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1章《過去編》





心地いい風が頬を撫で、草木や土の香りを鼻腔へ運んできた感覚を皮切りに、ふわ、と水から浮かんでくるように意識が浮上した。……寝ていたのだろうか。いつどこで寝てしまったのか、寝る前に自分は何をしていたのか、全く思い出せない。
霞む視界のピントをあわせるべく、瞬きを2、3回繰り返す。そうしてクリアになった視界は緑色に覆い尽くされていた。
否、緑色ではない。視界いっぱいに広がるこれは草花だ。
──……草原で寝ていたのか?何故、何時から。
そもそも自分の住まいの近くでこれほど自然の多い場所を自分は知らなかった。……ここは何処だ?

「……え?」

見渡せど見渡せど、周りに広がるのは草原……否、豊かな自然が織り成す美しい森林だった。







Prolog〈事の始まり〉






まずは自分の記憶がどこまであるかを確認した。上体を起こす。──ガサガサと自分の体に触れる草がチクリと刺さって痛い──自分のステータスプロフィールを反芻する。
自分の名前……天音初。誕生日……1月1日。血液型はO型で現在16歳、高校生。家族構成。父、自分。寮住みなので別居中。
……よかった。名前もわからなくなってしまうような記憶喪失ではないようだ。
では、数日前の記憶はどうだろう。この前の授業の内容、教師陣の顔、クラスメイトの顔……どれも思い浮かんだので、どうやら寝る前と寝た後の記憶がすっぽりと抜け落ちている様子だった。
しかし俺が寝るとすればそれは寮の自室にほかならない、と思う。寮ではほかの部屋への寝泊まりは基本禁止されているし、実家から遠く離れた高校に通っているので父のところへ押しかけたというのも可能性が低い。というか、そもそも俺ならどんな状況に置かれたとしても親のところへ帰ったりはしないだろう。

さて、先程も言ったが、高校の寮の近くにはこんな大自然の残る場所はない。高校があるのだから周りはそれなりに栄えているし住宅街も多い。俺の住んでいる地域は森や山の多い地域ではない。ただ自分の部屋で寝ていただけのはずなのにどうしてこんなところへ?

「夢……?」

思い当たるものがもうそれしかなかった。自分の脳が記憶の整理をするさなかに見せる幻想。記憶の継ぎ接ぎを賄われた空想世界。自分の最近の記憶で自然に触れた機会はなかったが、例えばネットでたまたまみかけたとか、遠い昔の地元の方の風景が散り散りになっていたりするのだろう。そうに違いない。そうでなければ、鍵のかけた自室から突然森に連れ去られるなんて現象、どう説明がつくのだ。
俺はこれを夢と断定し、現実の自分が目を覚ますまでこの辺りを散策することにした。

それにしたって全くリアルな夢だな、と感じる。土の匂いと草に付く露の香り。花と樹木のかぐわしい香り。夢というものは匂いまで表現し得るものだったか。 いやしかし、匂いというものも突き詰めれば記憶のかたまり。ならば、脳が仮想を見せても問題は無いはず。
立ち上がってみると、自分がしっかりとローファーを履いていることに気づいた。
服装はサマーセーターとカットシャツ、学校指定のネクタイ。鈍い青のチェックカットソー。それは自分の学校の制服だった。
自分は帰ってから制服のまま眠ってしまったりしたのだろうか。それとも、自分の深層心理に焼き付いている服装がこれだとでも言うのだろうか。前者だと嬉しい。
服装を確認してから、辺りをぐるりと見渡した。森の中にしては、ここは開けた場所になっているようだ。自分が仰向けに寝転がっていても、すぐに見えたのは木ではなく草花だったのはそういうことだった。
花も白、黄色、ピンクなど、小さく可憐な花が控えめに咲いている。イメージする鬱蒼とした雑草やどきつい色の花が見当たらない。多少は手入れされた草原なのだろうか。近くに湖だとか池だとか、もしかしたら民家があるかもしれない。
しかし、どちらに進もうか、悩む。
どこをどう見ようと、風景が同じようにしか見えないのだ。わかりやすい目印などは当たり前だが無い。
ここは直感で利き手の右手側を選択した。とにかく右にまっすぐ進む。こちらが北に進むのか南に進むのか、それとも東か西か。なにもわからない。開けた場所から1歩出てしまえば、そこはもうどこを見渡せど同じ景色の森の中だった。道に迷ってしまったらどうしよう。
ああ、熊だとか、そういう危険な動物まで出てきたらどうすれば? それまでに目を覚まして欲しい。

