崩スタ
「モゼ、これを差し上げます」
椒丘の薬室で手伝いを終えたときのこと。モゼが椒丘に差し出されたのは、手のひらに載るほどの大きさをした丸い缶ケースだった。蓋が開かれたまま椒丘の手に載ったそれは、中に白いクリームが入っている。
ほんのりとした花の香りがモゼの鼻を掠め、彼は首を傾げた。その香りに覚えがある。たしか、前に椒丘の薬草集めを手伝ったときに摘んだ花の香りだ。控えめで甘すぎず、悪くない香りだと思っていた。
「僕が作ったハンドクリームです。前に採りに行った花の香りを気に入ったようだったので使ってみました。君はよく手を洗っているでしょう、手荒れ防止になりますよ」
そう言われたモゼだったが、椒丘から差し出されたそれを受け取る気配はなかった。あまり自分のケアに興味が無いのか、フードで半分隠れた顔をふいと逸らして答える。
「・・・・・・必要ない」
まるで母親におせっかいを焼かれた反抗期の男児のようである。椒丘がやれやれという顔をしていると、横から声が飛んできた。
「まあまあ、試しに塗ってみなさいよ」
口を挟んできたのは、横で何やら固そうな実を素手で割っていた飛霄である。窮屈な執務室から飛び出して来た飛霄が、椒丘の薬室でしばしのサボり──休憩をしているのはいつものことであった。傍らの薬研は無用の長物と化し、飛霄は手の中にある実をまた三つばかり割った。椒丘曰く、あれも薬になるらしい。
「椒丘のことだから、仕事に影響が出ないように匂いもすぐ消えちゃうものでしょ? 自分のコンディションを整えておくのも大事なことよ」
飛霄はそう言って雑に両手を払ってから、椒丘の手のひらにある缶をひょいと取った。ほら、と言いながら飛霄がモゼの腕をぐいと引く。軽く引いたつもりだろうが、モゼは僅かに眉を顰めた。力が強かったらしい。
それから飛霄は自分のグローブを外し、いつもは見えない白い手を露わにする。腕を引いたモゼのグローブや手甲もひょいひょいと乱暴に外して、そこらに放ってしまった。強引な主人を前にして、モゼは大人しくされるがままになっている。
椒丘が傍らで溜息をついて、抜け殻のようになった二人のそれらを拾い上げては近くの机に並べた。
飛霄はさっそく素手で椒丘作のハンドクリームを掬い取り、「いい匂いね」などと言いながら上機嫌にモゼの手に塗り始めた。ひやりとした感触がモゼの手に触れたが、それはすぐに柔らかく体温に馴染む。
その間にせっせと周りを片づけていた椒丘が丸椅子を三人分持って来て、せっかちにも立ったまま塗り始めた飛霄とモゼを座るように促した。
飛霄の白い両手が、モゼの傷だらけの手を乱暴に揉んでいる。飛霄の指がモゼの手の上を滑るたび、嫌でも気の抜けそうな花の香りがした。
「あなたの手が汚れます」
「そんなの今更気にしないわ」
モゼの短い抗議を、飛霄は顔も上げずにそう一蹴した。モゼの言葉を否定することもしなかった。
それから二人の傍らに腰を落ち着けた椒丘に、飛霄がぱっと顔を向けた。
「ねえ、そっちの手はあなたがやってくれない?」
椒丘はその言葉を予想していたかのように短く溜息をついて、「わかりました」と言った。飛霄はモゼの両手から装束を剥ぎ取ったのだから、両手に塗られることは明白だった。モゼは嫌そうに目を細めたが、しかし主人の命令は絶対である。モゼは観念した。
こうしてモゼは両手を好き勝手に揉まれた。飛霄に揉まれた左手は彼女の力加減が強すぎてなんだかジンジンするし、椒丘に揉まれた右手は何かのツボでも押されたのかポカポカと温かい。
モゼはやっと解放されたあと、椒丘がきれいに畳んでおいた包帯やグローブをひとつひとつ身に着け、いつもの装いを整える。両手をそれらで覆ってしまうと、あの花の香りは隠れて消えてしまった。
満足したらしい飛霄は、またあの固そうな実を割りに戻っている。
「モゼ」
薬草を煮ている小鍋をかき混ぜていた椒丘が、部屋を出て行こうとするモゼに声をかける。モゼが振り返ると、椒丘が笑って言った。
「無くなったら言うんですよ。また作りますから」
少し間があったが、モゼは小さくひとつ頷いてから部屋を出た。手の中には小さな缶ケースが握られている。
今日は少し、手を洗うのがもったいない気がした。
