原神
「ツィッ、ツィッ、ツィッ♪」
空も白み始め、夜の見廻りからそろそろ引き上げようとした頃。魈の耳にふと軽やかな声が聞こえた。一瞬ヤマガラのように思えたが、しかしよく聞いてみればそれは幼い子が鳴き真似をしているものと分かる。
適当な木の枝にとまって辺りを見下ろしてみると、大きな鈴を頭に飾った小さな少女が地面にしゃがみ込んでいた。歌塵浪市真君の弟子、ヨォーヨである。彼女の足元には、彼女を慕うように数羽のヤマガラがちょんちょんと飛び跳ねていた。
ヨォーヨとはたまに甘雨と連れ立っているところに出くわすことがあり、いつの間にか「魈にぃに」と甘雨と同じような親しみを込めて呼ばれるようになってしまっていた。仙人たちに愛されるだけあって、彼もまた、彼女のあのまるい目に見つめられれば不思議と邪険に出来ないでいる。
魈は彼女から視線を外し、あたりをぐるりと見渡す。遮蔽物の少ない朝の野原には魔物の気配はなく、見境なく突進してくるイノシシなども見えない。仙人のもとで修業している身とはいえ、ヨォーヨを襲うようなものがあればすぐさま己が屠らねばと思ったが、どうやらこのまま離れても危険はなさそうだった。
魈が枝を蹴って離れようとしたその時。ヨォーヨの足元にいたヤマガラが一羽、ツイっと魈の方へ頭を上げた。小さなヤマガラと目が合ったかと思った次の瞬間、それにつられて顔を上げたヨォーヨのまるい瞳が魈を捉える。ただの凡人の目では魈の姿を捉えられる距離ではなかったが、山に慣れた彼女の目に、魈はあっけなく見つかってしまった。
「魈にぃに!」
ヨォーヨの顔がぱっと華やいだ。昇り始めている朝日が輝きを増したように思えて、魈はぎゅっと目を細める。ヨォーヨは立ち上がり、ぽてぽてと背負った籠を揺らしながら魈のいる木の下へ走り出した。驚いたヤマガラたちが四方に飛び立つ。木の下にやってきたヨォーヨは、嬉しそうに魈を見上げた。
「おはようございます、魈にぃに」
そうまっすぐ見上げられて畏まったように挨拶をされれば、いよいよそれを無視して去るのも躊躇われ、魈は渋々といった様子でヨォーヨのもとに降り立った。
しかしヨォーヨの目の前に降りた途端、彼女は「きゃっ」と小さく悲鳴を上げる。何事か、と聞く前に、ヨォーヨが魈の右腕を指さした。
「魈にぃに、怪我をしてるの⁉」
問われて自分の右腕を見てみれば、昨夜屠った魔物の血が乾ききらないまま肘のあたりについていた。昨晩は雑魚を数体屠っただけだったが、どうやら少々返り血を浴びたらしい。子どもに見せるものではなかったと後悔しつつ、魈は左手で雑に血を拭った。拭い切れなかった血が右肘から下に伸び、拭った左手の布地にはじわっと血が染みつく。
「ただの返り血だ、心配するな。子供が見るものではない」
そう言われてヨォーヨの顔は一度安堵に変わったが、魈が雑にゴシゴシと血を拭うのを見てすぐにむっと口を開いた。
「そんなに擦ったら肌が赤くなっちゃうよ! それに、今度は左手が汚れちゃう。そうだ、これを使って?」
魔物の返り血を見ても怯まないのは、さすが仙人の弟子とでも言おうか。ヨォーヨはポケットから、白くて柔らかそうなハンカチを取り出した。それをずい、と魈へ差し出すと、彼は面食らってそのハンカチを凝視する。魈にとっては己が血に塗れようが肌が傷つこうが特に気にするところではないのだが、かといって、放っておけとその手を払うことも出来なかった。仙人たちが蝶よ花よと可愛がり、己にもニコニコと笑顔を向けるその無垢な少女を無下には出来まい。
ヨォーヨは断りもしないが受け取ろうともしない魈の様子を見て首をかしげたが、すぐにはっと思い立つ。そして腕まくりでもしそうな張りきった声で言った。
「ヨォーヨが拭いてあげるね!」
触るな、と魈が言うより早くヨォーヨが魈の右手首を取った。思いもよらないその手の小さく柔らかな感触に、魈はひやりとする。あまり他人と触れ合わない魈にとって、それはとても頼りなく弱いもののように思えた。たしかにこんな手では、日ごろ彼女が言うように槍を振るうのも一苦労だろう。