明晰夢というものは不思議な感覚だ。実は過去に何度か見たことがあるのだが、まあ自分の体のはずのなのに、夢の中の自分から現実世界の自分を操れないのはなんとも歯がゆいというか、不気味な感覚だという経験しかない。現実の自分に早く目を覚まして欲しいのに、全く目を覚まさないのだ。起きろ、思えど思えど全く意識が現実に戻らないというのは、なかなか経験しえない感覚だろう。

ザクザクと、ローファーでなにも手のつけられていないような地面を踏み荒らす。
本当に何も無く、歩けどもあるのは大きく育ちすぎたような雑草と太さのまばらな木々だけ。一体なんだというのだろう。夢に目的があって、それを果たすというのならわかりやすいのに──……


ふと、自分以外が発した物音が聞こえた気がした。 ガサリと草をかき分ける音だ。
バッとそちらを向き、その場にしゃがみこんで身を隠す。

一体誰……いや、”何”だ?

この場合、同じ人間である可能性は低かった。
夢であるというのに、血の気が引いていく。目が冴える。ドクドクという心臓の音が煩い。この音まで伝わってしまったら。
無意識に、息を潜めた。
夢であると、分かってはいるが、だけれども。妙なリアル感があるのだ。汗で冷たい手をぐっと握りしめる。現実なのか、夢なのか、幻想なのか、混乱した頭では理解ができない。
時間感覚も鈍ってきた。物音がしてから、今は何秒?何分?どれくらい経っていて、相手はどこまで来ているのか。遠ざかっているのか、それともこちらに近づいているのか。

耳をすました。

少し近くで、鈍くて重い足音。
ビビ、と理性ではなく本能が察する。

……この足音は…人間のものでは無い。

そうはっきりと理解してしまった瞬間、ぞわりと寒気が自分を襲った。背筋から登ってくる嫌な感覚と共に、肌が粟立つ。

ああ、最悪、最悪最悪。最低の展開。
自分を恨んだ。なんて夢を。

怖い。命が危険に晒される恐怖。その瞬間を待つ恐怖。脳内で鳴り響く警鐘。
飛び出そうなほど高鳴っている心臓を押さえつけながら、それでも音を立てないように長く伸びた草に身を隠した。近づく足音。近づけば近づくほど、その図体のデカさがわかってくる。軽い地鳴り。

……おかしい。いくらなんでも…………
””デカ過ぎないか?””

そう思った瞬間、目の前に現れた巨体。
2メートルを優に超す図体と、筋肉隆々な肉体とごつごつとした肌。捕まれば握りつぶされてしまうであろう大きな手、尖った爪。それを包んでいるのは僧侶のような衣服。

人型。しかしヒトではない。

黄色、あるいは白色、あるいは黒色をしているはずの肌は、青い色を宿している。ぬらりと光るそれは不気味で恐ろしい。顔は胴体に較べてアンバランスに大きく、胴体と脚が3分の2ならば顔はその残り、3分の1を占めている。
皺が寄り、口は大きく裂けていて、ぽっかり空いたその中には牙がビッシリと生えている。ギザギザしたそれは黄色く汚らしい。
その顔にふたつあるはずの瞳はギョロリと大きく真ん中に1つ居座っているだけだった。赤く濁った瞳の色は、それだけで目の前のそれがどれだけ恐ろしいものなのかを物語っているような色だった。

「ひ…………!!」

自分の口から甲高く悲鳴が上がる前に、口を抑えた。
ここで叫んだら最後、”やられて”しまうにちがいない。
目が離せない。目を離してしまったら、気付かぬうちに接近されるかも。流れる冷や汗。下がる体温、上がる心拍……!

ドクドク、煩い。

早く、早く早く早く早く早く!早く!この時が過ぎ去ってくれ!

