はじまりはじまり
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忍術学園。
父の古い友人が創り上げたという学舎。
眩しいほどの未来を抱いた、忍びのたまご達が集う場所。
ここへ来て、もうじき4年が過ぎようとしている。
息をつく暇もないほど怒涛のような毎日で、文字通りあっという間に過ぎていった時間。
祥子は、昼下がりの中庭を掃除する手を止めて、ふうと息を吐いた。
新しい生活に慣れることに手一杯ではあったものの、慌ただしかったこの4年間に感謝をしている。
やることが多ければ多いほど、忙しければ忙しいほど、余計なことを考えずに済んだから。
しかし、ここでの生活に慣れ自分の時間を持てるようになった今、こうしてふとした瞬間に、得体の知れない不安や恐れや焦燥感が反動のように襲ってくる。
いつかの記憶が、真っ黒な津波となって祥子を呑み込もうと迫ってくる。背後から、じわじわと。
びくりと肩を縮め、背後を確かめるように恐る恐る振り返る。
そこにあるのは、何の変わりもない学園の家屋。
遠くから、忍たま達の楽しげな笑い声が聞こえてくる、穏やかな空間。
「大丈夫……そんなわけないわ……」
どれだけ時間が経とうと、我が身に迫る黒い幻影を見る。
闇間からぬっと伸びてきた黒い腕に絡め取られる、そんな夢を見る。
「祥子さん」
唐突に肩を叩かれ、ひゅっと声にならない声が漏れた。
がらんと手から箒が落ち、思わず自分で自分の口を両手で塞ぐ。
訪れる一瞬の静寂。
「あっ、ごっ……ごめん!驚かせちゃったね!」
温和な声の主は、あわあわした様子で箒を拾い上げ、長身を縮めて数歩後ろへ下がった。
止まりかけたかもしれない心臓が動いていることを確かめると、そっと目の前の人物を見上げる。
そう、その人の顔は、見上げて見なければいけないほどの高さにある。
すらりとした長身に、黒い忍装束。手には今し方拾い上げた竹箒と、“出席簿“と書かれた帳面を持っている。
慈愛に満ちていながらも、ほんの一滴の墨を落としたような表情で優しく微笑む教師。
「土井先生……」
目の前にいるのが土井半助その人だと分かり、ようやく息をつく。
土井もほっとしたようで、うんと頷いてみせた。
「驚かせてしまったみたいですまなかったね。何度か声をかけたんだけど反応がなかったから、もしかしたら具合でも悪いんじゃないかと……それにしても、急に女人の体に触れるなんて……もし怖がらせてしまっていたら」
「い……いいえ!!」
だんだんと恐縮し始めてしまった土井を見て、こちらの方が申し訳なくなってくる。
確かに驚きも恐れもしたが、この人を恐れたわけではない。
誤解はされたくない。
「少しぼんやりしていて、上の空だったんです。私の方こそ、すみませんでした。だから、どうか気に病まないでください。土井先生を怖いと思ったことは、一度もありませんので。……って、あの、もちろん人として舐めてるとか、そういうことではなくって」
誤解をされたくない。
それ故に、どうにも冗長でしどろもどろになってしまう。
しかし、土井という人は、しっかり祥子の話に耳を傾け、うんうんと頷きながら理解しようとしてくれる。
初めましての時から、ずっと変わらない。
だからこそ、この人に、この人柄に惹かれたのだと思う。
土井は祥子の話を聞きながら、ついにふふと笑声をこぼした。
「うん、大丈夫。祥子さんの言いたいことも伝えたい気持ちも受け取ったよ。君の言葉に、悪意や裏があるなんて考えたこともない。ちゃんと分かっているよ。一生懸命伝えようとしてくれて、ありがとう」
出席簿を懐にしまった土井は、空いた右手で優しく祥子の頭を撫でた。
あまりに自然な流れだったが、祥子は「えっ」と声を漏らし、土井ははっと息を飲み込んだ。
「わああ!ごめん!つい、普段の癖で!!」
一瞬のうちに頬を紅潮させた土井は、大慌てで竹箒を祥子に返すと、「ごめんね!またね!」と残して風のように去っていった。
瞬きをした次の瞬間にはもうその姿はなく、ぽかんとしたまま、彼が去ったであろう方向を見つめる。
「……土井先生は、結局何の御用だったのかしら」
もしかしたら特に用などなく、心ここに在らずだった祥子を案じて声をかけてくれたのかもしれない。
もしそうだとしたら、ますます土井らしく思えて胸の奥が温かく痛んだ。
そっと、大きな手に撫でられた自身の頭に手を載せてみる。
普段の癖で、ということは、生徒にするのと同じ感覚での行為だったのだろう。
しかし、それにしてはどこか甘やかな、愛おしむように髪を梳く指先だった。
我ながら都合のいい解釈に、頬が熱くなる。
「そんな、まさかね……」
そう言いながらも、浮ついてしまう心。
今この時くらいは、温かく切ない恋心に甘え、過去を忘れてもいいだろうか。
幸福という憧れに希望を抱いても、許されるだろうか。
少しばかりの名残惜しさを抱え、そっと中庭を離れた。
