神立の向こう、遠い光
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あれは幼稚園に上がるくらいの歳の頃、祖父母に連れられこの場所に来た時。
祠の掃除をする祖父母の近くで遊んでいた咲耶は、何を思ったのか、この井戸を飛び越えようとした。しかし、当然子供に飛び越えられるはずもなく、当時はトタン板の蓋を被せただけだった井戸の真上に倒れてしまった。
祖母の悲鳴が聞こえ、薄いトタンの蓋は体重によって沈む。
子供ながらに、落ちることを確信した記憶がある。
強く目を閉じた直後、全身に感じたのは鈍い痛みと乾いた土の感触だった。
咲耶は、井戸の反対側の地面に転がっていた。
擦りむいた膝や肘が痛かったからではなく、井戸に落ちかけたことに驚いたからでもなく、下から何か強い力で弾かれたということが恐ろしく、大泣きしたのだと思う。
あの頃は、普通の人には視えないもの全てが怖かった。
あれはきっと、この井戸に棲む水神の手だった。
人への行為に意味など無く、ただの気まぐれだったかもしれない。
それでもいい。
謝意を示し、人の罪に許しを請う。
どうか、この声が届きますように。
何度、祝詞の奏上を繰り返したか知れない。
雨粒は名取が持ってくれている傘を強く打ち続け、両脇に侍る東雲と早天は、すっかりずぶ濡れになっている。
声に掠れが出始めた時、視線を感じて顔を上げた。
雨の飛沫でうっすらと煙る空気の中、目の前の井戸から白い何かが顔を出している。
その白い何かは、じっと咲耶を見つめたまま、先が二つに分かれた赤い舌をちろちろと覗かせると、するりと井戸の中へ引っ込んでしまった。
なんて美しい白蛇だろうかと気付いた時には、あれ程鼻についていた生臭さが消えていた。
「咲耶さん、雨が……!」
自身も雨に打たれていた名取は、既に役目を果たさなくなった帽子を取り、傘を咲耶に手渡す。
しかし、その傘もすぐに閉じることとなった。
雨脚は早送りの映像のような早さでどんどん弱まり、風に流されていく雲の隙間からは、青空さえ見え始めている。
何日かぶりに見る日差しに、強烈な安心感に包まれた。
許しを得たという確証は無いが、これが水神の答えということなのだろうか。
神を呪うが如き人の所業。本来は静穏である存在に、許さないとまで言わしめたというのに。
『水神は再び眠りに就いたようだな。山崩れの気配が消えている』
『咲耶の祝詞に心を鎮められたんだろうよ。もしかしたら、お前のことを思い出したのかもな』
雨水を吸った着物の裾を絞る二人の小鬼は、全てを知った眼差しで咲耶を見上げる。
思い出していた過去の記憶が、祝詞に載っていたのかもしれない。
もしそうだとしたら、この声は水神にも届いただろうか。東雲の言うように、咲耶のことを思い出してくれたのだろうか。
一体何が、雨が止んだというこの結果に繋がったのかは分からないし、この先分かることもないのだろうと思う。
きっと、それでいいのだ。
井戸へ近付くと、目を閉じそっと両手を合わせる。
水神にも祓い人にも、二度とこんなことはさせないという、自分への決意。
「咲耶さん」
振り返ると、水気で全体的に湿った名取がいた。
名取は、水滴が付いた眼鏡の奥で、穏やかで弱い笑みを浮かべる。
「……これは我々の領分だなんて、勝手な解釈でものを言って申し訳なかった。この件を収めるのは、君でなければいけなかった。咲耶さんだから、水神は声を聞いてくれたんだよ」
祝詞に含められた感情から、咲耶と水神の過去を読み取ったであろう小鬼達。
彼らと違い、咲耶と水神の関わりなど知らないはずの名取は、何を感じてそう思ったのだろう。
もしかしたら、何かを感じて思ったことではなく、シンプルな労いの言葉なのかもしれない。
咲耶は、ふんと鼻で笑う。
「だから言ったでしょう?……でも、この件に対する思いは、周一先輩も同じだったはず。誰かを、何かを護りたい気持ちがあるなら、やり方は違っても結果は同じだったと思いますよ」
この場所が咲耶の実家の近所だということを案じ、駆けつけてくれる名取周一という人の優しさを忘れてはいない。
一瞬目を丸くした名取は、すぐに表情を緩める。
「……そうだったらいいな」
心なしか、嬉しそうにも見える。
「まあ、知りませんけどね」
「最後の最後で突き放してくるねぇ」
意図せず喜ばせてしまうような言葉を掛けてしまったことが、急に気恥ずかしくなったのだ。