そんな魈のことなど気に留めず、ヨォーヨは雑に擦って伸びた肘の血を見て「ハンカチを濡らしたほうが良いかしら」などと独り言ちる。それから背負っていた籠から竹筒の水筒を出して、手際よくハンカチを濡らした。それはお前の飲み水だろう、などと口を挟むことも出来ず、魈はただヨォーヨの手元をじっと見ているしかない。人間の、それも幼い少女ともなれば壊れ物のようで扱いに困る。
「はい、腕を出してくださいね」
濡れたハンカチを片手に、そう言いながら改めて魈の右腕をぐいと引っ張る。肘にあてられたハンカチは水を吸って冷たく、それでいてふくふくとしたヤマガラのように柔らかかった。丁寧にハンカチで拭われる感触はまるで撫でられているようで、どうにも落ち着かない。
ヨォーヨは労わるような手つきで魈の腕を丁寧に拭いた。不覚にも力の抜けそうな感触に自分を律しながらヨォーヨを見れば、元来世話好きなのか鼻歌でも歌い出しそうな様子で笑っている。
「はい、そちらの手も出してくださいな」
そう言いながらヨォーヨがハンカチを裏返したのを見た時、魈はぐっと顔を顰めた。あの白く柔らかだったハンカチは、拭った血で赤黒くなっている。魈の様子に気づかないヨォーヨは裏返した綺麗な方の面で、再び魈の左手の装束を染み抜きするようにハンカチをあてようとする。
「ま、まて」
咄嗟に声が出た。反射で引っ込めようとした己の手に力を入れ、乱暴に振り払うことだけは避けた。きょとんとこちらを見上げるヨォーヨは、本当にハンカチが汚れることなど気にしていないようである。躊躇いつつも、魈は振り絞るような声で言った。
「我のせいで、その、お前のハンカチが……」
世話上手なヨォーヨの調子に乗せられて、今更ながらに気付いたというか、正気に戻ったというか。そう、己を綺麗にするということは、その綺麗なハンカチを汚すことであった。それが赤黒く汚れた様は元が白かっただけに余計に汚く見え、魈の胸に罪悪感がじわりと広がる。
ヨォーヨは握っているハンカチを見つめると、ああ、と納得したような顔をした。それから今にも逸らしそうな魈の目を見てにっこり笑って、まるで母が子に言い聞かせるようにやさしく言う。
「大丈夫! ヨォーヨ、お洗濯も得意だから!」
子どもというのは、ここまで純粋なものだろうか。おそらく、これはヨォーヨの持ち合わせた本質なのだろう。ヨォーヨは屈託なく笑い、今度こそ躊躇いなくそのハンカチを魈の左手にあてる。
黒い装束は血が滲んでいてもその色は分からなかったが、柔らかいハンカチを押しあてるたびにそれは赤黒い染みを吸い上げていった。
***
絶雲の間にでも行くのなら送ってやろうと思ったが、今日は姉弟子のお使いなのだとヨォーヨは言った。
「師姐ったら、新作料理の研究でスイートフラワーを使いすぎて、切らしていたのを忘れてたんですって!」
ハンカチのお礼と言ってはなんだが、ヨォーヨに倣って魈も草むらにしゃがみ込み、ぷちん、ぷちんとスイートフラワーを摘む。黄色いそれを束ねてヨォーヨに渡せば、花に負けぬ可愛らしい笑顔でお礼を言うので悪い気はしなかった。ヨォーヨの頭に飾った鈴と同じ色をした小さな花束は、彼女によく似合う。
ヨォーヨはスイートフラワーを探しながら、魈に璃月港での話や、修行の話、仙人たちの話などをした。魈はそれに「ああ」とか「そうか」とか答えるだけだったが、ヨォーヨはずっと楽しそうにおしゃべりをしていた。
「これだけ集まれば大丈夫。魈にぃに、どうもありがとう!」
籠いっぱいになったスイートフラワーを背負って、ヨォーヨは元気にお礼を言った。魈が璃月港まで送ろうかと言えば、月桂がいるから大丈夫だと言う。道中さほど危険もなさそうなので、素直に護衛は月桂に任せることにした。
「魈にぃにも、気を付けて帰るんですよ!」
お姉さんぶったように言うヨォーヨに素直に頷いて、魈は彼女の背中を見送る。もう人間たちが活動を始める時間になっていて、魈も文字通り風のように消え望舒旅館を目指した。
己の纏う風の中で、慣れない花の香りが魈の鼻を掠める。柔らかなハンカチの感触を思い出して、無意識に手を握った。
スイートフラワーの甘い香りは、まだ魈の手の中に残っている。
