常に綺麗な状態で保たれているし、それを行っているのはレイなので、やろうがやるまいが関係ないのだが、ノエルだって恋する乙女。大好きな人が来る前は、部屋を少しでも綺麗に見せたかった。というか、自分とは無縁の、そんな努力に憧れていた。
手始めに鏡台から、と向かった時に、ノエルは一通の手紙を見つけた。朝は無かったから、レイの元へ行っている間に届けられたのだろう。筆跡からして、おそらく父親。
(同じ屋敷にいるのに手紙だなんて、相変わらずおかしいわ)
あまりにもお嬢様らしくないノエルに両親は戸惑い、特に父親は出来る限り接触を控えている。勘当されていないのは、周囲の目を気にしているのと政略結婚の為だろう。
乱暴に封を切り、ざっと内容を確認する。
そして、握り潰した。
「そろそろ、家を出ようかしら」
「外は危険ですよ?」
独り言のつもりが返事が返ってきたことに驚き、悲鳴すら出ない。
「ちょっと、勝手に入らないで」
「ノックはしました。返事がないので入らせていただきましたが。三分後にチーズケーキを、とのことでしたので」
勝手に入ったことに変わりはないのだが、時計を見ると、きっちり三分たっている。仕事に関してはミスをしないというのもレイの一面。手際よく準備をしていくレイを見ているうちに、ぽろりと本音が零れ出た。
「駆け落ちしない?」
「いいですよ」
あっさり了承されたことに、そして本音が出たことに驚いたノエルは、了承された喜びどころではない。
「ちょっと、駆け落ちよ?愛し合う二人が周囲の反対を押し切って一緒になろうとして行う行動よ?それをそんなあっさりと」
レイと駆け落ちしたいというのは本当だが、相手の気持ちがわからない以上、はいそうですかと素直には喜べない。本気にしていないのかもしれないし、命令だと受け取っての返事かもしれないのだ。
言い出しておきながら焦っているノエルを不思議に思いながら、レイは言う。
「だってお嬢様、私のこと好きでしょう? で、私もお嬢様のことは好きですし、何も間違ってないです。むしろ、この状況に相応しいです」
自分の気持ちが見抜かれていたことに、そして軽く告白されたことに思考が停止する。
「さらっとそう言えるレイって、レイじゃないわ」
「事実ですから」
「今は‘大事な場面’だと思うの。そういうところで失敗してこそレイなのだけれど」
「まあ、男には失敗できない場面っていうのがあるんです」
胸を張って言うレイに、聞いている、というか聞かされたノエルの方が恥ずかしくなる。
「で、行くんですか? 行かないんですか?」
「行くわ」
「駆け落ちしたとなれば、本当に勘当されると思いますけど」
「あら、自分の心配をしたらどう? もし捕まれば、レイの方が危険じゃない」
勝手に‘お嬢様’を連れ出した、ということで、捕まったときに不利なのは使用人。家の恥は全て使用人に、という考えから処罰を受けた者は多い。だから、ノエルの言葉も嘘ではない。勿論、捕まる事なんて望んでいないが。
「覚悟の上での返答です」
じっと目を見つめれば、その決心が本物であり、かたいことは分かる。ノエルも覚悟を決めた。
「そこまで言うなら、今夜実行しましょう。気が変わらないうちにね。ノエリア・イヴェールの名は今日限り。今後はノエルと呼びなさい」
「かしこまりました。では、またお迎えにあがります。できる限り動きやすい格好で準備しておいて下さいね」
とんとんと決めていくレイに、ノエルの方が戸惑う。これでは前々から考えていたようではないか。
それでも、自分の願いの叶う予感に胸を高鳴らせ、ノエルはチーズケーキを美味しく頬張ったのだった。因みに、レイと一緒に食べようという計画は忘れ去っている。
◇ ◆ ◇
この日、私は家を出た。
大好きな彼と一緒に。
◇ ◆ ◇
夜の闇に紛れるようにして塀を乗り越え、あとはひたすら走り続けた。途中で馬を使おうかとも考えたけれど、そうすると目立ってしまう。だから結局は自分達の足で走るしかなく、とても大変だった。けれど、同時にとても楽しかった。
「ねえ、どこへ行くつもりなの?」
まさか、決めてないんじゃないでしょうね。
そう言外に含めれば、前を走るレイが焦ったのが分かる。