しかし、まだ言わなければいけないことが残っている。
もしも、咲耶が曇りの無い心で祝詞を上げることが出来ていたとしたら。
祠の掃除をする祖父母の近くで遊んでいた咲耶は、何を思ったのか、この井戸を飛び越えようとした。しかし、当然子供に飛び越えられるはずもなく、当時はトタン板の蓋を被せただけだった井戸の真上に倒れてしまった。
祖母の悲鳴が聞こえ、薄いトタンの蓋は体重によって沈む。
子供ながらに、落ちることを確信した記憶がある。
強く目を閉じた直後、全身に感じたのは鈍い痛みと乾いた土の感触だった。
咲耶は、井戸の反対側の地面に転がっていた。
擦りむいた膝や肘が痛かったからではなく、井戸に落ちかけたことに驚いたからでもなく、下から何か強い力で弾かれたということが恐ろしく、大泣きしたのだと思う。
あの頃は、普通の人には視えないもの全てが怖かった。
あれはきっと、この井戸に棲む水神の手だった。
人への行為に意味など無く、ただの気まぐれだったかもしれない。
それでもいい。
謝意を示し、人の罪に許しを請う。
どうか、この声が届きますように。
何度、祝詞の奏上を繰り返したか知れない。
雨粒は名取が持ってくれている傘を強く打ち続け、両脇に侍る東雲と早天は、すっかりずぶ濡れになっている。
声に掠れが出始めた時、視線を感じて顔を上げた。
雨の飛沫でうっすらと煙る空気の中、目の前の井戸から白い何かが顔を出している。
その白い何かは、じっと咲耶を見つめたまま、先が二つに分かれた赤い舌をちろちろと覗かせると、するりと井戸の中へ引っ込んでしまった。
なんて美しい白蛇だろうかと気付いた時には、あれ程鼻についていた生臭さが消えていた。
「咲耶さん、雨が……!」
自身も雨に打たれていた名取は、既に役目を果たさなくなった帽子を取り、傘を咲耶に手渡す。
しかし、その傘もすぐに閉じることとなった。
雨脚は早送りの映像のような早さでどんどん弱まり、風に流されていく雲の隙間からは、青空さえ見え始めている。
何日かぶりに見る日差しに、強烈な安心感に包まれた。
許しを得たという確証は無いが、これが水神の答えということなのだろうか。
神を呪うが如き人の所業。本来は静穏である存在に、許さないとまで言わしめたというのに。
『水神は再び眠りに就いたようだな。山崩れの気配が消えている』
『咲耶の祝詞に心を鎮められたんだろうよ。もしかしたら、お前のことを思い出したのかもな』
雨水を吸った着物の裾を絞る二人の小鬼は、全てを知った眼差しで咲耶を見上げる。
思い出していた過去の記憶が、祝詞に載っていたのかもしれない。
もしそうだとしたら、この声は水神にも届いただろうか。東雲の言うように、咲耶のことを思い出してくれたのだろうか。
一体何が、雨が止んだというこの結果に繋がったのかは分からないし、この先分かることもないのだろうと思う。
きっと、それでいいのだ。
井戸へ近付くと、目を閉じそっと両手を合わせる。
水神にも祓い人にも、二度とこんなことはさせないという、自分への決意。
「咲耶さん」
振り返ると、水気で全体的に湿った名取がいた。
名取は、水滴が付いた眼鏡の奥で、穏やかで弱い笑みを浮かべる。
「……これは我々の領分だなんて、勝手な解釈でものを言って申し訳なかった。この件を収めるのは、君でなければいけなかった。咲耶さんだから、水神は声を聞いてくれたんだよ」
祝詞に含められた感情から、咲耶と水神の過去を読み取ったであろう小鬼達。
彼らと違い、咲耶と水神の関わりなど知らないはずの名取は、何を感じてそう思ったのだろう。
もしかしたら、何かを感じて思ったことではなく、シンプルな労いの言葉なのかもしれない。
咲耶は、ふんと鼻で笑う。
「だから言ったでしょう?……でも、この件に対する思いは、周一先輩も同じだったはず。誰かを、何かを護りたい気持ちがあるなら、やり方は違っても結果は同じだったと思いますよ」
この場所が咲耶の実家の近所だということを案じ、駆けつけてくれる名取周一という人の優しさを忘れてはいない。
一瞬目を丸くした名取は、すぐに表情を緩める。
「……そうだったらいいな」
心なしか、嬉しそうにも見える。
「まあ、知りませんけどね」
「最後の最後で突き放してくるねぇ」
意図せず喜ばせてしまうような言葉を掛けてしまったことが、急に気恥ずかしくなったのだ。
しかし、まだ言わなければいけないことが残っている。
もしも、咲耶が曇りの無い心で祝詞を上げることが出来ていたとしたら。