空も白み始め、夜の見廻りからそろそろ引き上げようとした頃。魈の耳にふと軽やかな声が聞こえた。一瞬ヤマガラのように思えたが、しかしよく聞いてみればそれは幼い子が鳴き真似をしているものと分かる。
適当な木の枝にとまって辺りを見下ろしてみると、大きな鈴を頭に飾った小さな少女が地面にしゃがみ込んでいた。歌塵浪市真君の弟子、ヨォーヨである。彼女の足元には、彼女を慕うように数羽のヤマガラがちょんちょんと飛び跳ねていた。
ヨォーヨとはたまに甘雨と連れ立っているところに出くわすことがあり、いつの間にか「魈にぃに」と甘雨と同じような親しみを込めて呼ばれるようになってしまっていた。仙人たちに愛されるだけあって、彼もまた、彼女のあのまるい目に見つめられれば不思議と邪険に出来ないでいる。
魈は彼女から視線を外し、あたりをぐるりと見渡す。遮蔽物の少ない朝の野原には魔物の気配はなく、見境なく突進してくるイノシシなども見えない。仙人のもとで修業している身とはいえ、ヨォーヨを襲うようなものがあればすぐさま己が屠らねばと思ったが、どうやらこのまま離れても危険はなさそうだった。
魈が枝を蹴って離れようとしたその時。ヨォーヨの足元にいたヤマガラが一羽、ツイっと魈の方へ頭を上げた。小さなヤマガラと目が合ったかと思った次の瞬間、それにつられて顔を上げたヨォーヨのまるい瞳が魈を捉える。ただの凡人の目では魈の姿を捉えられる距離ではなかったが、山に慣れた彼女の目に、魈はあっけなく見つかってしまった。
「魈にぃに!」
ヨォーヨの顔がぱっと華やいだ。昇り始めている朝日が輝きを増したように思えて、魈はぎゅっと目を細める。ヨォーヨは立ち上がり、ぽてぽてと背負った籠を揺らしながら魈のいる木の下へ走り出した。驚いたヤマガラたちが四方に飛び立つ。木の下にやってきたヨォーヨは、嬉しそうに魈を見上げた。
「おはようございます、魈にぃに」
そうまっすぐ見上げられて畏まったように挨拶をされれば、いよいよそれを無視して去るのも躊躇われ、魈は渋々といった様子でヨォーヨのもとに降り立った。
しかしヨォーヨの目の前に降りた途端、彼女は「きゃっ」と小さく悲鳴を上げる。何事か、と聞く前に、ヨォーヨが魈の右腕を指さした。
「魈にぃに、怪我をしてるの⁉」
問われて自分の右腕を見てみれば、昨夜屠った魔物の血が乾ききらないまま肘のあたりについていた。昨晩は雑魚を数体屠っただけだったが、どうやら少々返り血を浴びたらしい。子どもに見せるものではなかったと後悔しつつ、魈は左手で雑に血を拭った。拭い切れなかった血が右肘から下に伸び、拭った左手の布地にはじわっと血が染みつく。
「ただの返り血だ、心配するな。子供が見るものではない」
そう言われてヨォーヨの顔は一度安堵に変わったが、魈が雑にゴシゴシと血を拭うのを見てすぐにむっと口を開いた。
「そんなに擦ったら肌が赤くなっちゃうよ! それに、今度は左手が汚れちゃう。そうだ、これを使って?」
魔物の返り血を見ても怯まないのは、さすが仙人の弟子とでも言おうか。ヨォーヨはポケットから、白くて柔らかそうなハンカチを取り出した。それをずい、と魈へ差し出すと、彼は面食らってそのハンカチを凝視する。魈にとっては己が血に塗れようが肌が傷つこうが特に気にするところではないのだが、かといって、放っておけとその手を払うことも出来なかった。仙人たちが蝶よ花よと可愛がり、己にもニコニコと笑顔を向けるその無垢な少女を無下には出来まい。
ヨォーヨは断りもしないが受け取ろうともしない魈の様子を見て首をかしげたが、すぐにはっと思い立つ。そして腕まくりでもしそうな張りきった声で言った。
「ヨォーヨが拭いてあげるね!」
触るな、と魈が言うより早くヨォーヨが魈の右手首を取った。思いもよらないその手の小さく柔らかな感触に、魈はひやりとする。あまり他人と触れ合わない魈にとって、それはとても頼りなく弱いもののように思えた。たしかにこんな手では、日ごろ彼女が言うように槍を振るうのも一苦労だろう。