「ちゃんと決めてますよ!」
速度を落とさずに叫ぶ。時々後ろを振り返って追っ手がいないのを確認しつつ、ノエルの手を引き、ノエルの足に合わせて走る。とても大変なはずなのに、彼もまた楽しそう。
「オルタンス国へ行こうと思っています」
「オルタンスって、海の向こうの?」
「はい。海を渡れば、追っ手もこないと思いますから」
海の向こうにあるオルタンス国。冬の長いヴィオレット国とは逆に夏が長い。だから、緑豊かな国だそうだ。いつか行ってみたい、と言ったことを覚えていてくれたのかどうかは分からない。けれど、その選択に不満はない。まだ見ぬ‘楽園’を夢見て、二人は走り続けた。
夜が明ける頃、レイはようやく足を止めた。途中で休憩をはさんでいたものの、ノエルはもう限界だった。
「ここまで来れば、一安心ですね。適当に宿を選んで休みましょう」
「この町を出たら、港のある町へ向かうのよね」
「ここからだとロレーヌが近いですね。でも、見つかるといけないですし、少し遠くのタッシュに行くつもりです。大丈夫ですか?」
「当然よ」
あなたと一緒なら、なんて、恥ずかしすぎて言えないけれど。
数日後、二人はオルタンス行きの上にいた。間もなく船は出るだろう。追っ手が来ないかとビクビクしながら続けた逃亡生活も、一区切り。
甲板に出て外を眺めていたノエルに、レイは躊躇いながらも尋ねる。
「やっぱり、帰りますか?今ならまだ……」
「戻らないわ」
視線は故郷に向けたまま、ノエルは言う。
「だって、あのままあの屋敷にいたら、好きでもない誰かと結婚させられるのよ?それよりも、私は好きな人と歩む道を選びたいの」
明確な決意を持って紡がれた言葉。それならば、レイがとやかく言う筋合いはない。寒くないように、と上着を肩に掛けてやり、船室へと戻る。彼女は今、一人になりたいだろうから。
未練がない、と言えば嘘になる。
けれど、戻るかと聞かれれば答えは否。
どちらかと言えば嫌いな場所だった。
それでも、私が育った場所だから。
◇ ◆ ◇
楽園を目指して箱庭を抜け出した。
外の世界は、珍しかった。
◇ ◆ ◇
オルタンスへ向かう前の中継地―――ソレイユ。冬の海は凍ってしまっており、船を出すことが出来ない。だから、二人はその町で春を待っていた。
「もう、ちゃんと行けるかどうか確認しておきなさいよ」
「すみません」
自信満々に向かうから、直ぐにオルタンスへ行くことが出来ると思っていた。そんな、全てをレイ任せにしていたノエルにも非はあるのだが、長い年月をかけて染みついた関係は、中々直らない。ノエルが強く言えば、レイは逆らえないのだ。それに、今回は自分の方に責任があると考えていることも、言い返さない要因の一つである。
「チーズケーキを買ってきて」
「え?」
「チーズケーキよ。そしたら許してあげる。だから……一緒に食べましょう」
最後は顔を真っ赤にしながら、しかも声はかなり小さくなってしまったが、レイにはしっかり届いたようで、とても良い笑顔で部屋を出て行く。窓から下を見てみれば、宿から出たレイはスキップまでしている。
少し前までは素直になれなかったのに、随分と成長したものだ。
町に出たレイは、ケーキ屋を探す。
最近、少しずつノエルが素直になってきている。それが本当に嬉しくて、嬉しくて。
そんな中で、誰かの会話が聞こえてきた。
「イヴェールのお嬢様が、使用人と駆け落ちしたらしいな」
「お陰で、国外へ出る船は全て役人に調べられるそうだぞ」
「オルタンスへの中継地であるここも、役人が来るって話だぞ」
「まあ、ヴィオレントから駆け落ちで逃げるんなら、海の向こうの方が良いよな」
「まったく、迷惑な話だ」
三日後、イヴェール家の命令でやって来た役人は、町中の宿を調べた。
けれど、二人を見つけることは出来なかった。
◇ ◆ ◇
楽園の扉はすぐそこにあった。
けれど、扉を掴むには私達の手は短すぎた。
◇ ◆ ◇
二人は宿に泊まることを止め、野宿することを選んだ。役人達の目が、この町から離れるまで。
けれど、世界は二人に優しくなかった。
岩陰に隠れていたところを、見つけられてしまった。
二人で再び走った。逃げ延びるために、走った。