はじまりはじまり/了
父の古い友人が創り上げたという学舎。
眩しいほどの未来を抱いた、忍びのたまご達が集う場所。
ここへ来て、もうじき4年が過ぎようとしている。
息をつく暇もないほど怒涛のような毎日で、文字通りあっという間に過ぎていった時間。
祥子は、昼下がりの中庭を掃除する手を止めて、ふうと息を吐いた。
新しい生活に慣れることに手一杯ではあったものの、慌ただしかったこの4年間に感謝をしている。
やることが多ければ多いほど、忙しければ忙しいほど、余計なことを考えずに済んだから。
しかし、ここでの生活に慣れ自分の時間を持てるようになった今、こうしてふとした瞬間に、得体の知れない不安や恐れや焦燥感が反動のように襲ってくる。
いつかの記憶が、真っ黒な津波となって祥子を呑み込もうと迫ってくる。背後から、じわじわと。
びくりと肩を縮め、背後を確かめるように恐る恐る振り返る。
そこにあるのは、何の変わりもない学園の家屋。
遠くから、忍たま達の楽しげな笑い声が聞こえてくる、穏やかな空間。
「大丈夫……そんなわけないわ……」
どれだけ時間が経とうと、我が身に迫る黒い幻影を見る。
闇間からぬっと伸びてきた黒い腕に絡め取られる、そんな夢を見る。
「祥子さん」
唐突に肩を叩かれ、ひゅっと声にならない声が漏れた。
がらんと手から箒が落ち、思わず自分で自分の口を両手で塞ぐ。
訪れる一瞬の静寂。
「あっ、ごっ……ごめん!驚かせちゃったね!」
温和な声の主は、あわあわした様子で箒を拾い上げ、長身を縮めて数歩後ろへ下がった。
止まりかけたかもしれない心臓が動いていることを確かめると、そっと目の前の人物を見上げる。
そう、その人の顔は、見上げて見なければいけないほどの高さにある。
すらりとした長身に、黒い忍装束。手には今し方拾い上げた竹箒と、“出席簿“と書かれた帳面を持っている。
慈愛に満ちていながらも、ほんの一滴の墨を落としたような表情で優しく微笑む教師。
「土井先生……」
目の前にいるのが土井半助その人だと分かり、ようやく息をつく。
土井もほっとしたようで、うんと頷いてみせた。
「驚かせてしまったみたいですまなかったね。何度か声をかけたんだけど反応がなかったから、もしかしたら具合でも悪いんじゃないかと……それにしても、急に女人の体に触れるなんて……もし怖がらせてしまっていたら」
「い……いいえ!!」
だんだんと恐縮し始めてしまった土井を見て、こちらの方が申し訳なくなってくる。
確かに驚きも恐れもしたが、この人を恐れたわけではない。
誤解はされたくない。
「少しぼんやりしていて、上の空だったんです。私の方こそ、すみませんでした。だから、どうか気に病まないでください。土井先生を怖いと思ったことは、一度もありませんので。……って、あの、もちろん人として舐めてるとか、そういうことではなくって」
誤解をされたくない。
それ故に、どうにも冗長でしどろもどろになってしまう。
しかし、土井という人は、しっかり祥子の話に耳を傾け、うんうんと頷きながら理解しようとしてくれる。
初めましての時から、ずっと変わらない。
だからこそ、この人に、この人柄に惹かれたのだと思う。
土井は祥子の話を聞きながら、ついにふふと笑声をこぼした。
「うん、大丈夫。祥子さんの言いたいことも伝えたい気持ちも受け取ったよ。君の言葉に、悪意や裏があるなんて考えたこともない。ちゃんと分かっているよ。一生懸命伝えようとしてくれて、ありがとう」
出席簿を懐にしまった土井は、空いた右手で優しく祥子の頭を撫でた。
あまりに自然な流れだったが、祥子は「えっ」と声を漏らし、土井ははっと息を飲み込んだ。
「わああ!ごめん!つい、普段の癖で!!」
一瞬のうちに頬を紅潮させた土井は、大慌てで竹箒を祥子に返すと、「ごめんね!またね!」と残して風のように去っていった。
瞬きをした次の瞬間にはもうその姿はなく、ぽかんとしたまま、彼が去ったであろう方向を見つめる。
「……土井先生は、結局何の御用だったのかしら」
もしかしたら特に用などなく、心ここに在らずだった祥子を案じて声をかけてくれたのかもしれない。
もしそうだとしたら、ますます土井らしく思えて胸の奥が温かく痛んだ。
そっと、大きな手に撫でられた自身の頭に手を載せてみる。
普段の癖で、ということは、生徒にするのと同じ感覚での行為だったのだろう。
しかし、それにしてはどこか甘やかな、愛おしむように髪を梳く指先だった。
我ながら都合のいい解釈に、頬が熱くなる。
「そんな、まさかね……」
そう言いながらも、浮ついてしまう心。
今この時くらいは、温かく切ない恋心に甘え、過去を忘れてもいいだろうか。
幸福という憧れに希望を抱いても、許されるだろうか。
少しばかりの名残惜しさを抱え、そっと中庭を離れた。
はじまりはじまり/了
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