椒丘の薬室で手伝いを終えたときのこと。モゼが椒丘に差し出されたのは、手のひらに載るほどの大きさをした丸い缶ケースだった。蓋が開かれたまま椒丘の手に載ったそれは、中に白いクリームが入っている。
ほんのりとした花の香りがモゼの鼻を掠め、彼は首を傾げた。その香りに覚えがある。たしか、前に椒丘の薬草集めを手伝ったときに摘んだ花の香りだ。控えめで甘すぎず、悪くない香りだと思っていた。
「僕が作ったハンドクリームです。前に採りに行った花の香りを気に入ったようだったので使ってみました。君はよく手を洗っているでしょう、手荒れ防止になりますよ」
そう言われたモゼだったが、椒丘から差し出されたそれを受け取る気配はなかった。あまり自分のケアに興味が無いのか、フードで半分隠れた顔をふいと逸らして答える。
「・・・・・・必要ない」
まるで母親におせっかいを焼かれた反抗期の男児のようである。椒丘がやれやれという顔をしていると、横から声が飛んできた。
「まあまあ、試しに塗ってみなさいよ」
口を挟んできたのは、横で何やら固そうな実を素手で割っていた飛霄である。窮屈な執務室から飛び出して来た飛霄が、椒丘の薬室でしばしのサボり──休憩をしているのはいつものことであった。傍らの薬研は無用の長物と化し、飛霄は手の中にある実をまた三つばかり割った。椒丘曰く、あれも薬になるらしい。
「椒丘のことだから、仕事に影響が出ないように匂いもすぐ消えちゃうものでしょ? 自分のコンディションを整えておくのも大事なことよ」
飛霄はそう言って雑に両手を払ってから、椒丘の手のひらにある缶をひょいと取った。ほら、と言いながら飛霄がモゼの腕をぐいと引く。軽く引いたつもりだろうが、モゼは僅かに眉を顰めた。力が強かったらしい。
それから飛霄は自分のグローブを外し、いつもは見えない白い手を露わにする。腕を引いたモゼのグローブや手甲もひょいひょいと乱暴に外して、そこらに放ってしまった。強引な主人を前にして、モゼは大人しくされるがままになっている。
椒丘が傍らで溜息をついて、抜け殻のようになった二人のそれらを拾い上げては近くの机に並べた。
飛霄はさっそく素手で椒丘作のハンドクリームを掬い取り、「いい匂いね」などと言いながら上機嫌にモゼの手に塗り始めた。ひやりとした感触がモゼの手に触れたが、それはすぐに柔らかく体温に馴染む。
その間にせっせと周りを片づけていた椒丘が丸椅子を三人分持って来て、せっかちにも立ったまま塗り始めた飛霄とモゼを座るように促した。
飛霄の白い両手が、モゼの傷だらけの手を乱暴に揉んでいる。飛霄の指がモゼの手の上を滑るたび、嫌でも気の抜けそうな花の香りがした。
「あなたの手が汚れます」
「そんなの今更気にしないわ」
モゼの短い抗議を、飛霄は顔も上げずにそう一蹴した。モゼの言葉を否定することもしなかった。
それから二人の傍らに腰を落ち着けた椒丘に、飛霄がぱっと顔を向けた。
「ねえ、そっちの手はあなたがやってくれない?」
椒丘はその言葉を予想していたかのように短く溜息をついて、「わかりました」と言った。飛霄はモゼの両手から装束を剥ぎ取ったのだから、両手に塗られることは明白だった。モゼは嫌そうに目を細めたが、しかし主人の命令は絶対である。モゼは観念した。
こうしてモゼは両手を好き勝手に揉まれた。飛霄に揉まれた左手は彼女の力加減が強すぎてなんだかジンジンするし、椒丘に揉まれた右手は何かのツボでも押されたのかポカポカと温かい。
モゼはやっと解放されたあと、椒丘がきれいに畳んでおいた包帯やグローブをひとつひとつ身に着け、いつもの装いを整える。両手をそれらで覆ってしまうと、あの花の香りは隠れて消えてしまった。
満足したらしい飛霄は、またあの固そうな実を割りに戻っている。
「モゼ」
薬草を煮ている小鍋をかき混ぜていた椒丘が、部屋を出て行こうとするモゼに声をかける。モゼが振り返ると、椒丘が笑って言った。
「無くなったら言うんですよ。また作りますから」
少し間があったが、モゼは小さくひとつ頷いてから部屋を出た。手の中には小さな缶ケースが握られている。
今日は少し、手を洗うのがもったいない気がした。
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