それなのに―――
どうしてこうなってしまうのだろう。
どうしてこうなってしまうのだろう。
どうしてレイは動かないのだろう。
どうして―――
その日、私は生まれて初めての恋をした。
◇ ◆ ◇
「レイ!ほら見て、新しいドレスが届いたの」
ヴィオレット国の中でも由緒正しき貴族、イヴェール家のお嬢様であるノエルは、息を切らせながらそう言った。
「よく似合ってますね」
レイはノエルの方をちらりと見て、それだけを伝えると目の前の鍋に視線を戻した。レイの作る料理はとても美味しく、屋敷の中でも評判の味。当然、ノエルだって好きだ。好きなのだが、それとこれとは話が別。
(一番最初に見せたくて走ってきたのに、それだけ?しかも、似合ってる、なんて社交辞令でしかないじゃないの)
むーっと膨れる‘お嬢様’を視界の端に捉えながら、レイは鍋に目を向けたまま。
(いつもより大人びて見えて綺麗だ、とか驚いた、とかいえる訳ないよなぁ。恥ずかしいし)
彼女を直視し続けると、動悸が止まりそうにない。だから、直ぐに目を逸らしたし簡単な感想しか述べられなかったのだが、流石にそのまま放置、というのは悪い気がする。
脳内でぐるぐると回っている言葉の中から、自分でも口に出来そうな単語を探した。
「なんだか、いつもより……」
「いつもより?」
続く言葉に期待して、ノエルの顔がぱぁっと輝く。それが見なくても伝わってきて、レイは焦った。
「おしとやかに見えます」
焦るあまり、言葉の選択を間違えた。
勿論、ほめ言葉には聞こえない。これだと普段は‘おしとやか’では無いと言っているようなものだ。まあ、普段のノエルがおしとやかなのかと訊かれると、素直に肯定できないのだが。
ノエルが落胆したのが伝わり、レイは焦る。
「ま、間違えました。いつもよりお嬢様らしいです」
あまり変わらない。
大事な場面で失敗してしまう男だ、というのが屋敷での共通認識になって随分たつ。それはノエルも分かっている。そういう男だとは分かっているのだが、切ない。
「もう無理して褒めないでいいわ。チーズケーキをあとで持ってきなさい。そしたら許してあげるから」
「かしこまりました」
「失敗なんてしたら駄目よ? そしたら直ぐにクビなんだから」
「わかってます」
「じゃあ、三分後に持ってきて」
「かしこま……はい?」
思わず了承の言葉を口にしかけ、慌てて飲み込む。三分でチーズケーキを作って持って来いだなんて、不可能だ。
どうしよう、と目を白黒させるレイに、ノエルは微笑む。
「ほら、今朝買ってきてたじゃない。誰も‘レイが作ったチーズケーキ’を持ってこいだなんて言ってないわ」
確かにそうだ。早とちりした自分を恥じ、今度は素直に了承する。今日の休憩時間に食べるおやつの予定だったが、チーズケーキを食べようという計画は延期だ。お願いね、と調理室を出て行くノエルに気付かれないように微笑んだ。
―――よし、今日もお嬢様は元気だ。
他者から見れば‘我が儘なお嬢様’でも、レイからすれば大切なお嬢様。毎日このようにコミュニケーションをとるので、もう慣れたものだ。
それに、絶対に誰にも邪魔されない、二人だけの空間となる先程のようなやりとりは、大好きだった。
部屋に戻ったノエルは、そのままベッドに飛び込む。
(なんで素直に言えないのかなぁ)
チーズケーキを要求したのだって、朝買ってきているのを見て食べたくなった、というのもあるが、何より一緒に食べたいと思ったから。それなのに、どこをどう間違えたらあんな事になるのか自分でも分からない。
唸っていても仕方がない、と部屋の片付けでもしようかと考える。片付け、とは言っても部屋は常に綺麗な状態で保たれているし、それを行っているのはレイなので、やろうがやるまいが関係ないのだが、ノエルだって恋する乙女。大好きな人が来る前は、部屋を少しでも綺麗に見せたかった。というか、自分とは無縁の、そんな努力に憧れていた。
手始めに鏡台から、と向かった時に、ノエルは一通の手紙を見つけた。朝は無かったから、レイの元へ行っている間に届けられたのだろう。筆跡からして、おそらく父親。
(同じ屋敷にいるのに手紙だなんて、相変わらずおかしいわ)
