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二刀流でなかった頃の話

 兄者、と可愛らしい声に呼ばれた気がした。兄者、兄者、と熱心に呼びかけてくる声色に、弟の声はこんなに高いものだったか、いやいや、流石に声を忘れるということはないだろう、と自問自答したことは胸に秘めておく。それを口にしてしまったが最後、あの可愛い弟は臍を曲げてしまうだろうから。
 桜吹雪の中、身体が形作られる。空気が身の内を通り抜けていく感覚が不思議だった。遅れて、これが呼吸という動作なのかと認識する。契約を交わすために自然と喉が震え、言葉を紡ぐ。骨を、空気を伝って届く音に小さく眉を寄せたことは、きっと気が付かれてはいないだろう。少なくとも喜びに震えている主には。刀として、付喪としては長く在れど、肉体を得たことはこれが初めてだ。過去に己の「声」だと認識していたものとの差異に慣れるまで、少々時間が掛かりそうだった。
 此度の主は、どこかあどけなさの残る少年だった。少年、で良いのだと思う。青年とも、男とも称するには幼かった。傍らに控えているのは近侍だろうか。見知った顔ではない気がしたものの、記憶力に自信はない。まあ、相手からも「おんしとは初めましてじゃの」という挨拶があったのだから、きっと初めましてなのだ。
 熱心に呼びかけてくれていたのは、やはり弟ではなく審神者――主であるらしかった。残念なことに、弟はまだいないらしい。それどころか、この本丸には太刀が髭切しかいないのだという。
 審神者に就任したばかりの主は、今は少しずつ戦場を切り開いている最中であるらしい。太刀を拾うことのできる戦場へは未到達で、日々の鍛刀においても太刀以上を迎えられるような資材は投じてこなかった。未だ短刀や脇差、打刀で何とかやってこれていることや、太刀以上になると手入れで必要になる資材が一気に増えてしまうということが大きかったのだ。
 そのような中で、検非違使と遭遇した。いや、遭遇という表現は正しくないか。同じ戦場に留まり続けているとやって来るのだという彼らについて、諸先輩方による考察を参考にして狙っていたのだと言っていたから。
 初めて交戦した検非違使との戦いではある程度の手応えを感じ、そろそろ太刀の誰かをお迎えしても良いかもね、と話している中で拾われたのが髭切だった。運命感じたよね、とは主の言葉である。戦場についての情報を仕入れるために利用していた先人の知恵の集まる場において、髭切は弟からの呼び名に倣って「兄者」と称されることが多い。自然と主の中でも「兄者」と呼ぶことか普通になっていたらしく、それこそが顕現の際に届いていた呼び声の正体だった。
 弟以外に「兄者」と呼ばれるというのは、何とも不思議な気分だった。あんまり来るのが遅いから弟が増えたんだと言えば、あの子は拗ねるだろうか。泣くだろうか。それとも、怒るだろうか。案外、笑って受け入れてくれるかもしれない。新たな弟は随分と可愛らしいな、なんて。
「なんだか、楽しそうですね」
「ばれちゃったか」
 弟と、この新しい弟――主を挟んで過ごすことができたとしたら、それはどれほど幸せなことだろう。勿論、今の状況から考えるとそれはずっと先のことであるに違いない。それでも、幸いなことに時間はある。ここは兄らしい姿を見せてやれるよう、早く強くなってやらねばならない。弟のためにも、主のためにも。
 言葉を交わしながら、指先を遊ばせる。握ったり、開いたり、曲げたり、伸ばしたり。肌と肌とが重なる度に熱を感じる。全く知らないわけではなかったけれど、基本的には肌に触れることと切り裂くこととが結びついていたので新鮮だった。血のあたたかさとも肉のぬくもりともどこか違うものであるような気がして。
 はたして、最後に斬ったのはいつのことであったか。長く在るからなのか、髭切の名を持つ刀が複数存在しているからなのか、記憶に曖昧な部分がある。弟ことさえ覚えているのであれば問題はないだろうと、気にも留めていない。早々に記憶を辿ることはやめた。
「うん、なんとなく身体というものが分かった気がする」
「初めはなんとなくでええ。こればっかりは、実際に動いてみるんが一番やき」
「そうそう。失敗して、少しずつ慣れていくのは人も刀剣男士も一緒だから」
 人も刀剣男士も一緒。
 その言葉に、良い主と縁を結ぶことができたと思った。同一視するあまり、戦地へ送り出すことを躊躇うようであれば考えねばならない。ただ、せっかく人の器を得たのだ。眺めるばかりであった人の営みを楽しんでみたい、と考えていることも事実。きっと、彼はその感情を否定しない。
 まずは本丸の案内と、出会うことがあれば共に戦う仲間の紹介を。ようこそ、と手を引いてくれた主の本丸は、とてもあたたかい場所だった。
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