焦れば焦るほど手には汗が溢れ、心臓は音を増していく。思考回路が焼け焦げる。
はぁはぁと荒い息があいつに伝わらないかという不安が募っていく。森の静寂が痛く、自分の微かな生命音が煩わしくて仕方がない。頭の中の警鐘の音が、ジリジリ、ジリジリ、五月蝿い。

ドス……ドス………

目の前を、化け物が横切っていく。
気づかれていない。
あいつには瞳はあるけれども耳のようなものがなかった。恐らく耳の穴はあるけれど、集音する耳自体はない。だから、そこまで聴力は高くないし、目はひとつだから視野も狭い。
少しだけ冷静になった頭で状況を整理して、推察する。 このままいれば、きっと。

ドス………ドス……ドス………

怪物は、俺の目の前はとっくに通り過ぎ、鈍足に森の中を歩くだけだった。ほっと息が出る。汗を拭って、そっと姿勢を整えた。心拍も少し落ち着いてきたみたいだ。なんだったんだ今のは?余りにも浮世離れしすぎていて、自分の目が信じられない。やはりこれは夢なんだ……そうして油断していた、その時に。
ぱきり
足元にあった小枝を踏んでしまって、小気味いい音が鳴る。足音が止まった。

─…振り返る?

咄嗟に雑草の中へと伏せた。
この時の速さと言ったら、かの有名な陸上選手も裸足で逃げ出すほどの反射だっただろう。
もう一度、心拍が急上昇して、焦りが脳内を支配した。視界はもう草しか見えなくて、化け物がどう動くか自分からは全く見えない。咄嗟に伏せてしまったことを少し後悔した。見えないというのは何よりも恐怖を生み出してしまうのに……!!
死ぬかもしれない。夢の中だけれど、痛いのは嫌だ。怖い。クソ、なんでこんな目に?

鈍る時間感覚で何十分、正確な時間は何秒か。それほど針が動いた頃。
もう一度聞えてきた足音は遠ざかって言って、やがて微かにしか聞えなくなった。
俺はもうその場にへたりこんでしまって、しばらく腰が立たない様子だった。何もしていないのに息切れが止まらずにただぜいぜいと喘いだ。

何だこの夢は?なんだって悪趣味すぎるのではないか?
そもそもあんな化け物俺は知らないし見たことも無い、妖怪であろうというのは推測できるがそれまでだし、俺は妖怪の類を信じていないのでそういう文献を目にしたことも無い。のに。

「ッ……クソが………!」

思わず悪態を吐いた。
俺はいつまでここでさ迷えばいいのだ、ましてやあんな化け物が徘徊しているかもしれないこの森の中を。
今はどのくらいの時間なんだ?朝?昼? 太陽が見えるからまだ日は落ちないだろう。だが、どうだ?時間が経って夕方が来てしまえば、ここは時間のある夢の中なのだから、夜がくるということ。夜が来たら俺はどこで隠れて、どこですごせばいい?

……あとどれ位の時間で『俺』は目覚める?

終わりのわからない絶望感。これが明晰夢の最悪最低のパターンだった。怖い夢なんてざらにあるし謎の生物が出てくるような場合もあるが、夢だとわかっている限り、「終わり」が来るとわかっているのに、それがいつなのかが分からない。助けの求めようがない。
俺はこの手の明晰夢のこの恐怖が何よりも嫌いだった。
鍵なんかかけなきゃよかった。帰ってすぐ寝てしまっていたのなら、もしかしたらアイツが部屋に押し入ってきて勝手に起こしてくれたかもしれないのに。
1人で何もせず寝たのなら、タイマーもかけていないだろうし、本当に自分が自主的に目覚めるのを待つだけだ。
待つという苦痛を、終わりを悟っているのに終わらない恐怖を、目覚めるまで味わう地獄………
俺はその場で、倒れ込んでしまった。
ああ、目覚めるならとっとと目覚めればいいのに。こんな胸糞悪い夢、早く記憶から消してしまいたい。もう一度あの化け物に会う前に、なんとか目覚めてほしい………

俺に出来るのは、そう願うことだけ。

「早く助けてくれよ……」

俺はそう、小さく呟いた。
───目が覚めたところで、汗で服がへばりついて気持ち悪いだろうし、目覚めは良くはないだろうなあ、とぼんやりと思いながら。

Prolog end
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