あまりにもお嬢様らしくないノエルに両親は戸惑い、特に父親は出来る限り接触を控えている。勘当されていないのは、周囲の目を気にしているのと政略結婚の為だろう。
乱暴に封を切り、ざっと内容を確認する。
そして、握り潰した。
「そろそろ、家を出ようかしら」
「外は危険ですよ?」
独り言のつもりが返事が返ってきたことに驚き、悲鳴すら出ない。
「ちょっと、勝手に入らないで」
「ノックはしました。返事がないので入らせていただきましたが。三分後にチーズケーキを、とのことでしたので」
勝手に入ったことに変わりはないのだが、時計を見ると、きっちり三分たっている。仕事に関してはミスをしないというのもレイの一面。手際よく準備をしていくレイを見ているうちに、ぽろりと本音が零れ出た。
「駆け落ちしない?」
「いいですよ」
あっさり了承されたことに、そして本音が出たことに驚いたノエルは、了承された喜びどころではない。
「ちょっと、駆け落ちよ?愛し合う二人が周囲の反対を押し切って一緒になろうとして行う行動よ?それをそんなあっさりと」
レイと駆け落ちしたいというのは本当だが、相手の気持ちがわからない以上、はいそうですかと素直には喜べない。本気にしていないのかもしれないし、命令だと受け取っての返事かもしれないのだ。
言い出しておきながら焦っているノエルを不思議に思いながら、レイは言う。
「だってお嬢様、私のこと好きでしょう? で、私もお嬢様のことは好きですし、何も間違ってないです。むしろ、この状況に相応しいです」
自分の気持ちが見抜かれていたことに、そして軽く告白されたことに思考が停止する。
「さらっとそう言えるレイって、レイじゃないわ」
「事実ですから」
「今は‘大事な場面’だと思うの。そういうところで失敗してこそレイなのだけれど」
「まあ、男には失敗できない場面っていうのがあるんです」
胸を張って言うレイに、聞いている、というか聞かされたノエルの方が恥ずかしくなる。
「で、行くんですか? 行かないんですか?」
「行くわ」
「駆け落ちしたとなれば、本当に勘当されると思いますけど」
「あら、自分の心配をしたらどう? もし捕まれば、レイの方が危険じゃない」
勝手に‘お嬢様’を連れ出した、ということで、捕まったときに不利なのは使用人。家の恥は全て使用人に、という考えから処罰を受けた者は多い。だから、ノエルの言葉も嘘ではない。勿論、捕まる事なんて望んでいないが。
「覚悟の上での返答です」
じっと目を見つめれば、その決心が本物であり、かたいことは分かる。ノエルも覚悟を決めた。
「そこまで言うなら、今夜実行しましょう。気が変わらないうちにね。ノエリア・イヴェールの名は今日限り。今後はノエルと呼びなさい」
「かしこまりました。では、またお迎えにあがります。できる限り動きやすい格好で準備しておいて下さいね」
とんとんと決めていくレイに、ノエルの方が戸惑う。これでは前々から考えていたようではないか。
それでも、自分の願いの叶う予感に胸を高鳴らせ、ノエルはチーズケーキを美味しく頬張ったのだった。因みに、レイと一緒に食べようという計画は忘れ去っている。
◇ ◆ ◇
この日、私は家を出た。
大好きな彼と一緒に。
◇ ◆ ◇
夜の闇に紛れるようにして塀を乗り越え、あとはひたすら走り続けた。途中で馬を使おうかとも考えたけれど、そうすると目立ってしまう。だから結局は自分達の足で走るしかなく、とても大変だった。けれど、同時にとても楽しかった。
「ねえ、どこへ行くつもりなの?」
まさか、決めてないんじゃないでしょうね。
そう言外に含めれば、前を走るレイが焦ったのが分かる。
「ちゃんと決めてますよ!」
速度を落とさずに叫ぶ。時々後ろを振り返って追っ手がいないのを確認しつつ、ノエルの手を引き、ノエルの足に合わせて走る。とても大変なはずなのに、彼もまた楽しそう。
「オルタンス国へ行こうと思っています」
「オルタンスって、海の向こうの?」
「はい。海を渡れば、追っ手もこないと思いますから」