そんな魈のことなど気に留めず、ヨォーヨは雑に擦って伸びた肘の血を見て「ハンカチを濡らしたほうが良いかしら」などと独り言ちる。それから背負っていた籠から竹筒の水筒を出して、手際よくハンカチを濡らした。それはお前の飲み水だろう、などと口を挟むことも出来ず、魈はただヨォーヨの手元をじっと見ているしかない。人間の、それも幼い少女ともなれば壊れ物のようで扱いに困る。
「はい、腕を出してくださいね」
濡れたハンカチを片手に、そう言いながら改めて魈の右腕をぐいと引っ張る。肘にあてられたハンカチは水を吸って冷たく、それでいてふくふくとしたヤマガラのように柔らかかった。丁寧にハンカチで拭われる感触はまるで撫でられているようで、どうにも落ち着かない。
ヨォーヨは労わるような手つきで魈の腕を丁寧に拭いた。不覚にも力の抜けそうな感触に自分を律しながらヨォーヨを見れば、元来世話好きなのか鼻歌でも歌い出しそうな様子で笑っている。
「はい、そちらの手も出してくださいな」
そう言いながらヨォーヨがハンカチを裏返したのを見た時、魈はぐっと顔を顰めた。あの白く柔らかだったハンカチは、拭った血で赤黒くなっている。魈の様子に気づかないヨォーヨは裏返した綺麗な方の面で、再び魈の左手の装束を染み抜きするようにハンカチをあてようとする。
「ま、まて」
咄嗟に声が出た。反射で引っ込めようとした己の手に力を入れ、乱暴に振り払うことだけは避けた。きょとんとこちらを見上げるヨォーヨは、本当にハンカチが汚れることなど気にしていないようである。躊躇いつつも、魈は振り絞るような声で言った。
「我のせいで、その、お前のハンカチが……」
世話上手なヨォーヨの調子に乗せられて、今更ながらに気付いたというか、正気に戻ったというか。そう、己を綺麗にするということは、その綺麗なハンカチを汚すことであった。それが赤黒く汚れた様は元が白かっただけに余計に汚く見え、魈の胸に罪悪感がじわりと広がる。
ヨォーヨは握っているハンカチを見つめると、ああ、と納得したような顔をした。それから今にも逸らしそうな魈の目を見てにっこり笑って、まるで母が子に言い聞かせるようにやさしく言う。
「大丈夫! ヨォーヨ、お洗濯も得意だから!」
子どもというのは、ここまで純粋なものだろうか。おそらく、これはヨォーヨの持ち合わせた本質なのだろう。ヨォーヨは屈託なく笑い、今度こそ躊躇いなくそのハンカチを魈の左手にあてる。
黒い装束は血が滲んでいてもその色は分からなかったが、柔らかいハンカチを押しあてるたびにそれは赤黒い染みを吸い上げていった。
***
絶雲の間にでも行くのなら送ってやろうと思ったが、今日は姉弟子のお使いなのだとヨォーヨは言った。
「師姐ったら、新作料理の研究でスイートフラワーを使いすぎて、切らしていたのを忘れてたんですって!」
ハンカチのお礼と言ってはなんだが、ヨォーヨに倣って魈も草むらにしゃがみ込み、ぷちん、ぷちんとスイートフラワーを摘む。黄色いそれを束ねてヨォーヨに渡せば、花に負けぬ可愛らしい笑顔でお礼を言うので悪い気はしなかった。ヨォーヨの頭に飾った鈴と同じ色をした小さな花束は、彼女によく似合う。
ヨォーヨはスイートフラワーを探しながら、魈に璃月港での話や、修行の話、仙人たちの話などをした。魈はそれに「ああ」とか「そうか」とか答えるだけだったが、ヨォーヨはずっと楽しそうにおしゃべりをしていた。
「これだけ集まれば大丈夫。魈にぃに、どうもありがとう!」
籠いっぱいになったスイートフラワーを背負って、ヨォーヨは元気にお礼を言った。魈が璃月港まで送ろうかと言えば、月桂がいるから大丈夫だと言う。道中さほど危険もなさそうなので、素直に護衛は月桂に任せることにした。
「魈にぃにも、気を付けて帰るんですよ!」
お姉さんぶったように言うヨォーヨに素直に頷いて、魈は彼女の背中を見送る。もう人間たちが活動を始める時間になっていて、魈も文字通り風のように消え望舒旅館を目指した。
己の纏う風の中で、慣れない花の香りが魈の鼻を掠める。柔らかなハンカチの感触を思い出して、無意識に手を握った。
スイートフラワーの甘い香りは、まだ魈の手の中に残っている。
1/1ページ