海の向こうにあるオルタンス国。冬の長いヴィオレット国とは逆に夏が長い。だから、緑豊かな国だそうだ。いつか行ってみたい、と言ったことを覚えていてくれたのかどうかは分からない。けれど、その選択に不満はない。まだ見ぬ‘楽園’を夢見て、二人は走り続けた。
夜が明ける頃、レイはようやく足を止めた。途中で休憩をはさんでいたものの、ノエルはもう限界だった。
「ここまで来れば、一安心ですね。適当に宿を選んで休みましょう」
「この町を出たら、港のある町へ向かうのよね」
「ここからだとロレーヌが近いですね。でも、見つかるといけないですし、少し遠くのタッシュに行くつもりです。大丈夫ですか?」
「当然よ」
あなたと一緒なら、なんて、恥ずかしすぎて言えないけれど。
数日後、二人はオルタンス行きの上にいた。間もなく船は出るだろう。追っ手が来ないかとビクビクしながら続けた逃亡生活も、一区切り。
甲板に出て外を眺めていたノエルに、レイは躊躇いながらも尋ねる。
「やっぱり、帰りますか?今ならまだ……」
「戻らないわ」
視線は故郷に向けたまま、ノエルは言う。
「だって、あのままあの屋敷にいたら、好きでもない誰かと結婚させられるのよ?それよりも、私は好きな人と歩む道を選びたいの」
明確な決意を持って紡がれた言葉。それならば、レイがとやかく言う筋合いはない。寒くないように、と上着を肩に掛けてやり、船室へと戻る。彼女は今、一人になりたいだろうから。
未練がない、と言えば嘘になる。
けれど、戻るかと聞かれれば答えは否。
どちらかと言えば嫌いな場所だった。
それでも、私が育った場所だから。
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楽園を目指して箱庭を抜け出した。
外の世界は、珍しかった。
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オルタンスへ向かう前の中継地―――ソレイユ。冬の海は凍ってしまっており、船を出すことが出来ない。だから、二人はその町で春を待っていた。
「もう、ちゃんと行けるかどうか確認しておきなさいよ」
「すみません」
自信満々に向かうから、直ぐにオルタンスへ行くことが出来ると思っていた。そんな、全てをレイ任せにしていたノエルにも非はあるのだが、長い年月をかけて染みついた関係は、中々直らない。ノエルが強く言えば、レイは逆らえないのだ。それに、今回は自分の方に責任があると考えていることも、言い返さない要因の一つである。
「チーズケーキを買ってきて」
「え?」
「チーズケーキよ。そしたら許してあげる。だから……一緒に食べましょう」
最後は顔を真っ赤にしながら、しかも声はかなり小さくなってしまったが、レイにはしっかり届いたようで、とても良い笑顔で部屋を出て行く。窓から下を見てみれば、宿から出たレイはスキップまでしている。
少し前までは素直になれなかったのに、随分と成長したものだ。
町に出たレイは、ケーキ屋を探す。
最近、少しずつノエルが素直になってきている。それが本当に嬉しくて、嬉しくて。
そんな中で、誰かの会話が聞こえてきた。
「イヴェールのお嬢様が、使用人と駆け落ちしたらしいな」
「お陰で、国外へ出る船は全て役人に調べられるそうだぞ」
「オルタンスへの中継地であるここも、役人が来るって話だぞ」
「まあ、ヴィオレントから駆け落ちで逃げるんなら、海の向こうの方が良いよな」
「まったく、迷惑な話だ」
三日後、イヴェール家の命令でやって来た役人は、町中の宿を調べた。
けれど、二人を見つけることは出来なかった。
◇ ◆ ◇
楽園の扉はすぐそこにあった。
けれど、扉を掴むには私達の手は短すぎた。
◇ ◆ ◇
二人は宿に泊まることを止め、野宿することを選んだ。役人達の目が、この町から離れるまで。
けれど、世界は二人に優しくなかった。
岩陰に隠れていたところを、見つけられてしまった。
二人で再び走った。逃げ延びるために、走った。
それなのに―――
どうしてこうなってしまうのだろう。
どうしてこうなってしまうのだろう。
どうしてレイは動かないのだろう。
どうして―――
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